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タロット内の区別とレベル

タロットの種類は、今では数えきれないほどあると言われます。

しかし、古典的と言いますか、昔からあるタロットは、78枚を一組にして、大アルカナと小アルカナというパートにわかれた構成になっています。

正直言いまして、個人的には、この構成になっていないタロットは、タロットとは言えないものと考えています。

いや、この構成からはずれる古いタロットも多いので、そう言ってしまうのも問題かもしれないのですが、あくまで「象徴システム」として使うタロットという意味では、と断っておきましょう。

さて、先述したように、タロットの中には、大と小のアルカナという、一組の中でも、一種の異なるカード同士が組み合わさっているわけです。

当然、そのふたつの違いも出てきます。一般的なタロットリーディング・占いにおいては、この大アルカナと小アルカナを、やはり区別して読むことが多いです。

たいていは、大アルカナが全体的なこと、本質、方向性などを表すのに対し、小アルカナは具体的なこと、現実的判断、詳細な方法などを示すというようにされています。

ただし、流派とか先生によっては、そのような分け方ではないこともあります。

今回のテーマは、大アルカナと小アルカナの違いということではなく、それも含めての、タロット一組の中での差異とか区別のことなのです。

私の扱うマルセイユタロット講座では、カードに良いも悪いもなく、すべて平等の価値で見ていくことを勧めています。

それでも、大アルカナと小アルカナの区別はします。

とは言え、よくあるような単純な区別ではなく、大アルカナと小アルカナの密接な関係性と、そのレベルや次元をきちんと説明しての区別なので、私の講義においては、この両者の使い分けとか扱い・読みに、受講者の方が、その考え方において混乱することはないです。

巷では、特にマルセイユタロットの小アルカナの扱い、読みが雑なところが結構あるようで、そもそも小アルカナが教えられなかったり、ほとんど使う必要がないと言われたりすることもあるようですが、それは非常にもったいない話です。

それはともかくとして、特にマルセイユタロット以外のタロット種では、大アルカナ・小アルカナの違いだけではなく、例えば、大アルカナ中においても、カードの良し悪しとかクオリティを区別してしまうケースが見受けられます。

それが悪いわけではなく、むしろ良いこともあります。何事も両面あるものです。ですから、逆を言えば、良いこともありますが、悪いこともあります。

よくあるのは、大アルカナカードに吉凶の色付けをするものです。簡単に言えば、「これが出るとよい意味、これが出ると悪い意味」というような、おみくじ的なカードそれぞれを区別する見方です。

確かに見た目的に、怖いカードもあれば、明るくなるようなポジティブなカードもあるので、そうなってしまうのもやむを得ないところでしょうし、タロットは絵のカードなのですから、ある意味、感性に素直(正直)な見方なのかもしれません。

また、こういう区別をすれば、とてもカードの解釈がわかりやすくなるという面があります。質問に対する答えとして、いい・悪いが一目瞭然だからです。

しかしながら、「物事の良し悪し」を問う質問にはいいかもしれませんが、事態の改善(解決)や、本質的な答えとか意味を見出そうとする時、もっと言えば、霊的な成長を求めようという場合には、かえって答えがわかりづらくなるという欠点もあります。

「どうすればいいか?」の質問に、それは悪いです。それはいいです。の答えのパターンでは機械的で困るわけです。

まあ、自分が改善策をいくつか案として持っておいて、それを次々とカードに良し悪しで問うていくという方法ならば、答えが出ないわけではないかもしれませんが。

ですが、そもそも改善策とか解決策の案が思い浮かばなかったら、良し悪し判断を問うことすらできません。これが大きな問題と言えましょう。

それに、極端に言えば、吉凶・良し悪し的には、別にタロットでなくてもよく、数個の棒とか、コインの表裏とかでも占えないことはないです。

せっかく大アルカナだけでも22枚もあるのですから、これに吉凶的な価値をつけてしまうと、22もの良し悪し判断があるということで、複雑すぎて使いにくくもなりますし、吉凶だけに使うのは、カードの持ち腐れ(笑)と言ってもいいでしょう。

まあでもゲーム的に、例えばよく言われるような、16番「塔」とか13番「死神」(マルセイユタロットではそういう呼び名はしませんが)とかのカードが凶札だとすると、たった二枚の凶札を、22枚の中からわざわざ選んだということは、相当恐怖の代物になって、占いとしてはインパクトがあるかもしれませんね。

エンターテイメント的なホラーゲームならいざ知らず、怖がらすためにタロットをやっていては、あまりいい使い方とは言えないように思います。

それで、こういう吉凶的な区別ではなく、レベル(と言っても、これも単純な高い低いというわけではないのですが)で分ける方法もあります。

よく知られているのは、大アルカナの場合は、数が増えるほど高度なレベルになっていくというもので、小アルカナも宮廷カードと数カードにおいて、レベルの順をつけていくことがあります。

この場合、注意すべきは、吉凶(良し悪し)とレベルの順は異なる概念だということです。これを一緒にしてしまう人がいるので、問題なのです。

レベルが高いと言っても、決して悪いという意味ではなく、その反対に、レベルか低くても、悪い・凶的な意味ではないのです。

人間とか世界(宇宙を含む)には、様々なレベル・次元があり、確かにその高い低いはあるとは考えられますが、レベルに応じた状態ということもあり、その差があり過ぎると、かえって害になったり、受け入れられなくなったりするのです。

言わば、本人や状況に適切なレベルがあるということです。

タロットカードの大アルカナと小アルカナの区別も、実はそうしたレベルの違いとも言え、そして今述べたように、大アルカナの中にも、小アルカナの中にもレベルがあると考えます。

そして、他人へのリーディングや、自己の活用において、そのレベルを意識する(設定しておく)ことにより、うまい使い分けや応用が可能になるのです。

病気治療でも、劇薬もあれぱ、穏やかに効く薬もあります。それはその人の体力とか状態、環境などによるでしょう。

同じように、ある問題とか課題があるとしても、それは人それぞれに対応が異なってくると考えられます。

その一つが、タロットのレベルの違いを考慮するということなのです。ですから、カードは普遍的でありながら個別的でもあるのです。

たとえ、全く同じカード、展開が出たとしても、人や状況によって読み方・とらえ方は異なります。

ただ、レベルというものがわかっていないと、それもうまくできません。

タロットを手にしたあなた、あるいは、これから学ぼうとするあなたは、タロットを吉凶おみくじ的に、物事の良し悪しを見る道具にしていくのか、様々なことに活用できる優れた象徴ツールにしたいのか、考えてみるとよいでしょう。

私のところの講座は、もちろん後者です。


人からタロット、タロットから人

今日のは、前回の記事にも関係するものです。

以前、「質問(問い)なきタロットリーディング」の話をしました。

これは、あえてタロットに質問や問いをすることなく展開し、その展開された内容から、逆に自分(クライアント)が問いたかったものを見つける(知る)という性質のものです。

普通のタロットリーディングとかタロット占いは、質問することがあってからカードを引きます。そして、問いとカードの意味を照らし合わせて解読したり、占ったりするわけですが、その逆方向のスタイルが、問い(質問)なきリーディングと言えますね。

ところで、タロットカードの読みにはいろいろな方法がありますが、方向性で分けると、人からタロットの方向性と、タロットから人への方向性のふたつがあります。

このうち、人からタロットというのは通常のスタイルで、先述したような、問いとかテーマがあって、それをもとにカードを展開したり、引いたりする方法です。

もうひとつのタロットから人への方向性は、問い・テーマなしで、タロットを引いて、タロットが示すものを人が受け止めるという方法になります。

そして、このふたつの方向性は、問いのあるなしに関わらずに存在します。

それは、普通のカードの読み方である、出たカードの意味を問いに重ね合わせるという方法と、リヴィジョンと呼ばれる、タロットカードが呈示するものをもとに、問いやテーマを見ていくというふたつの方法です。

実は、タロットリーダーにも、このふたつの方向性のどちらかに、向き不向きがあるように思います。

タロットを人格(人間)的に、より扱える人は、タロットから人への方向性が向いており、その逆に知識や理論が好きな人は、人からタロットの方向性が合っているでしょう。

さらに言えば、直感性や受動的なスタイルで、タロットからインスピレーションを得る人、チャネリング傾向を持つ人は、タロットから人への方向がよく、反対に、読む人間が主体性を持って、コーチング的にアドバイスをしていくようなスタイル、または占いで、カードよりも占い師の言葉(の解釈)にインパクトや特徴を持つタイプは、人からタロットの方向性が向いているでしょう。

もちろん、シチュエーションにより、方向性を変えて、両方技術として持っていてもよいです。

スタイルに向き不向きがあるとは言いましたが、あえて、自分が合っているものとは逆のやり方を時々採用したほうが、タロットリーディングにおいても、自身の統合を働かせることができます。

特に、普通は、人からタロットへの方向性で読む人が多いので、その反対の、タロットからの声を聴くようなスタイルを意識してやってみてもよいでしょう。

その場合、問いとかテーマは、あまり強く意識しないほうがよいです。

重要な案件とか、問題としてとても意識しているような時は、どうしても、問いを強く設定してしまいます。

例えば、恋愛の問題とか、仕事(職)での転機とか、人間関係で困っているというなケースは、問いを意識しないわけにはいかないでしょう。

ですが、それでも、あえて問いから少し離れ、とにかくタロットカードを引いてみることです。一枚引きくらいの少ない枚数でも構いません。

そして、こういう方法(タロットから人への方向性)を取る時、大アルカナを使う(マルセイユタロットの場合)ことをお勧めします。大アルカナは絵柄がはっきりしているので、タロットからの意思を感じとりやすいからです。

例えば、マルセイユタロットの「13」が出たとします。

通常は、問いに対して、この13の意味をあてはめたり、図像のどこかを関係させたりして、読み解きます。

しかし、タロットから人への方向性だとタロットが主体ですので、問いやテーマはひとまず置いておき、カードの印象とか、カードそのものを人間のように見立て(人格化し)、まるでカードがしゃべっている、あるいは何か動きをしているようにイメージします。

まさにカードとの対話と言ってもいいですし、カードが、舞台に出て何か演目をやっているように見立ててもよいです。

そうすると、自分の中にカードの声とか動きが伝わって来るような気がします。

そのカードがどんなことを言っているように思うか、どんな動きをしているように感じるか、何をあなたに告げようとしている気がするか、そんなようなことを感じて(想像して)みます。

それは、カードにセリフを言わせるような感覚でもあります。

13のカードは、なかなか強烈な印象を一般的には与えますが、人からタロットへの方向性だと、無理してポジティブな意味を(人が)捉えようとしてしまうこともあります。

しかし、タロットから人への方向性では、タロットから来る怖いという感じがもしあれば、その印象をそのままにしてその怖さをもとに、13と会話してみるのも一興です。

「おれが怖いのか?」と13は言って来るかもしれませんが、その(会話の)続きは、自分が思っていたより面白いことになるかもしれません。

また人によっては、怖さとはまったく違う感覚とか言葉を、あなたは13から聴く(感じる)こともあり得ます。

最終的には、タロットとの会話の結果、実は問いの答えになっていたとか、問いへの大いなる気づきがあったとかになることがあります。

さらには、通常の、人からタロットへの方向性のやり方の場合と、同じ答えになることもあります。

要するに、これはルートが違うだけで、本質的には同じものなのです。

ただ、違うルートを通るというそのこと自体が、重要な意味をもっていて、そのことを意識化すると、私たちの世界(言い換えれば自分の意識)が単一ではないことに気づくようになってきます。


原因と問題、タロットリーディング

タロットリーディングでもそうですが、問題の原因がわかると、対応策・解決策も出しやすいですし、人は安心できます。

しかしながら、必ずしも原因がわかるとは限りません。

病においても、現代医学でさえ原因がわからないことは結構あるものです。

いや、すべてに本当は原因と言いますか、問題が起きている根本的な理由というものはあると考えられます。

それでも、その起こっている現象の原因はひとつではないかもしれず、たいていのものは、様々な要因がからんで、結果として出てきているのではないかと思います。

とすれば、原因追及というのが、問題解決の最善とは言えないこともあるでしょう。多くの要因をすべて明らかにすることは難しいからです。

また、たとえひとつの原因だったとしても、それがわからないことも、実際的にはあるでしょうし、原因が発見できたからと言って、現象が消えるとは、また言えないことでもあります。

ところで、マルセイユタロットの「月」というカードがあります。

このカードの象徴性に、あやふやなこと、はっきりしないことというのがあげられます。

このことから、時には、そういう(はっきりしない)状況も受け入れたほうがよいことを言っているとも考えられます。世の中、白黒つけられることばかりではないからです。

一方、「月」と同じ「8」という数を持つ大アルカナカードに、「正義」があります。

面白いことに、「正義」の場合、「月」とは真逆の、それこそ、白黒決着がつくような、明確なものを示唆します。

「正義」と「月」同じ数でつながりながら、反対の意味合いにもとれるのです。(ただし、やはり同じ数を持つ共通性もありますが、今回はそれについては省きます)

今回言いたいのは、原因を求めて(はっきりさせて)の解決策という視点ではなく、状況(現象)を受け入れ、その状況と、どう向き合うか、つきあっていくか、あるいは、原因追及はせず、起きている問題・現象そのものを、とにかく改善したり、生活ベースにおいて気にならなくしたりするようにしていくことに重きを置く対応も、必要な場合があるという話です。

さらに、そのことは、最初に出した、タロットリーディングにおいても言えることだと、つけ加えておきたいです。

「こういう原因でそれが起こっている」と知りたいのは山々ですが、知ったところで問題が解決するわけではないこともあるのは、前述した通りです。

そこで、タロットリーディングにおいても、ふたつの方法が考えられます。

1.原因追及的アプローチをするのではなく、先述したように、原因はともかくとして、どう対応するかに重点を置くリーディングをする方法

2.原因それ自体は本当ではないかもしれないが、ストーリー(物語)として、あえて原因をタロットから読み、その解決策もタロットから、一連の(クライアントの)ストーリーとして創作的リーディングを行うという方法

1はわかるかと思いますが、2はどういうことなのか?と不審に感じる人もいらっしゃるでしょう。

実は、私の思うところ、タロットリーディングというのは一種の創作であり、クライアントと一緒に、リーダーがクライアントにふさわしい物語(ストーリー)を、タロットというツールを駆使して作り上げる行為なのです。

創作物語なので、極端な話、嘘のこともあり得るわけです。正確には、真実か嘘かはわからないというところで、結果的に、クラインアントの問題が解決したり、よい方向に行ったりすればOKというものです。

ただ、タロットはその象徴世界において真実だと言えますから、出たカード(の意味するところ)がまったくの嘘であるということはあり得ないというが、タロッテイスト的な考えになります。従って、クライアントに何らかに関係するカードは出ているはずなのです。

けれども、それを脈絡のある話として作り上げられるかは、また別のことです。ですから、カードは真実であっても、ストーリーそのものは嘘であることもあるわけです。

とは言え、嘘か真かは、問題とその解決(癒し・気づき、改善も含む)においては、さほど重要ではないのです。それは原因がわかることと、問題現象の解消とは別であるのと似ています。

要は当人が楽になればよいので、真実か嘘か、原因がわかる・わからないは、実質、関係ないのです。

それでも、クライアント・カードの当事者が納得するには、それなりの物語性が要求されます。でたらめだと、やはり、説得力に欠けます。

先述したように、タロットが本来、当人や問題と関係あることを必ず出す(表している)というのなら、すべてデタラメになることはないです。ですから、タロットカードは、説得(納得)感あるストーリーを作りやすいわけです。

ここまでは、原因追及をしない話を主にしてきましたが、当たり前ですが、それは絶対ではなく、原因追及をしたほうがよいケースもあります。むしろ、その方がノーマルかもしれません。

ただ原因そのものも、タロットリーディングにおいては、ストーリーを作るもの(素材)であるので、それが事実かどうかはあまり重要ではないこともあります。

原因がわかれば、ほっとし、安心できることで、現象は消えなくても、悩みがほぼ消えることもあります。

あるいは、問題そのものが消えることがないとわかったとしても、よい意味のあきらめ(諦観)で、問題状況を受け入れ、うまくその状態と折り合いをつけ、原因がわからず悩んでいた時よりも、積極的に生きていくことができる場合もあるでしょう。

原因追及がよいかどうかは、まさにケースバイケースと言えます。そして、タロットリーディングにおいては、さらに、ストーリー創作の要素として、原因が本当か嘘かも、あまり関係ないこともあるという話でした。


あなたは旅をしているか?

今日はをテーマにしたいと思います。

旅と言えば、マルセイユタロットでは、やはり「愚者」のカードが思い浮かびます。

マルセイユタロットの「愚者」は、誰が見ても、どこかに向かって歩いているように見える図柄です。

袋のついた棒を背負い、杖をついて右方向に歩いています。ちょっとした散歩やお出かけのように見えなくもないですが、そのスタイルからすると、これは「旅をしている」ように感じてきますし、もしかすると、長いこと、旅を続けているのかもしれません。

気分転換や癒し、レジャー的な旅行については好きな人が多いと思いますし、趣味にしている人も結構いらっしゃるでしょう。

しかし、旅というものは、いろいろな目的・種類がありますよね。

ビジネスや仕事が目的の旅、すなわち出張も旅と言えますし、精神的・宗教的な目的で、修行の旅もあります。お遍路とか巡礼も、そのうちの一種でしょう。

そして、何より、私たち自身の人生も旅と言えるのかもしれません。

旅は日常や固定性、既知性、普遍性とは逆の非日常を味わい、知らないことを見聞したり経験したりし、旅をしている間は特別な時間・空間になります。

移動するのが旅でもありますので、定住するもの、同じことの繰り返しのようなルーチン的な生活とは真逆の体験となります。

ただ、旅が仕事・日常になっている人がいれば、むしろ、普通の人の生活状態が非日常へと逆転するのかもしれませんね。

それでも、旅というものは、このように、いつもとは違う感覚を味わうものになりますので、そこに大きな刺激や成長のチャンスがあるわけです。

実際的に、旅に出るということは、滞って退屈な日常からの変化になりますし、旅先での経験が自分を拡大させてくれることもあります。

けれども、いつもとは異なるわけですから、危険やネガティブなことも起きます。その対応次第では、拡大どころか縮小してしまうこともあり得ます。

とは言え、旅の特徴としては非日常で、限定的なものである(仕事で旅をしている人、移動が生活のスタイルの人以外は、旅は永続的ではない)ことがあげられます。

ということは、旅はいつか終わるのです。人生がもし旅であるのなら、ある種の特殊な限定的時空体験かもしれず、それならば、死を迎えれば、人生の旅は終わることになります。

そう考えると、日常(生きている時間)こそが実は旅であり、私たちは、本当は非日常にいる(旅であるから)のかもしれないのです。

では、人生が旅であるのとは反対の、旅ではない日常とは何なのか?ですが、それが死後ということになるのでしょう。旅が移動するもの、変化していくものという特徴があるのなら、死後の世界は移動しない、変化しないという次元であることが考えられます。

マルセイユタロットには、「愚者」が他の大アルカナをたどって、「世界」のカードまで行き着くという思想があります。

例えば、ある流派では、このうち「戦車」までが私たちの現実世界であるという解釈がなされますが、これを21枚全部が実は現実世界のことだったという見方もできるのではないかと思います。

「愚者」が移動して、最終的に「世界」のカードでゴールするのなら、「世界」のカードは死後の世界の入り口と見ることができるからです。

そう思って「世界」のカードを改めて観察すると、真ん中の人物は移動しているわけではなく、そこで踊っているか、止まっているかのように見えます。周囲の動物とか天使、雰囲気も含めると、まるで天国のような印象もあります。

「ご冥福」と言う言葉があるように、本来、死後の世界がよきものであるようにも思えてきます。(死後が生前の行為によって裁かれるという思想ならば、死後が悪い世界ということもあるでしょうが)

ただ、あまり変化なく、動きもないとすれば、やはり退屈な世界なのかもしれません。

それに引き換え、絶えず変化のある現実世界と人生は、まさに旅であり、タロットカードでは、21ものシーンのバラエティある世界観で示されているようでもあります。

厳密に絵柄を見れば、20の「審判」で、何やら棺桶のようなところから起き上がっている人が見えますので、この時点で、すでに死後(の入り口)なのかもしれませんが。

となると、これまた面白いことではありますが、旅をしている人生(生きている現実の生活)というのは、棺桶で眠っている夢ということも考えられます。

まるで中国の「胡蝶の夢」(現実が夢なのか、夢が現実なのかという荘子の説話)のような話です。

いずれにしても、人生は旅なのだという観点は、時に人を楽にする可能性があると思えます。旅自体、そういう性格のもの(非日常を体験するもの、エンジョイするもの)だからです。

実際の人生で、たいていの人は、普通の旅行も何度もするでしょうが、それは言わば、旅(人生の旅)の中で旅(現実の旅行)をしているという、入れ子構造的な仕組みにもなっているのに気がつきます。

それは、一日と一年が同じような構造になっている(本質的に)のに似ています。人生という旅の中でも、本当に移動したり、変化したりする時期もあれば、まさに日常的な普通で穏やかな時もあるでしょう。

普通の旅は、自らで行くことが可能です。であれば、人生での旅(変化・変容)も、必要な時に起こすことができると思うことです。

環境や流れ的なもので変化はやってきますが、それとは別に、退屈な時、リフレッシュしたい時、あるいは逆に癒しや休養を必要とする時も、人は普通の旅に出るように、長い人生の旅という時間の中でも、自らの意思で、同様のことができるのです。

旅の中の旅は、チャンス(あるいは回復・治療)を自らの力で起こすという意味でもあります。

ただただ流され、日常の民としてあきらめ・惰性の人生の旅を続けるのではなく、旅は自分で行くもの、計画するものと考えれば、自分にいい意味で、変化もたらせることは可能でしょう。

マルセイユタロットの「愚者」は数を持ちません。これは、ほかの数にもなれる(ほかのカードに移動して、そのカードに象徴されることを経験できる)ことを暗示しているからです。

「愚者」の旅は、21枚という、それぞれの世界の経験となり切りと言えましょう。それが私たちのいる現実世界であり、人生であり、なのです。

あなたに足りていない(まだ経験していない)カード(シーン)は、果たしてどれでしょうか?


「恋人」カード、地上と天上の選択

以前も書いたことがありますが、マルセイユタロットの「恋人」カードを、“選択”というテーマで見ると、面白いことがわかります。

ちなみに「恋人」カードの画像はこのようなものです。

その前に、一般的に「恋人」カードは、その名の通り、恋愛と関係するカードと思われています。特に占いでは顕著でしよう。

しかし、占いではないタロットの観点で見ますと、実は恋愛的なことから離れる見方もできます。むしろ、そのほうが本質ではないかとさえ思っています。

逆に言いますと、恋愛という現象が、実は人間の様々なレベルを刺激し、成長や堕落もさせる、非常に深いテーマであるということが言えるのかもしれません。(恋愛というものは、あくまで現象であり、その本質こそが重要であるという話です)

さて、その「恋人」カードですが、図像をよく見ると、特徴的なのは、三人の人間と、上空に天使だか、何か人間ではないものがいるという構図になっています。

要するに、天と地、人間世界とそうでない世界の対比になっているわけです。

下の三人の人間たちは、真ん中の男性と思える人物が、両端の二人の女性とおぼしき人たちに囲まれている様子が描かれています。

このことから、真ん中の男性が、どちらかの女性を選ぼうとしているのだと解釈されます。(ただし、解釈はいろいろあります)

一応、主人公をこの男性だとすると、彼にはふたつの選択肢(二人の女性のうちのどちらかを選ぶ可能性)があることになります。

とは言え、どちらも気に入らない、甲乙つけがたしで、選ばない、選べないというケースもあるでしょう。

また、見ようによっては、男性はあくまでサブで、女性二人が主人公という可能性もあります。女性のほうが、積極的に男性に声をかけ、選んでいるのかもしれません。

結局、主人公を誰にするかによって見方や立場が変わり、自分で選んでいると思っていたものが、実は選ばされていたということにもなります。

どうも真ん中の男性は、しっかりした態度というより、迷っているようにも見え、実は男性のほうがタジタジとなっているのかもしれません。(笑)

いずれにしろ、人間たちには、同じ人間同士の世界で、どちらかの選択、または何も選ばない(選べない)という選択行為があることが物語られています。

一方、上空の天使(キューピッドとも言えます、厳密にはキューピッドは天使ではありませんが)も、矢をつがえて、誰かに当てようとしているようです。

ということは、宝くじではないですが、矢が当たった人がまさに当選した、選ばれたということになるでしょう。

そう、ここには天使、つまり人間以外の要素、または人間の通常を超えた高次的な選択の力が働いているわけです。ただし、天使側からは人間が見えていても、人間側からは見えていないので、一方的な選択にも思えます。

さらに、矢は必ずしも放たれるとは限りませんし、絶対に人に当たるとも言えません。天使は、はずすかもしれないのです。(それは天使側というより、人側の動きによってのほうが大きそうです)

つまるところ、人間世界、地上(物質的)世界の選択と、物質を超えた世界、天上的な選択とのふたつがあると告げているように見えます。

深くは講義で説明していますかが、人間三人の構造が、実は天上的な選択とも関係し、天が地に、地が天に呼応していることを表しています。

簡単に言えば、私たちの地上の選択は、天上と無関係ではなく、むしろ、その意思を受け取っていると見ていいわけです。

しかし、地上世界における通信や電波の混乱状態(混信)ではないですが、人間を超えた世界、見えない世界においては、低次な、おどろおどろしい心霊・サイキック的世界から、霊的に高次な世界まで様々に入り組んでいるように感じられます。

自分が信じたものが高次とは限らず、たいていは人間に近い、それなりに欲望や欲求を持った存在であることが結構あります。

天使からの選択(インスピレーションや夢、シンクロニシティなど、言葉とは別のメッセージとして現れる)の示唆だと思って、人間たちのアドバイスを無視し、何かを選んだとしても、それは低級なものたちからの誘導である場合も考えられます。

もちろん、混信をクリアーにし、高いレベルで受信が可能になれば、まさに高次からのメッセージ・アドバイスとして受け取ることも可能でしょう。

天使と人間たちという「恋人」カードの構図の特性上、どうしても、天使世界のほうを上に見てしまいがちです。

実際、そういう風に見ていいところもあるのですが、ここで重要なのは、地上の人間たちのコミュニケーション、アドバイス、話し合い、交流も必要だということです。

この段階では、地上・現実世界での関わりのほうがむしろ上と言ってもいいくらいです。つまりは現実逃避への警告みたいなものです。

ところが、そうは言いつつも、矛盾するようですが、わざわざ天使がカードに登場しているのですから、そういう世界観(精神やスピリチュアルの世界)への視野も、本当の意味では、大切になってくることでもあります。

バランスと言えば、よいのでしょうか。

同じカードが出たとしても、タロットリーディングにおいては、同じ意味になるとは限らず、この「恋人」カードの選択の場合でも、天上の天使を見たほうがいい人、地上の人間たちの立場を重視したほうがいい人、さらには、人間たちの中でも、どの人が自分にとって関係が深いかなど、様々なのです。

そうして最終的には、仮に真ん中の彼が主人公だとすると、両端の女性、上空の天使も含め、すべての選択(肢)と働きかけの可能性を見出し、統合することに、テーマがあります。

どちら(どれ)を選べばよい(選ばない)という話ではないのです。多かれ少なかれ、人が何かの選択をする場合、ほかの選択(選ばれない選択など)も同時に行っているというのが、このカードからわかります。

時空が限定されている地上・現実の世界では、効率や経済、あるいは人間的価値観による幸せという基準での選択の良し悪しがあります。要は、実際にいい選択とまずい選択というのが起こり得るということです。

しかし、霊的なレベルにおいては、それはまた逆転したり、そもそも高いレベルになればなるほど、低い選択基準は統合されて、良し悪しはなくなっていきますから、どちらでもあってどちらでもない状態(良し悪しなどない)になってきます。

だからと言って、高いレベルの基準でいなさい、というわけでもないのです。たとえ、そうなろうとしても、普通はいきなりでは無理です

さきほども言ったように、「恋」人カードでは、人間たちの交流が図像として大きいので、それが強調されているのです。言わば、間違いの選択も含めての経験の重要さです。

この現実世界で、天使的なものも意識しながら、主人公としての自分が演じるメインフィールド(中心舞台)は、地上であるということも忘れないようにしたいものです。


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