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タロットリーディングのスタイルについて その2
前回はタロットリーディングのスタイルにおいて、プロかアマかについて述べました。
今回は同じタロットリーディングのスタイルについてでも、自分の個性という点から見てみたいと思います。
だいたい、自分のタロットリーディングスタイルは、
1 タロットの種類
2 学ぶ先生や資料(本、動画等)
で影響されることが多いです。
1は端的に言えば、ウェイト版(ライダー版)かマルセイユ版か、あるいはその他(特に創作系)かという括りになるでしょうか。
ウェイト版を採用している人は占いスタイルが多くなりますし、マルセイユタロット系では、日本では奇しくもホドロフスキー・カモワン版の人がたくさんいますので、その特徴としてのカウンセリング的なスタイルになりやすいように思います。
次に2ですが、やはり、人はモデル・型から入ることが普通ですから、自分の学んでいるスタイルにどうしても似てきます。言ってみれば先生をコピーするような感じです。しかし、今日の主題にもなってきますが、それが自分の個性と合っているかは別問題です。
1にしろ、2にしろ、最初に自分に影響を大きく与えるスタイルが、そのまま自分のタロットリーディングスタイルへとなってしまうのは仕方ないことです。
ところが、すでに触れましたが、自分に影響を与えたスタイルが、自分自身に本当に合っているかどうかということが、のちのち問題になってきます。
いわゆる「守・破・離」で例えられるように、最初は型を学び、次第に自分のものにしていく中で「型破り」となり、やがては完全に「自分独自」のスタイルを構築するようになるプロセスが、あらゆる分野での習得過程にあると言われます。
タロット(リーディング)にも、これは適用されると考えます。
ですが、あまりに最初に学ぶ型が、自分の個性とかけ離れているもの、言い換えると、自分の個性を殺すようなものだと、学ぶ最中も苦しいですし、なかなか上達や進展を実感できないかもしれません。
いずれにしても、忠実に教えを守って実践してはいても、どこかでその窮屈さ・葛藤が顕在化し、タロットを扱うことさえ嫌になてしまう時期が来ます。
そのような人は、早い時期に、守から破どころか、離を選択してもいいケースがあるでしょう。それでも学んだことは無駄ではありません。
まず、自分のスタイルを確立するうえで、どんなものが合っていて、どんなものが合わないのかが明確になったわけで、その恩恵があります。
また、最初に学ぶ基本というのは、タロットの種類やリーディングスタイルに関係なく、共通していることがほとんどですから、それ自体はむしろ必須であり、通らねばならない道であったと言えます。
人は葛藤に対して、それを統合しよう、解決しようという働きが自然に出てきます。言ってみれば、苦しんだ分、悩んだ分だけ、もっと成長できる可能性が高まるのです。
ただ、苦しみ続けること、わけもわからず、つらい状態を選択し続けるのは精神的にも、生き方的にもよくないと言えましょう。
今の自分としての人生は有限ですから、そこには無駄とか効率とかの意味が出て来るわけです。
タロットを学び、リーディングを実践するような人は、ほぼ全員、(その)タロットが好きか、タロットに関心がある人なはずで、仕事でやむなくとか、嫌々タロットを学ぶという方はあまりいないでしょう。
それならば、タロットのことでつらくなるのは、本末転倒な話です。もちろん、成長や上達の過程で悩むことはあるでしょうし、それは自然なこととも言えます。しかし、好きなタロットで、つらい・苦しいが続くのはおかしな話です。
それは、何かが間違っているか、自分には合わないスタイル・方法を取っているからです。
合う・合わないにおいて、よくあるのは、イメージ、感性、感覚、インスピレーション、雰囲気的なもの、自分の感じたもの(見えない領域とのコミュニケーションを含む)が主体のリーディングスタイルと、思考、論理、理屈、意味、言葉、相手(実際・見える領域)とのコミュニケーションが主体のリーディングスタイルとの違いがあげられます。
タイプ的に、自分が前者なのか後者なのかによって、別のスタイルを中心とした方法に力を入れてしまうと、当然ながらうまく行かなかったり、苦しくなったりします。
タロットリーディングというものは、実は両方のものを統合したところにあるとは個人的に思いますが、それでも、自分の個性というものはありますから、合っているほうで続けて行く、伸ばして行くほうがやりやすいでしょう。
途中で自分の今取っているスタイルと、自らの本来的なものとの齟齬、相性の悪さに気づいた人は、自分の思うものを信じて、スタイルを変更するとよいでしょう。
たとえ指導を受ける先生とは異なるスタイル、違う方法になっても、それが自分に向いているものであり、楽にリーディングできるものならば、そちらのほうが正解と言うこともあります。
しかし、先生・指導者によっては、生徒さんの個性をわかったうえで、あえて別のことを指導している可能性もありますから(それは、さらなる生徒さんの飛躍・発展とか、アンバランス部分を補うためなどの理由があります)、一概には言えません。
まあでも、タロットを極めようと必死な思いでやるよりも、時には愚者のように気楽に、しかし目的意識(自分がタロットを使ってどうしたいのか、何がしたいのか)はきちんと持って、自分流で行くもよし、先生に(自己の目的に)必要なことを学ぶのもよしだと思います。
深刻に思い過ぎると、何でもそうですが、かえって視野が狭くなり、あせりが出ます。楽しみながらの努力はいいですが、昭和のスポコンのような(笑)厳しい鍛錬はいらないでしょう。
自分が読めないのは、知識不足・経験不足のこともあるとは言え、そもそも行っているスタイルが自分に合っていない、または必死過ぎて見えていないものがある(努力がズレている)ということが大きいように思います。
もちろんいい加減なことを推奨しているのではなく、向上心は大切です。そのうえで、自分で自分を苦しめていないか、少し見直してみるとよいでしょう。
前にも書きましたが、例えば、タロットリーディングと言えば、質問・問いをして展開するのが普通ですが、問いなしで展開し、逆に相談者が本当に問いたかったことを確認するという方法もあります。
そのほうが自分に合っているという人もいます。
タロットリーディング自体は本当に色々なスタイル・方法があると思います。自分に合った方向性で、最終的にはオリジナルなやり方で、自信を持ってやって行ければ、それが自分にとってベストなのかもしれません。
まあ、本当は、同じスタイル・型のようでいて、実はまったく同じものなんてないのですから、みんな違って当たり前なのです。
型や学びは、自分のスタイルを見つけるための方策だと思えばいいでしょう。
本来、学ばなくても、人はすべてを知っている存在だと考えられるのですが、この世の仕組み上、自分を知るためには、学び・経験することで自分を思い出せるようになっているので、思い出しゲームを楽しむような感じで、タロットにおいても、関わって行くのがよいように思います。
タロットリーディングのスタイルについて その1
タロットリーディングのスタイルについて、考えてみたいと思います。2回シリーズで、まず最初は、プロかアマチュアかと言うことをテーマにします。
タロットリーディングスタイルをプロでやるのか、アマチュアでやるのかのテーマがあります。
どちらもいい加減な気持ちではできないと思いますが、やはりプロのほうがシビアだと言えるでしょう。
そして、何をもってタロットリーディングのプロと定義するのかは、人によって異なるでしょうが、今の現状から考えれば、端的に、サービス料金をいただけるかどうか、お客様からお金をいただいてもよいレベルかになるかもしれません。
このお金の問題が常にプロスタイルを選択すると関わってきます。料金をいくらにするのかから始まり、そもそもビジネスや生業として、経済的な糧とするのかによっても、色々と変わってきます。
しかし対人援助相談であり、モノとしての商品を売るわけでもないタロットリーディングの性格上、ガンガン儲けていくというスタイルにはなじみにくい面もあると言えます。それなのに、今の自由主義経済の世界では、商売としての熾烈な競争があり、人から選ばれないと生き残れません。(商売として成り立たない)
商売も、努力とか情報によって左右されるとは言え、大きな組織ではなく、個人事業主的なタロットリーダー、タロット占い師ともなれば、個人の才能によるところが大きいように思います。
ここで言う才能とは、タロットに関することではなく、あくまで商売、サービス業でのことです。
何事も得意・不得意があり、自分のウリに長けた人、またすばらしい行動力を持つ人など、商売の成功は、その才能によるところも大でしょう。あまり言われませんが、運も大きな要素です。(ただし、よい運に巡り合うための底上げ、努力と準備は必要だと考えられます)
ですから、結局、特別な人を除いて、タロットリーダー、タロット占い師として、経済的完全独立を成せる人はなかなかいないのではないかと思われます。
それ(経済的独立や成功)に向かって、タロット営業を目指すと、どうしてもお金儲け(営利)やサービスの拡大、商売目線ということになってきて、自分が本来したいタロットリーディングというものができなくなったり、葛藤を持ったりすることにもなりかねません。
そうした葛藤を、結構、お金のブロックなどと言って、本人の心理的思い込み、枠のように言う人もいますが、それは確かに一理あるとは言え、そればかりが問題ではなく、究極的には、タロットリーディングという行為の本質と競争経済原理との間に、相入れないものが大きく存在しているからだと考えられます。
これは医者が完全に病を治してしまえば、最終的には医者自体もいらなくなるというのに似ています。
優秀な医者は、存在さえ知られれば多くの人が訪れ、それが医業営業であれば、サーヒス業として流行ることも当然あるでしょう。しかし、どんどん患者が治れば、患者、つまりお客様は減って行きますので、ビジネス・営業としては苦しくなります。
すると、別のことを行うか、何か新しいサービスを考えないといけなくなるでしょうが、それが本来的な医者の仕事ではなくなってくると、医師自体が悩むこともあるかもしれません。
また良かれと思い、病になるのを未然に防ぐためのことをすると、ますます患者は減りますから、営業としては成り立たなくなります。完璧な治療薬などできてしまうと、医師界どころか健康産業全体の存亡に関わってきます。
ちょっと話がそれましたが、上記のことは、自由主義経済が本末転倒なことにもなりかねない危険性も示していますので、あえて書いたところです。
ともあれ、プロでお金をいただいて、経済的独立をも成立させるのは、個人的なタロット業では厳しい面があるということです。
ですから、できれば、経済的なことが二次的になるようなスタイルで行うことが、かえってのびのびとタロットリーディングができるのではないかと思います。
さらにはお金とは無縁に、趣味か生きがいか、使命かはともかく、ボランティア的にタロットリーディングを行うのは、もっと楽(楽しい)でしょう。
ただ、お金をいただくことが悪いわけではなく、自分の活動費、学習向上費、そして、何よりも、リーディングの価値(エネルギー)を別の形で評価してもらい、受け取る意味で、お金というものはその代替になるものです。
お金をいただかない完全ボランティアの場合、弊害として、タロットリーダーの消耗が激しいこと、継続していくのに無理が生じやすいこと、リーダーもクライアントも真剣味に欠けるということがあげられます。
お金をいただかないことで、タロットリーダーがリーディングがうまくできない言い訳とか、免罪符にしていることもあります。(無意識的なこともあるので厄介です)
これは別の意味でのお金のブロックと言えます。お金で自分への価値が、きっちりと出てしまうことの恐怖があるわけです。
最初は誰でも文字通り初心者です。経験を積み、実行していかないと、技術も向上しませんし、自信も持てません。
お金をいただかないという方法でやっていくのもありですが、先述したように、その弊害がないわけでもありませんので、ボランティアでも、少しはいただいたほうがよいかと思います。
よく、最初はワンコインから・・・というケースがありますが、それもひとつの方法ですが、私は、お金をいただくと決意した場合、もっと最初から金額を上げたほうがいいように感じます。
そうしないと、ワンコインのまま、ずっと続いてしまう恐れがあるからです。(ワンコインで長く続けて行くと決めている場合はよいですが)
ましてやビジネス・営業としてプロ的に行うことを考えている人は、ワンコインからではなく、せめて千円単位から始めると、覚悟もでき、技術もそれについてくるでしょう。
まあそれでも、理想としては、ビジネス・営業スタイルで行うより、ボランティアか二次(サブ)的な活動で、自分が納得する、過剰ではない料金(お金)をいただくタロットリーディングのスタイルが、自由があって望ましいように思います。
もちろん、ビジネスとしてやりたい人、その自信がある人は、どんどんやっていけばよいでしょう。
さて、次回は、プロかアマかということではなく、別の観点から述べてみたいと思います。
人間の選択、マルセイユタロットの指針
マルセイユタロットと言いますか、伝統的タロットでは、78枚を一組にし、大アルカナ22枚、小アルカナ56枚という構成になっています。
二部構成のアルカナは、その数から、大アルカナは3と7、小アルカナは4と10の原理によって解釈可能です。
特に、3と4の違いが、大アルカナと小アルカナにはあると考えられます。
大アルカナと小アルカナは、いわば次元が違うので、同じように見ては理解ができなかったり、うまく使いこなせなかったりします。
さきほど、3と4の違いがあると言いましたが、大アルカナの3は縦に見て、小アルカナの4は横に見ると適切になってくると思います。
ところで、人は何かを選ぶことで人生を過ごしているとも言えます。人生において、選択がないことはめったにありません。一日単位でも、一年単位でも、常に選択の連続と言えます。
ゆえに、人は選択に迷い、悩むことが多くなります。そして、タロットを使う者、あるいはタロットリーダー、タロット占い師に相談する者も、やはり、自分の何かの選択についてが主題になることがよくあります。
そこで、さきほどの大アルカナの3と、小アルカナの4を、選択のテーマで見ます。
すると、選択には7つ(3+4)の方法(区分)があって(考え方によっては3×4の12)、大アルカナ縦の3と、小アルカナ横の4に分けられます。
これを別の言葉で表しますと、大アルカナには3レベルの選択があり、小アルカナは同レベルながら4つの性質があるわけです。
大アルカナの三つのレベルとは、言わば低・中・高の選択段階があるとも表現できます。ただし、ここでいうレベルの違いは、縦階層ではあっても、低いものが悪くて、高いものがよいというわけではありません。
三つのレベルは、あえて宗教的に言えば、神から見た選択と人間的な選択、その中間的な選択があるというものです。神の選択はもっとも高次ではあるものの、それが必ずしも、普通の人間にとってよい選択であるとは限りません。
なぜなら、高いレベルになればなるほど、一人の人間の良し悪しなど、どうでもよくなってくるからです。多数決ではありませんが、宇宙全体の進化のために、ただ一人の人間への忖度はないみたいなことです。
※(別に人の犠牲を肯定しているわけではありませんし、小宇宙大宇宙の法則からすれば、一人の人間と全体とはリンクしていると考えられ、おそらく全と個が切り離されて進化するものではないとは想像できますが)
神の思し召しという言葉があるように、神様の考えるレベルとか規準は、我々人間にはわからないものです。でも、人は自分の人生を普通に生きているわけですから、通常レベルでの選択における良し悪しを無視するわけにもいかなくなります。
ワタクシの事情というものに神は考慮してくれなくても、ほかならぬ、ワタクシ自身はワタクシのためによい選択をしなくてはと思うわけです。
しかし、一方で、神次元からすれば、一人の人間の本当の成長のためには、その人にはわからないレベルで善きことがあり、その選択を勧めることもあるでしょう。人間レベルだと欲望や私情に囚われて、目が曇ってしまうこともあるからです。
もし天使という存在がいるのなら、天使は、そうした高い神の次元と、普通の人間との間に介入して、相互理解と、人の本当の成長(霊的進展)のために働きかけることになるのではないかと想像します。そういう意味では、天使の選択もあるということです。
マルセイユタロットの大アルカナは、この三つの階層の選択を示唆しているものと考えられます。
ただ先述したように、どれ(どの階層の選択)がよくてどれが悪いというのではありませんし、このカードが出れば特定の階層の選択をすべしというものでもないと考えます。
大切なのは、三つの階層を総合的に判断し、なぜそのカードが今回出たのかの意味をよく見極め、結局、自身自身の成長に役立てることではないかと思います。
一方、小アルカナの世界は、人間レベルの選択における4つの性質を表し、すなわち、四大元素の風・水・火・地で、物質的には剣(ソード)・杯(カップ)・杖(ワンド)・玉(コイン)になります。
簡単に言えば、四つの視点・見方みたいなものです。
人間世界は、損得や、快不快・好き嫌いなどの感情、時間や投資の効率性、やりがい・生きがい、面白い面白くない、関心無関心などの判断の規準があります。(人によって異なる規準にもなっています)
これを分析するのに、4つの性質は役立ちます。自分は何を重視して選択するのか、また、足りない性質、考慮すべき性質は何なのかなど、こうしたことに小アルカナは使えます。
個性を特化していく、悪く言えばわがままを突き通すみたいな選択の使用法もあれば、バランスを見る、統合的な自己成長のための選択に使うという道もあります。後者は結局、大アルカナに通じる道であり、やはり、マルセイユタロット的には、人間が神に戻る方向性(霊的成長)を示唆しているのではないかと考えます。(使い方にもよりますが)
マルセイユタロットを使っていくと、現に私自身がそうですが、現実的なことにおいて、タロットを使って何かを選択するというようなことは、ほとんどなくなってきます。そして、タロットで何かを決めるという使い方に、空しささえ覚えるようになります。
ですが、それがよいと述べたいのでもありません。
タロットで物事を決めることも別に悪いわけではありませんし、タロットの使い方ではメジャーな方法でしょう。従って、それもまた自分の選択であり、どのような使い方をするのかは自分次第で、それにタロットは応じてくれるというわけなのです。
タロットリーダーが役に立つ理由
タロットで自分のことを見るのは難しい
という話がよくされます。
長年マルセイユタロットをやってきている私から見ましても、それはその通りのところがあると思います。
ただ、世間で言われるそのことは、だいたい、タロットを占いとして扱う場合のことに当てはまると言えます。
とはいえ、占いでない使い方をしたとしても、例えば、タロットリーディングにおいて自己判断のみでは、少々難しいところがあるのも確かです。
私は最初の頃は、タロットリーディングの方法を統一して行っておりました。統一していたというのは、具体的に、他人を見る場合と、自分一人で行う場合との展開方法や読み方(リーディング)を同じにしていたということです。
しかし、前述したように、自分で自分を見るのは難しい部分があるので、やがて他人向けと自分向けで方法を変えることにしました。(同じ方法を使うケースもあります)
その方がわかりやすいからですし、そもそも、他人リーディングと自己リーディングというのは、同じ「リーディング」という呼び方にはなっていますが、根本的に異なるものであることを理解してきたという理由もあります。
このことについては、またいずれふれたいと思います。
さて、自己リーディングの難しさの最大の理由は、客観的になれないことがあげられます。文字通り、客観ではなく主観なのですから当然です。
そこに感情的なものが加わると、「こうなってほしい」という希望や、逆に「このようなことは嫌だ」という思いが、リーディングにどうしても反映されがちです。
タロットカードでは、結構幅のある読み、あるいは、相反するような意味が出ることもあります。
それはタロットが象徴のカードだからで、オラクルカードのように、決まった意味とか言葉があるわけではないからです。(何を象徴しているのかの根本はあります)
その「幅」こそが、自己の感情と相まって主観が作用し、読みの客観性をなくさせて、判断を迷わせることにもなります。
このことからも、他人向けに行うリーディングスタイルと同じにしては、自己へのタロットリーディングとか活用は難しいことがわかります。
極端なことを言えば、自己占い的なものや、自分に対して何か現実的に決断するようなことに、タロットは使わないほうがよい(この場合のタロットを使うというのは、タロットを引くという意味)とさえ思っています。
ですが、主観でありながらも客観性をあげるための工夫をすることで、上記の問題も多少は改善される場合があります。
それはそれとして、今日言いたいのは実は別のことなのです。
それは、なぜ他人に対してタロットリーディングを行うのかの問いに、ひとつの答えになるものかと思います。
要するに、客観性の効果がアドバイスや助けになるケースが、この世だからこそあるというものです。
私たちのこの(現実)世界は、個別や分離の世界です。一人一人個性を持ち、数多のモノがあふれかえる世界で、自分と他人が区別されるのが普通です。
「他人と比べてはならない」とよく言われますが、それはこの世界の構造からして無理な話です。むしろ、比べるためにできているのではないかとえ思えるものです。
ただし、あまり他人を気にしないという選択はできるでしょう。その辺りの自由性があるのもこの世界の特徴です。
何が言いたいのかと言いますと、他人と自分がいての世界だから、それを利用しない手はないということです。
これをタロットリーディングに当てはめると、自分で自分のことを読むことが難しくなるのは当たり前の世界で、だったら、他人に見てもらうほうがわかりやすいですし、受け入れやすい側面があるということです。
皆さんも迷った時、判断に困った時、最初は一人で考える人は多いかもしれませんが、結局、誰かに相談しますよね?(しない人もいるでしょうが)
たとえ解決策が出なくても、人に話をするだけでも気持ちは楽になることがあります。特に困っている状況をわかってもらえたという時は、その効果も高いです。
また、自分以外の者からのアドバイス、助言、さらには客観的データも、受け入れやすく、冷静になれる場合があります。頑固な人でも、信頼する人とか、特別な人から言われれば説得されるケースもよく聞きます。
やはり、客観的なアドバイスは、自分の枠をはずして物事を見ることに、とても役立ちます。
マルセイユタロットで言えば、「運命の輪」の輪の中にいる状態で、そこから脱する視点が与えられるわけです。
このこと(他人の言)により、人は助けられたり、成長したりします。(もっとも、反対に他人から騙されたり、洗脳されたりもしますが)
そう、この世界は、自分以外のものが自分を助け、または貶めることになっている構造の世界なのです。まさに独りよがりでは、その状態で固まったままであり、なかなかその小さな世界から抜け出せないことになります。
視点を変えてみれば、この世界全体で完全性があると見て、だからこそ、自分以外のものがそれを補完することになっているのだと考えることもできます。
タロット自体を客観のためのツールにすることで、何も他人によってリーディングしてもらう必要もないかもしれませんが、他人にタロットを使って見てもらうことで、二重(タロットとタロットリーダー)の客観性が出て、さきほど言った、自分に対する(自分以外のものからの)補完が強くなります。
タロットが当たる当たらないとか、タロットが真実を告げているのか告げていないのかということは、この観点からすると問題ではありません。
タロットリーダーとして、人の客観性のために役立つこと自体が大きな意味を持つのです。
予言、2025年問題などについて。
2024年のスタートが、あまりにも大きな災難から始まったこと、ほかにも悪い出来事が連続したために、これからの先行きを不安に思う人も多いようです。
また、スピリチュアル界隈とか予言の世界では、少し前から2025年問題というのがささやかれています。これは2025年に日本にすごいことが起きるというものです。
このすごいことというのが厄介で、たいてい悪いことや災害という類で言われています。予言によっては、(あえて書きませんが)月日まで指定されています。
予言的なものは、ネットでも結構昔から人気です。これから先、どうなるのか知りたいというのは、人情の面もあるからでしょう。特に世情が不安定であると、余計に未来がどうなるのか知りたくなる人も増えるのだと思います。
ただ、これも古くからよくあるパターンですが、自分(とか特定の組織)に注目を集めたいがために、わざと大げさに不安を煽るような予言をする者がいます。
目的は集金であったり、宗教などの組織に入会させたりするものが多いでしょう。現代では、承認欲求を満たしたり、動画などの再生数稼ぎや、セミナーなどの集客目的だったりなどの場合もあると思います。
ここで、ちょっと前を思い出してください。
コロナ禍のケースでは、果たして、コロナ前にコロナウィルスの病が世界的に流行って、自由がかなり制限される状況を予言した人がいたでしょうか? 病気の流行くらいの予言はあったかもしれませんが、コロナのことを正確に言い当てたような人は見受けられなかったと思います。
そして、コロナ禍になって、当時、いろいろな人が今後のことを語り出しましたが、その多くはやはり不安を煽り、悲惨な未来をイメージさせて、集客のネタにしたり、欲望的な意味で、自分になにがしかの注目を集めようとしたり人が少なくなかったように思います。
結構、化けの皮がはがれたと言いますか、コロナ禍という非日常的なことが起こって、その人の本性が見えたという場合もありました。
もちろん、皆さんのためを思って危機を訴えたとか、災難に備えさせようという気持ちの人もいたと思います。今の予言も、親切心から出ているケースもあるでしょう。
それでも、怖い予言をしてどうするのかという疑問が、個人的にはあります。
確かに何の備えもせず、能天気に生きるのがよいというわけではありません。実際、地震や台風など、日本では自然災害も多いのは周知の事実です。
私は阪神大震災を経験しましたが、当時、関西圏では地震の危機感は皆無に近く、神戸あたりでも、大地震など来るはずもないという一般的な雰囲気がありました。(実際は何度も大地震が過去に起きていたのですが)
しかし阪神大震災が起こって、その後からこの地域だけではなく、全国的にも地震に対する防災意識、対策が高まりました。そういった意味では、先に備えや引き締めの気持ちを抱かせるために、危機の予言もありかもしれません。
とはいえ、やはり怖い予言はあまり有意義ではないと思います。それは先述したように、そうしたことを利用して、利己的なものに誘導する力が働きやすいからです。
また、ただでさえネガティブな人が多くなっている時代に、希望をやる気を失わせることにもなりかねませんし、よい社会に変えていくにはどうすればよいかという思考や動きが停止し、受け身にただ運命を待つとか、怖いことが起きるのなら、今享楽的に生きればよいというような意識に囚われる人も出るでしょう。
一言で言えば、創造性が失われるわけです。
もしスピリチュアル傾向の人が言うように、人々の意識が現実を作るのなら、不安と恐怖の予言によって、多くの人の想念がそれになり、本当に未来は暗いものになりかねません。(逆に、たくさんの人が予想すると、その通りにならないという逆張り現実説もあるようですが)
タロットも占いだと思われていますので、先行き・未来についてどうなるのかタロットで見てほしい、見てみたいという人が結構います。むしろそれがタロットの使い方ではないの?と誤解している人もいるくらいです。
エンターテイメント・遊びの意味で、「今後どうなる?」と、タロットで見てみるのもありかもしれません。
しかし、私としては、特にマルセイユタロットでは、そういった使い方はあまりお勧めしないものです。
(マルセイユ)タロット使いは、魔法使いではありません。未来のことを当てたり、自我(エゴ)の思い通りに環境を変えたりするようなツール(と人)ではないのです。
恐ろしい未来がタロットで示されたとして、いったいそれが何の役に立つのでしょうか?
それこそ、「こんな恐怖の未来がタロットからわかった!! 動画を見た人だけがわかる衝撃の未来!!!」という、おどろおどろしいサムネイル・タイトルで人を惹きつけ、動画再生数を稼ぐくらいです。(笑)
タロットを使う者は、タロットの奴隷(タロットの言いなりになること)でもありませんし、反対に、自分のエゴのためにタロットを都合よく扱うのも問題です。
予言のことに戻しますが、2025年にたとえ何かあるにしても、反省や備えをすることを忘れずにしつつも、何が起きるかなどはどうでもよいとし、今の自分を悔いなきように生きていくことだと思います。(不安になることを否定することでもないですし、ダメな一日、悔いのある日々もあるのが普通で、それも含めて人生を旅していると考えます)
ところで、マルセイユタロットは13番のカード以外は、見た目は特に恐怖を感じないものです。(16「神の家」も、ウェイト版ほど破壊の絵柄ではありません)
従って、どうせ先行きをタロットで見るのなら、「どうなる?」としてカードを引くよりも、「どうすれば(よい)未来を築けるか?」として引いたほうが建設的です。(ちなみに先述した「神の家」には、建設していく意味もあります。神への建設、すなわち神性の自分に適った選択と行動が意味されるのです)
そして、できれば、明るい未来を想像し、実際に皆さんで創造していきたいものです。