迷った時に
タロット占いで何かを決める
何かを決めたい、決断したいと思ってタロット占いをすること(してもらうこと)があると思います。
自分でタロット占いができるのであればいいのですが、普通は習っていないとできませんので、やはりできる人のもとへ行くわけですね。
この場合、大きくわけてふたつのタロット占い(の受け方)があると考えられます。
ひとつはまさに占い師に決めてもらう占い
もうひとつは、タロットリーダーとともに一緒に決める占い
どう違うのでしょうか。
前者は出たカードの意味によって、占い師がほぼ一方的に方向を告げてくれるものです。
これは楽です。相手に決めてもらうのですから、悩んでいたことも一瞬で解決するかもしれません。たとえ自分の望みとは違っていても、「そういわれればそうなんだ」と納得させられてしまうこともあるでしょう。
そして後者は質問に対応して出たカードを見ながら、タロットリーダーが象徴的にカードを読み解き、その意味を相談者が自分のことに具体的にあてはめて方向性を出していくというやり方です。
こちらは少々時間がかかることと、結局は自分で決めなくてはならないので、終わっても迷いが出ることがあります。
あるいは、自分が望ましい答えではなかったとカードの説明で感じた時に、その答えが出る別の占いや占い師のところへ行こうと思い直すこともあります。
こう書くと、前者の「占い師から決めてもらうやり方」のほうがいいように見えるかもしれません。そもそも自分で決められないことがあるから、占いに頼ってみるわけであって、それもむしろ当然の感覚もあるでしょう。
しかしながら、この方法はふたつの意味で問題がないわけでありません。
ひとつは、占い師が人の人生を決めつけてしまうことで、本来の相談者自身の選択肢を狭め、その人の人生の責任まで取り上げてしまうおそれがあること。
もうひとつは、必要以上の依存を作り出してしまうことです。
これは考え方・思想の範囲なので、正しいかどうかは人それぞれだと思いますが、人にはその人個人で選択をし、自分で現実と対処しなければならないことがあると私は感じています。
占い師が他人の人生の選択を決めるということは、大げさにいえば人のカルマに介入することであり、おこがましいこと、傲慢であることにもつながりますし、その人のカルマを拡大することにもつながりかねません。
またそうしたカルマ的なことを抜きにしても、「占いだから」「占い師が言ったから」と、方向をいわれるがままに決めてしまうのは、自分で何事も決められない状態を継続させているだけで、それがさらに助長されて、どんどんと簡単なことさえ占い師か他人の意見で決めてしまうようになります。
言ってみれば心理的には依存体質を増大させるようなものです。
こうなとる、下手すれば「自分で何事もまったく決められない」「人にいわれるままの人生」「人のための人生」になりかねません。
ではどうすればよいのでしょうか?
占い師のタイプは占いを受けてみないとわからないこともありますから、最初に自分のほうから能動的な姿勢を取るのです。
具体的には最初に挙げた二通りの後者の占いの受け方(共同作業的な受け方)を、自分がすればいのです。
一方的に言ってくる占い師に対しても、カードの意味を聞きながら、「それはほかの意味もないですか?」とか、「なんかこのように思うんですけど・・・」と自分のカードの見え方、感じ方も、たとえカード自体の意味はわからなくても占い師に言ってみることです。
そうすることで、自分の意志が入ってきて、自ずから多少なりとも共同作業にならざるを得ません。最低でも、あなたが納得することが大切です。「わけもわからず・・・」とか「違和感あるなあ・・・」というままが一番いけません。
そして最終的には「自分で決めるのだ」という態度を持つことです。
占いはあくまで「情報」のひとつだと、相談者側も占い師側も考えるとよいでしょう。
普通の考え方、見え方ではわからない情報もあるのです。そうした裏や通常ではわからない情報を占い師はもっていると見ます。
あなたの現実の状況や情報と、占い師の「占い」の見え方としての「情報」を重ねあせたところに、新しい物の見方・考え方が登場してくるのです。しかし、それもひとつの「情報」に過ぎません。
何が正しいのかというより、自分のそれまでの枠からはずれた、より新しい視点を入れたのだと考えることです。
そこから、新旧様々のあなたの中にある情報を整理し、一番現時点でよいと思える自分自身の選択によって行動に移すのがよいでしょう。
何事も、「自分の人生は自分でつくる」という決意と、「自分の人生の選択においての責任は自分で取る」というくらいにならないと、自分と世界は本当の意味で結びついてきません。
カモワン版マルセイユタロットでいえば、「力」と「世界」が向き合うようなものです。
悩んだら決断力も弱ってしまい、決めてほしいと思うのが人情ですが、それでも自分で決めることに人生の意味はあるのだと私は思います。
けれどもまた、迷いを整理したり、違った視点を得るために占いを活用することは有意義だといえます。
できれば、一緒になって問題を解決に導いたり、方向性を探してくれる(選択はあくまで自分です)占い師やタロットリーダーが望ましいと個人的には思います。
はしごを降りてみる。
問題の解決には、次元という視点で見た場合、その(次元の)上下によって改善されることがあります。
たいていは上の次元・レベルによって問題解決に至ろうと努力するのですが、逆の下へ行くこと(下降)、つまり、次元やレベルを下げてみることで解決に向かうこともあります。
たとえば、仕事をしたり社会に出ることが怖くて引きこもっていたとしても、明日食べることもやばいよという状況に陥れば、一気に外に出ざるを得なくなり、たとえ仕事はいきなり無理でも、引きこもり自体は解決したという場合もあります。
またある組織がまとまらず、それには統一したルールがないからだと上からの視点でまとめようしたけれども、何のことはない、実はグループ内の二人の人間のいがみ合いから組織全体に派閥ができてしまって、ぎしゃくしていた・・・ということもあるでしょう。
目標にしても、いきなり高度な完璧なものを目指すより、さらに下へ落とした実現可能(現実的)なものにすれば急にやる気が出たり、自分にもできそうな気がしてきたりするものです。
ここから専門的になりますが、カモワン流のタロットリーディングでも、その次元・レベルの違いによって問題を解決していく手法が、ほかならぬカモワン流の展開法に備わっています。
まず、カモワン流には問題を表すカードとその解決を示すカードのふたつのカードが登場します。そして、展開法も大きく分けると上に上がっていくものと、下に下がっていくものがあります。
このふたつをうまく扱うことで、問題解決の視点を上下させることができます。
さらに、展開は複数のカードによって並べられていきますので、横にも広がりますし、縦にも階段状に積み重なっていきます。
問題に応じて出る展開は、その時その時で異なってくるわけですが、中には全体の展開図が本当に建物のように何段も階層を伴って出現することがあります。
あまり知られていないことですが、実はその出た展開図の階層自体にレベルや次元の違いが表されていると見ることもあります。
ノーマルなカモワン流の読み方では、過去・現在・未来にわたって時系列的に質問者の問いに関連したストーリーを読み解いていくのですが、そうした横の流れを基軸とした物語的なリーディングとは別に、縦の階層別に次元の異なりを読み解いていく手法もあるのです。
これはスポット的な展開の一部を取り出したリーディングになることもあります。またどの展開にも通じるやり方ではありません。
何を言っているのかさっぱりわからないかもしれませんが、簡単にいえば、ひとつの問いの中にある階層別の問題と解決方法と読み取るということです。
話を元に戻します。
皆さんも、何か問題があれば、自分の持つ「はしご」を使って次元を降りてみてください。上がるばかりではなく、下がることで簡単に解決することもあることを覚えておくと便利です。
その際の考え方としては、精神から現実・物質性へ、高いものから低いものへ、抽象的なものから具体的なものへ、統合されたものから分割されたものへ、集合から個別へなど想定すればよいでしょう。
結局のところ、問題はその人が「はしご」を使わず、いつもそこに留まろうとしているから解決策が見えないのであって、その場の上か下かへ移動してみれば案外と氷解してくものだといえるでしょう。
その「はしご」とは、様々なツールやメソッド、物の見方ということにはなりますが、タロットもとても有効な「はしご」になります。すでに気付いている方もいらっしゃるでしょうが、タロット(カモワン版マルセイユタロット)の中でも「はしご」を象徴するカードがあるくらいなのですから。
決めたい時の判定装置であり、すばらしい道具
それはタロットです。
て言うと思ったよ、と笑われそうですが(^_^;)・・・本当にそうなのです。
人は何かに迷った時、まず目で見えるもの、聞こえるもの、さわってわかるもの、形あるものの中から情報を得ようとします。
文章や人の言葉、実際にある建物、数字、お金、人間関係・・・仕入れる情報は様々ですが、一応それは他人でも見たり、聞いたり、また人に説明できたりするものでもあります。
しかしながら、迷いも究極になってきますと、そういったいわば物理的で客観的な情報だけでは判断がつかなくなってきます。
こちらを取ればあちらが立たず、あちらがいいようで、でもこちらにも良さがある。並べるとまさに同列、損得的にも本当に同じなので(あるいはどちらもわからないので)決められません。
こうなると、次は精神的なものに判断基準を移行させていくようになります。
たとえば記憶に基づく経験をリサーチするかもしれません。また選択しようとしていることを体験した他人の「記憶」ということもあります。
それでもやはりわからない。そうするとこの次は、人間(通常感覚)を超えたものに頼るようになります。
神様、仏様、天使、精霊、ハイヤーセルフなど目に見えない次元の異なる存在(エネルギーや別次元の情報と考えてもよい)へのコンタクトがここに始まります。あるいは、自分が「神」や「普通の人を超えている」と信じている「人間」のこともあります。
ただし、そのような存在(人間も含む)は悪魔、妖魔、鬼などネガティブ的なものと表裏一体ともいえます。天使のように見えて悪魔ということもありうるのです。
それはともかくとして、結局迷いを終わらせるために、最終的には普通を超えたものへの「神託」のような形を取ることになるわけです。
これは通常での会話ではなく、目に見えないコミュニケーションだともいえます。ですからたとえ向こうから正しいものが伝えられていたとしても、こちらがそれを受け取る会話術を知らないと、意思疎通がきちんとできないことになります。(間違ったものを受け取るおそれがある)
言ってみれば外国の方と身振り手振りで会話して通じることもありますが、誤解を招くこともあるようなものです。そこにお互いが理解できる共通言語が必要なのです。
他存在との共通言語の種類は古今東西いろいろとあるといわれていますが、タロットもそのひとつなのです。タロットには、そうした特別な言語構造ともいえる絵と象徴で作られているからです。
しかしながら、受け取る側の人間にはその人のレベルと主観が入ります。それはたとえればあちらの言語に対して片言かペラペラかで、受け取る情報量と正確さも異なってくるということを意味します。
ですからタロットをしていても、自分では読みにくいことも生じます。それでは判定装置として意味ないではないかといわれそうですが、一人で固定した中でやっているだけではそうともいえます。
しかしこれも同じ言葉を学ぶ同志がいれば、判定装置の客観性も増してくるのです。
「私の問題をやってみたのだけど、こうタロットが出たの、どう思う?」と同学の人に聞いてみることで、一人だけのものより、正解に近づくこともできるでしょう。
もちろん単独で言語を極めていって精度を上げることも可能ですが、「言語」だけに会話を多くすることと、他の人との検証もやはり効果的なのです。
こうして一人で迷ったら自分でまずタロットをしてみて、普通の感覚ではとらえられない情報を「別存在」とのコミュニケーション(タロットが媒体)で受け取ります。
それでも自分の言語能力が未熟だったり、会話できるノーマルな状態ではない(極端に思い入れが強い時などの)場合は、同じ言葉を学ぶ人に手伝ってもらってコミュニケーションの精度を上げるということをします。
こうすると、少なくとも、今までの範囲内で迷うということは少なくなってくるでしょう。タロットを学ぶと、このようなことが可能となってくるのです。
※カモワン版マルセイユタロットをご存じの方は、今回のことは、「恋人」「審判」 「審判」の前の「太陽」などのカードをイメージすることをお勧めします。
私にもできる(なれる)でしょうか?
タロット講座をやっていますと、受講生の方から「私にも○○ができるでしょうか?」「○○になることができるでしょうか?」という質問形式をされることがあります。
また、タロットリーディングの時でもこのような質問になる方は多いものです。
この気持ちはとてもよくわかります。
かくいう私自身も最初にタロットを勉強したいと思った時、私の電話の問い合わせに直接出られた先生に向かって、「私も占いができるようになれるのでしょうか?」と聞いたことがあります。
まあ、私自身は公務員を辞める方向に考えていましたので、何も特技や資格のない状態ではとにかく「占い」でもできるるようになっておこうと手に職をつける気持ちで聞いたわけですが。。。(今思うと占い「でも」と考えていた私は甘かったですねぇ...(^_^;))
質問形態には心理的な背景があり、質問の様態そのものに本人の気持ちや隠されたものがあります。
「私が○○になれるか?」「私に○○ができるか?」と質問する時点で、相当な不安、あるいは期待も同時に内包しており、その葛藤のままが出るのでこういった質問になるわけです。
いわば、質問した相手に答えを言ってほしい、導いてほしい、大丈夫だと言ってほしいという気持ちが隠されているわけですし、要するに自信がないわけです。
とはいえ人間ですから、迷っていたり、わからないことがあったりすれば、そのような気持ちと質問になってしまうのも無理からぬことです。
この自信のなさは、方法がわからないということに原因があるのなら解決はしやすいですし、その意味では「私が○○になれるか?」「私に○○ができるか?」という質問を当初はしていても問題はないといえます。
ところが、ある程度方法を学び、実践を続けていきながらも、いつまでも、「私が○○になれるか?」「私に○○ができるか?」という質問を繰り返すようでは、かなり問題です。
たとえば私がタロットを習って講師になる勉強をしていた時に、もし先生に「私は講師になれるでしょうか?」と質問したら、たぶん先生は怒るか、あるいは無視されるかされたでしょう。
つまり、そういう質問が出る時点で、講師になる気はない、あるいはなろうという意志が弱いと見られるわけです。
もっといえば、自分の資質(タロット講師になるための)に疑問があるわけで、その疑問は知識のこともあれば、ほかの自分が思っている弱さ、克服しなければならない点でもあります。それは自分ではわかっている部分です。
わかっているのなら、質問する前に決意し、それを解消すべく努力することです。その上で「タロット講師になるためには、自分にはこの点が弱いと思っているが、どうすればよいか?」というようなことを先生に聞けばよいのです。
そうすれば講師を育てようと考えている普通の先生ならば、質問に答えてくれるでしょうし、少なくともヒントはいただけるはずです。
タロット講師になることを例にしましたが、ほかのことでも同じです。
最初の入り口では、質問も相手に勇気づけてもらえることを期待するようなものになっても仕方ありません。
しかし自分が目的を持ってその道を進んでいるのなら、決意を固め、具体的な方法や技術、心構えを質問していくことです。
ですから、「私が○○になれるか?」「私に○○ができるか?」というより、「○○になるにはどうすればよいか?」「○○ができるようになるには、どうすればよいのか?」という質問に変化させていくことが望まれるのです。
もしそのように質問を変換できない場合は、目的に疑問があったり、心から望んでない部分があったり、もっと細かく見つめるべき不安要素があったりするということです。
自分の質問自体に注意を払ってみましょう。
タロットリーディングを学ぶことは、こうした質問の仕方にも注意を向けることになるので、必然的にに自己の省察を行う(自分を深く見つめていく)ことにもなるのです。
葛藤のとらえ方。「月」のカードをヒントに。
葛藤があることはつらいですよね。
私もいつも葛藤だらけの人生を過ごしているようなものです。(笑)
葛藤にも日常のほんの瞬間的なものもあれば、何年にもわたって一種のテーマとなるかのような大きなものもあります。
よく「迷いのない人はすばらしい」と評価されることがありますが、確かに迷いのない人は決断も早くて爽快かもしれませんが、そういう人でも、そこに至るまでの葛藤があったはずですし、今後も新たな葛藤を抱えることになるかもしれないのです。
また迷いのないことばかりが必ずしもいいこととは限りません。葛藤には大きな価値があり、悩む人にも偉大な可能性があるからです。
さて、タロットカードでもっともこの「葛藤」を表現しているのが「月」のカードだといえます。
このカードには二匹の犬のような動物が月に向かってほえあっているかのように描かれており、それがふたつのものの対立や葛藤を示しているととれるからです。(マルセイユ版の場合)
また「月」は太陽の光を受けて輝いている存在であることから、何かの投影だと考えることもあります。
この「葛藤」と「投影(映し出されるもの)」というふたつの事柄を結びつけると、葛藤で苦しむ自分から脱却できる視点を持つヒントにもなります。
「映し出されるもの」といえば、鏡に映った映像を思い浮かべるかもしれませんが、動く影像、そしてそこにストーリー性があるものとしては皆さん映画やテレビドラマなどを想像されるでしょう。
私はシナリオ作成について少しかじったことがあるのでわかるのですが、ドラマの登場人物に最初から迷いのない平板な人物を描いてしまうと、とてもつまらないものになってしまうのです。
ドラマの場合、観客は、悩み葛藤する人物を見て感情を移入し、その葛藤を乗り越える過程と結果に心を動かされるのです。
ただの善人と悪人の争いなどは一番単純なストーリーであり、スカッとするかもしれませんが深みはありません。
たとえば善人のようでいても裏は悪人、悪人のように見えてもそうしなければならない理由と背景がある、また、どちらが善で悪なのかもわからない両者の葛藤があるというようなことになれば、見ているほうの興味と考察はますます深度が増していきます。
何が言いたいのかと言いますと、このように自分でははなく、人のこと(ドラマなど)であれば、葛藤があることは、むしろ面白い(笑う意味での面白いではありません)ことになってくるのです。
ここで主客逆転操作を自分でしてみると、自分の葛藤をもうひとりの自分がドラマを見ているかのように観察すれば、それは苦しさではなく、自分を成長させるためのドラマ装置なのだと気がつくことがあるということです。
もちろん苦しみの渦中にある自分に、そんな操作が簡単にできるほど単純なものではないのもわかります。
ただ、それでも葛藤の中に入り込んでしまって葛藤の渦の中でただ盲目的にもがき苦しむよりも、葛藤と自分自体を切り離して考える時間をもつ努力をすれば、迷いの出口への光が差してくるのではないかと思うのです。
このように考えれば、カモワン流での解決カードとしての「月」の読み方にも示唆が与えられることになります。
平たくいえば「自分の葛藤を見つめる」ということに帰するわけで、そのための方法が「時間」であったり、「対話」であったり、「沈静化」であったり、「浄化」であったりするのです。
葛藤をしているあなた、迷いの中にいるあなた、それはあなたの人生のドラマに深みを与えるためになくてはならないもの(時)であると思って、観客(神か宇宙か高次の自分か)を感動させるためにもう少しがんばってみませんか。