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悩み、苦しみの救いの段階・ルート

苦しい時、悩んでいる時、人はまず自分で考えます。

しかし、たいていの人は耐えきれず、身内や親しい人、友人など身近な人に相談するでしょう。

また専門的なことは、まさにその道のプロに相談したり、対処してもらったりします。

しかし、それでもどうしようもない時、または、現実的にはどうにもならないと自分が思ってしまった時、最後には神や仏様に祈る、文字通り、神頼みをするかもしれません。

これは信じている宗教とか信仰に関わらず、日本人ならば、自然にやってしまうところがあるのではないでしょうか。

さて、こうやって見てきますと、人は、自分の危機において、自分頼み、他人頼み、最後は、神や仏のような、超越したものに頼ってしまうという流れ、段階があるように思います。

もちろん、一律に皆がそうなるというわけではありませんし、段階においても、途中で、神がかりな人とか、人間離れした能力者に頼る、最近ではAIやネットの情報に頼る(笑)というのもあるかもしれません。

それでも、多くの人は自分の問題を自分だけで収めてしまえるほど強くもないですし、逆に言えば、自分だけに抱え込まないからこそ、救いがあるのだと考えることができます。

自己責任という言葉が暴力的に唱えられるところもありますが、人間、何でもかでも一人できるものではなく、まれに強い人もいますが、一人では弱い存在でもあります。

注意しなければいけないのは、問題や悩み、困難状況に対する精神的な負担への思い、実際の対応能力には、個人差と言いますか、個性があるということです。

まったく同じ条件の悩みであっても、Aさんにとっては、まあ、ちょっと大変だな思う程度かもしれませんが、Bさんにとっては、死ぬほどつらいことなのかもしれないのです。

それをもって、Bさんは情けない、自己責任だから自分で何とかしろ、というのは酷だと思います。

もちろん、明らかに甘えすぎであるとか、嘘をついているなどのことがあれば問題ですが、まじめにやっているのに、つらい、苦しいというのは、平均を取ったり、皆と比べたりするのではなく、その人個人の苦しさとして受け止めてあげたほうが、その人にとっても救いとなるでしょう。

特に人の相談をするような人は、当然わかってはいることでも、この「相手の立場になって考える、共感する」ということが意外にできない人もいます。つまりは自分とか、イメージ上の常識集団の感覚で見てしまうのです。

さて、話を戻しますが、やはり、先ほどの、「悩みや苦しみをどのように解決や処理していくのかの段階」で言いますと、自分だけですべて完結できる、解決できると思い込むのは危険だとわかります。

それができる軽度の問題・悩みならいいのですが、悩むということは、もう自分ひとりのレベルや経験・知識では難しいということもあります。

よって、次の段階には、他人に相談することになります。

そして、一人ひとりが、まさに「一人」で苦しまないないよう、相談できる仕組み、システム、社会の雰囲気が重要であるとも言えます。

自分の次は他人へ相談するという流れがあるのですから、この「他人」の部分を、社会的にもっと拡大したり、充実したりすればよいのです。

人類の集合知と言いますか、誰れもが相談でき、相談を受けて、一人一人の悩みを解決する雰囲気の醸成、困ったことをお互いで解決し合う社会的常識を作り上げるわけです。

専門家が必要な時は、それにつなげるルートや仕組みも充実させます。いわば、共助・公助の部分を厚くしていくことと言えるでしょう。

マルセイユタロットで言えば、誰もが「節制」の天使になると例えてもよいです。

しかしながら、これでも、最後は神頼みという段階もあるかもしれません。

ここで、実際に神様がおられるとか、神様の力が発動させれるとかということを議論したり、言ったりするのではありません。

神様や仏様に頼る、祈るという、別の救いの段階、悩みや問題の軽減ルートがあってもよいと語っているわけです。

その仕組み・理由を説明しましょう。実は、このことは結構、秘儀に近いことで、タロットの霊的技術にも関係します。

私たちは神仏など、超越的なものに祈る時、神社とか仏閣などに行きます。そこに行けない時は、自宅の神棚、仏壇などに祈ることもあるかもしれません。

こういうものがない人でも、手を合わせて神仏に祈ったり、心の中で、何か言葉・マントラなどを唱える方もいるでしょう。

いずれにしても、その瞬間、日常ではない感覚になっているはずです。その非日常感が、自分と神仏などの超越的存在とをつなげるのです。

そういう意味では、非日常的空間にいるほうが、超越的なものと感応しやすい可能性があります。少なくとも、祭壇などがあったほうが、雰囲気が出やすいわけです。

そして、実は、神仏は、外にいる(在る)のではなく、自分の中にいる(在る)のだということです。

つまり、祭壇や社などは、仕掛けというか舞台演出のようなものだと思えばよいでしょう。

そういう仕掛けがあるからこそ、自分の中の、祈りに呼応した神仏的なものが現れるのです。(現れやすくなる)

神に祈って、実は自分に祈っているようなものです。

とはいえ、人は弱い存在だとも言いました。

ところが、反面、神性や仏性もあるのです。それが普段、日々の事象に悩む弱き人間としての部分がほとんどを占めてしまうので、なかなか表出して来ないわけです。

そのために、日常と切り離す、非日常的な仕掛け、舞台演出がいるのです。

こうして祈ることで、自分の強さが出て、私たち自身が奇蹟のようなことを起こす可能性を秘めています。

自分→他人→神仏(超越存在)と来て、最終的には→自分となって、結局自分に戻るのです。

人は救ってほしいと思った時に救われているというのは、このようなシステムがあるからと考えられます。

世の中はうまくてきています。

まずは自分として悩み考え、他人に救いを求め、ひとつの救いがなされると、他者を救いたくなるようになり、それでも難しい時は、神仏を頼りますが、その過程で、自分の中にある神や仏と出会うようになるわけです。

神仏に祈る時は、結構、大変な時でしょう。中には、祈ったところでどうにもならないことを自覚しながらも、仕方なく祈るという場合もあるかと思います。

そう、神仏に頼る段階では、結果は不明確で予想もつかず、そうそう奇跡が起こるわけではないのは承知のうえです。

だからこそ、一種の諦観と言いますか、悟りのような気分もやがて生まれてくるのだと思います。

その時、悩みはあっても、消えている感覚を持つ人もいるでしょう。それが奇蹟なのかもしれません。

この世は確かに悩み、苦しみの多い世界です。(そう思えない人もたくさんいて、それはそれでいいことです)

ですが、同時に、助けや救いも多いのです。自分を救いたければ、他人が救えるような社会に、皆で少しでもしていくことだと思います。

また霊的には神仏が救いをもたらし、それが結局は自分だったと気づくことがあるでしょう。

弱さ、強さを旋回しながら、私たちは、霊・魂の中心を磨き、存在として高めているのだと感じます。

そして、マルセイユタロットには、こうしたことを覚知させる智慧が隠されているのです。


タロットの組み合わせを入れ替える

タロットの展開法、いわゆるスプレッドというものは、いくらでもあります。

もちろん、伝統的・代表的で、広く知られている基本のようなものもあるのですが、今この時でも、自分のオリジナルなものを発明している人もいるかもしれず、しかも、タロットの種類によっても違うものがありますから、それこそ、無数にあると言えるでしょう。

展開法にとても重要な意味を置く人と、ほとんど重要視していない人が、タロット使いの人の種類として存在します。

私の立場・考えで言いますと、ある展開法にはこれでなければならないという強い思い入れや展開法のルールを順守する姿勢があるのですが、一方、展開法・スプレッドは、実はなんでもいいという思いも同時にあります。

タロットは一種のゲーム(お遊びとかの意味ではありません)として考える部分があり、ゲームにはルールが必ずあります。

そのゲームのルールを途中で変えることはタブーと言えます。ただ、ゲームをしている者たちの間で了解が取れれば、途中変更もありですが、しかし、ゲーム自体を成立させているルールの変更は問題です。

スポーツで言えば、例えば、サッカーをしていたのに、これからはバスケのルールにしますね、では、まったく違うスポーツになります。

これが、サッカーで最初は11人制でしていたけれども、人数が集まらないので(やる人が減るので)、5人までというルールで、ゴールとフィールドも狭めたものに変えましょうか?というのは、双方のチームが了解ならば可能ですし、サッカーという本質のゲームも変わっていません。

タロットの展開法の適用も、つまりは、そういうことです。

そして、タロットでのセッション、リーディングの目的が、クライアントの問題解決やアドバイス、癒し、気づきに導くことにあるのなら、それができる(目的が達成できる)ものであれば、タロットの展開法など何でもいいということになります。

さて、前置きが長くなりましたが、私は、展開法は結構、オリジナルや自由でやるのが好きなところがあります。(セッション・リーディングでは、ある決まった展開システムとルールのもとで、厳格にやることが多いですが)

そんなもののひとつには、カードを数枚引いて、すべてを自分(または問い)の象徴と見て(まあ、タロットとはそういうものですが)、いろいろとその出たカードを並び替えてみるという方法があります。

この方法を行う場合、一枚だけだと、正逆の位置くらいしか入れ替えができませんから、まずは最低、二枚のカードは引かねばなりません。

ですが、二枚では情報量として少ないと言えますから、やはり3枚を基本として、慣れれば5枚くらい増やして行けばよいでしょう。

正逆は取らず、正立だけで見ます。(すなわち、いい悪いを含めて、あるいはそれらを超えて、そのカードそのものの象徴総体として意味を取るということ)

シンプルに見たい時は3枚、もう少し深く見たい時は5枚という感じでしょうか。

本当はテーマを掲げずに、ただ引くだけでいいのですが、テーマをあえて最初に設けてやっても構いません。

では、ちょっと例示してみたいと思います。

今、皆さんの関心としては、新型コロナウィルスのことがあると思いますから、それをテーマにして5枚引いてみましょう。

引くカードは大アルカナ22枚の中からとします。

では、私が引いてみます。

はい、出たカードは、マルセイユ版の私が使う名前の言い方で述べますと、数の小さい順から、1「手品師」、3「女帝」、14「節制」、18「月」、20「審判」でした。

今は数の順で挙げましたが、これらは実際にはバラバラに引いて出て来たもので、それを並べ替えをして観察します。

マルセイユタロットをお持ちの方は、自分でもやってみてください。

並び替えは、引いたカードを裏向きにしてシャッフルして整列させてもいいですし、自分の感覚で、表向きのまま、なんとなく並び替えてもいいです。

図像を見ないように裏向きにシャッフルしてやったほうが面白いかもしれませんが、あえて図像を見ながらのほうでも気づきがあります。

今回の例としは、「新型コロナウィルス問題」としてのテーマ(問い・大テーマ)がありましたが、カードを引いたあと並び替えをする時に、もっと具体的テーマ(小テーマ)に絞って、さらに小テーマごとに、入れ替えて見ることも可能です。

「ウィルス問題」を大テーマとして、「今後どうなるのか?」という小テーマで並べ替え(シャッフルして出す)てもよいですし、「今自分にできることは?」でもよいでしょう。ほかにも、「自分はこの問題をどのように見たらよいのだろうか?」というもので、やってみるのもありです。

事例は、皆さんが気にしているテーマにしましたが、もちろん、自分特有のテーマ、問題(問い)にしても使えます。

そして、先述しましたように、テーマも問いも決めずに、ただタロットを数枚引いて、いくつかのパターンに並び替えて見ることで、自分に気づきが起こることはよくあります。

並び方も横一例にきれいにする方法もあれば、ある図形になぞらえたり、ランダムに、自分の置きたいところに置いたりするというのでもよいです。

何回かやっていると、不思議なもので、数枚のカードのそのカードたちにおける組み合わせは(枚数にもよりますが)たくさんあるにも関わらず、なぜか、「これだ!」「この展開(並び)だ!」と思う、唯一のものがわかるようになります。

たぶん、その並びこそが、あなたに対して、あるいはテーマにとって、今タロットが告げたいことなのでしょう。

出た(選ばれた)タロット自体に強い意味があると考えられるうえに、さらに、並び替え、組み合わせにおいても、確かなメッセージ性やインパクトを残すのなら、それはやはり特別な意味があると考えるのが、タロットでは妥当かと思います。

自己リーディングでは客観的になれずに、難しいところがあるのですが、この方法だと、意外にタロットを俯瞰して見ることができ、普通に問いを思って、自分でタロットをある展開法によって引いてリーディングするより、読みやすいかもしれません。

実はリーディングの練習にもなりますので、興味のある方は、ぜひ一度、やってみてください。


占いへの受動と能動

タロットのリーディングは、たとえ同じ展開や引き方をしても、様々な階層・レベルに読むことができます。

それが象徴の働きというものです。

これは、方向性によっては、読む側、タロットを見る側の意識に左右されると言えます。

つまり、それは、私たち自身に、多様な階層・レベルの意識存在があるからだと見ることも可能です。

これはまさにタロットで示されている人の可能性・向上性の部分や、反対に人の悪魔性とか堕落性も認められるわけで、私たちは、どの意識(存在・生き物)になってタロットを見るかによって、タロット自体が姿を変えてくれるのだと言うこともできます。

さて、そんな多様な意識、見方のひとつに、受動的に見るか、能動的に見るかという違いがあります。

受動的に見るというのは、ただタロットの意味や感じたものをそのまま受け取る、あてはめるというもので、能動的に見るのは、タロットから意識的、あるいは意図的に、ある目的のために行動指針や精神、変革の方向性、解決策をアイデアする、創造するというようなものです。

前者は占いの観点に多く、後者はセラピーとか問題解決的な読み方でよくある見方かもしれません。

私が講座で教え、勧めているのは、後者なのですが、しかし、前者が必ずしも悪いわけではありません。

人の心理と言いますか、人情には、この先どうなるかを見たい、自分ではわからないことを、目に見えないことをただ教えてほしいというものがあるからで、そのような依存心はいわば誰でもあるものです。よく言えば、危機回避能力のひとつかもしれません。

依存ではなくても、情報がたくさんあるに越したことはない(これも必ずしも、そういうわけではないと思いますが)という考えもあり、自分ではわからない情報なら、とにかく手段を選ばず、知りたいという人もいるでしょう。

そもそも、情報がなければ動きようがない、対策のしようがないということもあるのです。

それで、さきほど、タロットの受動的な見方・読み方として、代表は占いであるようなことを言いましたが、その占いにおいても、活用で考えれば、受動的に取るか、能動的に情報として入れるかの違いがあると言えましょう。

占いを能動的に見る場合、ただ占い師とかネットや書物の占いを、そのまま受け入れ、吉凶、運命的に見てしまうようなことです。

これも別に悪いわけではなく、先述したように、知らないこと(単独では知りようのないこと)を純粋に知りたいという人の思い、何かの不安や危機状況を、少しでも和らげるため、占いに頼りたい・・・という人の心理があり、それで落ち着いたり、ほっとできたりすればよいわけです。

ですが、これには危険性もあります。

もし、占いが悪い結果とか、悪い方向性を示していれば、ただ占いを受け取るだけの形の人では、余計不安になることもありますし、前にも書いたように、ネガティブな情報が自分の中に刻印されて、それを実現させてしまうというメカニズムが働き、占いを当てようと自分自身が演じることもあるわけです。(ポジティブなものより、ネガティブなもののほうがインパクトが強く、潜在的に残存しがち、信じてしまいがちなところが、普通の人にはあるからです)

また、受動的な見方ばかりでは、運命論に支配されやすく、周囲からの影響も、悪い意味で受けやすくなります。言ってみれば、人のいいなり、洗脳されやすい体質になるわけです。自我を失いやすいとも言えるでしょう。

自我・エゴをなくしましょうという、スピリチュアル系の人もいますが、それも段階、個人の状況によります。

いきなり自我をなくそうとし過ぎると、簡単に洗脳されやすい、人に操られやすい状態になってしまいますので、まずしっかりとした自我を持つことが自己成長の意味でも重要になります。

そうしないと、マルセイユタロットの「悪魔」のカードに象徴されるように、強烈なカリスマ・個性を持つ人によって支配されたり、魅了されたりして、自分を失うことになります。(「悪魔」のカードの、ひもでつながれた人々になる)

以上のようなことで、占いを利用するのでも、能動的にしたほうが、結局は自分のためになる気がします。

能動的な活用は、占いをあくまで“一情報(ひとつの情報)”とみなし、自分の問題やテーマを分析・解決したり、目標達成を目指したりするための支援情報・過程とするということです。

この場合は、〇〇運はどうか?などの、漠然としたものを、占い師に見て(診て)もらったり、自分で見たりするのではなく、もっと目的を絞り、何をどうしたいのかを具体的に絞り、それを「お題」「問い」として、見る、見てもらうのがよいのです。それが能動的な占いへの活動、活用というものです。

最初から絞りにくいかもしれませんが、自分が注目したもの、フォーカスしたものに、周囲、いや、もっといえば世界そのものが合わせてくるようなことになると言われますから、何かをしたいのであれば、その何かを具体的に、細やかに、リアリティもって意識すること、イメージすることが、よく言われるように、やはり重要なのだと思います。

漠然としたものには、漠然とした効果しかないのです。

タロットリーディング、タロット占いにおいて、その質問をはっきりさせたほうがよいと言われるのも、この理由が、ひとつにはあるからです。(しかし、高度なタロットリーディングになってきますと、質問はかえって具体的過ぎないほうがよい場合もあります)

タロット好きな人には、占い好きな人も少なくないでしょう。

占いの受動、能動の違いは、別の言い方をすれば、占いを頼るすべてとか、支配する情報としてしまうのか、あくまで情報の一部とするかの違いであり、占いを王様にするのか、自分自身を王にするかの違いでもあります。(マルセイユタロットの「王冠」の象徴に注目してください)

どの道、占いをやるのなら(やってもらうのなら)、受動的な態度ではなく、能動的に活用したほうがよいです。受動的な見方は、遊び的、当たるかどうかを競うものなどとしてエンターテイメント的なものと割り切ると、それはそれで楽しめます。

結局、自分の人生をよくするのも悪くするものも、その多くは、自分の意識と行動次第なのでしょう。

占いやタロットをうまく活用できるかどうかも、まさに、あなた次第なのです。(ただし、その活用方法自体の情報・知識は必要かもしれませんが)


カードによる選択基準

悩んでいる時に、指針や線引きとなるもの(考え方)にはいろいろとあると思いますが、タロット的にも実はたくさんあります。

言ってみれば、全部のカードにルールや意味があって、その基準によって選んだり、分けたりすることも決まってくるくらいです。

であれば、迷った時に、カードを引けば、そのカードの基準でやればよいのだということがわかります。

ここが、タロットが選択に使える理由のひとつとなります。

ただ、この方法の場合、あまり、カード(の枚数)を引き過ぎるより、シンプルに一枚とか、数枚に留めておくほうが、かえってわかりやすいです。

もちろん、タロットによる選択や決め事の方法は様々にあり、たくさん引いたほうがいいこともあります。また選択肢ごとにタロットを引くやり方もありますし、それはそれで、面白い方法となります。

ところで、そういう、タロットのルールや意味合いにおいて、物事の選択基準とすることで言えば、例えば、「戦車」とか「」のカードに関係する(と思われる)基準があります。

新型コロナウィルスの問題がある今の状況などは、まさに当てはまるかもしれません。

それは、自分ができることとできないことを分ける、いわば、力のコントロール範囲を見極めるというこです。

自分では力が及ばない、コントロールできないことと、自分ができることを明確に見極め、自分のできないことに注力しても無駄ですから、自分が確実にできることに集中するというものです。

新型コロナウィルスのワクチン開発や、国全体しての防疫システムの構築、はたまたウィルスそのものを撲滅することは、あなたが医者や関係者でなければ、普通の人、一人の力と範囲では無理でしょう。そのことに心配や関心はあっても、実際にはどうすることもできません。

そして、自分の今の状況と力で、できることは何か、肝心なのはこちらであり、これを疎かにしないということですし、できるのはそれしかないという割り切りと冷静さを保つことにもなります。

いろいろと大きなこと、自分ができないことに悩んでいても、疲れてしまうだけですし、自分がコントロールできないことにエネルギーを注いでも、非効率、実効がないわけです。

このようにタロットカードからの導かれる選択基準によって、物事や自分の行動について、決めることができるのです。


社会情勢のマイナス・プラスと見出される意味

2/2に、新型コロナウィルスの記事を書きました。

占い的に見れば、それほど悲惨にはならないと思えるタロットの展開ではありましたが、注意書きしたように、それは対策・対処によって変わってくることも示唆されていたことも付け加えていました。

現状、どうも懸念されていた方向に進み、いよいよ、二次感染、三次・四次感染と思われる人たちも現れ始め、広くウィルスが拡散されているニュアンスが濃厚となってきました。しかし、これはほとんどの人が、世界の情勢、日本政府・行政の対応を見ていれば、予想できたことではないかと思います。

感染者が発見されてきたのも、中国武漢などの渡航関係者、濃厚接触者以外に検査の範囲が拡大してきたからと言え、つまりは、すでにウィルスはかなり前から広まっていて、一般向けに、ただ検査や調査がされていなかっただけということになります。

検査キットの製造問題、不安やバニックを避ける意味合いなどあっての措置だったとは思いますが、正確な情報とその公開、迅速な決断が逆にパニックを抑止すると考えられますから、隠蔽とか下手な忖度、気遣いは、かえって悪手となりかねないと思います。

こうなりますと、私たちも、ウィルス問題が次の段階、フェーズに入ったと認識し、それなりの対応と精神が求められてきます。

ウィルスの拡大と感染の危険ということそのものも、大きな不安と問題ではありますが、日常の活動が抑制され、全体的に引きこもり傾向になってしまうのも、いろいろな意味で問題だと言えます。

しかし、2/2の記事でも書いたように、このようなマイナス面にも、必ず、それに見合うプラス面があると推測することができます。

まず、当然ながらウィルスへの対抗策が医学的にも進まざるを得なくなりますから、医学の進歩、ウィルスと防疫に関する実践的な知識と経験も増え、今後に必ず役立つはずです。仮に、まことしやかにささやかれる生物兵器や人工ウィルス説だとしても、それに対する善なる力の増大・対策も出てくると思います。

また、日本では、熱があっても仕事に出るなど、あまりにも奴隷のような働き方が普通に行われていて、このような労働と環境の常識観念が大きく変化して、覆っていく可能性があるでしょう。私の公務員時代でも、熱が39度もあるのに出勤して、残業までして頑張っていた方がおられました。いくら仕事とは言え、こうなってしまう日本人の心、労働環境・仕組みは非常識ではないでしょうか。

すでに進みつつあった在宅ワーク・テレワークということも、これを機に、最初はやむを得ずの形からであっても、やってみれば案外うまくできてしまい、今後、当たり前になっていくことも予想されます。

あと、生活においても、引きこもりは、悪いことばかりではありません。

仕事が在宅ワークになり、外での活動が控えられるようになると、家での時間が増えることになるでしょう。

ということは、それだけ家族とか自己に向かう人も増えるわけです。ここで家族との関係を見直したり、温め直し、絆を深めたりすることもあるでしょうし、自分自身と向き合い、自己研鑽や自己学習に集中することもできるでしょう。

中には、精神的な学び、霊的なことへの関心に向かう人もいるかもしれません。

そして、一度内に向かった目で、再び外を見れば、これまで普通に思ってきたこと、常識だと疑いもしなかったこと、ただ惰性で毎日流していた日々のことを、違った目で見られるようになるはずです。

マルセイユタロットに流れる教義で言えば、グノーシス(自己の神性の認識)に目覚めるきっかけとなるかしもれません。

これまでは、自分を世界(環境)に合わすことができず、ただ無理にでも合わせる生き方をしてきたかもしれません。またお金とか他人の評価ばかりを気にして、それが自分の価値の重要なものとして思い込まされてきたこともあるでしょう。

しかし、ひとたび、自分の内なるものに向かえば、おかしいのは、常識と思っていた「みんなの」世界のほうで、自分本来は何もおかしくはなく、むしろ、違和感を持っていなかった自分のほうが変であったことに気づくでしょう。

2/2の記事でも少しふれましたが、すでに、皆さんも、このことには気づきはじめていると思います。

人が人として尊重されない世界、これが今の現実(実はずっと続いていた世界観、世界のルール)でもあるのです。

別に陰謀論に加担したり、世界が悪い!とひねくれたり、するのではありません。

言いたいのは、人として本当の自分、人間(いのち・調和)というものを大切にしていくことを主としていくのであれば、こんな今の世界のシステムにはならないだろうということです。

だからと言って、過激な社会運動をしましょうというのでもありません。

一人ひとり、本来の自分に戻る機会が、このような危機的なことで、実はやってきているのだということです。

日本の場合、本当はあの東日本大震災と原発事故の際に、大きく転換する必要がありました。

その可能性はかなりあったと思いますし、それだけの犠牲があった危機と事件でした。

その犠牲を、私たちは、再び、真に思い起こす必要があります。新型コロナウィルスで犠牲になる人を少なくするためにもです。

犠牲による変革は、古くからの宗教的な型です。

昨年、新海誠氏のアニメ映画「天気の子」が公開されましたが、新海氏の意図かどうかはわかりませんが、犠牲によって望むことや変革を期待する精神構造からの転換、一人一人の自らの気づきによる次元の上昇・ステージへの移行が示されていたように感じました。

あれも、長期の尋常ではない雨降りという、“異常な事態”を設定にしていたものです。

今回の新型コロナウィルスのことも、霊的にはやはり、何かの示唆であるように思います。

ちなみに、コロナという名前はウィルスの形が王冠とか太陽のコロナみたいなものなので名づけられたと言われますが、太陽は自己の本質を示すとされ、ひとつの時代とバージョンの象徴でもあります。(太陽系という、ひとつの世界の象徴にもなる)

マルセイユタロットでは「太陽」のカードは、アルカナナンバー19であり、奇しくも、今回の新型コロナウィルスは、2019年から発生流行したということで、COVID-19という名前になり、19の数が当てられています。これは常識的には単なる偶然でしょうが、見えない世界、霊的な示唆としては、何か意味があるのかもしれません。

しばらく事態が落ち着くまでは、大変だとは思いますが、だからこそ、内に向かう時間で、皆さん、何か重要なことを思い出していただければと思いますし、社会がよい意味で変わっていくきっかけになってほしいものです。


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