カードからの気づき

出口や突破口はある。

八方ふさがりという言葉があるように、もう何も手立てはない、万策尽きたように思えることがあります。


そのような場合、確かに「やるべきことはやった」「考えられることはすべて考えた」と感じていることでしょう。


しかし、たいていは起こっている問題状況が深刻、あるいは問題に翻弄されているため、一種のパニックになって落ち着いた時ならば見えるものも、実は見えていないということもあります。


ところで、タロットには「吊るし」というカードがあります。


「吊るし」(マルセイユ版)は二本の柱の間の木に、人物が逆さまに吊られているかのように見えるカードです。(本当は吊られているのではありませんが)


この「吊るし」も問題状況においては、苦しい閉塞的な状態だと読めることもあります。(通常は安定性や落ち着きも意味します)


そう見ると、手は縛られ(手は見えていませんが後ろ手で見えなくなっています)、顔まで苦悶にゆがんでいるようにも感じられてきます。(逆位置にすると余計そう感じられるから不思議です) まさに八方ふさがりです。


ところが、よく見ると「吊るし」の人物の頭(吊るし状態の逆さまの姿勢が正立なので注意)の方向は木に囲まれていませんし、地面があるようでいて土は見えていません


ということはひとつの方向には出口があるとも考えられます。


それは逆さまになったからこそ見えてくるものであり、また落ち着きや冷静さ、一種の諦観(高次のあきらめ・手放しの心境)状態になればかえってわかってくるということも「吊るし」は表しているのかもしれません。


ですからもうダメだと思っていても、必ず突破口はあると吊るしを見ながら考えてみてください。そもそも吊るし状況(苦境)自体が大きな意味では解決につながっているということもあるのです。


映画「ショーシャンクの空に」では、主人公があきらめず刑務所からの脱出ほか、自分にふりかかった苦難を克服していきました。 


また先日のチリの落盤事故で閉じこめられた33人の方も、ひとつの穴が通じていたために最終的には命をつなぎとめることができて、救出に至りました。


それから八方ふさがりという状況ほどではないにしても、何か自分のこれまでの知識や感覚では解決しない問題、煮詰まってしまっている事柄、スピリチュアルな観点からの考察などが必要ではないかと感じはじめている方にも「吊るし」は示唆を与えてくれます。


そう、「吊るし」はいわば日常に対する「タロット」であり、問題を解決するために出すカードがあるカモワン流展開法の根拠ともなっているカードなのです。



今ならカモワンタロットによる書面対面リーディング 、または書面スカイプリーディング が3000円でご提供できます。書面対面リーディングは残りあと2名です。


「愚者」と「正義」を使って、自由性と責任について考えてみる。

今日は皆さんに、実際にタロットカードとともに考えていただくことを書きます。


まずマルセイユ版のタロットをもっている方は、「愚者」と「正義」のカードをご用意いただき、その二枚を正立させて並べてください。


タロットカードを持っていらっしゃらない方は・・・うーんと、イメージで想像してください。フィリップ・カモワン氏のサイト で見ていいただいても結構です。(「愚者」は一番下の向かって左端のカード、「正義」は真ん中の段の向かって左端のカードです)



ところで、相談としてタロットリーディングをしていたり、自分のことでも気がつくことがあります。


それは「いかに気楽に物事を考えることができるか」ということと、真逆のようですが、「いかに自分の人生に自分で責任を持つことができるか」によって、本当に物事が変わってくるということです。


タロットカードでいえば前者は「愚者」が象徴し、後者は「正義」が表していると感じます。


あれこれ考えすぎて行動に移れなかったり、チャンスを逃してしまったり、また人目や常識を気にしすぎて自分の自由性を殺してしまい、せっかくの人生を牢獄のように過ごしていらっしゃる方がいます。


そうかと思えば、人が決めたルールや考えに縛られ、そこから脱却できないまま、自分と他人を縛り付けようとしている人がいます。


また自分のしたこと、自分の今起こっている現実に対して直視しようとせず、「これは自分の責任ではない」と逃げてしまう方がいます。


あるいは変わりたいと願っていても、行動に自信と責任が持てない人、自分の取った行為と結果への責任を引き受けようとしない人もいます。


結局のところ、過去、今の現実、そしてこれからの未来も含めて、全部あなた自身の選択の結果によるのです。それを認められるかどうか、さらに責任を持つ覚悟があるかどうかが試されているといえましょう。


こうして考えると、「愚者」と「正義」はまるで正反対のように見えますが、「愚者」は自分の責任を心底思っているから、ある面自由になれるともいえますし、いわばその覚悟があるから、どこにでも行ける気楽さがあるともいえます。


またあまりにも自分の責任バランスを必要以上にかぶろうとしていると、これまた自由性を失うことにもなります。


たとえば本来はあなたではなく、相手が取る責任の分(この場合は責任という言葉になっていますが、選択という意味も含まれます)まであなたが取ってしまっていると、相手の人生もくっついてくることになりますから、余計身動きがとれなくなります。


では用意している二枚のカードを「愚者(正立)」「正義(正立)」という並びを基点にして、二枚の組み合わせを並び替えてみてください。


「正義(正立)」「愚者(逆)」という並び、「正義(逆)」「愚者(正立)」の並び、「愚者(逆)」「正義(正立)」という並びなど、全部で8通りあります。


そうして、今述べてきた、自由性と責任というテーマで二枚の並びから考察してみてください。自分がどのような態度でいたのか、はっきりわかることがあると思います。


特に私のタロット講義を受けられている方は、タロット学習の意味も込めて是非やってみられるとよいでしょう。


議論の機会をもっと。

NHK教育テレビでも放映されていました、ハーバード大学マイケル・サンデル教授による「白熱教室」。あまりにも人気ゆえに、ハーバード大始まって以来の公開講義にしたといわれるものです。

サンデル教授は先日来日されて、東大の講堂で「正義」についての講義をされており、内容は私もテレビで見ました。

これを見ていて感じたのは、やはり日本にはもう少しディベートや議論する時間・講義というものを教育課程で取り入れたほうがよいのではないかという思いでした。

私も多くの日本人のご多分に漏れず、ディベートなるものが本当はどんなものかということや、それ自体の教育や経験をほとんど受けずに育ちました。

ですからそれらについて語る資格はないのかもしれません。

しかしながら、曲がりなりにも「人にものを伝える」講師という仕事をしておりますので、話をすること、コミニュケートすること、議論することなどについては少なからず関心があります。

私が思う日本人の議論においての悪い癖は、まずは自分の意見を述べない消極性と、いざ議論が白熱すると感情的になって、論議ではなく、それを主張する人格(人間・個人)までも含めてしまうことが比較的よくあるように感じることです。いわば公私混同みたいなことです。

たとえば話をしている人の性格や生活スタイルなどは関係ないのに、それさえ時には俎上に載せて、「あなたは何々も知らない恥ずかしい人ですよね」などといって相手を攻撃(打ち負かそうと)します。

これは訓練によっては、かなりましになるのではないかと思っています。

小学生くらいから議論の場を与えて訓練してみる。先生は人格攻撃や議論とは関係ないことでの話になるとストップして注意する。

そういうことを継続していると、おかしな話になったり、論旨のすり替えとか、本来の議論とは異なる部分については自ずと「間違っている」と皆が気がつくようになり、まさにディベートの「感覚」と「知識」を身につけられるようになるのではないかということです。

つまりは正しい議論スタイルというものを知っておくことが重要だということですね。

また、若い頃より議論の場を多く経験していたら、たとえば自分が相手から(議論として)批判された時でも、「これは自分自身(人間個人)が批判されたのではなく、あくまで私の主張している論理が批判されているのだ」と理解することができるようになるでしょう。

ですから、実際の社会の場に出て討議で批判されたからといって、いきなり激高して我を忘れるというようなこともあまり起こらなくなるのではと思います。

そういう両方の面で見ても、議論やディベートを「教育」として取り入れるべきだ考えます。

タロットでも話を伝えることは「法皇」のカードが示していますが、その「法皇」は、タロットの数の順番では次の「恋人」に視線を向けています。(カモワン版マルセイユタロット)

「恋人」には三人の人物が描かれ、特に真ん中の人物に注目すると、横の二人の人物の意見を聞いているようにも見えます。

とすると、「法皇」と「恋人」との並びで、意見を言うのにも、複数の人の主張に耳を傾けなければならない、その経験も必要というように推察できます。

タロットから考えても、早い時分からたくさんの人と意見交換し、主張を述べ合う機会を持つ(教育を受ける)ことはよいように思われるのです。

ちなみに「法皇」は次代の「教育」をも、その意味として内包しているのも興味深いことです。


嫌な人間や状況に出会って考えてみること。

職場でもプライベートでも、おそらくほとんどの人は「ちょっとむかつく」という人(あるいは出来事)に出会った経験があるでしょう。


「ちょっとどころか、いつもその人に悩まされていますよ!」という声も聞こえてきそうですが・・・


それでそのいらだちから意識の転換を図るために、よくこういうことも聞かされたと思います。


いわく「嫌だと思う人は、実はあなたにとって成長の糧となる人」だと。


ですから、今更そのことを私がお話しても、「またかよ」と感じてしまうかもしれませんね。


けれども、私は全員が全員、出会った人で嫌だと感じる人間は、自分のためになる人(自分が原因であること)だとは考えていません。


明らかに自分には非はなく、相手に問題があることもあると思います。これを前世からの因縁などと言って、深く考えていたらキリがありませんし、場合によっては自分を責めることばかりにもなりかねないからです。


けれども、例えばヒューレン博士式の「ホ・オポノポノ」では、嫌だと感じたり、見たりする原因は自分の中の記憶(先祖から続く記憶も含めての膨大なもの)にあるので、その記憶を消去すればよいという考え方もあります。


それを適用すると、目の前の嫌な出来事も自分個人の人格的な責任ではなく、自分の中に関係する「記憶」に要因があるのだということで、その再生と消去に別の意味での自己責任があるということになりますから、自分自身を責めることにはつながらなくなります。


またカルマや縁起的(縁によって発生)な考え方においても、その嫌なことというのは、たとえ過去の自分に原因があったとしても、ほかの多くの人や出来事(過去も含む)との関連によって、まるで絡まった糸のように起こってきたことなので、原因をすべて自分に帰すことはやり過ぎの面もあるのではないかと推測できます。


さて、それはそれとしまして、いろいろと考え方はあるものの、やはり自分にとって嫌な人間というのは刺激になっていることは確かです。


この刺激が悪い意味での刺激である(と、とらえてしまう)から嫌なのであって、よい刺激のこともあるのだと思えば、幾分思い(心)の負担は軽くなります。


ところでタロットカードには「太陽」というカードがあります。このカードには仲の良さそうな二人の人物が太陽の下で、手を取り合って喜んでいる姿が描かれています。(カモワン版マルセイユタロットの場合)


バランスがとれている時は二人の関係も励まし合って、お互いを高め合うよい状態だといえますが、仲が良すぎてしまうとこれまた問題になります。


いわゆる内輪的発想、かばい合い、マンネリのような事態を生み出すのです。


人には常に居心地のよい状態を保とうとする働きがあります。


従って人間関係でも、「もうわかりあった」という仲の良い、馬の合う仲間達の間で固まろうとしがちなのです。


それはそれで楽しい時間が過ごせていいのですが、行きすぎると先述したような内輪ボケみたいなことになってしまい、考え方も固定したもので止まることが多くなります。


そのためかどうか、神様は本当によくしたもので、嫌な人間や状況をあなたに出会わそうとするのですね。


異質なものは確実に刺激になります。それは異質すぎて受け入れられず、不快な気分をあなたにもたらせます。


しかし、そのことが受容できた時、あなたはの旧来の枠は壊れ、新たな価値観の世界に参入します。


今までの自分を壊すには、異質な存在によって無理矢理にでも意識せざるを得ない状況が最大に効果的なのでしょう。


嫌な人間や出来事を無視したり、避けたりするのも自由です。全部受け入れる必要性もないのは、先述した通りです(現時点の私の考えですが)。


けれども、自分を拡大し、成長するための神の恩寵ととらえれば、また違った観点からそれらを見ることもできます。


タロットカードの「太陽」、そして「太陽」と象徴的に関連のある「神の家」はこういうことも示していると私は感じています。


定食生活、定食人間。

以前、ある知人にこんな人がいました。


彼と一緒にごはんを食べに行こうとお店に入ると、彼はメニューをろくに見ようともせず、いきなり「今日の定食」を注文するのです。


そして服を買うのもひとつの店で、マネキンにかかっているモデル一式を買います。あるいはスーツか、ワゴンにある、すでにセットになって包まれているものを選びます。


メガネを買い換える時も、レンズとフレームが一組になって店が売り出しているものを選択します。


旅行に出かければ、バックツアー。音楽CDもベスト版を購入...


とにかくお手軽、便利、相手が用意してくれているものをそのまま受け入れてしまう人でした。


手堅いといえば手堅く、大きな失敗もないかもしれません。


そんな彼を今笑った人もいるでしょう。でも私も含めて、多かれ少なかれ、彼と似たような部分は誰しもあるものです。


人は特別に意識すること以外、普段はスイッチを切っているかのようにオートマチックに進むことを望みます。というより、無意識にそう行動しているともいえます。


それはそのほうがであり、余計なことに意識を集中して時間をロスしたり、エネルギーを消耗したりするのを避けているわけで、いわば生きるための本能的な処世術みたいなものです。


しかしながら、それは油断していると次第にオートマチック機能が拡大していきます。


特に現代はありとあらゆるものにあふれ、だからこそ逆に選択が容易なように便利なものが用意されています。または思考停止しても選択できるように導かれます。


ですから私たちは、ややもするとその仕組みに慣らされ、「ああ、面倒」ということで、ついつい考えることをやめてしまうようになります。


そうなるとロボット化が進み、目の前にすばらしい道具や材料があっても使いこなすことなく、ただの無機質な景色として日常に溶け込ませてしまいます。


これはタロットでいえば、「手品師」が技も道具もあるのに工夫しようとせず、ただマニュアルに従ってこなしていくだけの「日常」だといえます。


それでは目の前の手品を見に来ている観客を引き留めることはできず、多くの他の店の中に埋没してしまうでしょう。いわば個性も魅力も磨かれないということです。


カモワン流のタロット絵図、タロットマンダラでは「手品師」の列の一番上は「悪魔」であり、悪魔は人々を魅了する独創的ともいえる個の力を持っています。


特に自分で仕事を興したい、好きなことで稼ぎたいという方には「悪魔」の力は必須です。それを培うためにも、まずは定食生活から徐々に脱していく意識的作業が必要なのです。


例えばこれからはお店に入ってもなるべくアラカルトを頼み、できれば食べたいものをイメージしたら、一軒のお店で済ますのではなく、何軒かにわけて味わうのも個を鍛える訓練になるでしょう。


一緒に来た人に合わせるとか、注文に時間がかりそうだからと遠慮などしていたら、またまたオートマチック人間に逆戻りです。


まあ、とはいえ、何事もバランスが大事ですから、度が過ぎる個の発揮は単なるわがままにしかなりませんから、それも注意が必要ですね。


Top