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縁。人と人との関係が響きあうもの。

昨日からまた大阪でタロット講座が始まりました。今回は自分主催のものではなく、他の方が中心となって企画されたものです。


私の場合はそういったタイプの講座の方が多いのですね。つまり受講生と私との間のつながりを取り持ってくれるが人がいるということです。


人と人との関係が介在するものならば、そこには縁が働いているといえますが、間に人が入ることで、さらに縁が縁を呼んでいるようにも思えます。


縁には何もしていなくても自然に、あるいは無理矢理にでも発動する縁と、自分が動くことにより生じる縁の二種類があると感じます。


そして、普通は前者のような自然縁みたいなものは少ないのではないかと考えられ、縁を広げるためには自らの積極的な動き、働きかけが必要だと考えられます。


縁によって広がる世界は、いいことも悪いこともあるでしょう。


しかしながら、おそらくはもしもカルマというものがあるとするのなら、それは人との縁によって解消したり、さらに発展させたりすることもできるのではないでしょうか。


もちろん人と関わったばかりにマイナスの行いをしてしまった(増やしてしまった)ということもあるでしょう。


けれどもたくさんの人と関係すればするほど、事態はそれだけ複雑(悪いことだけではなくいいことも増えていくこと)になってきますし、ひとつの行いでも多くの人に実施すれば単純に量的にも増加していきます。


さらに関わった人がまた他の人と関係することで、まるで格子が何重にもずれて重なっているかのように、多重の影響が多岐に渡って及ぼしあっているように想像できます。


ということは、ひとつの問題も多方面からの解決の糸口があるということですし、意外な人物や関係先からあなたに影響を及ぼすということも考えられるわけです。そこには打ち消しあい(相殺)もあるのではないかと思います。


だからこそ、縁によってつながり、関わり合う人の機会・時間は重要だと想定できるのです。


その時、人と関係することの恐れや不安、悪いイメージや態度を持っていると、やはりその影響力は音の響きのように多方面へと波紋のように広がっていくことにもなりかねません。


ネガティブなものはネガティブな音階を刺激して、共鳴していくと考えられるからです。


従って、なるべくなら人と関わる時はいいイメージを持ち、苦手意識や悪い先入観、恐れ・不安なども抱かないように接することが望ましいでしょう。


ただ人と接するのが怖い、傷つきたくないという人は、自分への過度のプライドを溶かしていくことと、少ない人数での相互の信頼感を醸成していくことも段階的には必要かもしれません。


その上で、どんどんと自分からの自力的な縁をつなげて行くと、あなたの世界は広くたくましく、それでいて柔軟なものに変化していくことでしょう。


セカンドオピニオン

昨年のことですが、風邪をひいて声が出にくいところ、無理してタロットの講義をしたことがあります。


すると翌日から声がほとんど出なくなりました。二、三日すると回復するだろうと思っていたのですが、なかなか声が戻りません。ずっとかすれ声なのです。


これはちょっとおかしいぞと思い、近所の耳鼻咽喉科を受診しました。どうやら声帯をかなり痛めていたようです。


しばらくそこで治療していたのですが、それでもなかなか治らず、声を出す仕事としても大変なことになってきましたので、インターネットで調べた評判のよい耳鼻咽喉科の医師に診てもらうことにしました。


そこはなるほど、たくさんの人が列をなして順番待ちするほどの人気で、診察まで長いことかかりました。


先生は私の問診票を見るなり、「中年男性で声が長い間出にくくなっている症状で一番多い原因は何だと思いますか?」といきなり質問されてきました。


なんだか私は嫌な予感がして、おそるおそる想像した最悪の病名を言ってみました。


「もしかすると、がんでしょうか・・・」


先生は「その通り」といわんばかりに、大きくうなずかれました。


この時点で私は非常なショックを受けました。まさかとは思ったものの、その可能性が高いというのです。


そして鼻からカメラのついた管を通され、声帯を観察されました。モニターには画面も映ります。先生は画面を見ながら語ります。


「うーん、がんではないですが、やはりポリープがありますね


「ポ・・ポリープですか・・・」


私はポリープのことも予想していました。これだけの期間、声がかすれていることはポリープができている危険性も大きいと、自分でいろいろと調べて伝え聞いていたからです。


「これを見てください。自分で確認できるでしょう」


先生はモニターで撮影された私の声帯の静止画面を映し出しました。


声帯の両端になにやら白いつぶのようなものが確かに見えました。がんではなかったものの、それでもショックはあります。


治療としてはそのまま大きくしないよう保存療法をしていくか、場合によっては切除手術することも検討されました。切ってもまたできることが多いので、なるべく切らないほうがよいということではありました。


ともかく、これからのことはいろいろと考えないと・・・という気持ちで帰途につきました。


一日経過して、私は「どうせなら、声専門の医者にかかって、手術もそこでお願いしよう、そして予後も診てもらおう」と決意しました。


昨日診断を受けた医者は、名医ということらしいですが、どうも耳のほうに詳しい印象で、声専門という感じではなかったこともあったからです。


ということで、何とか大阪の声専門の医者を探し当て、診察を受けることができました。最初の医者から数えて三番目となります。


ここで私は医師にこれまでの経緯と、声帯にポリープがある旨を伝えました。


「では見てみましょう」と先生は喉の奥を棒のようなカメラで診察されます。


「声帯はだいぶんはれてますが、ポリープはないですよ


「えっ?本当ですか」


私はびっくりしました。確かに前は画面でも見えたのに・・・


どうにも腑に落ちないので、私は先生にお願いして詳しい検査をしてもらうことにしました。


ところが、その検査をしても結局、ポリープはみつからなかったのです。


なんと、先生によれば、前の医師は「声帯につばがついていたのを誤認された」のだろうということです。


評判のいいと言われる先生でもそんなこともあるのですね。


本当の原因は声帯のはれにより、声帯の帯がぴったりとじることができない状態になっているため、そこから音声がもれて声がかすれることになっていたというわけです。


ひとまずポリープがないということでかなり安堵しました。(とはいえ、声帯の故障は大きく、講義ができるようにはなりましたが、声は以前とは少し変わってしまいました)


長々と私の喉のことを書いてきたのは、タイトルにもあるように、今の時代情報社会ですから、一人の判断に納得できない時は、第2、第3者の専門家の意見も聞いておいたほうがよいということです。


それから喉(声)を使う商売の方は、特に中年以降は回復やケアに十分注意してください。


年齢に重ねるにつれ声帯がやせて細くなってくるので声がかすれがちになりやすく、さらに弾力性や柔軟性も落ちているからです。


ですから若い頃よりも回復が遅れますし、休息期間もそれだけ必要になってくるということです。酷使することは避けたいものです。


ストレスも影響大です。これはストレスにより胃液が過剰に分泌され、それが喉に上がってきて声帯を痛めるということと、霊的精神的に喉のチャクラを不調にさせるようなこともあるからです。


喉のチャクラはハートともつながることがあるので、心が傷つくと声も出にくくなるようです。


何事も過信せず、労り、養生しましょう。


「世界」は知ることにある。

子供の頃を思い出してみましょう。


あなたの知っている「世界」はどこまでの範囲でしたか?


ここでいう「世界」とは、自分が認識している世界といいますか、平たく言えば自分の活動範囲のようなものです。


おそらく「学校区」というものに、その世界の範囲がかぶっていることに気がつかれるのではないでしょうか。


たとえば私も小学生の頃は、自分の通う学校の校区(つまりはその学校に通う生徒の居住する範囲)までが日常世界で、たまにそこを越えるとまるで異世界へ突入するかのような感覚がありました。


これが中学校、高校へと進学していくに連れ、世界も広がっていきます。またそれだけではなく、自分が実際に足を運んだ地域なども自分の世界として取り入れられてくるのもわかります。


大人になった私たちでも、自分が認識している(平常に感じる)世界というものは意外に狭いものです。


とはいえ、やはり全国を股にかけて活動されている方などは、自宅と近くの仕事場を往復するばかりの人に比べて、その物理的な世界観の広がりはかなり違ったものになっているでしょう。


また実際に自分の足で地を踏んだ場所だけではなく、人間関係を通じて知る世界というものもあります。こちらは物理空間というより、精神空間とでもいったほうがよいものかもしれません。


いずれにしても、こう考えてきますと、世界というものはあなたが知ることによって得られる物理的精神的空間のことであり、それを拡大するには結局「知る」度合いによるのだということです。


面白いことに、タロットカードにも「世界」というカードがあります。


「世界」は、カモワン流でのある教義を伝えるタロット絵図の並び、通称「タロットマンダラ」の最後に位置するカードであり、いわばこのカードはすべての学びを終えた最終到達地点を示すものです。


ということは、すべてを知った、認識したということです。


またタロットマンダラでは「世界」のカードの隣には「審判」のカードがあります。「審判」は天使がラッパを吹いているかのような絵柄のカードで、ひとつには「情報」や「知らせ」を意味します。


つまり、情報を知ることでまた新しい世界になることが示されているのです。


タロットから話を戻します。


結局、自分の世界を広げるには「知る」ことにある、「経験・体験」することにあると考えられます。


だから今生きている人生で、あまり自分に制限をかけて知る機会を減らしてしまうのは、非常にもったいないことになるのです。


積極的にいろいろとチャレンジしてみて知見を広げ、自分の世界を拡大させましょう。


三枚正立の謎

カモワン流で大アルカナのタロットを展開する時、最大枚数は22枚になり、最少枚数は3枚のみとなります。


毎回毎回違った枚数と展開が繰り広げられるのです。


枚数が多いとリーディングしにくい印象があると思いますが、慣れてくればそれは逆だということがわかってきます。


数が多いということは情報量も多いということですから、分析する要素に事欠かないわけです。


特にカモワン流ではタロットの絵柄や意味の共通点などを見つけていくことが技法としてありますので、このことからも枚数が多いほうがやりやすいのです。


しかし三枚だけしか出ない、いわゆる「三枚正立」(カードが三枚とも正立状態で出ること)の展開では、絶対的に情報量が少ないため、判断するのも難しいことになります。


そしてカモワンタロットをされる方で多くの人が悩むのが、また「三枚正立」のリーディングなのです。


カモワン流の場合、正立のカードはすべてポジティブに扱います。ですから三枚とも正立ということはかなり肯定的な意味を持つと解釈するのが普通です。


しかし実際には問題が多いことは明らかであるのに「三枚正立」であったり、大吉的な意味だろうと思って実行したのに今ひとつの結果であったりするケースがあるのです。


この理由については、関西のカモワンタロットの学習グループ「関西タロット研究会」でも、かなり前から研究課題として挙げられ、実例も交えてのたくさんの意見が交わされてきたところです。


その成果については、メンバー間の約定があるのでこの場では発表できませんが、それ以外の私なりの解釈とヒントを少し述べたいと思います。


まず、タロットは占いとして万能ではないことです。特に展開(スプレッド)は人が考案したものであるので、展開方法にとらわれすぎると、時に本質のメッセージをくみ取れないことがあります。


それから「三枚正立」でも、カードの内容をよく観察することが必要です。


基本的にカモワンタロットでは正立においてすべてポジティブに読むことは先述した通りですが、それでも「13」が出る場合と、「太陽」が出るのとではかなり雰囲気も印象も違います。


またそもそもカモワンタロットの展開方法は吉凶判断的な占いには向いていないものです。


なぜならば、問題カードと解決カードという二枚の関連において解釈する方法なので、文字通り「どう問題を解決するか」の指針をカードから読むのには適していますが、「これをすればどうなるのか?」という問いには答えにくいものになるからです。


ですから、三枚正立でリーディングしにくい、あるいはどうも実状とはかけ離れていると見える時は、問いを「○○すればどうなるのか?」というものではなく、「○○する(になる)にはどうすればよいのか?」と変えてもう一度展開してみることをお勧めします。


その過程では問いをうまくすることができない(問いを変換ではない)場合は、最初の展開時おいて偽の問い(本当に聞きたいことではないもの)をしていなかったか、確認してみることです。


さらに、三枚正立の内部構造にも注意してみましょう。


視線によってつながった二枚のカードと、視線を持たない独立した一枚のカードから構成されているのか、すべて視線でつながってるいのか、あるいは視線でつながっていたとしても、どの方向を向いているのかなどによってもかなり解釈が変わってきます。


その他、三枚正立の読みにくさと謎についての回答や考察はいろいろとありますが、今回はこのあたりにしておきます。


占いで当たること。

「占い」といえば「当たること」が重要だと考えている人は多いものです。


当たる占い師でなければ見てもらっても意味がないと述べる方もいます。


確かに自分に当たらないことばかりいわれても、「はあ?」となるのは人として自然な反応だと思います。


言われていることがピッタリ符合するのであれば、その後に話されることも受け入れやすくなるというものです。


つまり「当たる」ということは、相談する方、される方の両方の信頼感をつなげる(ラポールをつける)役割もあると考えられます。


ということで、当てることはやはり大切な面はあります。


一方、当たることはそれほど大事なのかどうか、改めて考えてみるのもまた違った観点が得られます。


例えば、これから先のことが100%正確にわかる本があったとしましょう。


ここに就職を控えたある男性がいたとします。彼はその本を入手することができたので、早速それを利用することにしました。


すると本には、「A会社の採用には落ちるが、B会社に決まる」と書いてありました。


彼は、「なんだ、だったらC会社もD会社も受けずに済むな」と思い、あとは就活せずにのんびり過ごすことにしまた。


その後本に書かれていた通り、彼はB会社に就職が決まりました。


それからも彼は本を利用します。結婚についても無駄なことは一切せず、本で予知されていた相手と交際し、結婚することができました。ただ、相手は自分の理想とは違っていたのが残念でした。


本はまだまだ膨大なページがあったのですが、このあたりでいっそのこと、自分の人生すべてを知っておこうと彼はその先も読むことにしました。


今までは先を知りすぎることに怖さも感じて一部しか開いていなかったのですが、結婚を機に、どうせならと一気に読破することに決めたのです。


最初はドキドキしながら読み進んでいました。どうやら一年後には無事子供にも恵まれ、さらにもう一人の子供もできるようです。


一時会社の業績が悪くなって人生の危機を迎えるようですが、転職が成功し、別の会社でそれなりの役職を得て暮らすようです。退職後は内臓を悪くして手術もあるみたいですが、命には別状はないようです。


子供達も二人とも家庭を持つようですが、一人は離婚すると書かれてあります。どうやらその子には、だいぶん経済的には援助しないといけなくなるみたいでした。


そうして、とりあえずつつがないというか、一通りの人生を終えて80才で亡くなるみたいです。


彼は「ああ、よかった」と安堵した反面、すべてこうなるのかと思うと、急にやるせない気持ちになってきました。


何をしてもこの通りになってしまう人生。レールがもう完全に敷かれている人生。。。


それでも彼は「悲惨な人生になるよりましだ」と、気を取り直し、それからの生活を送っていくことにしました。


けれども空しさはいつもつきまといます。


時には何とかレールからはずれようと思い切った行動をしてみるのですが、その都度なぜかブレーキがかかったり、誰かに止められたりして、結局あの本に書かれたままの人生に引き戻されるのでした。


次第に彼は喜びも楽しみも感じられなくなっていきました。そして、とうとう寿命と刻印された80才がやってきて、そのまま予定通り息を引き取りました。


最後の臨終の間際、彼はこうつぶやきました。


「もう一度、予定のわからない人生を歩んでみたい・・・」



いかがですか。すべてがわかってしまうことは、このようにとてもつまらない人生になってしまうのです。


この物語の彼も、要所要所だけ本を読めばもっとワクワクした人生が歩めたかもしれません。


しかし一部を知ると、ほかのすべても知りたいと思うのが人情であり、それもある意味誘惑といえます。彼はその誘惑に負けたということであり、いわば本を活用するのではなく、本に自分が操られたことになったわけです。


つまり当たることが全部悪いわけではなく、いかに自分の人生の可能性を制限することなく(依存することなく)、それを有意義に活かしていくことができるかということにかかっていると思います。


結局当たる占いも、この世であなたに提供される様々の情報や道具のひとつに過ぎません。


大切なのは、人生の主役は道具ではなく、あなた自身だということなのです。


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