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痛みがあるからこそ、助かっている。

昨日、歯の治療をした時に麻酔をしました。

家に帰り、ご飯を食べようとするのですが、麻酔のため口内の一部に感覚がなく、少し噛んでしまいました。

そして、「なんか、血の味がするな・・・」と思ったら、なんと傷口からかなり血が出ていました。

それなのに全く気が付きませんでした。(食べるのは麻酔が覚めてからにしましょうね(^_^;))

そう、痛みがないから傷ついてもわからなかったのです。

この時私は、「痛みがある感覚というのはなんてありがたいことなんだ」と思いました。

痛みがあるからこそ、危険を知らせてくれるわけです。

このことは何も物理的(肉体的)なことに限りません。心・精神にも言えることです。

すなわち、心にも痛みが走るということは、何らかの危険や注意を示していると考えられるのです。


これは人に与えられた防衛システムであり、ありがたく感謝せねばなりません。

体の痛みにはある程度、目に見える部分があって、たとえその時点で見えなくても検査をすればわかります

けれども心の痛みは見えないですし、心理テストなどしてもわかりづらい面はあります。

だから放置されたり、一時的なものとして、対処することを怠ったりしがちです。

しかしやはり痛みがあるのですから、きちんとその痛みに向き合い、なぜ痛んでいるのか、痛みを覚えたのか追求していく必要はあるでしょう。そして何か原因があるのなら治療や対応をしなくてはなりません

しかも、肉体の痛みと同じように、いつも同じ状況、場面で痛みが起こるのならば、それはやはり要検査なのです。

ここで、よくありがちな、「痛みに耐えて強くなる」という考え方がありますが、やみくもに耐えてばかりでは、肉体の痛みを例に出さずとも、それが時に問題になることはわかると思います。

大切なのは痛みと向き合うということです。その上で耐えることもありますし、心理的な治療や浄化が必要なこともあります。

痛みには耐性と慣れが出ますから、痛みの原因がわかっているのなら耐えることで、痛みにはどんどん強くなって行きます

ここに辛い経験も糧になることがわかります。

一番いけないのは、ただ痛みから逃げ回ったり、わけもわからずマゾヒスチックに我慢したりすることでしょう。

ちなみにタロットは心の状態を映し出すものとしても有効な道具ですので、痛みを分析するのに使えることもあります。


1/17に思う。

兵庫県南西部に縁があり、実際今もこの地域に住んでいる私にとっては、1/17のこの日は、やはり特別な日となります。


あの日、阪神大震災は強烈な揺れとともに、いろいろなものを破壊していきました。


私自身の家も傾き、認定は「全壊」状態、何とか住むことはできたものの、大幅な改修が必要でした。


しかしながら当時の私自身は、うつ病と不安神経症からくる激越なイライラ感に苦しみ、本当に「いつ死のうか」と考えていた矢先のことでした。


そんな時に、あの地震が起こったのです。


結局、様々なものが混乱に陥ったことで、私は当時勤務していた役所に出勤せずともよいことになりました。心の病気の上にこんな状況ですから、仕事も無理だと判断されたのでした。


そのことで、結果的には自分が救われることになりました。何もかもが混沌とした中で、むしろ落ち着きが少しずつですが、その後自分の中に出てきたからです。


このあたりのことはまた日を改めて書かせていだきたいと思うのですが、死ぬことを真剣に考えてた私は、ともかくも震災によって助けられた形になったのです。


しかし多くの方にとってはまったく逆で、大切な方を亡くしたり、家や物、お金、人間関係、暮らし、生き甲斐・・・とそれまで築き上げていた、あるいはつながっていた大きな「何か」を失ったのです。


私も救われはしましたが、先述したように家は壊れ、怪我をし、お金も使い、知人で亡くなった方もいました。


そして16年


震災を受けた神戸、その他の地域も復興しました。

けれども震災の記憶も風化して行っています。それはある面、時代が経つにつれて仕方のないことでもあり、それでも忘れてはならないことと、反対に忘れてもいいこと、忘れたほうがよいこともあると思います。


今日、三ノ宮(神戸の中心地)の飲食店に入って食事をしていると、メモリアルウォーク(震災を忘れず、防災意識を高めるためウォーキングするイベント)に参加されたと思われる方々が楽しそうに、飲んで食べて語らいをしているのを見かけました。


皆さん、きっとそれぞれの胸には悲しい記憶、つらい記憶があるとは思います。それでも明るく、前向きに生きている姿に、神戸の活力、いや、災害や苦しみにあってもたくましく生きていく人間の力というものを感じました。


ところでタロットカードには「13」という苦難や破壊を象徴するカードがありますが、その次(数の順、タロットマンダラ)では「節制」が待っており、「節制」は「救済」を意味します。


自分が「13」という時代・時・状況を経験しているがゆえに、14の「節制」は人の苦しみ、痛みがわかります。そして「13」の時に手を差し伸べられたことも知っています。

ですから今度は自分が人を救う立場となっていくのです。


「節制」の二つの壺の水のやりとりは、人のお互いの交流・助け合いも象徴し、それがすなわち自他の救済につながっていくことが表されているのです。


またタロットマンダラでは、「13」の上は20の「審判」です。この位置の流れは、復活・再生を象徴しています。


その「審判」と、先に述べた「節制」との間に「L字状」に挟まれて存在するのが、完成を意味する「世界(という名前)」のカードであることも興味深いことです。


インドの話から。

昨日、関西で続いているカモワンタロットの勉強会に出席していました。


そこの常連の出席者から聞いた興味深い話をご紹介します。


その方はインドがお好きで、ヨガの勉強やその他のことでも何度もインドをご訪問されていらっしゃる方なのですが、やはりインドと日本ではいろいろな意味で、かなり異なるところがあるようです。


そんな中でも、貧富の差と申しますか、特に貧しい人たちの生きるパワー、術(すべ)というのは、それはすさまじいものがあるようです。


このあたりは私はまだ未見なのですが、少し前に話題になった映画、「スラムドッグ$ミリオネア」でも描かれているようです。

スラムドッグ$ミリオネア [DVD]/デーブ・パテル,アニール・カプール,イルファン・カーン

さて、そんな状況のインドで、その方はヨガの研修に訪れた時、研修施設に入るためにサンダルを脱いで置いていたら、たちまちのうちに盗まれ、気がつくと、別の場所で「売り物」として売られていたということです。


それも盗っているの貧しいは子ども達だそうです。たくさん履き物が集まる場所を知っていて、商売にして生きているのですね。


しかし、今回言いたいことはそんなことではありません。


この話には続きがあります。


その方が盗まれたサンダルは、100円ショップで買った安いものなのですが、それでも複数用意していたサンダルを何回も盗まれたそうです。


しかし、不思議なことに、一足一万円近くするような高級サンダルを置いていた人のものは、盗まれなかったそうです。


「高そうだからかえって避けられたのではないか・・・」と思うかもしれませんが、ほかの人のものでも値段の高低に関係なく、いつも盗まれる人と、ほとんど盗られることのない人、さらにはなんと一回も盗まれなかった人もいたそうです。


どうしてこんな差があるのでしょうか?


その人がインド人に尋ねたところ、「そいうカルマなので、あなたが盗まれることはよいことなのだ」と教えられたそうです。


つまり、ある人はそこで盗まれなくてはならないカルマ(の精算・因縁)があり、また盗られない人はそこには盗られるカルマや因縁がないということなのです。


また最初、その人は盗られてはいけないと思ってサンダルを持って上がろうとしたところ、逆に「人の責任を背負ってはならない」注意されたそうです。


盗られることがお互いのためにもなっており、よかれと思うことでも視点を変えればよくないと見えることもあるのだということでもあります。


この時からその方は、「すべてをあるがままに任す」という姿勢と態度を心がけ、「インドに本当の意味でなじむことができた」と語られていました。


これは極端な話とはいえ、何か「自然であること」や「ゆだねること」、「与えること」などの意味を再考させられる気がします。


このことはタロットで表すと、「運命の輪」と「」のイメージが浮かんできます。


まさに「運命にゆだねる」ということは、かなり視点や視野の違いでもあり、現実的・常識的に私たちは人のため、自分のためと思っていることでも、実はそれが大きなお世話であったり、ピントはずれであったりすることもあるのかもしれません。


自分の行為の影響というものはどんな形でか、またどんな時(時代)に及ぶのかなど、長期的・霊的にはとてもわかりにくいことです。


こういうことを思うと、あまりいろいろなことを考えすぎて、右往左往することは空しいことだといえるでしょう。


ですから私たちは今、この時この時を大切に、もっと気を大きく楽にして生きればよいのだと思います。


タロットにおける「占い」は「現実」的である。

私の場合、どちらかといえば、タロットカードは占いで使うというより、自分自身や物事を知覚して整理し、自らをさらに向上していくために使えることを伝えています。


けれども、タロットはあらゆることに応用が可能なツールですので、当然、一般的に日本で使われている「占い」としての道具としても非常に有効です。


それで、この占いに使うタロットの解釈と、先述した自分自身や物事を把握するために使うのとでは、実際には異なることも生じます。


いえ、タロットをどんなことに使うとしても、大きな総合的な意味では同じことを示すともいえるのですが、具体的・現実的になってきますと、多少の差異が出てくるのです。


たとえていえば、「人間」を「人」としてのくくりでみると、男性も女性も、年老いた人も若い人も皆一緒ですが、細かく見ていけば、国籍・地域・仕事・性格と様々な「人」に分かれていくようなものです。


ですから、あるフィールド(階層)で横に見た時は共通であっても、縦にレベルや次元を変えた時は同じものでも違うように見えることもあるというわけです。


それで、タロットを「占い」というフィールドに置いた場合、やはりそこには吉凶という判断が出てきます。


経験的にやっていくとわかりますが、ある特定のカードには正立であってもやはりあまりよくないことを示す、あるいは時には凶的な傾向を持つカードが存在します。(反対に、「吉」的傾向のものもあります)


しかしながら、たとえば凶的なものとして、それはよくいわれるような「死神」とか「塔」というカードには限りません。


そのタロット占い師、そしてその人の使うスプレッド(展開法)によって特定の意味を持つと考えられるものです。


これは現代的な理屈では説明しづらいものですが、私の感覚では、あるカードがある種のエネルギーと反応するような癖をもっているのではないかというものです。


それは自分の中にあるネガティブ(ポジティブ)なものと結びつく場合もありますし、タロットを習った時に「そのカードのこの状態は凶事(吉事)を示す」と教えられて、実際に何度か占ってその通りに出たことで、エネルギー的に反応がセッティングされたとも考えられるかもしれません。


あるいは、やはり長年多くの人に同じ種類のカードが占いで使われることにより、目に見えないデータレコードのように蓄積されて、そこに共鳴しやすくなっているとも想像できます。


「占い」という実際の場面では、このように吉凶判断的な意味を持つカードは確かに存在するといえますが、しかしながら、それもフィールドを抽象的に上げていく(象徴的に大きな視点に上げていく)と、結局は凶的なことも、吉的なことも、一緒に一枚のカードには含まれていることがわかってきます。


またなぜ、そのカードに吉を感じ、別のカードに凶を見るのかも根源的に理解できるようにもなるのです。


従って、実は占いというのは、タロットにおける現実(具体)なのです。


言い換えれば、高いものの象徴(イデア・精神の世界)を、下のわれわれの実際の世界(現実世界)に置き換えて見ていることになります。


最初にも言いましたように、タロットの世界は広く、いろいろなものに活用していくことが可能なものです。


ですから、占いだけではない使い方も意識すると、横だけではなく、縦の移動(次元・階層の移動)もできることになり、カードの意味もその分深めていくことができます。


それは取りも直さず、自身や世界・宇宙の理解につながっていくことになるのです。


あなたは満足していますか?

世の中が不況になってきますと、少しでも節約、節制という意識が出ます。


それはある面、仕方のないことでしょう。


収入が限られている、一定のものしかないという状態では、お金を有効に使うため節約していく(出る方をコントールしていく)のは当然の考え方です。


これはまさに、その名前の通り、「節制」のタロットカードに示されていることです。


このカードには、天使が二つの壺を持ち、交互に入れ替えている様が描かれています。


つまりひとつの限られた「水」を、二つの壺による「入れ替え」「工夫」によって有効利用しているわけです。


100万円あれば一切を無駄にすることなく、ここぞという集中性をもって、とても効率的に巧みに使い分けているようなものですね。


ここまで書くと、「節制」のカードの読み方も、ある程度わかってくるのではないかと思います。もちろん「節制」の解釈はこれだけではありませんが。


一方、カードの数の上では、「節制」の次の「15」に当たる「悪魔」というカードがあります。


確かに節約は大切です。しかしすべてに節約意識が働きすぎますと、気持ちまでが窮々としたものになって、ますますお金も心も窮する(不満足する)ことになります。


と言っても「ないものをどうしろというのだ」とお怒りにならる方もいらっしゃるかもしれません。


ないものは増やせばいい(入れる方を広げ、コントロールする)のですが、これはタロットでいうと、「節制」意識から「星」になるということでもあります。


ただ、今日はその話(増やすこと)ではありません。


現実問題、サラリーマンやアルバイトをしていると、なかなか収入を直接的に増やす道というのは難しいものです。(難しくないといわれる方もたくさんいて、そういった方は意識がタロットでいうと「星」になっています)


しかしながら、物質的には増えないかもしれませんが、精神的にはある程度は満足度、心の潤いの増減が可能です。


そのために重要なのが、タロットカードの「悪魔」なのです。「悪魔」にはいろいろな意味がありますが、ひとつには人の「満足感」に関わるものがあります。


そしてそれは自分の「満足感」を意味することもあります。


「節制」が行きすぎて、すべてが狭まり、余裕がないように感じられて苦しい時は、「悪魔」のように自分の満足(する心)に気持ちを向けてみるとよいでしょう。


具体的にはこういうことです。


食べたいものがあるのをいつも「節約」のために我慢している。


それを完全な満足とは行かないまでも、ほんの数十円上げるだけでも、自分が食べたいももの(満足)に近づくのならば、たまにはそちらを選択してみるということです。


回数や機会を決めて、今回のみ少しだけ贅沢というか、自分の望むものをしてみるという選択もありです。


我慢に我慢を重ねていくと、いつか潜在的に押し込められた不満が反動となって爆発することがあります。(大量消費や感情の乱れ、病気、人や物など何かへの極端な依存など)


一度でも心からの満足を選択することで気持ちが安定し、欠乏の中にもある種の余裕を実感し、ベクトルが豊かさの循環に変化していくこともあります。


そう、少ない中でも、自分の満足感を得ることと余裕が大切なのです。


「悪魔」のカードは悪魔自身も、またつながれている人も皆楽しそうです。


つながれているという実態(たとえば完全な環境ではない状態)はあるものの、その中で満足感は得ているのです。ちなみにながれてるい綱はとても緩く、このことから「余裕」を感じさせるものです。


「節制」と「悪魔」は天使と悪魔という意味でとらえられることもありますが、節約過剰と満足感という観点からは、「悪魔」のほうが大切になることもあるのです。


全体的な不満足感より、ひとつでも、ワンポイントでも満足を得られたほうが、気分的に楽なることはあります。


タロットカードの展開の中で「悪魔」がよく出る人は、自分が本当に満足しているか、自分に問うてみるのものもよいでしょう。


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