ブログ

経験してみないとわからない

「しょせんは経験してみないと、本当のところはよくわからない」とよく言われます。


私もまったくその通りだと思います。


頭の中で想像しているだけでは、仕事も恋愛も旅も食事も何もかも、ただのイメージに過ぎません。


それで「やった」気分、「なった」気持ちで語られても、実と心が伴っていないことになるのは明白です。


けれども、たとえば皆さん、眠ればを見られることでしょう。


夢を見ているときはたいてい「これは夢」だと意識せず(している場合は「明晰夢」として興味深いこととなりますが)、まるで本当に体験しているかのような気になっています。


目が覚めてはじめて、「ああ、あれは夢だったのか、よかった。。。」「残念! あれは夢だったのね」という具合になります。


つまり、それだけリアルに感じているということです。


バーチャリアリティも行き着くところまで行けば、どこまで現実かわからなくなってくるわけですね。


映画「マトリックス」でも、人々が本当だと思っている世界は、実は夢のようなものでした。けれども、その仮想世界で死ぬと、夢を見ている本体も死ぬことになっていました。これなど、仮想と現実が一体化しているようなものです。


このような設定は映画に限らず、漫画・アニメなどではかなりポピュラーなものといえるでしょう。


さて、最初の話に戻りますと、私たちはこの実社会で自分が自ら経験しないと本当の感覚はわからないと言いましたが、もしイメージや空想の世界でも、それが現実と区別をつかないようなリアリティをもった仕掛けや、体感覚(物理感覚)がともなえば、そこでの経験も現実とほとんど変わらなくなるということになってきます。


ということは、非常に濃密なイメージが抱けるようになれば、それは経験値を増すことに等しいということでもあります。


また引き寄せの法則や思考の現実化とは違った意味で、仮想経験のリアリティ感によって現実での再体験も容易になると考えられます(実に等しい経験は身になっている)ので、思いが現実化することも早くなったり、高くなったりするのだと推測できます。


イメージを鍛えるということはこのように特別な意味を持つのです。


そのツールとして絵柄のあるタロットは有用といえるかもしれません。


そして「経験してみないとわからない」という言葉は、二重の意味で真実味を帯びてくるのです。


うつの認識も変化し、また治療も変化する。

うつ」ということも、かなり社会に認知されてきたように感じます。


それと同時に、従来の範疇では収まりきらない「うつ」症状というのも現れてきているようです。


しかし、それは今現れたというよりも、前々から存在してはいたものの、うつ自体あまり社会に知られていないものだったので、ようやく「うつ」の世界が本当の意味で本格的に姿を見せ始めた(社会がとらえられるようになってきた)といえるのかもしれません。


たとえば、うつといえば元気がなく、文字通り抑鬱的であり、何もする気力も起こらないと考えられがちですが、プレッシャーやストレスのかかる(たとえば職場)から離れると、急に元気になって活動的になるという、一見怠けや逃避でしか見えないものもあるようです。


そうした人には、これまでいわれてきたような「励ましてはいけない」「がんばれというのは禁物」「外に無理に連れ出してはいけない」ということが必ずしも当てはまらず、むしろ状況によってはそれが好転のきっかけになることもあると聞きました。


そういえば、私自身も何もやる気や力が入らない、いわゆる典型的なうつ症状の時がありましたが、それとは別に特定の時だけうつ症状がひどくなり、ある場面になると普通に近い元気さが戻ってきていたということもありました。


そうかと思えば自分の身が崩壊してしまうよなう恐ろしい不安症状や、いても立ってもいられない激越なイライラ感にも悩まされた時期があります。この時は活動的ともとれるほど外に出ていました。というより、じっとしてられないので、外出せざるを得なかったというのが本音ですが。


このように考えてくると、「うつ」と一口に言っても、その裏には様々なタイプが隠されているのがわかります。もっと細かい分類がいるのかもしれません。タロットでいえば小アルカナで細分化していくような感覚です。


おそらく「うつ」も物理的には脳内物質の分泌異常だと思えるのですが、脳内は複雑です。


脳自体も危険を認識して、なんとかバランスを保とうと必死で調整しているはずなのですが、その過程や回復作用の困難さで、いろいろなものが症状として現れてくるのではないかと想像できます。


いずれにしろ、うつや心の問題はまだまだわかっていないところがあるので、うかつに自己判断してしまわないことと、他の人も単純にパターン化して考えないことが大切だと思います。


逆にいえば、今の治療以外のものでも活路が見いだせる可能性が多くあると予想できます。「私のうつはもう治らない」とあきらめることはまだまだ早いのです。


先ほど「パターン化して考えない」とはいいましたが、それは安易にあてはめないということであり、医師や専門家の人にはどんどんとパターンを細かくわけていってほしいと思います。


そうすることで今度はそれを再統合していく中で、今までとは違ったパターンが現れ、そこから有効な治療に結びつくこともあるかもしれないからです。今まで見えなかったつながり(共通点・要因)が見えてくるという感じですね。(これはタロット的な考え方です)


もちろん私などの素人が考えるようなことは、すでに医師の方々は行っているのでしょうけれども。。。


今うつで苦しんでいる人は、医師の相談のもとで、違った治療などのアプローチ、たとえば薬だけではないもの、場所や家、人の環境、フィジカル、食べ物、鑑賞するもの(映画・絵画・風景)、ストーリー(本・影像など)等、様々なことから取りかかれることもあると想定してみるのも何らかの出口の発見につながるかもしれません。


私ももがきながらも、なんとか「うつ」と「不安神経症」から回復しました。皆さんにも回復が訪れることを願っています。


占いでもない、セラピーでもないタロットの楽しい使い方

タロットって聞くと、まずは占いとイメージする人が多いですよね。


それからちょっと詳しい人になってくると、自己分析とか自己実現のツールとして心理的・スピリチュアル的にも使えることを知っています。


まあ、このブログはそれを中心として書いているわけですが。


しかし、タロットは特にヨーロッパではもうひとつの使われ方が一般的とも聞きます。


それは・・・タロットをゲームの道具として使うというものです。


いわばトランプ(プレイングカード)みたいなものですね。


そもそもトランプはタロットと縁が深いといわれており、どちらかがその元になっているという説もあるくらいです。


トランプという言葉も本来は「切り札」という意味で、プレイングカード(私たちのいうトランプ)のうち、まさに強い切り札となる特定のカードのこと指していました。


そしてタロットでもトランプ(切り札)に当たるものがあり、それが大アルカナのカードであることもあれば、「愚者」一枚を意味することもあります。


タロットでも切り札があるのは、奥深くには大アルカナの重要性と愚者の特殊性にあるといえるのですが、単純には先述したように、ゲームとして切り札のカードが必要であり、機能するからです。


タロットになじむ方法として、もしかすると最良なのはゲームなのかもしれません。


個人的にはタロットがゲームとして流布したのは、ある意図があったのではないかと推測していますが、それはここでは述べないことにします。(タロット講座やタロットお話会などでは説明しています)


ひとついえるのは、ゲームというものは単に遊びの要素だけではないということですね。あと、ゲームだからこそ広まるということもあります。ヒントは「手品師」のカードです。


で、私のほうもまた違った形でタロットに親しみたいため、タロットゲームを体験してみることにしました。


タロットゲームも国によっていろいろな種類があり、使われるタロットも様々みたいです。


ただヨーロッパではポピュラーなタロットゲームですが、なかなかにどれもルールは複雑なようです。文章の説明だけではわからないところが多いのです。


ということでフランス人の(日本語のできる)方にタロットゲームを教えてもらうイベントに行くことにしました。


タロットを使ったゲーム、私自身とても楽しみにしているところです。


まじめタイプと自由タイプ。

長男(長女)・次男(次女)タイプといいますか、漫画やドラマなんかでも、誠実でまじめなAさんと、その友人でちょっと型破りで自由人というような図式はよくありますよね。まあ、秀才タイプ天才タイプみたいなパターンともいえます。


で、たいてい、まじめなタイプの人はいつも完璧だったのが、ここ一番で失敗をおかしたり、実は暗いネガティブな問題を抱えていたりしますし、一方の自由タイプの人は、普段はいい加減なのに、裏側では結構まじめで努力家という面をもっていたりしますよね。


もうひとつおまけに、この両者がともに同じ好きな異性がいて・・・で、最初はともかく、結局好き合うのは後者の自由人タイプの人という結末がお約束(笑)みたいになっています。


女性側のストーリーだと、何でもできる女性的で優秀な人より、欠点だらけでドジだけど明るくがんばる女の子がイケメン・ハンサムくんから愛されるというお決まりの王道でしょうか。(笑)


まあ、これらは何を示しているのかといいますと、人間、欠点を最初から見せていたほうが魅力的にみえる(ある意味、楽である)ということですね。


普段からまじめで完璧主義を押し通していますと、ほんのささいな間違いや失敗(と自分で思うもの)をやらかすだけで「えー、あの人が、信じられない!」とか、自分でも「こんなはずでは・・・!」と失敗の事実以上に悪い方に拡大解釈(印象の拡大化が)されてしまうのですね。


逆の場合は、「まあ、あいつのことだから・・・」と失敗しても笑ってすませてもらえますし、反対にちょっといいことをすれば普通以上に評価されることもあるわけです。


理不尽ですよねぇ。。。実は私もこういう物語を見ながら、自由タイプの主人公の活躍よりも、まじめタイプの悲哀をいつも感じていました。まあ、私がまじめタイプだからにほかなりませんが。(^_^;)


期待を背負って一生懸命がんばっているのに、天才タイプにはかなわないし、時には好きな人にふられたりもする悲しい役回りですよね。

そうかと思うと、やたら根性と努力(そして友情)で天才を超えていくというスポ根的な物語も日本には多くあります。

タロットでいえば「愚者」が自由人タイプで「正義」がまじめタイプ、そしてもともとの天才や、カリスマ的な存在は「悪魔」といえるでしょう。

日本で自由タイプとまじめタイプが比較されて、自由タイプが魅力的に主人公として描かれるのは、心の奥底で皆、自由タイプを欲しているからだと考えられます。つまり逆にいうと、まじめタイプで生きている人が多いということです。

また努力・根性もので成功していく物語も、これの裏返しといいますか、根は同じといえます。ようするにもともとの才能よりも、特段優れているわけでもない一般人でも、努力すればやれるのだということであり、まじめタイプを評価したいのです。

人は確かにある程度のタイプや個性は明確に出るものではありますが、もっとつきつめれぱ実は誰しも「自由タイプ」と「まじめタイプ」は一人の中にもっているものといえます。

環境や生育、生まれた時から持つ資質によって、自分の中の「ある特徴」が色濃くは出ますが、決して他のタイプがないというわけではありません。

それがタロットでいう大アルカナ22枚の元型です。

先の例でいえば、「愚者」も「正義」もあなたの中に存在しているわけです。

とかく「愚者」が人々のあこがれとして評価されがちですが、それは多くの人が正義的なことをよしとしている社会や生き方になじんでいるからです。そうでなければ混沌とした社会になってしまうこともあります。

どちらがよくてどちらが悪いというものでもないのです。

「正義」の人はそれが強すぎると、一時的には社会から評価を与えられますが、自分自身を生きるのにはいずれ苦しくなってきます。

反対に「愚者」が強い生き方をすれば、社会からは一般的に排除されがちですが、時としてものすごい評価を受けたり、革新者として悪魔のようなカリスマとしてもてはやされることもあります。

大切なのは自分の中の「正義」や「愚者」を見ていくことです。「正義」の人にも「愚者」います。それは社会と離れた関係の際に立ち現れてきます。

たとえば環境の変化、病、恋愛、留学、旅、自分一人になった時などの危機や変動、それまでの日常から離された時空に投げ込まれた時です。

こういう状況はチャンスです。「正義」のあなたにも「愚者」がいることを認められるからです。

ただあなたに長年貢献してきている「正義」のペルソナ(個性)も、それはそれでとてもよい「やつ」なのです。あなたと社会をつなぎ、他人からの評価を得るために、いわばあなたを守護してきたともいえます。

けれども、それが強すぎて、ほかのあなたの個性を正義の剣で殺してしまっていないか確認してみましょう。

そして誰かの評価を受けるための正義ではなく、自分のための正義として今度は転換していくことをお勧めします。

何も完全に「愚者」タイプになる必要もないですし、「正義」をやめることもないのです。すべては自分の中にあり、バランスよく、ほかの部分も認識して登場させながら、自分自身の統合を再度図っていくことに価値があるといえます。

そのためにタロットがあると言っても過言ではないでしょう。


出口や突破口はある。

八方ふさがりという言葉があるように、もう何も手立てはない、万策尽きたように思えることがあります。


そのような場合、確かに「やるべきことはやった」「考えられることはすべて考えた」と感じていることでしょう。


しかし、たいていは起こっている問題状況が深刻、あるいは問題に翻弄されているため、一種のパニックになって落ち着いた時ならば見えるものも、実は見えていないということもあります。


ところで、タロットには「吊るし」というカードがあります。


「吊るし」(マルセイユ版)は二本の柱の間の木に、人物が逆さまに吊られているかのように見えるカードです。(本当は吊られているのではありませんが)


この「吊るし」も問題状況においては、苦しい閉塞的な状態だと読めることもあります。(通常は安定性や落ち着きも意味します)


そう見ると、手は縛られ(手は見えていませんが後ろ手で見えなくなっています)、顔まで苦悶にゆがんでいるようにも感じられてきます。(逆位置にすると余計そう感じられるから不思議です) まさに八方ふさがりです。


ところが、よく見ると「吊るし」の人物の頭(吊るし状態の逆さまの姿勢が正立なので注意)の方向は木に囲まれていませんし、地面があるようでいて土は見えていません


ということはひとつの方向には出口があるとも考えられます。


それは逆さまになったからこそ見えてくるものであり、また落ち着きや冷静さ、一種の諦観(高次のあきらめ・手放しの心境)状態になればかえってわかってくるということも「吊るし」は表しているのかもしれません。


ですからもうダメだと思っていても、必ず突破口はあると吊るしを見ながら考えてみてください。そもそも吊るし状況(苦境)自体が大きな意味では解決につながっているということもあるのです。


映画「ショーシャンクの空に」では、主人公があきらめず刑務所からの脱出ほか、自分にふりかかった苦難を克服していきました。 


また先日のチリの落盤事故で閉じこめられた33人の方も、ひとつの穴が通じていたために最終的には命をつなぎとめることができて、救出に至りました。


それから八方ふさがりという状況ほどではないにしても、何か自分のこれまでの知識や感覚では解決しない問題、煮詰まってしまっている事柄、スピリチュアルな観点からの考察などが必要ではないかと感じはじめている方にも「吊るし」は示唆を与えてくれます。


そう、「吊るし」はいわば日常に対する「タロット」であり、問題を解決するために出すカードがあるカモワン流展開法の根拠ともなっているカードなのです。



今ならカモワンタロットによる書面対面リーディング 、または書面スカイプリーディング が3000円でご提供できます。書面対面リーディングは残りあと2名です。


Top