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宇宙は不完全で、完璧ではないと思うこと

宇宙や世界は完全だという話は、スピリチュアル的な関連ではよく見かけます。

ただ、完全と完璧は同じではないので、ここが誤解のもとにもなっているようです。

自然の流れに沿うとか、もっと大きな規模で、宇宙や世界と一体化するという表現もありますが、もし完全と完璧が同じだと思っていると、宇宙は完璧だから、それに沿えば(一体となる感覚を得れば)、私も完璧だとなりかねません。

そして、その完璧さというものを地上的レベルの話に落としてしまうと、肉体的・物質的な繁栄、安心が(完璧に)得られるとなり、精神的にも悩みがなくなると錯覚する人もいるかもしれません。

スピリチュアル的なものに怪しさがあるのは、たいてい、地上的・物質的・肉体的レベルに矮小化されて語られることが一因でしょう。(その次元が悪いと言っているのではありません。統合することと、区別・分離することがあやふやになっていることに問題があるわけです)

ここで言っている「完璧」とは、一寸の狂いもなく、固定的で、人間的に見てミスも間違いも許されていない状態と見ていいでしょう。

どうですか、上記の文を読むだけで息苦しさとか、監視されているような気分が感じられませんか?

それに対して、ここで言う「完全」とは、動きもあり(流動的)、人間から見て狂いとか間違いのようなこと、理不尽と思えるようなことはあっても、非常に高いレベル・次元、または超全体ともいえる視座から見ると、バランスが取れている(バランスを取ろうといつも働いている)ように感じられるものと言えましょう。

そして、この「完全さ」こそが、宇宙(世界)の本質ではないかと思います。

ということは、通常の(常識的な)人間知見では、宇宙とか世界は理不尽に見えたり、間違っていると感じたりする可能性があるということです。

しかも動きがあるので、その動いている最中と言いますか、過程では、バランスも取られていない(アンバランスな)ように思えることもありそうです。

ところで、マルセイユタロットで「正義」というカードがあります。

天秤と剣をもった人物が、まるで裁判官のように見えるカードです。

絵柄を詳細に見ていくと、剣も天秤も、実は少し傾いていることがわかります。(実際、剣のほうは微妙ですが、天秤のほうは明らかに傾いています)

天秤は「はかり」であり、何かの重さを量る時、片方に載せた重りと、量られるものの重さを見ます。つまりは、つり合いによってバランスを見るものです。

物事か完璧であることを表すとすれば、この「正義」の天秤も、きっちりと並行になり、傾きがない状態となるでしょう。

「正義」という名前からしても、いかにも正しさを表しているようにも思え、そこから完璧さという意味も、一見出そうではあります。

しかしながら、マルセイユタロットの「正義」の天秤は傾いています。

ということは、この正義は単に、私たち人間レベルで思う正義ではなく、もっと大きな意味のもので、もしかすると宇宙的な正義なのかもしれません。

正義は人間レベルでさえも、どちらにも傾きますし、また、大きな観点では、どちらでもないかもしれないのです。

そしてマルセイユタロットの大アルカナの最高度、到達地点を示すと言われる「世界」というカードがあります。まさに名前も「世界」であるように、文字通り、世界や宇宙を表すとも考えられます。

この「世界」の図像も完璧な左右対称ではありませんし、リースの中の人物は、踊っているようにも見え、動きがあります。

詳しくは言いませんが、外の四つの生き物と、リースの中の人物が持っている道具類とは関連し(質的に同じもの)、それが変化している様を表現しています。

「世界」のカードは、意味的にも完全さを象徴しますが、完璧で停止しているわけでありません。それは説明したように図像からでも見て取れます。

要するに、「正義」とか「世界」を見ても、宇宙や世界は流動的で、一視点(部分)では完璧でないように見えるということです。

言い方を換えれば、宇宙・世界は不完全(に見える)構造を、あえて取っているわけです。

宇宙は不完全である、これがマルセイユタロット的に見た、個人的な見解です。

これがわかれば、私たちが不完全であり、完璧ではない状態と人生を経験するのも至極当然となります。

要は、宇宙さえも成長のために歩みを止めず、不完全な状態を作り続けて、永遠に到達しない完璧さを目指しいてるとも例えられます。

ですが、ここが重要なのですが、途中・過程においてではあっても、それ自体、すでに完全であるということです。

これもまた、私たち自身、人間や地上的な生活にもあてはまると考えれば、色々と納得できる点が出てきます。

ですから、私たちは完璧とか理想を目指してもいいのですが、それが手に入ったとしても、すべてが終わって(地上的・人間的価値観での)幸せになるわけではなく、いついかなる時も始まりであり、終わりであり、また途中なのだという認識でいると、自然とより調和できるのではないかと考えます。

何かが完成した瞬間、それは崩壊に向かい、また意味を変えれば、それは新たな創造でもあるという仕組みです。

マルセイユタロットで言えば、一枚一枚だけで判断するのではなく、大アルカナだけでも、22枚全体をもって考察し、その視座もって、個別的なカードや人の問題などを見ていく必要があるわけです。

「正義」のカードには、自分が正義(正しい)と思っていることも含まれます。言わば、自分ルールです。正しいものがあると、反対に必ず間違いがあります。

誰もが自分なりの正しい・間違いの両面の線引きを持っています。それは、その時点であなたにとって必要な「正義」であり、ルールなのですが(多くは自分を守るためのもの)、いつかは、宇宙が成長する性質のように、あなた自身も成長を望みます。

となると、今までの自分ルール、正義感(観)は古くなり、バージョンアップが必要となります。

古いもののほうが気持ちが一見安定し、楽なので、それにしがみつきやすいのですが、そうすると、抵抗となって、全体(自然)の流れとの乖離が生じます。

それが自分にふりかかる、問題・悩みのようなものとして現れます。

自分自身が自分を今までのルールで支配(守護)してきたのですが、それが守りどころか、自分を苦しめるもの、錯覚として変ってしまっているのに気づかないのです。

自分がバランスを取ろうと、回復させようと、あるいは何かを変えようと、必死になっても状態が悪いままの(よいほうにならないと強烈な思いが出る)時、自分の中の正義ルールを見直す必要があるかもしれません。

宇宙は不完全で完全だという禅問答のようなものにはなりますが、とにかく、完璧さを求めて、それに執着している自分に気づくことは重要です。

不完全でいい、もっと平たく言えば、ダメでもいい(ダメな状態も自然)、うまくいかなくてもいいとし、こうでないといけないというような思いを緩めることから始めるとよいでしょう。

ただ理想とか夢を持ってはいけないとか、あきらめる、何もしないくていい、と言っているのではありません。

自分自身と世の中の不完全さを認めることで(それを放置することとは別ですが)、実は完全さの意味(次元の上昇)に近づくと言いたいわけなのです。


タロットは好きに読んでいい

タロットを学習・実践している方で、タロット(の展開)をどう読むのかで悩んでいる人もいると思います。

先生についたり、タロットの学校で学んでいたりする場合は、読み方を教えてくれますし、自分のわからないところも指導してくれます。

しかし自己流でやっているケースては、見てもらう人がいないので、読み方がわからない時には悩み、迷うことが多いはずです。

もっとも、最近はAIも発達してきますので、正直、AIを相手に学んだり、修正したりしていくことも可能かもしれません。

ともあれ、タロットをあくまで趣味でやっているスタンスの方は、タロットなんて(笑)、どう読んでも構わないと思いますし、自分や他人のために必ず役立つ内容を読み取らなくてはらならないと、気を張る必要はありません。

たとえ趣味ではなく、プロを目指すという場合でも、時には「役に立つ」ということを、もっとゆるく、広く考えたほうがよい場合もあります。

例えば、「タロットを読んでみて(みようとして)、よくわからなかったけれど、結果的には面白かった、楽しい体験だった」という感想を抱いたのなら、面白さや楽しみを提供できた(してもらえた)という意味で、役に立ったと思えばいいわけです。

タロットに対して、あまりに重く、真剣にとらえすぎると、結局、タロットとうまく付き合えなくなりますし、反対に、タロットをぞんざいに扱い、ただの紙、道具だと思っている人にも、その付き合い方はまずいと言えます。

それは人と対することと同じであり、もっと言えば、自分自身に対する、日頃の自分の態度がタロットに対しても現れるということなのです。

自分に厳し過ぎる人は、タロットリーディングにおいても正答を過剰に求めたり、完璧を自己に課したりして、人に役立つ内容を出そうとやっきになります。

逆に自分に甘い人は、中途半端でどちらともつかない、あやふやなリーディングでよしとしてしまいますし、タロットが示唆する内容を無視して、自分の気持ちとか考えのほうを優先して、人に押し付けてしまうこともあるでしょう。

というような、言わば自己との関係性がタロットの読みやリーディングに影響するのです。

しかし、これとは別に、タロットに何を求めるかによって、読み・リーディングも変わってきます。

タロットリーディングがうまく行かない人の要因のひとつには、自分の今やっているタロットリーディングは、何のためにやっているのか、タロットに何を求めているのかがわからくなっているか、ごちゃごちゃになって整理がついていないことがあげられます。

もっとわかりやすく言いますと、タロットに何を問うのか?ということが重要なのです。

選択や行動の良し悪しを問うのか、これから起こることを知りたいのか、何かメッセージをもらいたいのか、困っていることの解決法・打開策を求めるのか、自己の成長のために必要なことの示唆を得たいのか、それは人によって様々でしょう。

タロットは今述べたこと(以外も含めて)すべてに、活用することが可能です。

ここに三枚のカードを引いたとしましょう。(わかりやすくするために、正立のみの展開とします)

実際に、マルセイユタロット・大アルカナから三枚引いてみます。

「太陽」「力」「手品師」が出ました。

もし、「今後どうなるかを知りたい」という問いで見た場合、まさに「この三枚のようなことが起こる」と読むでしょう。

例えば、「出会った人とどうなるのか?」という問いなら、「二人は太陽のように交流を深め、力と手品師のように何か共同で仕事をしたり、目的をもって活動したりしていくでしょう。それは思ったりも長く続く関係の可能性があります」という読みができます。(あくまでひとつの読み方ですが、この読みにはマルセイユタロットにおける細かい絵柄の意味も含む根拠があります)

では、「自分にとって何か必要なメッセージがほしい」という問いの場合はどうでしょうか。いろいろ考えられるものの、ひとつには、「新しさ(特に人)を受け入れること」が考えられます。

ただ、きちんと三枚が読めなくても、こういう問いの場合は、全体性(三枚全部)とか、一枚からでも、強く自分の印象に残るカードから受けたものでもOKとなります。このあたりが、最初に言った、ゆるく考えてみることにつながります。

もし「力」が気になったのなら、「もっと勇気をもって声をかけよう」とかでもいいでしょうし、「太陽」が気になる場合は、「自分の気持ちを素直に伝えよう」ということかもしれません。「手品師」ならば、「人を信頼すると同時に、仕事のツールを使いこなしましょう」というメッセージも出ます。

このように、問い(タロットへの質問)によって、タロットから得られるものは変わってきます。もし「問い」がごちゃ混ぜになっているのなら、焦点を絞ることができず、答えも定まらなくなります

と、ここまでは初級的なアドバイスです。(苦笑)

もっとタロットリーディングを深めたいという方には、実は問いも質問もあまり意味はないと言っておきましょう。

先述したこととは矛盾する話ですが、それがわかってくると、あなたのタロットリーディングは向上してきたと言えます。

要するに、象徴としてタロットを見るという、タロットリーディングの本質に還るだけの話です。

今回の三枚(「太陽」「力」「手品師」)を見た場合、何をタロットは象徴的に言わんとしているのか?ということを汲み取ります。

そのためには、タロット一枚一枚の、象徴絵図の学習が極めて重要です。

マルセイユタロット、特にカモワン流の薫陶を受けた人ならば、この三枚がカップル(ペア)の強調だということがわかります。

そのカップル性とは何かがわかれば、たとえ問題や問いが変わろうと、本質的な答えはひとつなので、それを具体的なことに置き換えるだけで回答が得られるのです。(つまりリーディングが成立する)

さらに言えば、クライアントが求める回答と、タロットが示唆する(本質的な)それとは、層がずれていることが多いです。

そのすり合わせには、テクニックと経験が必要ですし、必ずしもすり合わせる必要もありません。わからなければわからないのが(その時の)答えだと解釈するケースもあります。

結局、自分(タロットリーダー)の習熟度と、クライアントの求めることで場が融合し、一番適切なその時の回答がもたらされると考えられます。それは、あやふやな答えのこともありますし、タロットリーダーがよく読めないということもあり得ます。

それが「場」の装置であり、最善の調整なのです。

よって、究極的には、タロットは好きに読んでいいと言えるのです。


タロットに正解を求めることについて

タロットは単なる観賞用のカード、美術品という場合もありますが、それはまれなケースです。

普通、タロットを使うということは、何か自分に役立てる目的があります。

それがタロット占いとか、タロットリーディング、あるいは自己認識や自己を高め、成長させるなどのこととしてあげられます。

そうすると、今述べたような目的のものは、いずれにしてもタロットは私たちに、何らかの指針やアドバイスをもたらせるためにあるわけです。

そして、その場合、人はタロットからの指針やアドバイスに正しさ、正解を求めることになります。もっと厳密に言えば、自分にとっての目的の範囲での正しさと言えます。

例えばタロット占いの場合、人生のもろもろのシーンにおける選択、悩み事の解決策での正解ということになってきますし、タロットリーディングだと、自分の心とか思いが癒されたり、希望が持てたりするような状態での答え、正解を求めます。

自己認識とか自己成長だと、自分が正しく認識できる答え、成長する(できる)答えとしての正解を希望するでしょう。

それは人として当然の思い、感情なので、別に悪いわけでもないですし、人の癖や傾向として当然のところではあります。

しかし、長年タロット、特にマルセイユタロットに関わってきますと、正解とか正しさを出すためにタロットがあるわけではないことに気がついてきます。

ここで正解とか正しさを、究極的な意味での、宇宙や神(あくまで象徴的に言っています)が望む私たちへの方向性、あり方として定義しますと、確かに正解や正しさというものはあると思います。

その定義で言えば、今回の話す内容はあてはまらなくなりますので、そのような(究極的)定義としての「正解」ではないと考えてください。

今回テーマとしている正解とか正しさというのは、二元で分けられる意味でのものであり、正しさというものがあれば反対に、間違い・不正解もあるという意味での、両面セットでの正解ということです。

昔、よくタロットを学ぶ生徒さんから、「タロッリーディングの事例集」のようなものがほしいと言われたり、講義中にも、「どう読むのが正解ですか?」と聞かれたりすることがありました。

まず、事例集はモデルリーディングとして、学習のためにあってもいいと私は思っていますが、過度にこれに頼り過ぎると、タロットに対する考えの誤解を生んでしまうので、かえってまずいことになります。

その意味では、事例集は危険でもあります。

誤解を生じるというのは、今回テーマにしている「タロットでの正解」についてであり、事例集に頼り過ぎると、こう読むのが正解、こう解釈することが正しい(答え)だと決めつけてしまうおそれがあるからです。

たとえ、同じ質問、そして同じ展開・タロットカードが出たとしても、実は答えはいくらでもあり、まさにケースバイケースで、答えはひとつだとは決められない(正解はない)のです。

それは、タロットが象徴(本質的にはひとつでも、具体的な次元では多様でたくさんの意味持つ)カードであることも理由のひとつです。

事例集でもそうなのですから、「どう読めば正解か?」という質問に対しては、当然、正解はないと答えなくてはなりません。

ですが、これも誤解しがちですが、正解はなくても、本質的・抽象度が高い次元では、展開から答えのようなものは読み取れます。

それは答えであって答えでなく、また逆に、答えではないが答えでもあるのです。さきほども言った、宇宙や神からの視座では正解はあるというのに似ています。

あるいは、レベルや次元別においては正解・不正解はあると例えてもいいでしょう。

究極的な次元にならない限り、分離は常に起きており(分離はいつもあり)、要するに、どのレベルにおいてもふたつに分かれ、同時にまた、ふたつはセットでもあります。

陰陽二元が、幾重にも折り重なっていると見ればよいでしょう。

ただし、上のレベルの分離は、下のレベルの分離を統合していますので、同じ分離であっても、まさに次元が違いますから、正解・不正解で言いますと、下のレベルの正解・不正解が上では通じなくなっています。

わかりやすく言えば、子供が考える正しさ・間違いと、成長してものの見方が変わった大人レベルでの正しさ・間違いの、異なりのようなものです。

(マルセイユ)タロットは、私たちに、この子供のような二元分離を超越し、同じ分けた見方をするにしても、大人としての見方に変えて行こうというものなのです。

マルセイユタロットでは、例えば、「法皇」「恋人」「戦車」「運命の輪」「悪魔」「月」「太陽」など、二つのものを超越した第三者的上部視点(三角形を基軸とする)の構造のカードがたくさんあります。

また、ふたつのものを混ぜ合わせたり、流したりする「節制」とか「星」というカードもあります。

このことから、二元分離のままではなく、それらを統合・融合し、新たな上の視点や視座を持つことがマルセイユタロット全体からも示唆されるのです。

(マルセイユタロットの各カードが示す)下部における二元分離は、すなわち、自分が今いるレベル・次元での正解と不正解の線引きがある世界だと言えます。

私たちは、同じレベル・世界観で正解と不正解を決めつけていますが、それはあくまでその次元にいる自分での話です。

世界が変われば、レベルや次元が上がり、今までいた世界での二元分離から離れてモノが見えるようになって、これまでの正解と不正解はどちらでもなく、またどちらでもあるというものに変容します。

簡単に言えば、自分が正解と思う答えが変わるのです。

正しさ、正解が変わるのですから、それは本当に世界が変わるのに等しいのです。

ですが、そこに至っても、やはり分離はあり、そのレベルでの正しさ・間違いという観点は存在します。それでも、以前の自分の考えとはまるで違う状態にはなっているはずです。

結局、人の成長とは、ある面で、正解とか間違いはなかったと気づく連続だと例えられるでしょう。

そしてマルセイユタロットが示すこともそれであり、今はそれが正解や間違いだと考えていても、タロットを使っていくうちに、これまで考えていた自分の正しさと間違いのレベルが変容し、そんなものはなかったという気づきが与えられ続けることになります。

しかしながら、前提として、タロットは正解を与えるものではない、正解をタロットから得ようとするのではないという自らの態度が必要となってきます。

繰り返しますが、レベル別において、正解はないわけではないのです。従って、タロットを使って、自分にとっての(そのレベル・次元での)正解を求めるのも悪いことではありません。

ですが、私個人が思うタロットの活用としては、自分の正解・不正解という今の世界観を解除して、変容させていく使い方のほうが、特にマルセイユタロットでは合っている気がするのです。

そのほうが本当の意味で、自分が楽(単なる楽という意味でははなく、楽しさ、味わい深いという意味も含みます)になって行くからです。


自然や宇宙に委ね、流れに任せる前に。

マルセイユタロットに「星」というカードがあります。

絵柄を見てもわかるように、女性(女神と言われている)がふたつの壺から水のようなものを流しており、見ているとゆったりとした、穏やかな気分になります。

大いなるもの、自然や宇宙に委ねるというような感覚になる人もいるでしょうし、実際、そのような意味合いも「星」からは出ます。

そして、これに「運命の輪」が加わると、その回転するものの絵柄から、自然な流れというのが、より一層、協調されるように思います。

ところで、自然に委ねるとか、自然の流れに任せるという言葉はとてもよいように思いますが、なかなか私たちはそうした心境にはなりにくいものです。

それはやはり、外側の事態や環境に振り回されることが多いからと言えます。

それでも、スピリチュアルなことに関心のある方の多くは、自然の流れに任せるような態度をよしとしています。たとえ実行できなくても、意識することが重要だというわけですね。

宗教的表現になると、宇宙とか自然というものを「神」と例える場合もあり、曰く、神のご意思に従うとか、神の思し召しなどの言い方になることがあります。

しかしながら、そのような心境・態度は究極的には善いもの(人間の自我的な意味での良いというのとは違い、大きな観点からの話で、です)だと考えられるものの、先述したように、私たちは環境的にそのようになりにくいですし、また頭だけでわかった風になって心がけようとしても、かえって「自然に任せること」が、自分を悪化させてしまうことがあることにも注意が必要です。

自然に任せているのに、なぜ自分が悪化するのかと言えば、内的に自分が不調和、不自然なままであるからです。

内と外の親縁性とか、鏡写しとか、シンクロとか聞いたことがあると思いますが、おそらくこれは真実でしょう。つまり、内と外はつまるところ、同じものを表現や場の違いとして、人がただ認識しているだけだと想像できます。

平たく言えば、自分が思っていることが外に表現されることであり、逆の、外に起こっていることは、自分の中で起きている状態でもあるわけです。

とすれば、いくら、自然に任せる、自然の流れに委ねるとしても、自分の内側が任せられない、委ねられない状態であると、当然内外の一致現象により、外側にも不自然、不調和を見ることになります。

そして、自分の表面意識で、神や自然に任せようとしても、それは言わば自然(神)を自分がコントロールしようというものと同じになり、ますます内外の乖離とか葛藤を経験していくことになります。

時計で言えば、自分の持っている時計が狂っているのに気付かず、外の時計とのズレを見て、外の時計に合わそうと自分の行動を強制しているようなものになります。

自分の時計が狂って18時を示しているのに、外はすでに20時なので、慌てて20時に自分の行動を修正するみたいに、常に外側の時計に意識を向け、それに合うように行動しようとすることが、本人としては自然に委ねる、自然の流れに任せるみたいに思ってしまっているということです。

要するに、自分の内側が整っていない(調和していない)のに、いくら大きなものに委ねようとしても、何より自分自身が委ねさせてくれず、無理からやろうとすると、そのズレをますます認識させられる結果が、外側、事象として起こって来ることになるのです。

自分が緩んでいない状態では、委ねる、任せるどころではないのです。そんな自分を放置(自然に任せるとするような態度を)していると、ますますネジが締まって行くばかりなのです。

自然に任せるというのは、意識的にというか、表面意識が強引にするのではなく、気が付けば(潜在意識・無意識領域から)そういう心境になっていた、そういう態度になっていたというようなものと言えます。

大事なのは、自分が自分に任せられるかです。それには、内なる会話、強制ではなく共生、自身のあらゆる面を認め、許可していく作業が必要となってきます。

また自然に任せられない自分を責めるのでもなく、そんなコントロール癖のある自分自身も受け入れていくことです。

これは別に自分が悪いわけでもなく、自己の存在価値とは無縁のことです。ただ取る手段に偏りとか、不自然さがあるだけです。

言ってみれば、私たちは誰しもが、実は常に自然や宇宙に任せている状況であり、言い換えればその一部で、それそのものなのです。

従って、任せるとか委ねるとかの発想自体がおかしいわけです。

それは自分と自然(自分自身の内側)を分離してしまっている見方と言えます。

マルセイユタロットで言えば、数の逆をたどり、「太陽」→「月」→「星」と内的な状態にしていけば、自然との一致感が、より実感できるものと考えられます。

それは「太陽」のように自分の内的統合を目標・イデア図として、「月」のような影、感情、見えない部分を探り受容し、そうすると、「星」の女神のような素の状態で、自然に水を流していく(流れていく)状態になるわけです。

瞑想とかして、宇宙や自然と一体化みたいな方法もよいのですが、その前に自分自身と向き合うことが、もっと重要かもしれません。


終わらす(終わらせる)もの

人は生きていると、いろいろなことを経験します。

それらはデータとして脳に記憶されているのでしょうが、一説では、必ずしも脳にすべての記憶が蓄積されているわけではないという話もあります。

人間を肉体だけの存在とする場合は、記憶装置は脳なのでしょうが、もし仮に肉体以外の何らかの自分と呼べる体と言いますか、エネルギーフィールド・領域があるとするのなら、そこに記憶の一部があるのかもしれません。

そして、もし自分の存在とその空間とも呼ぶべき記憶フィールドが、何らかのことで切り離されてしまって、(記憶のある)空間だけ残るとすれば、そこに再生する方法を施せば、人の記憶が読み取れることになります。

ちょうどホログラフィーが、一部のデータだけでも全体像が写し出されるように、そうした残された記憶からでも、その記憶を持っていた人の全体像に似たものを見ることができるのかもしれません。

さて、そんなわけで今日は記憶の話です。

私の採用している、あるいは教えているマルセイユタロットの展開法では、時系列の並びを取ります。

ただ、タロットは象徴絵図ですから、時系列を設定していても、その流れだけを表すとは限りませんが、現実世界での私たちの時間認識は、この過去・現在・未来としてとらえているため、タロットカードと現実世界(現実認識)をリンクさせるには、時系列的象徴(概念)を入れたほうが読みやすいこともあるのです。

さて、そうした時、過去を表すカードがたくさん出たり、特に意味を持って見えてくる場合があります。

それはそのまま解釈すれば、「過去を見よ」ということになります。

なぜ過去に注目する必要があるのかと言えば、それには様々な理由はあるのですが、大きく分けてふたつの理由があると考えられます。

ひとつは過去の認識を変える必要があること、そしてもうひとつは、自分の過去を見ることによって、終わらせていなかったものを(今において)完了させることにあると思います。

いずれにしても、何らかの理由で、忘れていたことを思い出す必要があるケースです。

その中でも、意外に盲点なのが、過去の未完了だったものを終わらせることです。

しかしながら、過去のことですから、時間的には終わってしまったことなので、タイムマシンのようなものはないわけですから、実際にはどうすることもできません。

しかし、物質ではなく、エネルギー(ここでいうエネルギーとは、物理学的なものというより、ひとつの、形を持たないものの比喩です)として扱えば、過ぎ去った時間のことでも、影響を及ぼすことが可能だと思われます。

それは、記憶が私たちの脳だけではなく、最初にも述べたように、一種の空間のようなところに存在しているとも想像できるからです。

そのよい例が昔の感情です。

過去の何らかの事件によって抱いた感情は、いったん時間とともに消えたように見えても、実は自分の中(あるいは自分と関係する別の領域)に残っていると言われます。

もしその時に感じ切っていれば(味わい尽くしていれば)、過去の感情も残らないのですが、中途半端に抑えてしまったり、ごまかしたりしていて感じ切ることのない状態だったとすれば、それは残り火のように燃え続けていると例えられます。

その残り火の影響が今も続き、実際的には、外の問題として現れることが多いでしょう。

つまりは、過去のこと(エネルギー)を終わらせる(完了させる)ために、過去の事件と似たようなこと、あるいは、その本質・エネルギーとして同質的なものが、自分の残り火によって引き寄せられる(必要性をもって引き起こす)わけです。

過去の別の形での再現と言い換えてもよいでしょう。

ただ、そのまま似たようなことが起これば、自分でもすぐわかるかもしれませが、質的には同じでも、現在の時間と実際のことでは、違う現象として現れることもあるので、やっかいです。

例えば、過去の事件での感情とかエネルギーは「悲しい」ということだったとして、過去のそれは失恋によるものだったかもしれませんが、今のそれは、同じ「悲しい」でも、事件(事象)としては仕事に関することかもしれないのです。

しかし、やはり悲しいエネルギーとして見れば同じというものです。

そこで、タロットならば、象徴絵図ですので、具体的な事象よりも、質的なものを表すことで、たとえ事件が異なっても、同じ性質・エネルギーを表現すること(把握すること)ができます。

例えばマルセイユタロットの「13」が出れば、そのカードの表す強烈な変容(させるための)体験があり、たとえそれぞれ(クライアントとタロットリーダー、またはクライアントそれぞれ)の実際の経験が違ったとしても(人それぞれ違うのが当たり前ですが)、また、自分自身の表面意識が忘れていたとしても、タロットによって本質的な共通認識が可能になるいうことです。(自分自身の場合は、潜在的な自分と表面的な自分とが共通に認識できる、つまり過去と現在がリンクし、つながることになります)

従って、過去のカードと展開を見ることによって、この人(自分)は、過去の何を今再現させようとしているのか、そしてなぜ再現させる必要があるのかを認識することができ、たいていそれは、未完了の感情・エネルギーが続いていることの、意識化の必要性になってくるのです。

そうして終わらせていなかったものが意識(自覚)的になることで、エネルギーは動き出し、やがて火は燃え尽きます。つまりは本当の意味で、経験(事件)は完了したわけです。

こうして、ずっと火を燃やし続けるための燃料もいらなくなり、気持ちは軽くなって、今後のための創造性のエネルギー(タロットの4組でいえば、特に「杖」が象徴)が回復し、生きる気力も出てくるのです。

同時に、自分の中だけではなく、空間にあった記憶も、言わば浄化される(書き換えされる)ことになり、未練のようなものが薄くなり、空間に閉じ込められていた感のある自分も解放されて行きます。(うつ、引きこもり的な気分からの解放)

空間の浄化がいる意味はいろいろとありますが、このように過去の記憶と結びついている理由もあるからと思われ、だから、過去のものを思い出す必要があるのです。

それが絵の象徴図であるマルセイユタロットならば、やりやすいと言えるのです。


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