カードからの気づき

定番を超える

少し昨日の 続きような話になります。


何事も知識を入れるということは、最初は誰かに教えてもらうか、独学でもとにかく学ぶことをします。


独学の方法でも本や情報など、すでに世の中に現れているもので学んでいくことでしょう。


そしてやはり定番とか決まった形のものから入るのがセオリーとなります。


しかし、ずっとそのような「定番」のままではマンネリになりますし、発展性やオリジナリティが出ません。


そこで、師匠を超えたり、自分がオリジナルとなるために既成の枠を壊す必要に駆られます。(いわゆる「型破り」です。「型破り」ついてはタロット学習を例に、この記事 でも語っています)


けれどもどこで壊すのかは難しいところです。中途半端なままではいつしか過信につながり、最終的に自分自身を根本から壊しかねません。(他人から壊されるといったほうがよいかもしれません)


それでも、これまで習い積み重ねてきた定番のものを捨てるくらいの気持ちでないと、次の段階には行き着かないものです。


それは本当は捨てるのではなく、消え去ったように完全に自分の中に身に付いた状態ともいえるでしょう。


もはやこれまでの技術や方法を特に意識することがないような状態になった時、破壊と新しい自分に向けての再生の時期が来たと考えられるでしょう。


逆に言えばしっかりと定番は繰り返され、十分に自分の中に浸透してこその次の段階に至るのだということです。


さて、ここまでお話したことは、実は昨日もふれた「タロットマンダラ」の第5列(「法皇」の列)に関係することです。


昨日とは違うのは、マンダラを単に縦ではなく、横や斜めにも活用して考察することができるということです。


「法皇」は定番の学習、その上の「吊るし」はその熟成と浸透を意味します。そして「吊るし」の横には「13」があり、それが定番の破壊と再生につながります。


また自分を過信して中途半端に自信をつければ、「吊るし」や「13」と関係する「悪魔」につながってしまいますし、「吊るし」の逆世界ともいえる「世界」のカードのネガティブな部分にとらわれたりもします。


今回述べているのは、最終的に習ったものを超えるためには定番やセオリーを破壊する時がやってくること、そしてそうしたことは、陥りやすいわなも含めて、タロットマンダラで縦横無尽に説明できるということです。


心理的時間

こういうことはよくあると思います。


たとえば何かに熱中していたり、忙しくしていると時間は短く感じ、反対に何もすることがない弛緩した状態では、時間は長く感じたりしますよね。


これは時計の刻む物理的な進行時間と、私たちの心理的な時間感覚とは異なることを意味しています。(前者をクロノス時間、後者をカイロス時間ということもあります)


だから「時間を超越できる」というようなことは申しません。(笑)


ここで考えたいのは、時間の使い方というものです。


先述したように物理的な時間は誰にも等しく刻まれるものです。「刻一刻」という言葉があるように、これはAさんにはゆっくり、Bさんには速くというようないい加減さや情け容赦はありません。


しかしながら、心理的には速く進んだり、遅くなったりする(と感じる)のも事実です。


ということは、同じ一時間、そして24時間(一日)、1ヶ月、半年、一年と過ごしてきても、感覚的には個人差があるということです。


言ってみれば心理的には、のんびりと生きて時間の進行を緩やかにしていくこともできますし、逆に一定期間の集中によって、時間を短縮する(したような気分になる)ことも可能なのです。


また時間を短縮するということは、作業量にも変化を及ぼすこともあるということです。


普通の状態でできる量を集中することで増やし、結果的に能率を大幅に向上させることも場合によってはあるからです。


従って今まで無駄の多い時間を過ごしてきたという方は、自分が集中できる、つまりは打ち込めるものや方法を見つければよいのです。あるいは集中できる対象を学ぶということでしょうか。


そうすると、年齢や時間というものもあまり気にならなくなるでしょう。


ちなみに時間の進行が感覚的に速くなってすごいスピードになると、その当人は逆に時間経過が遅くなっているように感じたり、ほかの人から見えるということも考えられます。


集中し、楽しく充実した人生を送っている人が若々しく見えるのもそのせいかもしれません。


究極の集中力は、結局、時間をゆっくりさせる(ゆったりしているように見える)のでしょう。


ただそれでも、人はいつも集中できるものではありません。あえて何もしないような、時間を長く感じるような「心理時間」も必要だと思います。


ちなみに今までのことは、タロットカードの「節制」と「運命の輪」から出てきた事柄です。


特にカモワン版マルセイユタロットでの「タロットマンダラ」では、「節制」の隣が「13」であることは、「時間」ということをテーマにして見た時でも興味深い並びとなっています。


土台から変えるひとつの方法

昨日は固定した状態になるのは、普通の人にとってはいいものではないというお話をしました。


そこで今回は、ちょっと意外で簡単な方法による、固定した状態に変化を及ぼすやり方を紹介したいと思います。


その前に、少し話は変わるのですが、タロットの話をします。


タロットの小アルカナには「四大元素」という考え方が貫かれています。


これは「世界は4つの要素・エレメントで構成されている」という古代からの思考体系なのですが、一般的にタロットでは「ソード(風)・カップ(水)・ワンド(火)・コイン(土)」という象徴で表されています。カモワン流では、これを日本風に呼び名を変えて、「剣・杯(さかずき)・杖・玉(たま)」という名称にしています。


このうち、「コイン・玉」に相当するのがエレメントでいうと「土」であり、いわば一番安定や固定した状態を示します。


人間でいえば肉体(とらえ方によって様々に表されますが)ともいえましょう。そして私たちはこの肉体を維持するために、食物を取ります


四大元素の考え方のひとつには、エレメントが回流(下降・上昇も含む)や循環をするというものがあります。剣(風)から玉(土)まで4つの要素の象徴の順序により、物事が固定化する順番や反対に溶解(蒸発)していく様相を示すのです。


これによれば、「玉」は一番最後に固まる段階だと言えます。ということは、逆にいえば、玉(土)から剣(風)へと向かっていけば、次第に固形から流体に変化していくとも考えられます。いわば氷が温度上昇よって溶けていき、水になってそのうち気化していくようなものです。(そしてまた雲となって雨になり、地上に戻ります)


さて、ここで最初の話に戻ります。


固定した状態に変化を及ぼすためには、この4大元素の循環を体に当てはめるのです。玉(土)状態から上昇していく方向を採用します。


すなわち、肉体の構成のための根幹をなす、食べ物の摂取を変えるということです。人の体(細胞)は、一定期間でガラリと入れ替わるといわれています。


古代の考え方では、細胞ひとつひとつにも魂が宿る(全体のひとつながら、ひとつが全体の象徴でもある)と考えられています。現代的にいえばどんな小さなものにも遺伝子情報があり、その人全体のこともそれでわかるというようなものです。


食べ物はおそらく細胞や肉体の構成に重要なものだと予想できますので、今まで食べていたものを少し変えてみるだけでも全体への変化があるのではないかと考えられるのです。


筋肉などでも、同じ姿勢を続けていたり、同じ箇所をずっと酷使し続けていれば、その部分はやはり痛みます。また変な癖もつくおそれもあります。このことからも、同じ状態が固定したまま継続されていくのは問題だと想像できます。


食べ物も普段いつも取っているものに目を向けて、ある時から別のものを食べていくことも行うようにすれば、肉体のみならず、思考まで影響させることができるかもしれません。


主食の米を変えることはよいのかどうかはわかりませんが、例えばいつも同じ種類の白米ばかり食べていくというより、何か別の種類の米に変えてみるなどの変化も時にはよいでしょう。


今問題状況にある方、何か変化を起こしたい方は食生活から見直すのもひとつの方法です。また直接肉体から働きかける「整体」なども、別の意味で「玉(土)」から変化を起こさせる方法といえるかもしれません。


この世は流れていくもの

固定した状態というのはもちろん安定感があり、そこから安心する気持ちも出ます。つまりは心地よい状態だといえます。


しかし、川もせき止められて水たまりとなると、底に泥がたまって濁り、浚渫(底さらい)しなくてはならいないように、いろいろなものが淀んできます


この状態を変えるには、やはり新しい流れを起こすかまたは呼び込むかであり、あるいは堰き止めていたブロックを取り去る(破壊する)ことになるでしょう。


その方法は物理的・心理的なものを含めていろいろと語られているところですし、このブログでも自分に変化を起こす事柄として、何度か取り上げてきました。


ところが自然は、人工的な意志をもって構築したもの以外は、たいていのものは放っておくと時間はかかるとしても、いつか流れが起きるように変化したり、風化するなどのことで壁やブロック的なものも壊れていったりします。


人間自身もそうではないかと考えられます。生まれた者は必ず老い、いつか死を迎えます。ずっと同じ状態には固定されないようになっています


肉体や生命だけではなく、自分の属している環境、自分の心境などにもこの摂理は及ぶような気がします。


自分自身は変わりたくない、変化はないと思っていても、周囲がそれを許してくれないといいますか、何か同じ状況でいられないようになる事態が自身にふりかかる気があなたもしませんか?


そしてまた、「これでよい」「もうこのままで変わりたくない」などという過信や変化を拒否する心に人がなった時、病気であったり、事業の不振であったり、人とのトラブルであったり、関係者の死であったりと突然の急流・衝撃が発生するようにも感じます。


反対にずっと不幸だと思える状況が続き、「もうダメだ」「一生このままだ」「人生は終わっている」と固定した考えをする時は、皮肉なもので、なぜかそのままあまり変化がなく続いていきます。


でも、こういうこともあります。自分の環境や状況は刻々と変化(いいことも悪いことも含めて)はしていっても、何か根本的なもので変化はないのだという一種の悟りのような心境になれば、自分の中は固定したままの状態だといえます。


つまり前にも書きました が、固定した(特に心が)状態というのは天国か地獄かを示すのでないでしょうか。天国・地獄はもとはといえばあの世の概念です。


ということは、この世では天国か地獄かというのは普通は起こりにくい状態と考えられます。摂理に反するといってもよいかもしれません。


この摂理に反することを自分がしている、あるいはなっている時は強制的な変化が起こるか、自分が地獄にいるかのような心理状態になってしまうということです。


例外として、摂理を越えるシステムや次元を認識できた者だけは特定の者として、この世で固定した状態のもう一方の世界である天国の気分を味わうことができると考えられます。


このようなことを想像した場合、私たちはまず、「この世は変化する世界だ」と思うことであり、あまり固定した状態や心にならないよういつも柔軟に過ごしていくことがよいと思われるのです。


今回語っていることは、すでにお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、タロットカード「運命の輪」が象徴していることなのです。


願いを叶えるためには

「こうなるといいのになぁ」「あれが叶うといいなぁ」「あの人とつきあえると楽しいのに・・・」など、人にはいつも願望があるものです。


ここで、もしその願い事が叶ってしまったら、あなたはどうなっているかを想像してみましょう。


ほしいと思っているものが実際手に入った。こうなりたいと思っている状況が実現してしまった。


この時、それがなかなかイメージできないという人は、その願望が叶うのもちょっと遠いことなのかもしれません。


人はイメージができないことにはなかなか現実感を持つことができないからです。


それはさておき、一応イメージもできたとします。


しかし、願望が叶った次のあなたの行動や目標を、具体的に想像することはできますか?


もしかすると、困ったことに願った通りの状況になると、新たな問題が発生しそうに感じたり、「あれ、こんなこと私は願っていたのかな?」と疑問が生じたりするかもしれません。


例えば、あの人とつきあいたいと思っていて、恋人同士になったことが想像できたとしても、次にどんな風にその人と過ごし、充実した二人の時間を創造していくことができるのかということが、ほとんど思いつかないということもあるでしょう。


また好きな仕事をする場所を得たいと思っていて、それを持つイメージはできたものの、そこからどのように自分はお客さんと接し、事業を発展拡大させていくのかということを想像することができないということは比較的よくあります。


いってみれば、実現したその次の段階のイメージをどう具体的に持つことができるのかが、願望を叶える時に重要ではないかということです。


なぜならば、その次まではっきりとイメージすることができたのなら、もうすでにその前のことは心理的には叶っているに等しく、想像上では過去のことになっているからです。


実は私自身、ある願望のことでそれに気付いて、ちょっとあせっています。(^_^;) 


願っていたことが叶いそうになって、いざそれが実現したあと、自分はどう効果的にそのことを活かせるのかということがイメージできていなかったのですね。


タロットカードで「女帝」というカードがありますが、この絵柄の人物はカードの順番でいえば、次の「皇帝」を見ています。(カモワン版マルセイユタロットの場合)


「女帝」はアイデアや発想を思いつく人でもあり、その目は遠く次を見据えています。そして先述したように「皇帝」を見ているともいえます


「皇帝」は現実を示唆するカードです。


ということは、「女帝」は次なる現実性の「皇帝」の段階もすでにイメージしており、「女帝」が着想することで生み出される新たな創造力も、「皇帝」の場面である実現した後にまで及んでいるのかもしれません。


願望実現には、このように、さらに願いが叶った後のイメージを持つことも大切だと思えます。


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