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2020年のはじめに。タロット展開あり
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
2012年頃より、スピリチュアル的には何かと「変化(する)」と言われることが多いですが、2020年は一般的にも「変化」を実感する年となるのは、間違いないような気がします。
そして、お正月に、日本人か習慣的に言っている言葉、私もさきほど書きましたが、「明けましておめでとうございます」というのは、よく考えますと、アセンション(次元上昇)的な言葉でもありますよね。
「明ける」とは、葛藤や闇が明けるという象徴としてとらえることができ、一人一人が覚醒し、全体としても目覚めて、結果、おめでたいことになるという、ある意味、予祝(あらかじめ祝って実現性を高める)的な言葉とも言えます。
ということは、今、その言葉を普通に言える時期でもあるので、文字にしたり、自分で言葉にして言っておいたりするのも、先々、よいことではないかと思います。
さて、一年のはじめには、タロットをする者にとって、やはり、タロットを引かないわけには行かないでしょう。
私自身は、すでに、冬至のポイントで、新たな年を意識したカードを引いておりますが、一般的には、暦のうえでの年明けに引いてみる人が多いと思います。
そして、タロットを引いたあと、そのカードをどう扱う(読む)のかが大切です。
まあ、お正月ですし、今年を占いたいという気持ちは皆さんあるでしょうから、「占い」として、引いたカードを解釈するのもよいでしょう。
占いで見るというのは、「今年はどんな年になるのか?」とか、もう少しテーマを絞り、「今年の恋愛運、金運、仕事運、健康運」など、いわゆる占いの人気テーマ(ということは、多くの人にとっては、実生活上気になるテーマだということです)で問うような形です。
もちろん、これにもタロットは応えてくれるやり方があります。
しかしながら、私からお勧めするのは、占い的な質問よりも、能動的、言い方を換えれば創造的な読み方や解釈をする方法です。
それも、結局のところ、質問によって変わります。
例えば、「私は今年、何を達成すればよいのか?」何を癒せばよいのか?」「成長するためには、何が必要か?」「どのような人間になるべきか?」「私が力を入れて取り組む分野は何か?「何から始め、どういう形で終わればよいか?」・・・などの問い方です。
あと、自分がタロットに問うのではなく、タロットのほうから自分に問いかけているとする見方もやってみるとよいかもしれません。
これは、タロットの象徴する意味や内容が、自分のテーマとして問いかけられているとする方法です。
仮に「恋人」カードが出て、恋愛がテーマだと見た場合、占いならば、恋人ができる・できないとか、相手との関係性などをカードから読むかもしれませんが、カード側からの問いかけとして考えると、「あなたは恋してますか?」「キューピットをただ待っていませんか?」「恋人にあらぬ疑いをかけていませんか?」「あなたの選び方を、もう一度ふりかえってみましょう」など、カードから質問がいろいろと出てきます。
まさに、カードと対話するかのようなものです。
このような手法は、なかなかすごい力を持っていまして、心理的には自分との会話にも相当し、霊的には別の次元の自分とのコミュニケーションや調整、覚醒にも関わってくるものなのです。
タロットで自己占いをされる人もいるとは思いますが、やってみるとわかりますが、これは難しいのですね。
だいたい、極端なネガティブか、ポジティブな読み方になってしまって、中立的な解釈ができなくなるのです。
だから、逆に考えまして、そもそもタロットで自己占いはできないと考えたほうがよいのです。
ならば、占いではない自己活用を、ということになり、その数ある方法の中の一つで、強力なのが、タロットとの対話と言えます。
むしろ、タロットはそのように(占いではない自己に)使うのが本筋かなという気がしています。
タロットは、目的達成や自己成長のための、一種の質問箱であり、とても整備されたアシスタントのようなものなのです。ただし、その活用の方法を知らないと、宝を宝として発動させることは難しいです。一言で言えば、(タロットの)象徴への理解です。
・・・まあ、なんだかんだ言いましても、やっぱり、「今年のタロット展開」は、人が引いたものでも見たいですよね。(笑)
では、年末にやったように、三枚引かせてもらいます。
今回はスリーカード(三枚引き)の方法でも、ちょっと違ったやり方です。まず、一枚を引きまして、それを中心として、左右のカードを一枚ずつ引きます。その左右のカードは、ともに入れ替えが可能なカードと設定し、人によって、左右が違うという形にします。
要するに、三枚セットのふたつのパターンがあるということです。
どちらがあてはまるかは、各人の判断です。ただマルセイユタロットを知らない人にヒント(三枚をセットにして見た、簡単な象徴的解釈の一文)だけ書いておきます。でも、結構見たまま(カードからのインススピーション)が重要ですよ。
※タロットの大アルカナの数と名前を表記します。
●2020年 パータン1
「15」「14」「6」
悪魔、節制、恋人
悪魔のような束縛から救済され、自分の居場所や、よき人々の中に回帰し、新たなつながり・愛の関係性を得る。
●2020年 パターン2
「6」「14」「15」
恋人、節制、悪魔
人に依存したり、承認を求めていたりしていた意識に愛が注ぎ込まれ、悪魔のような強い自分への自信を回復させる。
なお、とぢらのパターンも、自分がそうした救済の役割をする側に回ることもあります。
皆さまにとって、本年がすばらしい年になりますよう、お祈り申し上げます。
タロットによる一年の整理
いよいよ、今年も残りわずかですね。本年最後の記事になります。
皆さまにとって、今年一年はどんな年だったでしょうか?
たいていの人は、年初に何か目標を立てたり、今年はこうなってほしいとか、こうするぞ、みたいな決意で臨んだりしても、数か月もするとそれは忘れ、日々に忙殺され、気が付くとあっという間に一年が過ぎてしまいます。
特に、最近は時間の進み方が速くなっていると言われ、年齢が上がれば誰でも速くなるらしいのですが、若い人でも、このところは時間の進みの速さを感じているようです。
ですから、ほんと、ここ数年の一年というのは、あっという間感がすごいのではないでしょうか。
ということで、そうならないように、よく言われるのは、目標を紙に書いたり、意志や意図を明確にしたりして、無為に一年を過ごさないよう計画的に過ごすことが重要だとされます。
まあ、それはもっともなところもあると思いますが、この世と言いますか、現実世界の特徴としては、個性・個別の世界(個人の価値観の世界と言ってもよいです)であり、いわば、それは人の数だけあるわけですから、それ(この世の仕組みの意図)を汲みしますと、どんな生き方をしてもいいのではないかと思います。
もちろん、皆で社会生活を営んでいるわけですから、ルールや法律を守ること、人に過度に迷惑がかかるようなことはしないのは前提として、です。
この世は、制約・束縛は多いものの、だからこそ逆に、個人の自由意志・自由選択が試されてもいるわけです。
ですから、「私は、俺は、一年、生きたいように生きる」とか、「行き当たりばったりでもいい」「無計画でも、その時その時楽しめばOK」と言うのも、人によってありだと思います。
ところが、この世は、自由で個性的であるがために、人をコントロールしたいとか、自分の都合のよいように他人を支配したいみたいな人たちもいるわけです。
人間、自分の価値観や幸せ観に基づき、この世を生きようとします。
ある意味、個性における自己実現を全員が目指す場と言ってもいいかもしれません。善人から見た悪人の価値観や幸せ観というのは、真反対かもしれず(おそらくそうでしょう)、その人たちの自己実現は、まったく普通の人や、善なる人から見れば違うのだと思います。
そして話が戻りますが、何も考えずに日々を生きようとすると、そのような、人の支配とコントロールが生き甲斐(笑)みたいな者、グループ(類は友を呼びます)の鴨にされる場合があります。
ただ、自我(エゴ・個性)を強烈に持ち、誰にも負けない「自分」という自信を持っている人は、すでにかなりの自由性を獲得していると言え、おそらく、他人の支配は受けにくいはずです。
結局、「支配」の場合、自分より影響力が強いか弱いかによることがあり、それは見えない部分での精神エネルギーのようなものも含みますので、個としてのトータルなものが、縄張り争いしているようなものなのかもしれません。
しかし、個だけではなく、グループや組織を組まれると、また影響の力は変わってくるでしょう。(個が弱い者でも、組織の力を借りれば強くなる)
それとはともかく、皮肉な話ですが、エゴが強ければ、人は意外に自由になれるものなのです。(人や外からの影響を受けにくいため)
このことは、マルセイユタロットの「悪魔」で象徴させることができます。
「悪魔」とか、一般的には「死神」と言われる「13」、「塔」と呼ばれる「神の家」を、中立に見たり、ポジティブに読んだりすることは難しいと思いますが、マルセイユタロットの場合、絵柄とその象徴性によって、それが可能です。
ということで、「悪魔」のカードには「悪魔」なりの良さがあるのです。
自分の中の“悪魔”が確立してくると、次に「神の家」という、本当の自分の塔が建つ(マルセイユタロット的には崩壊ではないのです)ことになるのですが、これも、マルセイユタロットの15番「悪魔」、16番「神の家」と、並び的にも見事に象徴されていると思います。
一方、これもマルセイユタロットの順に示されていますが、やはり、一年を有意義に過ごすには、普通は計画性をもったほうがいいと考えられます。
そして、年始の計画や目標が忘れられてしまうのは、ステップや分析がないからというのが、ひとつの理由と考えられます。
例えば、月ごとに見直し、計画の達成度合いを計ったり、変更などしたりして、修正していくのも、ごく当たり前のことではありますが、仕事ではやっていても、プライベートな自己実現のフィールドでは、忙しさで無視されることも多いです。
それで、こうしたものにタロットカードが活用できるわけです。
タロットには、小アルカナもありますので、数を象徴させたり、人間をタイプ別に表すことも可能です。ですから、月ごとにカードで区分けし、大きな目標の象徴性と、細かな象徴性(目標達成のための要素のようなもの)をそれぞれカードで示すことができます。
カードを引くこと自体が、結構占い的で楽しい(エンターテイメント性がある)のと、タロットは絵なので、印象が強いのです。従って、楽しみながら、そして忘れにくく、一年を小刻みに振り返りながら、目標達成に向けて、次に進んで行く(一年という全体を見る)ことができます。
逆に、このような年末に、月ごとにカードを引くことで、今年を振り返ることにも使えます。
もちろん、今年一年の全体の象徴性として、大アルカナで三枚なり、四枚なりを引いて、振り返ることも可能です。究極的には一枚で示すこともできます。
タロットを持っている方は、自分で引いてみるのが一番ですが、他人に引いてもらうのも、違った観点が持て、それはそれで象徴性を持ちます。要は、カードを引く時の意志(意図)がはっきりしていることが大事なのです。
「私の、あなたの、これこれについて引きますよ」という宣言です。
これは、あらかじめ、カードの世界と自分(対象者)の世界とを意識の上でリンクさせておくということです。
では、カードを持っていない人のために、私が代わりに、三枚引きで、今年2019年の象徴として、マルセイユタロットで引いておきます。
※結果 大アルカナ 「13」「皇帝」「力」
なかなか面白い展開と言いますか、カードたちが出ていますね。
今年の締めくくり、自分を振り返る意味で、何かの参考になれば幸いです。
どうぞ、よいお年をお迎えください。
変化したい心と、変化したくない心
自己改革と言えばかっこいいですが(笑)、人は自分をいい意味で変えたい、変化させたい、向上させたいという思いが誰しもあるものです。
たとえ、世間から悪人のように思われている人でも、おそらく自分なりの価値観に基づいて、今の自分より変化させたいと思っているでしょう。
それは、一般人から見ると悪を強めている、堕落させているように見えて、本人自体は、その人の思う強さ(破壊であってもそれにつながります)、変化と思ってやっている者が多いと想像されます。
ということは、人間にはずっと同じ(自分)でいること、それに抗うような、そんなプログラムが施されているのかもしれません。
この現実世界が束縛や困難が多い反面、それだからこそ自由や楽しさを追求できたり、多様性に満ちて変化に富むことを味わえたりするのも、そういう理由があることが考えられます。
しかし、一方で、皮肉というか、面白いことに、まったく正反対の志向も人間には備わっています。
それは、変わりたくない、このままがいい、安定したままでいたいという思いです。むしろ、こちらのほうが、通常では強い力が働いていると言ってもいいでしょう。
その一番大きな理由は、たぶん、人間の体の仕組みにあると思います。恒常性と言われるように、人間の身体は、体温とか心臓などの動きを一定に保とうとする働きがあるのは知られています。
そうしないと生命が維持できないですし、太古の昔にさかのぼれば、環境的にも変化の多いむきだしの状態が多かったわけですから、生命を守り、維持・安定させていくのには、多大な機能とエネルギーが使われていたのは、容易に想像がつきます。
それが遺伝子的に記憶されているのであれば、直接的な命の危険がほとんど去った現代であっても、何かのことで、その機能がオンになってしまうことも十分に考えられます。
こうしたものが過剰反応となり、まるで免疫機能がおかしくなって攻撃しなくてもよいところに攻撃(防御の意味の攻撃ですが)して、体がおかしくなるような状態に似て、本当は変化してもいいのに、いや、むしろそれが望まれるのに、ずっと前(今)のままでいようという働きが起きてしまっている人は少なくないのではないと考えられます。
また、変化を決意しても、三日坊主で終わったり、躊躇や恐怖が出てしまったりするのも、このような理由のせいもあるでしょう。だからある意味、変化ができないのは、自分のせい(意志の弱さなど)ではないのだと、慰めることもできます。
やはり、何事も、無理に何かをしようとして、その力を強くすればするほど、当然それに対抗する力、抗おうとする力も増えてきます。
車でいうと、アクセルをふかそうとすればするほど、動かせまいとするブレーキの力も強まり、両者の力が激しくぶつかりあえば、機械が壊れるおそれが高まります。ひどい時は爆発してしまうかもしれません。マルセイユタロットでは、「戦車」のネガティブ象徴みたいなものがイメージされます。
それでも、最初に述べたように、人には、変化したいという欲求もありますので、厄介なものです。
変わりたいけれど変われない、変わりたくないけれど変わりたい・・・この振り子作用で、莫大なエネルギーが消耗されて、結局、何もできないどころか、心が消耗し、また変化して自分の意識や資源(収入や、よき人間関係など)を拡大することなく、悩んでしまう人がたくさんいるのだと思います。
ですから、この両方の相反する思い、欲求というものをうまくコントロールしていく必要が人生ではあると言えます。これもマルセイユタロットの「戦車」のカードの象徴性に関わることでもあります。
ふたつをうまく扱うには、まず、やはり、相反するこのような欲求とでもいうべきものがあることを、素直に自分に認めることからでしょうか。(変化できない自分を責めたり、安心安全を求める自分を否定したりしない)
そして、たいていは変化の欲求のほうを叶えようとする時に、問題性や危険性が増しますので、変化したいと思った時にはチャンスでもあるのですが、無為無策では危ないです。
同時に、状況は明らかに、どんどん悪くなっているのに、変化しないでいるのは、安心安全の変わりたくない欲求の奴隷になっている可能性が高いです。
だからと言って、変化を急激にしようとすると、抵抗の力もそれだけ増大するという作用反作用の仕組みも、考慮することです。
まあリスクが大きければ、得られるのも大きいのでしょうが、自分のタイプ(冒険に向いているタイプか、石橋をたたいて渡るタイプかみたいな傾向)を知り、人がうまく行ったからと言って自分がうまく行くとは限らないことと、その反対に、人はダメでも自分はうまく行くこともあるという、個性の把握も重要です。
マルセイユタロットからの示唆でもありますが、変化の際には、非常識を常識化していくステップも大事です。
それは情報と行動による、自分にとっての非日常化から日常化への変化と言い換えてもいいのですが、無理だと思っていること、自分の常識外のことに、自分の世界を移行させていくことなのてす。
しかも、それが安心安全の逆方向の欲求とあまりにも相反しないように(抵抗の力が増大しないように)、安心と思う部分を残しつつ、変化の過程を踏んて行くのが望ましい(冒険を好み、恐れがもともと少ない人は、それをしなくてもジャンプできますが)と思います。
このステップを踏むには、独力ではなかなができません。
安心安全保持機能により、自分の世界観が今のままで強固になっているからです。それを崩すには、安心安全部分をだませる(笑)くらいの他者の力や、自分の非常識がすでに常識になっている人からのアドバイスや助力が必要なのです。(実際に、今の自分の世界外に、その人が安心安全で存在していることを実感すれば、自分の安心安全の縛りはむしろ弱まるわけです)
マルセイユタロットにおける杖(火)の存在でもあり、剣や鷲(風)の存在の重要さでもあると言えるでしょう。
例えば、お金で言いますと、月収20万円の人が、50万になる常識の世界、100万になる常識の世界、300万になる常識の世界・・・みたいに、ある種、世界そのもの(情報空間)の認識が違うわけです。
いきなり、月収500万になるぞ、と引き寄せイメージしても、そもそもその人には月収20万円の常識世界が限界ですから、それを安定させようという知識や行動は出ますが、そこからかけ離れた世界に行くのは、ブロックがかかる(そもそも情報がない)のが当然なのです。
自分の夢と現実化というのは、かけ離れ過ぎていると、今に安定(現状維持かそれ以下に)させ、留めさせる力のほうが強く働くことが多いでしょう。
従って、変化や上昇のためには、自分の世界観を、安心安全(の欲求)に配慮し(本当はそうではないとしても)、一部でも説得させながら(笑)、徐々にステップアップ(世界の移行)を図るほうが、一般の人には有用だと考えられます。
それは、一人ではなかなかできないことでもあるのは、前述した通りです。
私たちは、マルセイユタロットていえば、「吊るし」と「愚者」を繰り返しながら、成長していく存在なのかもしれません。
映画「スター・ウォーズ」から
「スター・ウォーズ」という、スペースオペラの映画は、知っている人も多いかと思います。
現在、シリーズのエピソード9が上映されているようですね。最初の映画の公開が1977年ですから、もうかなり長い間、続いているわけです。
当時少年少女だった人も、今やおじさん・おばさんどころか、老年の域に来ていますよね。
映画に出ていた俳優女優も、亡くなっている人もいますし、引き続き出ている人も、役柄同様、年老いた存在として登場しています。
私は、結構このシリーズは好きなのですが、公開されるエピソード(物語の時系列の順ではありません)が、あとになればなるほど、全体的に話の作りと言いますか、人物描写が浅くなり、重要なターニングポイントになる心の変化の理由が、よいことであれ、悪いことであれ、至極単純と言いますか、葛藤が浅いよなあ・・・と思うことがあります。(ファンの人、すみません。でもシリーズは好きなんですよ)
まあそれはともかく、今日述べたいのは、映画「スター・ウォーズ」を例にしながら、物語・ストーリー、ひいては、私たちの人生そのものも、観点を変えれば、まったく別のものになる可能性があることです。
それは、中心の観点の違いによるわけですが、何をテーマ・課題・主題として見るのかの違いとも言えます。
スター・ウォーズの最初の頃(エピソード4とかの頃)、私はまだ幼く、知識もなく、ただ映画で見せられる内容を、そのまま受け取っていたに過ぎません。一言で言えば、エンターテイメント性で見ていたということです。
いい者側がジェダイや反乱軍で、悪者側がダースべーダーとか帝国軍、そしてそれらの戦闘シーン、特にチャンバラ(笑)としてのライトセーバーでの立ち合いなど、面白く感じていました。
それがエピソード6から、さらに時系列は戻って、エピソード1・2・3と公開されていくにつれ、私自身も大人になってきましたし、物語自体が、親子・恋人・師弟関係などの濃い人間関係が鍵となって描かれるようになりましたので、まさに、観点は「人間関係」に移り、舞台は広大な宇宙なのに、狭い範囲の、しかも感情を中心とする話に、私の中では変化しました。
機械的な兵器、戦いなど、いわば物質的なエンターティメント性(フォースの扱いという魔法的な魅力もありましたが、これもまだ見方は単なる物質的見方の延長という感じでした)から、観点は、人間関係と心に変化してきたわけで、そうなると、「スターウォーズ」という星々の争いではなく、「親子喧嘩」とか「師弟争い」みたいな、人情ものに作品が変わったように見えたのです。
そして、新シリーズ、エピソード7・8・9(9はまだ未見ですが)くらいになってきますと、物語の時代もかなり進みましたが、見ているこちら、私自身も知識や経験とともに成長してきましたので、観点は多様化され、物語を超えた見方もするようになりました。
いわば、映画は題材であり、そこから、さらに発展した考察をしていくようになるわけです。
その代表的な見方が、スター・ウォーズという物語を象徴的に見るというものです。
これは、神話はあくまで神話であって、現実とは別(関係のないこと)に扱うのではなく、象徴として、私たち一人ひとりにも、さらには、実際の社会・世界にも存在している、ある種の型・パターン・構造を述べている、とする見方と同じです。
例えば、スター・ウォーズでは、対立が入れ子構造、あるいは形の違う比喩になっていて、マクロとミクロ、外側と内側、男性性と女性性、全体と個別などが、いろいろな形で示されています。
皆さんにもわかりやすいのが、強大な力で統一(支配)を目指す帝国側と、それに反抗する多国籍軍(多星籍群と言ったほうが適切ですが)の対比で、これが、フォースを扱う、闇側と光側として、シスのグループとジェダイのグループの対抗・争いによっても示されています。
ひとつの力、ワンオーダーとも言える統一的な支配側は、規律も厳しく、カリスマを除くと無個性で機械的、しかし、だからこそ、ひとまとまりの強さや武器の開発力も持ちます。
一方、それに対抗する側は、多様性があるので、一人一人違いがあり、個性の強さを持っていますが、時に意見が食い違ったり、魔や闇に篭絡されたりして、帝国側の機械的なものに比して、いかにも人間的です。
こうしたものを見ていくと、単純に善悪、いいものと悪いものみたいなエンターテイメントで鑑賞していくことからはずれ、様々な二元構造の対立と葛藤、統合、混淆に思いを馳せ、宇宙や人間がそのような構造でできており、私たち人間がなぜ争いを続け、葛藤し続ける存在なのかにも、考えが及んでくるようになります。
そして、スター・ウォーズでは、フォースというものが、折に触れて重要視されます。
フォースは、物理的な私たちの考える力ではなく、宇宙に満ち溢れている、あるいは、万物そのものを創造する根源的なエネルギーのようなものとして描かれています。
これは、マルセイユタロットをしている者ならば、その名の通り、フランス語で「フォルス」英語のフォース、すなわち11の「力」のカードに象徴されていることだとわかるでしょう。
となりますと、タロットや、西洋魔法的な解釈や見方で、スター・ウォーズを鑑賞していくと、そこには、非常に深いものがあるのがわかります。霊的な見方ができると言ってもよいです。
また、私はグノーシスを探究している者なので、その観点からしても、光と闇の争いの描写から、グノーシス思想の型のうち、東方型(光と闇の勢力が原初から存在したという型)を見て取ることができ、象徴的に光を見ること、光を闇から回収していくことの重要性を、スター・ウォーズから、再認識させられます。
興味深いことに、グノーシス思想の東方型では、光の勢力が闇に一度取り込まれることで、世界創造の物語、すなわち、私たちという人間や、実際の世界が創られたという話があり、最後は、闇から再び光に戻ることで救済がなされます。スター・ウォーズのフォースを扱うジェダイの騎士、主人公たちの葛藤と救済に、この型を見ることができます。ちなみにマルセイユタロットでも、宮廷カードには「騎士」がいます。
このように、自分自身が成長したり、経験や知識が増えたりしていくことで、モノの見方は変わっていきます。同時に、単純なひとつのストーリーだけではなく、多重のストーリーを、ひとつのことからでも、見る(作る)ことが可能になってきます。
この仕組みは、タロットを学び、タロットの象徴性を理解し、自己の中にそれがあることを発見していく過程に似ています。
私たちは、映画などでも、作品を批判したり、評価したりします。出来不出来はやはりありますので、それは当然ではありますが、多様な見方ができるようになってきますと、観点を幾重にも移すことができますから、駄作と言われるものでもよいところが見えますし、一般的に良作とされるものでも、マイナス面が見て取れます。
そして、結局、どんなものにも自分が投影されることがわかり、言いも悪いもない次元に導かれます。もちろん、自分の好みはありますから、良し悪しや、面白い・面白くないはあっていいのです。
同時に、それを超えた見方と言いますか、上の次元に移行しますと、マルセイユタロットで言えば「恋人」から「審判」に上昇するようなものとして、世界のすばらしさ、創造のすごさに思い至るのです。
マルセイユタロット、グノーシス会の発足
先日、タロットの受講生の中で、関心のある人が集まり、グノーシスを探究する会を発足させました。
これは、私たちの学んでいるマルセイユタロットに、「グノーシス」と呼ばれる教義・思想が描かれている(と考えている)ためで、グノーシスを探究していくことで、結局、マルセイユタロットの真髄と言いますか、隠された内容も明らかになって行くのではないかと思えるからです。
まあ、グノーシスに興味のある者からすれば、その逆でもあり、グノーシスの資料・ツールとして、マルセイユタロットがあると見て、両者の関係性が逆転します。(グノーシス思想があって、その思想伝達のためにマルセイユタロットがあると見るか、マルセイユタロットを見ていくと、どうやらグノーシス関係のこともあるかもしれない・・・という程度に、あくまで参考とするかみたいな違いです)
しかし、当然ながら、タロットに対しては、いろいろな考え方・立場があり、それはマルセイユタロットにおいても例外ではありませんから、グノーシスと切り離して扱うこともあるわけです。
私のタロットの受講生の中にも、似たような傾向はあっても、それぞれ個性があり、タロットに対するスタンスは一定ではありません。
その人の興味や関心、使い方がある中で、たまたまグノーシスに強い関心持つ人、学びたい人、研究したい者同士の集まりが発足したというのに過ぎません。
私自身も、自分の中にある多数の次元や人格(これは誰でもあてはまることてす、いわばタロットカードの数だけの自分がいると見ていいのです)を尊重し、例えば、これから、占い部門とか、心理部門とか、セクションに分けたグループを作って行ってもいいかもしれないと思っています。
生徒さん向けにはなりますが、今後の学びは、多様性を持たせながら、やはりマルセイユタロットという同じ種類のタロットを学ぶ者同士の統合性も踏まえて展開していきたいと考えています、
そして一般の方にも、マルセイユタロットから得られる示唆や智慧を、もっと広く簡単な形、あるいは楽しい方法などで披露できればとも考えています。
さて、グノーシス会、どんな風になっていくのか、まだこれからのところがあります。
グノーシスについては、おそらく検索してもあまり出て来ないのではないかと思います。それだけ隠された歴史も長く、よくわかっていないところもあるのです。
一言で言えば、「認識」という言葉にグノーシスは置き換えられるのですが、それは何を認識するか?ということであり、その「何」に当たるのが、神(性)、または完全性と言い換えられるものです。
要するに、「人間即神也」「人間すなわち神なり」という、ことわざのような言葉で表すことができるのですが、これは決して、傲慢な思想ではなく、むしろ、私たちが現実世界では、なかなか自尊も持てず、様々な災厄や悩み、苦しみに苛まされることで、ともすれば無力で小さな、ただ運命に翻弄される人間という感じに対して、そこから反転・逆転ともいえる発想を持って考察されたのが、グノーシス思想ではないかと思われます。
神になってえらくなり、人や万物を支配しようというものとは真逆の発想なのです。
神になるのではなく、神であることを思い出すというのに近いです。
私たちが神(完全)であることを忘れ、何らかの原因で、この現実と通常状態の、ただの(ある意味、無力な)人間に貶められているわけです。
貶めたのは、よくある陰謀論のような話ではなく(ただし陰謀論は、物質的見方から離れると、象徴的にはグノーシスとも関係すると思います)、ひとつの考えとして、私たち自らが自分を貶めているとする向きもあります。
私自身はそのほうが見方としては合理的なような気がしています。(自らがもとは完全性の出身であるならば、今の人間である理由も必ず、完全な理由があるはずだからで、それは大いなる神なる状態の自分自身が意図したと考えたほうが理屈が合います)
グノーシス思想は、ナグ・ハマディ文書というエジプトで発見された写本などにより、古い時代の実在性や、かなり昔から流布していた思想であることがわかってきましたが、それまでは弾圧する側(キリスト教など)からの記録からが主で、よくわかっていないところもありました。言ってみれば、昔の都市伝説的な扱いのこともあったのです。
しかし、最近は、学術的な研究も進んでいると聞きます。
そうした学術的な分野は、その道の専門家にお任せするとしまして、私たちマルセイユタロティストが、今の時代に、再びグノーシス(思想)を取り上げているのは、むしろ、現代において必要なのではないかと考えているからです。
マルセイユタロットも、作られたのは17から18世紀頃と言われますが、その描かれている内容と象徴性は、数千年の歴史を持つと想定されます。グノーシス思想もその中にあります。
こう書くと、古い時代の象徴性が、今に何の役に立つのかと疑問を持つ方もいらっしゃるでしょう。
しかし、歴史は意外に不思議なもので、昔(古代)のほうが、象徴システム・霊的覚醒プログラムなどが、優れていたこともあるのです。
今の大きな宗教も古い時代にできていますが、いまだ多くの人に信仰されているところに、本質的には、霊的な力があるからだと考えられます。(しかし、弊害もあり、次第に純粋なものは失われ、形骸化していき、権力になってしまう場合が多いのですが)
あと、これは、一見、とんでも説ではありますが、グノーシス的な見地では、私たちが今のような普通の人間状態の前に、神的な人間とでもいう、次元の違う存在でいた時代が過去にあり、それが交互に入り替わって、宇宙システムとして発展していくという考えがあります。(マルセイユロットにも、それはうかがえます)
となれば、昔(あくまで人間としての地球時間単位で見た場合)に遡るほど、神に近くなっていくという、普通の時間進行の発展・成長とは反対の考えも出ます。(ただし、人間は人間としての科学技術・知識の発展は時代とともに進んできたとは言えます)
簡単に言えば、(かなり)昔のほうが、霊的な面、その全体性としての認識が純粋であったということです。
神を思い出すには、昔の象徴システムのほうか思い出しやすいわけです。
あと、今の時代は、深刻に霊性が物質化してしまっていると言いますか、端的に言えば、お金のようなものに価値の最上が挿げ替えられています。
多くの人は、生きづらさ、行き詰まり、閉塞感、何か世界が無機質で同じ感じ、乾いた機械のようなものになって行っているような感じを覚えないでしょうか?
一方で、何かや誰かに洗脳されたり、陶酔したりして、熱狂的な自分になったり、夢見がちな自分になって、現実逃避を図ったりする人もいます。
狭義の意味のスピリチュアルにはまり、それでいて、自分(だけの幸福)を求め、右往左往する人もいます。また、自分の中にある心理的なブロックのようなものをひたすら探し出し、その解除にやっきになって、ますます泥沼にはまっている人もいます。
これらは、マルセイユタロットの「運命の輪」の中にいる動物たちでも象徴されますが、アーリマンとルシファーと呼ばれる、偏った悪(魔)的構造を示唆しています。(ただそれが悪いと言っているのではなく、それに気づかず、偏った状態に固定していくことに問題があります)
現代社会は、ますます、このどちらかのふたつに傾きがひどくなり、社会全体としてはアーリマン化、個別ではルシファー化が進んでいるようにも見えます。(反対の面も言えるのですが、どちらにしても偏りです)
この傾きを是正するためには、グノーシス(神の認識、そのプロセスとして、自分の中にある二元統合)が必要とされます。
だからこそ、今、またグノーシス思想なのです。
グノーシスは、言い換えれば霊性の復活であり、また科学との統合でもあります。(グノーシスは認識であるので、“神や何かを信じる(信じれば救われる)”という信仰ではなく、冷静に物事を観察し、分析する力と、内的にも浄化・改革を行っていき、自らが気づき、神なる完全性に思い至っていくというものです、言い換えれば、自分自身を知り、自分が自分を救うのです)
グノーシスという言葉ではなくても、日本人ならば、おそらく、なじみやすい思想だと思います。
中東や西洋の国々では、一神教が力を持ち、その信仰者数もすごいものがありますが、同時に支配と権力、そのための争いも世界中に巻き起こりました。今や、一神教のベースが、世界を作っていると言ってもいいかもしれません。
ですが、昔から、その一神教的なものに対抗していた(一神教的なものから弾圧されてもきた)のがグノーシス思想です。
グノーシス思想では、一神教の神を逆に悪魔だとして、本当の神は隠されていると主張していました。あくまで象徴的な言い方・例えにはなっていますが、皮肉にも、それはなかなか、今の世界においても通じることではないかと思います。
本当の神はどこにいるのか、ここまで説明してくれば、もうわかると思います。
グノーシスはその神を再び見つけ出し、世界を変革する(あるべき姿に戻す、次元の上昇を起こす)思想・教義なのです。