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カードによる心の整理のメカニズム
この記事 での意味や方法について、少し反応もありましたので、シンプルですが加筆したいと思います。
タロットを使う心の整理法のカギは、大アルカナという22枚のカードにあります。
カモワン版マルセイユタロットにおいては、「タロットマンダラ」と称される大アルカナカードが番号順に並んだ表があり、それを使用すると便利です。
このタロットの並んだ図表はあまりにも奥が深いので、ひとことでは到底語りきれるものではないのですが、それはともかくとしても、大アルカナが全部整然と並んでいるものなので、事柄をカードに当てはめることをするのには、見た目にも大変使いやすいものなのです。(カードを取り出していちいち並べる必要がありませんので)
さて、自分の気持ちや事柄をタロットに当てはめていくとなぜ整理がついてくるのかということですが、その仕組みを説明します。
私たちは目に見えないことや説明のつかないもの、理解のできないものに対しては恐れや不安を抱きます。
それは自分の支配下に収まっていないので、得体の知れないものに恐怖感を感じることに似ています。
一方、カードは「絵」として目に見える「形」なので、それだけで安心感があります。
そして、自分の中に落とし込めなかった、あるいは理屈づらけられなかった感情や事柄が、カードの絵と象徴・意味によって分類されていくのです。
いわば世の中や世界の整理棚がカードによってできるようなものです。(余談ですが、「世界」という名前のカードがあるのも興味深いところです)
つまりは極端なことをいえば、カードによってあなたは世界(自分の感じている世界)をコントロールしたような気分になってくるのです。
カード(大アルカナのみでよい)に気持ちや事象を当てはめていくことで、カードの中にあなたの世界が内包されていくと言ってもよいかもしれません。
タロットと関連のあるトランプでも「手の内にある」という表現を使うように、カードによってあなたの中で収まりきらなかったものが収まり、感覚的にはまさに「手の内に入る」「コントロール下に入る」ことになってくるのです。
もちろん全部が全部というわけではないのですが、少なくともカードを知らずに混乱していた時よりも、かなり整理されて、心や事柄の収まりどころがましになっているはずです。
このためには絶対に必要な条件がひとつだけあります。
当たり前ですが(笑)、それはタロットカードを知ること、学ぶことです。
カードを知らなければ、ほかのものをカードに当てはめることができません。
タロットでなくても同様のことはできますが、私が言うのもなんですが、タロットは本当によくできたもので、このような整理道具としての使いやすさは一級品だと思っています。
知らないことを知っていることがマジック。
タロットカードには、「手品師」(ほかのタロットでの一般的な名称では「奇術師」「魔術師」)というカードがあります。
マルセイユ版の図柄では、ある人物が手品(奇術)をして人々を楽しませています。
そう、まさに「手品師」が描かれているのです。
当然手品ですから、タネがあります。しかもこの手品師はイカサマを賭博をしているという説もあるくらい、タネおおありなのです。(笑)
しかし知らない人はだまされて手品に魅了され、お金をまきあげられるのです。
でも、もしかすると納得ずくの人も観客のうちにはいるかもしれません。
そういう人でもその手品のタネを知らないから楽しめるのであって、その楽しんだ料金を手品師に支払っているわけです。
インターネットなどをよく見ていますと、いたるところに情報商材の販売サイトを目にします。
それが商売として成り立つのは、普通は知らない(と一般の人が思える)情報を売っているからです。知っていたら当たり前ですが、誰も買おうとはしません。
つまり知っていればなぁ~んだと思えることが、知らない人にとっては大きな価値を持つということでもあり、仕組み(タネ)がわからなければ、その人には「魔法」(マジック)のように見えるのだということでもあります。(これは本当に「魔法」の原理でもあります)
そのことをタロットの「手品師」はよく表しています。カードには商売のヒントさえ隠されていたのですね。
あなたも一般にあまり知られていないことを研究するか学び、それをウリにするとまさに「売り」になり、カードの「手品師」のように人々の注目を集められるかもしれません。
そしてネタは意外にも足下に転がっていることを、カードの手品師の視線が物語っているようにも私には見えます。
カモワン版マルセイユタロットを学んだ方は、さらに隣が「愚者」のカードであることに注目してみると、とても面白いことに気がつくでしょう。
タロットを使って心を整理していく。
かつて私がタロットを習い始めた頃は、神経症とうつ病からほぼ回復したと言ってもよい時期にいました。
いわゆる「寛解」といっていい状態ですが、しかしまた再発するのではないかという不安と、大きく自信を失っていて、これからどのように生きていけばよいのか模索している時でもありました。
(ちなみに「寛解」というのは症状がなくなって、何とか普通にコントロール可能な状態のことをいい、完全に治癒することとはやや意味が異なります)
当時は少人数でタロットを習っておりましたので、タロットの先生に講義のあと、特別に個人相談の時間など取っていただくことも可能でした。
先生と心身のことについてお話しておりますと、
「せっかくタロットを習っているのだから、それを活用したみたらどうだい」
とご提案されました。
「タロットをどう使うのですか?」
と私がお聞きしますと、先生は
「タロットで自分を徹底的に見つめていくんだよ」
と答えられました。
とはいえ、この時私はまだタロットを習ったばかりで、リーディングもほかの同期の受講者さんたちに比べてうまくできず、「自分にはタロットは向いていない」 とさえ思っていましたので、先生のアドバイスにも前向きには聞けませんでした。
けれども、一通りのタロットの学びを終えますと、タロットへの興味も相まって、あの時に先生がおっしゃられていた方法を自分なりに試してみることにしたのです。
先生は特に詳細に方法をお話されたわけではなかったのてすが(「自分で考えてみることも勉強」とお話されたので)、私は「おそらくこういうことではないか」と当たりをつけて実行してみました。
それは「ある規則に基づいたタロットカードの並びと自分の気持ちを当てはめていく」というようなものが中心で、そのほかにもタロットを実際展開してリーディングしたものを記録に残して、あとで検証する(当たっているかではなく、どうすればよかったかの観点からです)というようなこともやりました。
ほかにも本を読んだこと、人から話を聞いたこと、映画やテレビで見聞きしたこと、日々の心の動きなどもタロットでなるべく当てはめて考えていくようにしました。
すると、何か動揺したようなことがあっても、自然とタロットを思い浮かべることで心の整理がつきやすくなってきたのです。
「ああ、これはタロットでいえばこういうことだな」「なるほど、大変だけれどもこれがタロットカードの○○が示すテーマか」といった具合です。
こうすると不思議なもので、以前よりずいぶん落ち着きや楽しさが出てきたのを実感できるようになりました。
気がついてみると、心の調子がよくなっただけではなく、タロットリーディングの技量そのものも上達していたのです。
もちろん、ちょうど鬱病から回復して落ち着きを取り戻しはじめていた時というのもあるでしょう。
ですからこれだけで「タロットのおかげだ」と断定できるわけではないかもしれませんが、少なくともこの過程を通じて、それまでよりずいぶんと気持ち(と物事)の整理がつきやすくなったのは事実です。
タロットが自己観察、自己実現に使えるということを私はこの時、身をもって知ったのでした。
私は思います。このタロットを学ぶと、大なり小なり、確実にあなたの中の何かが変化します。
それは些細な変化のこともあれば、私のように人生そのものが変わる人もいらっしゃるでしょう。
これが数百年に及ぶ伝統を有するこのタロットの効果なのだと私は感じます。
サッカーの神とタロットの霊
毎度サッカーネタですみませんが、なにせ、もともとサッカー好きなもので。。。しかもやっぱり昨日の日本代表の話にふれないわけにはいきませんよね。(笑)
サッカー日本代表、惜しくもPK負けを喫してしまいましたが、あの試合に限らず、今回の日本代表を見ておりますと、やはりサッカーファンの間ではまことしやかに語られる「サッカーにはサッカーの神がいる」という話を信じたくなります。
サッカーの神とは、サッカーの試合でたびたび信じられないような奇跡や考えられないような結果が起こることがあり、どうにも超越的な何かが試合を差配しているのではないかと思えてしまうことから、その存在を語られるものです。
またその他にも、サッカーの流れ全体において、あとから考えると何らかの大いなる意志が働いているたとしか思えないこともあるため、そこでサッカーの神がいると想像されることもあります。
サッカーの神は、時に残酷な神である場合もあれば、女神として奇跡を起こすこともあり、ひとつの色では語りきれないものです。
日本代表でもドーハの悲劇(94’アメリカW杯アジア予選ギリギリ敗退)、ジョホールバルの歓喜(98’フランスW杯第3アジア代表決定戦、W杯初出場)、02’日韓W杯決勝トーナメント初進出、06’ドイツW杯惨敗に近い一次リーグ敗退、そして今回のパラグアイ戦でのPK戦までもつれ込む死闘・・・と見てきますと、
あまりにも偶然と考えるには不思議な流れがそこにはあります。まるで日本サッカーを苦難と快楽の繰り返しによって鍛えているとしか考えられないほどです。
このように見てきますと、サッカーの神というか、サッカーの精霊みたいな存在を仮定してみたほうが面白いといえます。
しかしながら、ひとつだけいえるのは、その精霊が働くのも、選手たちが全力をぶつけ合うものすごい試合であったり、日頃から努力した者たちに試練と恩恵を与えているような気がします。
さて、そこでタロットなのです。(前振りが長くてすみません...)
タロットにも「タロットの霊」と呼ばれるある見えない存在がいる とお話しました。
タロットリーディングは私たち人間と、そういった精霊とも呼ぶべきものとのコンタクト・共同作業によって行われます。(毎回毎回そうとは限りませんが)
この「存在」とは特別な方法によって交流を図らねばならないと言われていますが、しかし、そこまでではなくても、タロットに真剣に向き合う時、タロットの霊の働きも発動しやすいと私は思っています。
タロットへの熱意、思いがタロットの霊を動かすとでもいいましょうか。
そして、これまた「サッカーの神」と似たように、少し気まぐれであったり、女神的な場合であったり、いろいろです。
ただその根源としては一つであり、そこから「化身」としてリーディングの問いや状況によって様々な性格で現れるのだと感じています。
こうして様々なタロットの世界の感覚を受けつつ、サッカーと同じく、私たちはタロットによって鍛えられているのかもしれません。
やがて祭りは終わり、また現実生活に私たちは戻ります。けれども、サッカーでもタロットでも、特別な非日常的空間、思いの世界にいたことは自分の記憶に残り、見えざるエネルギー・認識の基を貯蔵することになります。
それが今度は日常での視点を変えるきっかけとなり、今までとは異なる自分に変容させることにもなるのです。
キツイことを言わねばならない時。
前回は、 人を傷つけないためにも 「図星をいきなり言わない」ということをお話しました。
それでも本人のためには、時には厳しいことも言わなければならない場合もあります。
それには、
本人との関係を十分につける
ということが前提条件として必要です。
本人との関係、つまり心理学用語でいえば「ラポール」を築くことに当たり、お互いの信頼性や親密性を作ることを意味します。
ラポールがついていますと、少々のことでも人間大丈夫なものなのです。
たとえば「君って笑えるよね」と言われたとします。
これがとても親しい間柄同士なら、自分も「そう、私ってちょっと変でしょ、アハハ」と笑って好意的にとることもあるでしょうが、逆にあまり親しくない関係だと、「どこがですか!? 失礼な人!!」と不愉快な気分を感じてしまう可能性が大です。
お互いに信頼していればキツイことを言われても(あるいは言っても)、「自分のために言ってくれているんだ」と感情的に納得することができます。
このことは、私が使うカモワン版マルセイユタロットにおいても、人にものを伝えることを表す「法皇」のカード前(タロットの番号順)に、相手を受け入れるための「斎王」(ほかのタロットでは「女教皇」に該当)というカードが存在していることからもわかります。
ラポールがついた関係を築くには、それなりの時間がかかります。特別な場合を除き、普通は会った瞬間に相手を信頼するなんてことはありえません。
相手に受け入れてもらうための時間と関わりが必要なのです。
そして十分に関係がついたと思えたところで、相手にとって少々耳が痛いかもしれないけれども相手のためになることを語るのです。
ただ、この時もまだ多少の配慮がいります。自分では関係がついていると判断していても、相手はそう感じてないこともあるからです。
また信頼関係があっても、やはりモノの言い方によっては相手を傷つけることにもなりかねません。
ですから「ここがダメ」という否定でのもの言いよりも、「こうすればいいと思うよ」というように、できるだけ積極的・肯定的方向で言ったほうが相手も傷つきにくくてよいでしょう。
やるべきことや、誤りなど、実は本人にはもうほとんどわかっていることなのです。従ってそのことを言われるだけでもかなり「痛い」ことだと言えます。結構相手に配慮したつもりでも、思いの外言われた本人には応えているものです。
とはいえ何事も避けてしまう事なかれ主義でいては相手のためにもなりませんし、そもそも痛いことを避けようとするのも、相手ではなく自分に問題がある場合もあるのです。(自分こそ問題を直面することから避けているケースあり)
このあたりは難しいところではあります。
結局のところ、相手のためを心から思う誠意によると私は思っています。
