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タロットを理解するうえでの重要なステップ
タロットを学んでいくと、だいたい次の3ステップを踏んでいくことになります。
1.タロットを学ぶ段階
2.タロット(リーディング)を実践していく段階
3.タロットを教える(伝える)段階
この1→3の期間がどれだけかかるのかは、人によって、または自分の思う理想・信条によって変わってきます。
また何も3段階を順に進んでいくということに限らず、人によっては1と2を平行しながら、ほとんど2と重なるように3を始める方もいます。
3をされている方は(私もそうですが)、ほぼ同時に2をされながら、日々1も行っていることと思います。
また細かく分けていくと、1でも数種の段階に分かれ(いわゆる初級・中級・・・といったもの)、2でも自分に使うのかあるいは他人にリーディングしていくのかということや、それを仕事にする(報酬を得る)のかボランティア的に行うのか、その中間であるのかといった様々な形態と段階に分かれます。
そして、今このように段階別に分けてはみましたが、その実、タロットに関係することを志す、あるいはタロットを知ろうとする、タロットを自分の人生に活用してみようとする場合、この1から3のことはすべて行うようにしたほうがいいともいえるのです。
「えっ、でも、そんなこと言われても、3の「タロットを教える(伝える)」なんて私にはできない」と思う人は多いでしょう。
いえ、これは何も本当に人に教えることをしなくてもいいのです。いわば比喩であり象徴です。
何をするのかといえば、「人(または自分自身)に教えるようにする」のです。あ、これもまだ象徴的でわかりづらいですね。(笑)
具体的には、「タロット(カード)のことを人に説明できるようにする」ということです。
たとえば、大アルカナでも一枚シャッフルして取り出し、出たカードについて人に説明してみるのです。
おそらく想像していたより、何も話せない自分に愕然とすると思います。
頭や知識ではわかっているのに、それを人に説明しようとすると、いったいどう話せばよいのかわからなくなり、頭が真っ白になります。
また、カードのある部分は自信をもって言えるのに、ほかの部分になるとしどろもどろになり、話せなくなるということもあります。
話す人がいない場合は、鏡の自分に向かって説明してみてください。
アホなことしていると思わないでください。(笑) 意外に、ものすごく効果があるのです。
これが「人に教える」ということの象徴的訓練になります。
私も講師になる前は頭でわかっているつもりでも、実はいい加減であやふやにしていたことが多いことに、人に説明するという機会を得て、そのことを痛感しました。
先にも述べたように、タロット講師になるつもりでなくてもいいのです。
是非、「人にカードの説明をする」「話をする」ということをやってみてください。
きっとタロットへの理解とリーディング時でのコミュニケーション力がアップし、かなり自信を持つこともできるでしょう。
そうして最初にも述べた1.2.3を循環させながら、新たな4番目の段階を目指すことになるのです。4番目の段階とは何か? それはふたつのことを意味するのですが、それはまたの機会にお話しましょう。
「女帝」と「皇帝」のペアが物事を進化させて行く。
昨日の続き です。
「女帝」と「皇帝」の、カップルとなるカードを見てみようということでしたね。
さて、「女帝」は創造、生産、クリエイトする、ということをテーマにしたカードです。
一方、「皇帝」は現実にする、組織化する、実践する、まとめるというような意味があります。
つまり簡単に言えば、女帝が発想し(アイデアを持ち)生み出すものを、皇帝がまとめ、現実にするということです。
「企画・計画」と「行動・実践」の違いとも言えますし、また空想(精神)と現実(物質)的な違いでもあります。
このように並べてきますと、いかに「女帝」と「皇帝」がペアであるかがわかってくると思います。
ところが、もしこれが片方だけ存在するとしたらどういうことになるでしょうか?
「女帝」の生み出すことばかりしかなければ、永遠に拡大生産は止まらず、壊れた機械のようなものです。
もうお腹いっぱいなのに、構わずドンドコ出てくる食べ放題のベルトコンベアーの店(笑)みたいな状態。
またはアイデアの洪水で、何一つ現実味がない妄想状態。
では反対に「皇帝」の組織化・現実化のみだとしたら・・・?
これも問題です。とにかく新しい発想がない、旧態依然としたシステムの中でルーチンワークが永遠に続くようなものです。
先の料理のたとえでいえば、いつも同じ日本食のメニューばかり出され、たまには中華やフランス料理も食べたいぞ、おい!です。(笑)
でも体にはよくて、機能的で実状的には栄養から見ても問題がないというメニューが「皇帝」です。
というように考えますと、いかに両者がともに必要かということが理解できるでしょう。
そして、世の中には、本質的に自分が「女帝」か「皇帝」かで分かれ、どちらのほうに特質があるか、または得意であるかということに分類されます。
ただし、ここが肝心なのですが、実は本質的部分と表面的な部分、いや社会的な部分と言っていいふたつのフィールドで考えなくてはなりません。
つまり、
本質
女帝 皇帝
女帝 1 2
社会
皇帝 3 4
という2×2の4つのタイプに(分かれる)ということです。
自分が本質的には「女帝」のアイデア・クリエイトタイプであっても、仕事や立場によっては組織化・現実化の「皇帝」にならざるを得ないこともあるということです。当然その逆もあります。
とはいえ、本質的に「皇帝」な人が「女帝」を演じるのは、修行や自分の幅を広げることになるとはいえ、少々厳しいことであるのは確かでしょう。
ではどうすればよいのかですが、ここでまたカップル・ペアの意味が強調されるのですが、やはりパートナーとして別タイプの人を求めるか、アドバイスを受ければよいということになれます。
一人の中にはすべてが存在するので、やりようによっては「女帝」タイプだろうが「皇帝」タイプだろうが、両方を自分の中から発現させていくことはスピリチュアル的に可能です。
しかしながら、実際には自分とは違うタイプの人からの刺激を受けたり、一緒に活動することによって、早く結果を出すことができます。(成功を意味するカード・戦車が「7」という数を持つことにも注目)
一人ではうまく行かない、なかなか前に進まないことも、パートナー・ペアとしてのもう一人の人がいてくれると進化も早く、しかもお互いが深化し、ともに真価を知ることになるのです。
カモワン流のタロット解釈がカップル・ペアを重視するのにも、こうした理由がひとつにはあります。
独りよがりにならず、素直に誰かからアドバイスをもらったり、ともに協力しあうことを目指しましょう。
カップル・ペアカードを象徴的に見る。
カモワン流のタロット解釈には、ペアやカップルとなるカード同士の概念とつながりがあることを、ここでも何回かお話してきました。
その中でもとりわけ「ひと組」のペアを象徴するカードがあります。
それが「女帝」と「皇帝」です。数は女帝は「3」、皇帝は「4」(本来はローマ数字での表記なのですが、わかりやすさのためにあえて算用数字にしています)を持っています。
実はこの数も重要で、それ自体、この両方のカードの特質を象徴しているといえますし、両者を足すと「7」という数字が出るので、これも数の象徴としては意味があり、単体だけではなくまさにペアとして重要だということが「数」からも理解できるのです。
ちなみに「7」というのは、ひとつの完成や調和を示す数であり、タロットでは「戦車」の数です。
さて「女帝」と「皇帝」ですが、まずペアとしては夫婦を表します。
しかし「夫婦」とは言っても、これも象徴(シンボル)ですので、現実的に夫婦を示すこともあれば、ビジネス・プライベート含めて、いわゆるパートナーとしてのペア・組を表現することもあるのです。(ですから同性同士もあります)
タロットは何でもそうですが、象徴的解釈が基本であって、「女帝」と「皇帝」がカップルで登場したからといって、必ずしも「夫婦」を表すわけではないのです。
肝心なのは「夫婦」と象徴される、そのひと組の持つ「質」を読み取ることなのです。その「質」さえつかめば、他のあらゆる「夫婦」的なものに対して当てはめて考えることができるのです。
シンボル・象徴として見るということに慣れていない現代人、特に唯物主義的に頭が固くなってしまている人には、タロットを読むということは最初は大変かもしれません。
たとえば「手品師」というカードがありますが、これは象徴的には「若い」ということが表されます。
しかし、では「何歳までの人がこのカードに該当するのか」といった考え方をしてしまっては、とたんにタロットは難しいもの、信用に足らないものになってしまいます。
いくらなんでもそんな質問はしないよ、と思われる方もいらっしゃるでしょうが、たとえばこのカード(手品師)が出て、自分自身のことが表されているのに、「私は若いわけではないし・・・私は女だけど、このカードは男性だし・・・関係ないわ」と一律に断じてしまうようなこともあるのです。
これも「象徴」というものからはずれて、私たちが普段日常的に思考しているような論理的・常識的な見方にとらわれているといえるのです。
逆にいえば、タロットによる象徴的解釈を身につけることによって、そのような固まった思考の癖から、自分を解放していくことにもなるということです。
話が「女帝」と「皇帝」のことから、象徴・シンボルの解釈へとそれてしまい、しかも長くなりましたので、「女帝」「皇帝」のペアのことは、次回に続きを書きたいと思います。
痛みがあるからこそ、助かっている。
昨日、歯の治療をした時に麻酔をしました。
家に帰り、ご飯を食べようとするのですが、麻酔のため口内の一部に感覚がなく、少し噛んでしまいました。
そして、「なんか、血の味がするな・・・」と思ったら、なんと傷口からかなり血が出ていました。
それなのに全く気が付きませんでした。(食べるのは麻酔が覚めてからにしましょうね(^_^;))
そう、痛みがないから傷ついてもわからなかったのです。
この時私は、「痛みがある感覚というのはなんてありがたいことなんだ」と思いました。
痛みがあるからこそ、危険を知らせてくれるわけです。
このことは何も物理的(肉体的)なことに限りません。心・精神にも言えることです。
すなわち、心にも痛みが走るということは、何らかの危険や注意を示していると考えられるのです。
これは人に与えられた防衛システムであり、ありがたく感謝せねばなりません。
体の痛みにはある程度、目に見える部分があって、たとえその時点で見えなくても検査をすればわかります。
けれども心の痛みは見えないですし、心理テストなどしてもわかりづらい面はあります。
だから放置されたり、一時的なものとして、対処することを怠ったりしがちです。
しかしやはり痛みがあるのですから、きちんとその痛みに向き合い、なぜ痛んでいるのか、痛みを覚えたのか追求していく必要はあるでしょう。そして何か原因があるのなら治療や対応をしなくてはなりません。
しかも、肉体の痛みと同じように、いつも同じ状況、場面で痛みが起こるのならば、それはやはり要検査なのです。
ここで、よくありがちな、「痛みに耐えて強くなる」という考え方がありますが、やみくもに耐えてばかりでは、肉体の痛みを例に出さずとも、それが時に問題になることはわかると思います。
大切なのは痛みと向き合うということです。その上で耐えることもありますし、心理的な治療や浄化が必要なこともあります。
痛みには耐性と慣れが出ますから、痛みの原因がわかっているのなら耐えることで、痛みにはどんどん強くなって行きます。
ここに辛い経験も糧になることがわかります。
一番いけないのは、ただ痛みから逃げ回ったり、わけもわからずマゾヒスチックに我慢したりすることでしょう。
ちなみにタロットは心の状態を映し出すものとしても有効な道具ですので、痛みを分析するのに使えることもあります。
1/17に思う。
兵庫県南西部に縁があり、実際今もこの地域に住んでいる私にとっては、1/17のこの日は、やはり特別な日となります。
あの日、阪神大震災は強烈な揺れとともに、いろいろなものを破壊していきました。
私自身の家も傾き、認定は「全壊」状態、何とか住むことはできたものの、大幅な改修が必要でした。
しかしながら当時の私自身は、うつ病と不安神経症からくる激越なイライラ感に苦しみ、本当に「いつ死のうか」と考えていた矢先のことでした。
そんな時に、あの地震が起こったのです。
結局、様々なものが混乱に陥ったことで、私は当時勤務していた役所に出勤せずともよいことになりました。心の病気の上にこんな状況ですから、仕事も無理だと判断されたのでした。
そのことで、結果的には自分が救われることになりました。何もかもが混沌とした中で、むしろ落ち着きが少しずつですが、その後自分の中に出てきたからです。
このあたりのことはまた日を改めて書かせていだきたいと思うのですが、死ぬことを真剣に考えてた私は、ともかくも震災によって助けられた形になったのです。
しかし多くの方にとってはまったく逆で、大切な方を亡くしたり、家や物、お金、人間関係、暮らし、生き甲斐・・・とそれまで築き上げていた、あるいはつながっていた大きな「何か」を失ったのです。
私も救われはしましたが、先述したように家は壊れ、怪我をし、お金も使い、知人で亡くなった方もいました。
そして16年。
震災を受けた神戸、その他の地域も復興しました。
けれども震災の記憶も風化して行っています。それはある面、時代が経つにつれて仕方のないことでもあり、それでも忘れてはならないことと、反対に忘れてもいいこと、忘れたほうがよいこともあると思います。
今日、三ノ宮(神戸の中心地)の飲食店に入って食事をしていると、メモリアルウォーク(震災を忘れず、防災意識を高めるためウォーキングするイベント)に参加されたと思われる方々が楽しそうに、飲んで食べて語らいをしているのを見かけました。
皆さん、きっとそれぞれの胸には悲しい記憶、つらい記憶があるとは思います。それでも明るく、前向きに生きている姿に、神戸の活力、いや、災害や苦しみにあってもたくましく生きていく人間の力というものを感じました。
ところでタロットカードには「13」という苦難や破壊を象徴するカードがありますが、その次(数の順、タロットマンダラ)では「節制」が待っており、「節制」は「救済」を意味します。
自分が「13」という時代・時・状況を経験しているがゆえに、14の「節制」は人の苦しみ、痛みがわかります。そして「13」の時に手を差し伸べられたことも知っています。
ですから今度は自分が人を救う立場となっていくのです。
「節制」の二つの壺の水のやりとりは、人のお互いの交流・助け合いも象徴し、それがすなわち自他の救済につながっていくことが表されているのです。
またタロットマンダラでは、「13」の上は20の「審判」です。この位置の流れは、復活・再生を象徴しています。
その「審判」と、先に述べた「節制」との間に「L字状」に挟まれて存在するのが、完成を意味する「世界(という名前)」のカードであることも興味深いことです。
