カードからの気づき
あなたのこだわりは、まっすぐ過ぎていませんか?
皆さんにも、自分のこだわりというのがあると思うんですよ。
でもね、ちょっと考えてほしいんです。
たとえば、今、タロットカード引きましたら、「正義」が出ました。
「自分にはこれが正しい」「正義だと思っていることがある」
いわばこれがこだわりです。
それは悪いことではありません。むしろ周囲に安易に振り回されず、ぶれずにいる自分の部分を評価できるものでもあります。
でも、正義という核の部分、コアな部分は変えられない、変わらないとしても、その表現方法は変えることができるかもしれないと思ってみると、ものすごい変化が訪れます。
「正義」のカードには「剣」が描かれています。
剣をふりかざして、「自分が正しいから従え!」と脅しても、相手は一時的に従うかもしれませんが、皆内心はそうではないでしょう。
これと同じことを私たちはしがちです。
こだわりのために自分の「剣」をふるい過ぎるのです。剣で切ったり、突き立てずとも、相手に伝える方法はあります。
タロットの象徴的なことでいえば、「剣」以外の「杯(カップ)」「杖(ワンド)」「玉(コイン)」です。
とりあえず、わかりやすくするため、「杯」は心、「杖」は行動、「玉」は形やお金と思ってください。
一言で言えば、自分の正義やこだわりを示すのに、行動や心で訴えることもできますよ、ということです。時にはお金を使って自分の伝えたい形、物を見せることもありです。
言葉や知識、主義の主張がいわば「剣」であり、剣はまっすぐストレートです。これでは相手に自分の本当の「正義」は伝わらないかもしれないのです。
人と世界は多様なものです。正攻法のみでは通じない場合もあるのです。
面白いことに、マルセイユタロットの剣(小アルカナのソード)は湾曲しています。ストレートではないことは、ある意味この示唆なのかもしれません。
また「正義」のカードも一方では天秤を持っています。天秤には調整と公平さが象徴されます。
正義にも釣り合ういろいろな要素があるということです。
ところで、すでにお知らせしていますように、明日からブログヘッダー画像が変わります。
実はこれも私のそうした自分のこだわりを、表現を変えて示してみたものになっているのです。
審判があなたの「試合」を左右する。
昨日のサッカーアジアカップ、日本対韓国の試合、まさに死闘でしたね。
当たり前ですが、どちらのチームも力を出し尽くし、最後まであきらめない姿勢が伝わってきて感動しました。
しかしそんな好ゲームではありましたが、ひとつだけ気がかりなことがありました。
それはレフェリー・審判の判定です。この試合に限ったことではありませんが、全体的にアジアの審判のレベルは見ていて低いと言わざるを得ません。正直、かなりひどいのではないかと感じます。
これは日本に有利不利とかの問題ではなく、審判そのもののクオリティが悪いために、どの国もその影響を被っていたように見えます。
というようなことを考えていますと、タロットをする者としては、このことでイメージされてくるカードが出てきます。
それは「正義」のカードです。「正義」はその名の通り、ある正義を表し、物事の基準を示して価値を計ります。画像的にもまるで裁判官のような人物が描かれているのが特徴です。
実は皆さんの中にも「正義」の審判(レフェリー)がいるのです。そして試合をいつも裁いています。
何の試合でしょうか? それは自分の人生そのもののことです。
人生はいわば、「試合」のようなものです。
自分が見たり聞いたり、経験したりすること、また自分の身に起こることなど、すべて私たちは自らの基準に従い、「裁いて」います。言い換えれば「判断している」ということです。
その裁きいかんによっては、あなたの試合、つまり人生もいかようにでも作られ「創られ」てしまうのです。
サッカーでも、「審判が試合を見事に演出した」とか、反対に「審判が試合を壊した」というように表現されることがあります。
それだけ審判は重要なのです。サッカーというスポーツのルールは全世界共通です。しかしながら、それを裁く審判によってサッカーの試合の質がまるで変わってしまうのです。
ということは自分の人生(試合)も自分の中の審判による裁きを変えることで、輝かしいものになることもありますし、ひどいと感じるようなものにもなる可能性があるということです。
実社会に生きている限り、「社会」という名のルールにおいては誰しも共通ですが、自分の審判、裁き具合はまさに自分次第だといえます。
同じルールがあったとしても、その解釈によって試合(人生)は変わるのです。
何でもかでも笛を吹いて反則を取る審判もいれば、ほとんど大目に見て流す審判もいます。どちらも行き過ぎると問題になり、試合も面白くなくなります。
でも一番選手も観客も見ていて困るのは、基準が一定しない審判でしょう。
あの時は笛を吹いたのに、同じような反則があった今回は笛を鳴らさない・・・ということがたびたび続くと周囲は不信感に包まれます。
言ってみれば、自分に厳しくし過ぎたり、甘くし過ぎたりすることも、またいつもぶれていて、心が定まらない状態であるのも、試合(人生)として美しくないといえるのかもしれません。
今自分の人生に何かアンバランスなことが起こっている人には、自分の中の審判を見つめ直しみるとよいでしょう。
自分を頼るか、誰かに頼るか。「13」と「節制」の関係。
タロットカードの「13」と「節制」は数の順番でも、タロットマンダラ(カモワン流のタロット絵図)でも隣同士になるカードです。
カモワン流ではペアやカップルのカードとしてとらえるほど、両者には密接な関連があります。
今日はその関連から、ひとつのお話をします。
さて「節制」のカードには、二つの壺を持った天使が壺の水を交互に移し替えている様子が描かれています。
その壺の水は、超越的な薬のようなもので、その薬を調合することによって人を救済することができるので、いわば「節制」は「救済の天使」と呼んでもよいカードです。
ですから、このカードの大きな意味として、「救済」「援助」「助け」「癒し」などの言葉が出て来るのです。
ところで、人は強気で支配的な場合と、弱気で依存的な時があります。
前者はもちろんうまく行っている時、調子がよい時などに表れ、反対に後者は悪いことが重なった場合や病気やトラブルに見舞われた時になりがちです。
しかしそういった自分の好不調とは関係なく、普段から強気過ぎの人、弱気になり過ぎてしまう人がいます。
こうなると頑固さや、頼りたい気持ちが先に出てバランスが崩れ、やろうとしていることが空回りしたり、いつまで経っても状況が好転しないままであったりということになります。
つまり、「節制」の「救済」の意味でいえば、「助けなどいるものか!」という思いと、「いつも私を助けてほしい・・・」というふたつのアンバランスな心が生じているようなものです。
この状態を回避するには、数で言うと隣のカード、そう、「13」(「名前のない13」)を見ることにあるのです。
「助けなどなくても自分ですべてやれる」と思っている人は、「13」のカードを逆にして眺めてみるとよいでしょう。そうすると、大きな鎌を持って、逆さまで必死に振り回している姿が見えてくると思います。
ここに「節制」を右隣に並べると、まるで「救済の天使」である「節制」から背を向けて、過激に、あるいは攻撃的にやけになっているかのように感じられます。
しかしながら、結局、鎌は空を切り、おそらく何の手応え(つまり実績、成果)もなく終わることでしょう。
そしてだから余計に鎌を力ずくでふるおうとして、最後には自分自身に鎌をふるってしまう(疲れて鎌をコントロールできず、自分の体に当たってしまう)ことになるのです。
一方、「とにかく助けてほしい」「いつも私を助けて、お願い!」というような極端に依存的であるのは、「13」そのものを無視している状態だといえましょう。
鎌をふるう(耕す、刈り取る)ような大変なこと、嫌なこと、怖いことは見ない・しない、「13」なんて私には無縁、厳しいことはないことにしている自己世界です。
このようなことにならずにバランスを取るためには、まず「13」のエネルギー状態があること(必要なこと)を意識し、「13」を自分の中に存在させることです。
その上で、それが過剰にならないよう、カードでいえば「正立」させて、「節制」ときちんと向き合わせます。
「13」と「節制」のカードが正立同士で向き合う時、バランスは回復するのです。
そうすると頑固で独りよがりだった自分が素直に「人の助け」を得ることを認め、誰かに頼りたい一心だった思いは、自分自身が強く改革を起こす決意と行動を取ることで、本当の意味での「救済(者)」に会うことを知るのです。
誰かが何とかしてくれる、あるいは自分ですべてやるしかないという偏った考えと行動は、「13」と「節制」においてはとてもアンバランスなことになっています。
この世の中は一人で生きているわけではありません。しかし、すべてを人に頼って生きていくのは、惨めで自分の人生を捨てたようなものです。
私がやるのだ、私自身が自分の人生の責任を持つのだと思い、なおかつ、自分にできないこと、人と交流して協力してやれることは素直に他者に依頼していくとよいのです。(自分が「節制」になることもできます)
独りよがりと依存過多は結局、人や世界を認めようとしない狭量で傲慢ということなのです。
人間関係の良し悪しは、コミュニケーションの方法で決まる。
タロットで相談を受けたり、タロット以外でのことでも、人とのトラブルがある場合を考えたりしていくと、そこには、ある要因がいつも登場してきます。
それは端的にいえば、コミュニケーションや伝達の問題です。
もっとわかりやすくいえば、「言うべきことを言って(伝えて)いないか、言わないでいいことまで言って(伝えて)いる」ということです。つまりコミュニケーションの過不足です。
たとえば、家庭でも「今日はこういう用事があるから遅くなるので、食事はいらない」と一言言っておけばよいのに、忘れていて、結局家の人に食事を余分に作らせて待たせてしまい、両者がケンカになることもあるでしょう。
仕事でも、「ここではこういう仕事内容がある」「こういうやり方で仕事を進める」と最初に言っておけば誤解はなかったのに、詳くし話さなかったため、あとで「話が違う」となってトラブルとなります。
かと思えば、「だれそれさんにはこういうことがあってね・・・すごいでしょ?」みたいに、本来秘密にしておくべきことをうっかり口にして、あとで当人がばらされたことを知って気まずくなるケースもあります。
しかしながら、どちらかといえば、話すべき事を話していない、伝えるべきことを伝えていないことで人間関係の問題となる場合が多いように感じます。
日本人は特に、以心伝心、「言わなくても相手はわかってくれるはずだ」と思いがちのところがあります。
また普段から周囲の目を気にして自分に自信がない人、「こんなこと言って嫌われたらどうしよう」と過剰に自分の言動を気にしている人、遠慮がちな人は、「話を伝えること」にいろいろな意味で躊躇する傾向にあり、それがかえって自分にも相手にもよくない結果をもたらすことがあります。
けれども、ほとんどの人は言ってもらわなければわからないのです。「相手が理解してくれているはず・・・」というのは自分の勝手な思いこみであり、、結局のところ自己中心的だといえます。
ところで、伝達やコミュニケーションを意味する主要なタロットカードに、「法皇」と「恋人」があります。
「法皇」は、神の言葉を皆に伝えているという絵柄であり、「恋人」は三人の人物が話し合いをしているように見えることから、それらの意味が出ます。(いずれもカモワン版マルセイユタロットを前提にしています)
「法皇」は法皇という立場上、間違ったことやいい加減な形では物事を伝えることはできません。
ですから、この二枚(「法皇」と「恋人」)を並べてみると、「正しく伝えるためには、コミュニケーション(の過不足・バランス)に注意すること」と読めるわけです。
また逆に、「良好なコミュニケーション・人間関係は、正しく伝えることにある」とも読めます。
カモワン版マルセイユタロットの絵図、タロットマンダラでは、この「法皇」と「恋人」は数の順番として続きます。さらにその先には「成功」「勝利」意味する「戦車」のカードが待っています。
つまりは、コミュニケーションの伝達能力・方法を制するものは成功にも導かれることが物語られているのです。
十字の象徴を意識する。
タロットには十字の象徴が数多く現れます。
これにはいろいろな意味と種類、解読があるのですが、その代表的なものではなく、私個人の思いで考えた、ちょっと異質のものをご紹介します。
まず十字を構造的に分析してみましょう。
そうすると横に一文字と縦線が合わさっているのがわかります。
言ってみれば、水平と垂直の方向による二本の線の交差です。
この方向性と交わりということがポイントです。
横の方向は、時間的にいえば、今であり、現実と考えます。そして縦は歴史が積み重なったものであり、記憶や想像と見ます。
これを一人の人間にあてはめると、その人は遡れば両親、そのまた二親・・・と連綿とつながった人の歴史から自分が存在し、さらに今実際にいる人たちとの関係において自分がいることになります。
つまり自分というものは、十字的にみますと、縦の歴史と今の現在との人間の交差している瞬間(ポイント)に存在しているのだということになります。
もちろん縦には自分自身の歴史もあります。横も自らの選択と拡大(あるいは縮小)が可能ですから、そのラインは変化して(ずれて)いきます。
結局十字は安定しているようで、そのポイントは変動していくのです。
ほかにも物事で十字をたとえると、縦を次元やレベルの違いととらえ、横を同じフィールド・立場での選択肢だと見ることもできます。
通常、横のライン上において、仕事や人間関係、その他あらゆることを人は選び、動いています。もちろん横のラインが伸びれば伸びるほど、選択肢も増えて無数の可能性があると言えます。
ただ同じレベルや次元でしか動けない(考えられない)ので、上(下)の見方ができません。おそらく縦のレベルの違う層にはそれに応じた人や物事が存在していると予想できます。
従って、自分のレベルを上げることによって、さらなる階層の思想や人間と出逢えることになり、厚みが増すことになります。
いわばマンションで一階に住むことしか許されない(あるいは階層があることを知らない)人が、さらに上の階もOKだよと言われて視野と人間関係も増えるようなものです。
またたとえば、一階の人がその見える範囲だけでいたら、「時々何か紙が落ちてくるのだが、なぜ落ちてきているのかわからない」となり、それが上に行くことではじめて「屋上の人がお祝い好きで紙吹雪を巻いていた(笑)」ということがわかることになります。
このようにレベルが変わると、今まではわからなかったことも容易に理解することができたり、難しかったことも簡単にできるようになります。(レベルが下がると、反対になりますから注意です)
十字はシンボル的には「安定」や「現実」を示すこともあるのですが、それはこれまで述べてきたように、十字の線の長さや目盛りの変動によって交差するポイントが変わってくることを考えると、現実も変化していくことがイメージできます。
つまりあなたの今のその「現実」は、まさに十字が交差したところにあるのだということです。
具体的にいえば、あなたの歴史と次元・レベルを示す縦と、今いる場所、関係、行い、選択している事柄を示す横との交わりなのです。
当然のことながら、交差点の目盛りの場所が変わらなければ同じ状況で「安定」はしますが、その安定があなたの望ましいものでないのなら、交差点を変えるために、縦か横を変化させていかねばなりません。
横は行動と実践力が試され、縦は学びや気づき、次元の上の人からの指導を受けることなどで目盛りの移動が可能となります。
いずにしても十字を意識することで、バランスを取ることができ、あなたの現実を確かなものにして行けるのです。