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サッカーの神とタロットの霊
毎度サッカーネタですみませんが、なにせ、もともとサッカー好きなもので。。。しかもやっぱり昨日の日本代表の話にふれないわけにはいきませんよね。(笑)
サッカー日本代表、惜しくもPK負けを喫してしまいましたが、あの試合に限らず、今回の日本代表を見ておりますと、やはりサッカーファンの間ではまことしやかに語られる「サッカーにはサッカーの神がいる」という話を信じたくなります。
サッカーの神とは、サッカーの試合でたびたび信じられないような奇跡や考えられないような結果が起こることがあり、どうにも超越的な何かが試合を差配しているのではないかと思えてしまうことから、その存在を語られるものです。
またその他にも、サッカーの流れ全体において、あとから考えると何らかの大いなる意志が働いているたとしか思えないこともあるため、そこでサッカーの神がいると想像されることもあります。
サッカーの神は、時に残酷な神である場合もあれば、女神として奇跡を起こすこともあり、ひとつの色では語りきれないものです。
日本代表でもドーハの悲劇(94’アメリカW杯アジア予選ギリギリ敗退)、ジョホールバルの歓喜(98’フランスW杯第3アジア代表決定戦、W杯初出場)、02’日韓W杯決勝トーナメント初進出、06’ドイツW杯惨敗に近い一次リーグ敗退、そして今回のパラグアイ戦でのPK戦までもつれ込む死闘・・・と見てきますと、
あまりにも偶然と考えるには不思議な流れがそこにはあります。まるで日本サッカーを苦難と快楽の繰り返しによって鍛えているとしか考えられないほどです。
このように見てきますと、サッカーの神というか、サッカーの精霊みたいな存在を仮定してみたほうが面白いといえます。
しかしながら、ひとつだけいえるのは、その精霊が働くのも、選手たちが全力をぶつけ合うものすごい試合であったり、日頃から努力した者たちに試練と恩恵を与えているような気がします。
さて、そこでタロットなのです。(前振りが長くてすみません...)
タロットにも「タロットの霊」と呼ばれるある見えない存在がいる とお話しました。
タロットリーディングは私たち人間と、そういった精霊とも呼ぶべきものとのコンタクト・共同作業によって行われます。(毎回毎回そうとは限りませんが)
この「存在」とは特別な方法によって交流を図らねばならないと言われていますが、しかし、そこまでではなくても、タロットに真剣に向き合う時、タロットの霊の働きも発動しやすいと私は思っています。
タロットへの熱意、思いがタロットの霊を動かすとでもいいましょうか。
そして、これまた「サッカーの神」と似たように、少し気まぐれであったり、女神的な場合であったり、いろいろです。
ただその根源としては一つであり、そこから「化身」としてリーディングの問いや状況によって様々な性格で現れるのだと感じています。
こうして様々なタロットの世界の感覚を受けつつ、サッカーと同じく、私たちはタロットによって鍛えられているのかもしれません。
やがて祭りは終わり、また現実生活に私たちは戻ります。けれども、サッカーでもタロットでも、特別な非日常的空間、思いの世界にいたことは自分の記憶に残り、見えざるエネルギー・認識の基を貯蔵することになります。
それが今度は日常での視点を変えるきっかけとなり、今までとは異なる自分に変容させることにもなるのです。
キツイことを言わねばならない時。
前回は、 人を傷つけないためにも 「図星をいきなり言わない」ということをお話しました。
それでも本人のためには、時には厳しいことも言わなければならない場合もあります。
それには、
本人との関係を十分につける
ということが前提条件として必要です。
本人との関係、つまり心理学用語でいえば「ラポール」を築くことに当たり、お互いの信頼性や親密性を作ることを意味します。
ラポールがついていますと、少々のことでも人間大丈夫なものなのです。
たとえば「君って笑えるよね」と言われたとします。
これがとても親しい間柄同士なら、自分も「そう、私ってちょっと変でしょ、アハハ」と笑って好意的にとることもあるでしょうが、逆にあまり親しくない関係だと、「どこがですか!? 失礼な人!!」と不愉快な気分を感じてしまう可能性が大です。
お互いに信頼していればキツイことを言われても(あるいは言っても)、「自分のために言ってくれているんだ」と感情的に納得することができます。
このことは、私が使うカモワン版マルセイユタロットにおいても、人にものを伝えることを表す「法皇」のカード前(タロットの番号順)に、相手を受け入れるための「斎王」(ほかのタロットでは「女教皇」に該当)というカードが存在していることからもわかります。
ラポールがついた関係を築くには、それなりの時間がかかります。特別な場合を除き、普通は会った瞬間に相手を信頼するなんてことはありえません。
相手に受け入れてもらうための時間と関わりが必要なのです。
そして十分に関係がついたと思えたところで、相手にとって少々耳が痛いかもしれないけれども相手のためになることを語るのです。
ただ、この時もまだ多少の配慮がいります。自分では関係がついていると判断していても、相手はそう感じてないこともあるからです。
また信頼関係があっても、やはりモノの言い方によっては相手を傷つけることにもなりかねません。
ですから「ここがダメ」という否定でのもの言いよりも、「こうすればいいと思うよ」というように、できるだけ積極的・肯定的方向で言ったほうが相手も傷つきにくくてよいでしょう。
やるべきことや、誤りなど、実は本人にはもうほとんどわかっていることなのです。従ってそのことを言われるだけでもかなり「痛い」ことだと言えます。結構相手に配慮したつもりでも、思いの外言われた本人には応えているものです。
とはいえ何事も避けてしまう事なかれ主義でいては相手のためにもなりませんし、そもそも痛いことを避けようとするのも、相手ではなく自分に問題がある場合もあるのです。(自分こそ問題を直面することから避けているケースあり)
このあたりは難しいところではあります。
結局のところ、相手のためを心から思う誠意によると私は思っています。
図星は痛い。
タロットリーディングには、自分を占う場合意を除いて、いくつかのリーディング技術とは別のものが求められます。
そのひとつがコミュニケーション技術だといえるでしょう。
タロットに限らず、対人相談援助を行う人にとっては無視できないものです。
さらにコミュニケーションの技術の中にもいろいろなものがあるのですが、今回はその中でも、一般的にも「これを考慮しておくといいですよ」的なものをご紹介したいと思います。
それはひとことでいえば、
いきなり、図星のことをストレートに指摘しない
ということです。
人は自分でもわかっている(マイナスと思っている)こと、恐れていることをズバリ言われてしまうと、動揺して心の中はパニックになります。
昨日の話 ではないですが、普段薄々思っていることを指摘されたことにより、感情が自分の中で爆発します。
それを収めるため、何とか理屈づけようとするのですが、言われたことは結構当たっていると心で感じているため、うまく論理で抑えることができません。
そのどうしようもない瞬時の葛藤が、言った相手への否定という形で組み直されるのです。
つまり、「相手は間違っている、間違ったことを言われれば私が混乱するのは当たり前だ」と自分に理由づけることで、とりあえずの落ち着きと取り繕いを行うわけなのですね。
これだけならまだしも、相手への否定は、「ホントにとんだことをいう人だ、一時的とはいえ傷ついてしまったではないか、どうしてくれるんだ!」 と今度は相手への反感や憎悪、敵意へと変わっていくのです。
もうこうなると、その人がいくら本当のことやいいことを言っても、心は聞く耳を持ちません。相手は自分にとって悪人と判定されたのですから。
人は感情の生き物といわれているように、いくら正論でも心が受け入れられないと感じたならば、それを受容することはできないのです。反対にとても正論とは思えないものでも、気持ちが納得すれば人は受け入れます。
私も実はこんな仕事をしながら、普通の人間関係において、何度かこの失敗をしてしまったことがあります。(昔は、しゃべりすぎでちょっと一言多いタイプでもありました)
このことは簡単なようでいて、意外に親しくなったという油断から出てしまい、それまで築き上げてきた両者の関係を崩すことにもなりかねないので注意が必要です。
また自分では何気ない指摘をしたようでいて、知らず知らず、相手を傷つけていることがあるのです。親しき仲にも礼儀ありでしょうか。
では耳の痛い話や正論を聞いてもらうのにはどうすればよいかという話については、次の記事で書きたいと思います。
タロットによる感情の整理
この前の 続きになります。
ある感情が(右脳で)発生して、その収まりをつけるめために、人は理屈を左脳でつけたがるというようなことをお話しました。
そして理屈が脳をうまく丸め込む(笑)ことができれば、もやもやした気持ちにもめどが立ち、気持ちの整理がつくということにもふれました。
私たちはささいなことも含めて、日常的にこのようなことを行い、動揺を沈めながら生活を送っています。
しかし、どうにも強烈な体験や理由のつけられない(頭で理解できない)ことが起これば、脳がそれを整理することができず、トラウマのような形で残り、時にはフラッシュバックや人格分離さえ生じさせるといわれています。
一方、では普通程度の出来事だと大丈夫なのかというと、そうとも言い切れないところがあります。
それは自分をごまかし、嘘の言い訳をついて、とにかくも右脳を一時的にだまらせるようなやり方をとっている場合です。
たとえば劣等感と呼ばれるものがあると、それをごまかすために、いろいろと理屈をひねり出します。
最初は、自分には能力がない、お金がない、時間がないなど、ないないづくしから始まり、さらには、相手が悪い、親が悪い、上司か悪い、会社が悪い、社会が悪い、世界が悪い・・・と外への非難に向かって、最終的には自己の存在すら否定することで、感情のいらいら感、もやもや感を収めようとします。
いわゆる不幸自慢というのもこのからくりに似ています。自分を不幸だと理屈づけることで、自分の今の状況の不満感情に折り合いをつけようとするのです。
時にはそれが攻撃的なものへと変貌し、理屈が理屈を呼んで、「オレが不幸なのもあいつのせいだ」「社会のせいだ」と幻想し、自分をおとしめていると理由づけた対象に対して、異常な執着を見せることもあります。
ここまでとはいわないまでも、意外にも人は、「まあ、仕方ないよ」と「仕方ない」理由をつけて、いつも同じ事を簡単あきらめてしまう理屈づけにより、感情を麻痺させることも少なくありません。
そうなとる、日々一時的ごまかしを続けているようなものですから、本当の意味で処理できていない感情は行き場を失い、潜在意識に乱雑に押し込まれることになります。
「ちりも積もれば山となる」ということわざがあるように、それらも蓄積が続くと、突如表面に躍り出て、今度はどうしようもない暴風雨として暴れ狂うこともあるかもしれません。
また、貯められている混乱感情が磁場となって、同じような混乱した状況を引き寄せることもスピリチュアル的にはあるといえるでしょう。
ですから、ここにセラピーや浄化の意義が出てくるのです。
これらの整理されていない、あるいは偽の理屈で押し込められた感情を、きちんと再び取り出し(向き合い)、ラベルを貼って整理棚の中に収めていく手続きをする必要があるのです。整理ですから、時には消去していくものもあるでしょう。
このようにして本当に収まりがついた時(真の意味で理由をつけることができた時)、非常にクリアーで前向きな気持ちになることが可能となるはずです。今までは重しを抱えていたようなものなのですから。
ごまかしの理屈は自分でも(忘れようとして)気がつかないこともありますが、薄々普段感じていることもあります。
タロットはこの感情の整理に役立てることができます。なぜならば、タロットに示された絵柄と象徴があなたの心を映し出す鏡となるからです。
そうしてタロットという鏡を見ながら、あなた自身、ゆっくりと埋もれていたものを整え、再編成していけば、目に見えない負担が減り、きっと気持ちの上でも余裕といい変化が見られることになるでしょう。
結果主義と過程重視について
人は思うに、「効率主義」と「非効率でもよいとする」大きなふたつの考えで生きているような気がします。
それは結果に重きを置くか、過程に重きを置くかの違いと言い換えてもよいかもしれません。
スポーツやビジネスの世界ではほとんど前者に価値が置かれます。
たとえば今のサッカーW杯で、予選を順調に勝ち抜いてきた優勝候補の国でも、負けてしまえば本国のサポーターから叩かれたりしますし、まったく売れない営業マンが、営業セールス術を話しても誰も耳を傾けはしないでしょう。
また誇張した話にはなりますが、「たとえ悪いことをしても見つからなければOK」だと思っている人、「人をだましてでもお金が儲かればいいんだ」という結果がすべてという人もいるでしょう。
これらのことを聞くと、皆さんはすぐに悪い部分を指摘することはできると思います。そう、あまりにも極端だから間違っているのだと。
ところが、これくらい極端であればすぐ理解できるのですが、普通はそうそう激しいコントラストがある場合は少なく、私たちの多くは結果主義と過程重視の微妙なその間で生きているといえます。
ですから、「今の自分はどちらの方向が正しいのか」と悩むことも生じるのです。
結局このことは、「自分にとって正しいものはひとつでしかない」という思いこみによる悩みだと考えられます。
「今の自分には結果を出すことが正しい」と思う心と、「いや、努力している過程も大切で結果はあとからついてくる」という心とで葛藤が起きており、その決着が現時点ではつかないので迷うことにもなっているのですね。
ですから「正しい」と思うのではなく、どちらも成長の要素では大切なものがあるし、両方を複合した考えを自分に認めていくことだと感じます。
以前にも書きましたが、 すべてのものはバランスが極端にどちかに傾き過ぎれば、自然に元に戻ろうとする力が働きます。振り子のようなものです。
従ってひとつのことに思い詰めると、反対側のことを求める心、その考えと正反対のものが出てくるのも自然の流れだといえます。
「正しいものにこだわらない」ことを先述しましたが、別に正しいと思って進んでも構いません。その時はそれなりの確信のような気持ちがあるからです。この「確信」的な強い気持ちが生じないうちは、迷いのままの行動となって、結果は難しいものになってくるでしょう。
けれども、その時は過程を重視すればよいのです。迷いながらでもひとつひとつこなしている自分、あるいは迷っているそのものの自分を見つめることに焦点を当てるのです。この時は結果にはこだわらないほうがよいでしょう。
皆さんにイメージしてほしいのは、らせんの動きです。
結果や過程という両極端の狭間で、右や左に行き戻りつしながら、結局同じような道を進みながらも、気がつけば以前より少し上の視点(あるいは下の実際的視点)に行き着いているのです。
立体的にらせん運動を想像してみれば、自分が以前とは異なる地点にいることが確認できるでしょう。
つまりはらせん運動によって、輪が何重にも広がっていき、人間としての幅が増えるということです。それこそが自己成長だともいえるのかもしれません。
ただ、悩み迷って何もしないまま、あるいは何も意識せずにただ流されるだけの生き方をしていると、自分自身をある心の地点に縛り付けていることと同じになります。それではらせんの動きにはなりません。
自然の反動が起こるとはいえ、それではただの左右運動に終始するおそれがあります。
悩むことには価値があります。しかしだからといってある考えに固執したり、反対に思考や知性、自己省察などを無視して、ただ感情の心地よさのみに生きることは、とても怖いことだと私は思います。