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タロットの能動的・受動的活用

「する」と「される」と言わるように、行動的にも認識的にも、能動と受動、積極と消極があります。

感じとしては、能動・積極のほうがいい気はしますが、これも宇宙の二元原理としてみれば、どちらも必要なもので、元はひとつだったものが、表現を変えただけに過ぎないとも言え、まさに、見方次第で、どちらともいい・悪いになるものです。

ところで、タロットの場合も、タロットをする、タロットをされる(してもらう)という言い方ができます。

例えば、自分でタロットを使ってリーディングしたり、自己活用していくのは、能動的で、タロットをする、タロット使うと言えます。反対に、誰かタロット占い師やタロットリーダーに見てもらう、助言してもらうというのは、受動的なものかもしれません。

それでも、このどらちの側にも、やはり能動と受動はあるのです。

タロットを自分に使う場合でも、出たタロットを運命的なものと見て、今から必ず起こることと考えたり、タロットで示されたことは絶対に従わねばならないと思ったりしていると、それはタロットに対して過度の受動・受容、いや、もっと言うと盲目的になっていると言えます。

そして、タロットを受けに行く側でも、ただ運命を聞きに行く、占い師の言う通りに依存的に従うみたいな態度では、これも受動の中の受動過ぎで、逆に、あくまでタロットリーダー・占い師の助言を参考にして、情報のひとつとして扱い、自分を向上させたり、癒したりするうえで効果的に活用するということであれば、積極的・能動的と言えます。

ということで、一口にタロットを活用すると言っても、その態度や考え方によっては、能動にも受容にも、さらには解放的にも束縛的にも使えることになるのです。

さて、どちらかといえば、いわゆる「タロット占い」は相談する者からすると受動的で、タロットリーディングは能動的なものと考えられます。

ひとつの例で言いましょう。

あなたは恋人やパートナーがほしいと思っています。それで、具体的にそういう出会いのチャンスがある時期と、どんな人が自分に合っているのか、また出会う可能性のある人なのか、タロットで見てほしいと考えてもいます。

そこで、タロットができるという人に実際に見てもらうことにしました。

一人はタロット占い師で、結構当たるという評判の人、もう一人は占いとは少し違うタロットリーディングを行っている人の二人に見てもらうことになったとします。

占い師さんのほうは、さすがにバシバシとタロットを展開させ、チャンスは今年の10月、それを逃すと来年の春、特に4月くらいにまたやってくると言い、出会う人は、新しい仕事関係で知り合った人の紹介してくれる方となるでしょうと占ってくれました。

かなり具体的で、チャンスも二回くらいありそうだと、希望も持てそうになります。

そして、もう一人のタロットリーダーにも見てもらうと、この方は、確かにタロットは展開するのですが、タロットリーダーがカードを選ぶのではなく、相談者側の自分が選ぶ(引く)ように促され、しかも、出たカードが出会いの時期とか出会う人を示すのではないことも告げられました。

「ええー、どういうこと? もしかして、この人当てられないの、読めない素人さん?」とちょっと疑いの目を向けます。

すると、タロットリーダーの人は、「あなたが選び、決めるのです」と言い、あるカードで示された時期の出会いの可能性を、自分でセッティングするよう、心に刻み込むことが必要と説明するわけです。

このタロットリーダーは、さらにカードを引くように促し、今定めた目標に向かってできることを、出したカードの象徴性をもとに、一緒に考えていくように指示してきます。

こうして、気が付けば、どうすればパートナーに会えるのかの設計図、計画図ができあがっていたという次第です。

つまり、自分で出したカードによる、具体的な時期と人について、目標設定・プランニングを行う作業をするということでした。一種のイメージコーチングみたいなものです。

人情的には、タロット占い師がやってくれたように、相談する側に時期や人を予言してくれたほうがいい気はしますが、これは見方を変えれば、受動的で依存的、出会いの運命をただ見てもらうというのに等しいです。

一方のタロットリーダー側の行った方法は、占ってもらってはいませんが、自分の意思と力で、未来を創造していくという積極性、能動性があります。ただ、人によってはあまりワクワクしないかもですし、ロマンチックでもないです。(笑) しかもその計画をきちんと実行するかは、まさに自分にかかっているので、何だか自分が試されているようで厳しい気もします。

人は未来を告げられたい、運命というものに翻弄されたいという意外な欲望・願望もあるのです。(このことは、案外知られていません、マゾ的願望と言ってもいい部分です(苦笑)) 自分で何かを作り上げるということは、面倒で手間でもあるのですね。

ということで、ここでも、別にどちらかがいいか・悪いかを述べているのではなく、自分にとって、あるいはその時その時によって、能動・受動どちらの選択がいいか、合っているのかということです。

また、タロットをする側にとっても同じことが言え、自分は相手にどのようなタロット表現をしていくのか、するのかを選択していくことができます。タロットはこうあらねばならない、こういう使い方をしなければならないというものではなく、本来は自由なものだと思います。

そのうえで、自分の目的や意思を明確にし、その技法や扱いの選択への理由が必要だとも言えます。(特に「する側」のほう)

そういえば、夏至を迎えました。夏至は一年のうえでも、時のポイントとして重要なものです。

このあたりにタロットを引いて、創造的に未来を創ることの指針にするのか、占い的にどういうことが起こるのかとか、今後、冬至までの運勢の流れや傾向を見てみるとか、自分の興味の方向に従い、タロットを活用していくのもありですね。

 


救済のエネルギー

昨日、大阪で大きな地震がありました。

私も関西在住ですので、揺れはなかなかのものでしたが、阪神大震災を経験しているので、どこか冷静に揺れを感じている部分もありました。とはいえ、同時にかつてを思い出すこともあり、それなりに恐怖でした。幸い、当方の周辺は大丈夫でしたが、高槻を中心に、北摂、大阪北部地方は被害も大きく、被災された方々、お亡くなりになった方々にはお見舞いとお悔やみを申し上げます。

それにしても、今回の地震でも、出勤時間帯であったにも関わらず、混乱はありましたが、人々の落ち着いた対応や助け合い精神なども見られ、昨今、日本や日本人の衰退ぶりが強調されることも少なくありませんでしたが、このような危機的状況になると、どこかでスイッチが入るのか、まだまだ捨てたものではないという、日本人、いや人としての強い魂のようなものを感じさせます。

また併せて、「思い」と「救い」は何らかの形でリンクしており、思い方次第で、救いの状況も変化するのではないかと、タロットの「節制」や「13」のカードを見ながら考えます。

以前にも書いておりますが、私はうつ病と不安神経症で、かなり苦しい時期がありました。あまりのつらさ、苦しさに、何度も死ぬことを考えましたが、自殺してもその苦しみから逃れられるどころか、ずっと固定されてしまうのではないかという、妙な精神世界系の知識も入っていたため、この苦しみが永遠につづくことこそ真の恐怖であると思い、死ぬことさえもできず、まさに、生きるも地獄、死ぬも地獄の状態にいました。

どうしようもない状況の中で、それでも救いを求めて、さまよっていました。この時は、まだタロットは知らなかったのですが、絶望でありながらも、救いもどこかにあるのでは・・・という、不思議な思いがわずかながらもあったのを覚えています。

マルセイユタロットを学んだあとに、大アルカナの象徴を見てみますと、「13」というカードの次に14の「節制」(救済の天使の象徴)が来ており、苦しい状況でも救いがあること、「地獄に仏」がある(いる)こと、もがき苦しんでも、あきらめずに、いつかは何らかの救いがあることを知りました。

ただ、その救いは、必ずしも、(苦しみ、困っている)当人の欲するタイミングや方法で現れるとは限らないのかもしれません。

それは、マルセイユタロットでは、14の「節制」から、さらなる数の積み重ねで登場する、「悪魔」「神の家」「星」の流れで象徴されているようにも思います。

特に「神の家」ではそれが顕著で、突発的に起こる出来事であるそれは、なるほど、衝撃的であるだけに、当人の思うジャストタイミングではなかったり、望んだ形ではなかったりするとしても、文字通り「神」目線においては、やはり、ベストなものであり、天からの救いが入ったのだとみることもできます。

人間レベル、常識や通常レベルでは、なかなか自分に起きていること、自分が経験していることの真の意味はわかりづらいものではあります。しかし、どんなものにも意味があり、苦しさの中にあっても、救いはセットになっているのだと思うと、少しは生きるのが楽になったり、違った視点で人生をとらえなおすことができたりするのかもしれません。

言ってみれば、地上観点と天上観点の接点を見つけることであり、その統合によって、私たちは生きていると実感もできますし、生かされていると客観・達観もできるのだと思います。

地上でできることと、天上から差配する(される)ことは、違いが大きいとは思いますが、私たちは天上人(神や天使)ではないので、地上でできることを努力し、自我の欲望ばかりに動かされず、自分を救うと同時に、他者も救えるのなら救うという思いで、行動していくと、天上の差配も変わってくるのではないかと想像します。

それは、私たちは天上の人では確かにないですが、一方て、天上的な性質もどこか内に有していると考えられるからです。象徴的に言うならば、私たちは悪魔でありつつも、天使でも神でもあるのです。

同じ性質は共鳴し合いますから、私たちが、より天上的性質を復活させ、自らを貢献させようと地上(地上人)で表現していく時、それは天にも影響を及ぼし、逆に天から地への働きかけも大きくなってくるのではないかと思います。

それでも、最初は悪魔的・エゴ的な自分(だけ)が助かりたい、幸せになりたいという思いがあってもいいかと思います。というより、そういう性質が人の中には埋め込まれており、どうしてもその影響から、エゴ的になってしまうのは仕方ない面があるものと考えられるわけです。

この思い(自分だけ助かりたい、幸せになりたいというような思い)は、とても身勝手なものと誰しも思うでしょうが、見方を変えてみると、そもそも助かりたい、救われたいという思いが、自分だけでも、まずはないと、何も始まらないわけです。

物事はすべて対であり、セットです。救いがあるのは、救われたい、救われる対象があって初めて成立することです。

ですから、まずは救われたいという思いが、たとえ自分だけの範囲でも起こることで、救済のエネルギーが生じるわけで、エゴの思いも、最終的には高次につながっているものと考えられるのです。

しかし、やがで自分だけが救われても、結局は意味がないことに気がつきます。

究極的な意味では、自分が救われることはもっとも重要(世界は自己が創造しているという立場では)であるという説もあるでしょうが、他人がいてこそ、世界は(あなたという個性が他者の存在によって認識される)世界として存在しますから、他者への救済も自己の救済とセットになってくるのです。

ともかく、あきらめたり、自暴自棄になったりせず、悪魔もいれは天使もいる世界(それは悪魔そのもの、天使そのものではなく、実際の地上人、地上の現象として、その性格でもって顕現することを指します)なのですから、救いを純粋に求めていくことが、救済を顕現させる大事なひとつの要素となるのです。

先述したように、その救いのタイミングや方法は、あなたの望んだ形ではないかもしれませんが、天の目線からは確かに救済なのです。

もうダメだ、終わりだと思えばそれまでですし、人は悩み、苦しい状態の時は、なかなか別の観点を持ったり、自ら救えるとは思えたりしないものです。

それでも、救済を思い、希望を持って生きていくことで、救いの縁が少しずつ働き、つながり、天を動かし、意外な形とタイミングで、救われることがあります。その時、あなたは、すでに、過去の救いを求めたあの時から、救われていた、救済が始まっていたことに気がつくでしょう。

すると、天(あるいは自身の神性、天使性)に感謝の気持ちも起きてきますし、自分だけではなく、他者にも救いの手があること、救いの手を差し伸べたい気持ちも現れてきます。

ただ、いつまでも多くの人が、悪魔性や身勝手なエゴにとらわれる情勢が続く時、その影響や転換のための災厄も逆に言うとあるかもしれません。自分だけが救われたいという思いは、裏を返せば、ほかの人はどうなってもいいという思いになってきますので、結局、一人一人、それぞれ自分以外が滅ぶ災厄を望むようなイメージでもって固まってくるのて、全体としての大きな災厄となって現れる危険性があるわけです。

それでも、大きな危機が訪れ、絶望的な気持ちにはなっても、反転すると、それは巨大で高度な救済措置が現れる可能性でもあります。それはタナトスからエロース、死から生への逆転でもあり、私たちがさらに成長し、よりよい社会にしていくための試練だとも言えるのです。


女性・男性 タロットの学びで。

タロットを学習される方は、私の生徒さんも含めて、やはり女性が多いです。と言っても男性の方もいらっしゃいます。

そうやって見ていますと、やはり、タロットの学び方には、性別による個性といいますか、特性があるように思います。

最近ではジェンダーフリーが言われ、ことさら女性らしさ、男性らしさを強調して教育されたり、話が進められたりするのはよくないこととされています。

しかし、私の通っている整体の河野先生もおっしゃっていましたが、明らかに男性と女性とでは、体の構造からしてまったく正反対の性質を有しているようです。先生の研究と実践によりますと、磁性においても、SとN、プラス・マイナスが、本当に正反対・対称に配置されているようです。

ということは、男性・女性同士の結びつきも、磁石のように、本来は引き合うようにできているわけです。ところが、最近の人は、この磁性が乱れたり、逆転していたりする人がおり、つまりは異性同士でも反発してしまうことになるわけで、カップル成立が磁力的にも難しい時代になっているのかもしれません。

なぜ男女の磁性が乱れるようになったのか原因は特定できないものの、おそらく今の社会・生活を見れば、自然に反していることが多いわけですから、こうなるのも当然の結果なのかもしれません。磁力は地球とも結びついていますから、私たちは地球・大地から離れた生き物になりかけているとも形容できます。地球に逆らっているわけですから、それは大変なわけです。

さて、話をタロットに戻しますが、女性は、よく言われるように、感性・感覚的なもので物事をとらえよう、把握しようという傾向があるため、タロットを学習する前のほうが、感覚的にタロットがよく読める場合があります。

いわゆる「知識」を入れると、もともと備わっていた直感的なセンサーでダイレクトに感じ取ることに対して、知識をもとにした思考的な信号が入ることで、感性・直感センサーがクリアーに働かない状態になるのだと推測されます。

これが逆に男性の場合は、イメージや感覚が最初から出てくることが難しい人が多く、たとえそれがあっても、常に本当だろうかとか、根拠があるのだろうかとか、正解・論理的な理由を見つけようとしますので、知識がないと、まったくタロットが読めない(と思い込んでいる)という人になりがちです。(女性でも男性的な人、男性でも女性的な人の場合は、自分の性とは異なる傾向が出ることがあります)

それならば、女性はタロットを勉強しないほうがよいのか?と言えば、そうではありません。

最初の直感センサー(でわかる)のものは、実はまだまだセンサーとしての感度・精度にぶれがある状態です。自分の心理状態や健康状態に左右されることもあります。

とても冴えている時とそうでもない時のギャップが激しいうえに、つながっているレベルやエネルギーもまちまちなことがあります。ひどい場合は、わざと低次な言い方をすれば、狐憑きとか、低級霊の力を借りてセンサーとするみたいな様相を呈します。

そこで思考や知識での客観性、確かさ(方向性や軸となるもののこと)を入れていく必要が出るのです。自分が直感的に受け取ったものが、どれだけクリアーなものなのか、また、他人に説明したり、提示したりして、他者にも共感・理解してもらうものになりえるのか、それは言葉とか知識を介してになるのです。

また自分のためだけにタロットを使うにしても、象徴的知識がないと、やはり自分での客観的指針を得ることができず、精神や霊的な道の過程で遠回りや、憑依されて(サイキック的なことだけではなく、メンタル的に妙な偏った思い込みに入ることも意味します)のおかしさな方向に進まされるという危険もあります。(だから通常は、見えない世界の探求では、指導者や先生、客観的な立場でいてくれる別の人の存在がい必要なわけです)

一方、男性は知識偏重になることを避け、自分の感性が信じられる、より高度の思考(感性と融合した思考)に行き着くことが求められます。タロット学習でいえば、学べば学ぶほど、発想や思考を自由にさせていく方向性であり、それには自身の感性をまず受容することが大事となります。

女性も男性も、いわば、自身の反対の性である部分を認め、開花させ、自身の性と統合を果たしていくことが理想的です。ある意味、感性と理性、感覚と思考みたいな区別が、女性性と男性性の違いにもなってきますが、人として見た場合、性別に分かれていても、どちらも自身のうちにはあるものです。それが表現や傾向として、女性と男性では出し方が違うみたいなことです。

感性だけでは受動的になりがちで(直感であれ、感覚であれ、受け取ることがメインとなりますので)、どうしても自ら創造するという方向性には行きづらくなります。また思考だけでは、ひとつの正しさだけを追い求め、どこまでも批判と試験を繰り返し、際限のない直線を走り続けることになります

ただ、女性の場合、子供を産むという大きな創造がありますので、自らのうちに、受容性と創造性のふたつを併せ持つと言えます。そこが古代からの象徴体系で、女性性の優位と言いますか、重要視されることのひとつだと考えられます。そもそも男性も女性から生まれるものであり、私たち、いやすべてが、宇宙という母体の中にいる、母体から生み出されているとたとえることもてきますから、女性性の崇高さは、女神性・宇宙の神秘として称えられるものと言えましょう。

そういう意味では、本来的に、女性はすでにあらゆる智慧に通じており、何も学ばなくてもよいのです。

何かの選択でも、すでにわかっている、知っているという感覚を得る女性は多いと聞きます。ただ、そのつながり(クリアーさ、智慧につながる高度な感性)が濁らされていることが、現代女性では普通で、従って、自らの感性を信じることができず、今は情報にあふれかえっていますので、いろいろと迷うことも余計あるわけです。それは、誰かの意見や思考、感覚に影響されやすいことも意味します。

ですから、私はタロットの講義でも女性の皆さんにお伝えしていますが、学習すること、知識を入れること、思考性を高めることは、実は女性にとっては自身の女神性(叡智とつなかる存在部分、高い巫女性)を確認し、その精度を回復させるための補助・プロセスの意味になっているのです。思考や知識は決して邪魔なものではなく、それをどう扱うかが大切です。

知識が入ることで、ブレて眠っていた女神的な回路の存在とシステムに、思考からもスイッチが入り、男性性的な創造・探求心が湧き出し、感性に力を与えます。

自身の男性性を(実は女性性も拒否している場合もあります)認め、受け入れ、統合することで、逆に女性性が魅力的に、高く輝くことになります。男性も同じで、逆の性を本当に理解していくことになり、女性への対応も変わるでしょう。

そうしたものを感覚と同時に論理としても理解と認識をするのが、マルセイユタロットの象徴システムだということです。実際にペア・カップルとして組み合わせられる関係性のカードも多くあります。

マルセイユタロットを学び、それを使っていく時、自然と、女性性と男性性の統合が図られるよう、まさに図示されているのです。


壊れたがっているあなたの部分「13」

数日前に、私の使っているパソコンが急に壊れてしまいました。

だいぶん古い代物だったので、だましだまし使っていたところもあったのですが、とうとうダウンしたという感じです。

結局、新しい物に買い替え、いろいろと設定をやり直すことになり、急だったこともあって、その作業は結構大変でした。

しかし、こうでもならない限り、旧パソコンでのやり方・データなどを見直す機会はありませんので、結果的にはまさに強制終了して、新バージョンに移行したという感じで、終わればとてもすっきりしたものになりました。

「今までなんでこんな面倒なことしていたのだろう」とか、新しいほうがよいとはわかってはいても、慣れた古いやり方になじんでいた手前、なかなかリニューアルを図れなかった自分に気がつきます。ひところ流行った断捨離ではありませんが、余計はものは捨て、身軽になった気持ちになります。

この状況はマルセイユタロットでいえば、「13」で象徴されます。

「13」は前や未来(マルセイユタロットにおいては向かって右方向)に進む場合は、その大きな鎌で刈り取りながら、自身を変容させ、まったく新しいものに生まれ変わろうとします。しかし、その作業は苛烈を極め、生易しいものではないのは、その骨と皮になった姿で表されています。

一方、これが逆さまになって、後ろ向き(マルセイユタロットでは向かって左側)になればどうでしょぅか?

まるで左側へ鎌を振り下ろしているように見えますし、そのまま強く振り下ろしすぎると、自分自身の身にまで鎌が来てしまうことになるかもしれません。変革の時は来ているのに、それに抵抗し空しく鎌を振り続けているかのようにも感じられます。また視線の方向は正立の時とは違い、マルセイユタロットでの方向性の過去側に向いて、何かそこに強いこだわりがあるようにも見えてきます。

一方、「13」の前の数12を持つカードは、「吊るし」で、そのカードの絵柄では、人物が逆さまになって止まっている状態が描かれています。すると、本来、右側で未来に進まねばならない「13」であるのに、新規改革・断捨離等を拒否し、過去に執着してしまうと、その鎌で自分か他人を傷つけたり、空しく宙に向かって振り下ろすかのように、不安を示したり、本来しなくてもいい行動を繰り返したりすることになるわけです。

宇宙の理に、創造・維持・破壊という三つの流れがあると言われます。すべてのものは始まり、頂点を迎え、やがて終わりを迎えるのです。特に、物質社会の中では、モノや形が中心で、それが変わっていくこと、変動していくことが当然としてある世界です。

次の新しいステージに向かう(あることの終わりと次なるものの始まりの)タイミングが来た時、すでに自分でも旧来のバージョンが古くなって、今後の人生でうまく適応していかなくなることを予見しています。

そのタイミングに呼応するかのように、自分や内側だけでなく、外側や環境自体も変化や終わりを告げてきます。言ってみれば、内外が象徴的にリンクし、終わりと始まりのタイミングを知らせるわけです。

よく、モノや機械が壊れる時が、何かの変化の時だと言われるように、モノそれ自体の替え時であると同時に、自分自身の内側の何かも変え時、新しくなる時なのです。

これに対して、「13」の逆位置で示したように、ひどく抵抗したり、滅んでいく古きをあまりに守りすぎたりしていると、それへの対応にエネルギーをとられ、心も不安と焦燥にかられ、知らず知らず疲弊していくことになります。しかも、どんなに抵抗しても、自然の摂理・宇宙の理に従い、最後には強制的に手放す(手放させられる)ことになります。

これはモノだけではなく、恋愛や人間関係なども同じであり、永遠はある種のイデア、元型、魂の次元としてはありますが、現実世界の中では、始まったものは、何らかの形で終わりを迎えることになるのです。しかし、終わりという過程で、新しいものとして変容をすることができた時、それは別の始まりでもあり、その意味においては、変容し続ける限り、永遠性はあるといえます。

例えば、恋愛でも、当初のような恋愛感情・スタイルは二人の間に消えたとしても、二人が新しい愛の形・関係として変容すれば、それはまた二人の新鮮な関係として始まるのです。(具体的にそれが結婚であったり、付き合い方の変化であったりです) それができないときは、やはり終わりとして別れを迎えるかもしれません。

ここは、幻の恋愛セミナー(笑)で語ることですが、「13」と、「恋人」や「審判」のカードとも関連させて、なぜ恋が終わってしまうのか、また、恋を続かせることができるのかの考察が可能なところなのです。

ともあれ、何かが壊れる時、あなたの内なるものも壊れたがっていますが、それは悪い意味での破壊とは限らず、むしろ古い殻を壊したがっている自分の部分であり、壊れることは不安や恐れ、やっかいごととしてあるのも確かですが、そこに至らないとわからない新天地・新境地、新たな可能性のあなた自身を知ることはできないのです。

変わらなければと思いつつも、失うことをおそれてだましだましやってきた人、ぬるま湯のように今までの環境に浸かってきたことで、心身の退屈さや問題が出始めている人、足踏みしているうちに、ストレスがかかったり、強い衝動の気持ちが抑えられなくなってきたりしている人は、勇気を持って立ち向かい、「13」となって終わらすための鎌を、前進的にふるってみましょう。

その過程は大変ではあっても、きっと大いなる祝福があなたに訪れるでしょう。


「法皇」と「隠者」 先生と師匠

マルセイユタロットで、「法皇」と「隠者」は、教える者、伝達・伝授する者として共通しているところがあります。

二枚は当たり前ですが、その象徴性に違いがあり、まったく同じ「教える者」というわけではありません。その違いはいろいろと考えられますが、やはり、その教えるレベルと内容、伝達の方法が異なるということが、絵柄から明確です。

マルセイユタロットの教義では、大アルカナの数の順が成長や発展度合いを示すというのがありますが、そこからすると、「法皇」よりも「隠者」が(レベルにおいて)となります。

また、「法皇」の絵柄には、「法皇」の下に何人かの弟子や聴衆とも思える人がいますが、「隠者」にはほかに誰もおらず、孤独に彼一人だけです。すると、「法皇」には話を聴きに来ている人が多くいるのに対し、「隠者」のほうは、むしろ誰か(教えを受ける者を)待っているここに来た人だけに伝えるという状況なのかもしれないと想像できます。

もし日本語の適当な言葉をこの二人に当てるとすれば、「法皇」は“先生”であり、「隠者」は“師匠”でしょうか。

ところで、タロットを学ぶ際、皆さんは、誰かに教えてもらうか、独力で学ぶか、どちらを選択するでしょうか?

一般的には、やはり学校であれ、個人であれ、誰か先生や教える機関から学ぶということがやりやすいと思います。そして、入り口としては先述した「法皇」的な、いわゆる“先生”に学び、やがて“師匠”的な人物に、さらなる深淵なものを伝授してもらうという道筋が考えられます。

それならば、最初から師匠的な人物を探して学ぶほうがいいという人もいるかしもれませんが、「隠者」で例えられる師匠的な人物は、なかなか見つけるのも難しく、自分自身がその師匠に会えるレベルや条件に達していないと、近くにいても気づかず、また、たとえ探し当てたとしても教えてくれないということもあります。まさに名前の通り、隠れたる者なのです。

ということは、「隠者」は、象徴的に、実は普通の人間でない可能性もあるのです。これは修行や探求を極めて人間レベルを超越している人という意味もあれば、肉体を持った人ではなく、精霊や天使的なエネルギー、あるいは、内的な高次の存在(ハイヤーセルフ)という意味もあるのです。

そういった証拠は、「隠者」の絵柄自体や、22枚が配置されるマルセイユタロットの秘伝的な並びからも示されるのですが、いずれにしろ、そうすると、「隠者」から教えられるのは、単なる知識や技術ではないことがわかります。

言ってしまえば、「隠者」が教え伝えようとするのは、霊的なことであり、表面的・物理的・現実的なこととは異なると考えられます。しかしながら、数的には先に「法皇」が登場するように、まずは普通の知識も身につけなければならないのです。(「法皇」にしても、本当はただの知識レベルではないのですが)

すると、こうも考えられます。「法皇」の魂・霊として背後に「隠者」がいるのだと。

「法皇」に学ぶ生徒は、まだ「隠者」としての魂の実感は得られないものの、その背景として、「隠者」の影響も受けながら「法皇」の講義を聴き、学んでいるわけです。言い換えれば、「隠者」の影を「法皇」に見ながら話を受けているということであり、「法皇」の話をただそののまま字面通り、言葉通り受け取るのではなく、彼の話す内容に霊性を見出す必要があるとも言えるのです。

私たちは、何かを身につけたい、知りたいと学習を志し、学校や個人の先生、先達たちから授業・講義を受けます。

それを行う(求める)理由は、だいたいは現実的なことから発しています。たとえ精神的な(安らぎや癒し的な)ことであっても、現実世界で生きる自分を楽にしたい、活き活きさせたい、生きやすくしたいということが多くの部分ではあります。

つまりは(じつ・み・みのり)や実際的な効果を求めて学ぶわけですし、自分の求めたい実を、すでに体現している人や手にしてきた人を先生として教えてもらうことになります。そして、全部とは言わず、ある程度の知識・技術を得て、学びは終わります。

これは「法皇」の伝達が終わったことを意味しますが、それは学びの一時的、実際的な側面であり、先述した「法皇」の背後の「隠者」の魂を感じ取れたかどうかとはまた別です。また、自分の学習目的によっては、「隠者」を「法皇」の段階で感じ取る必要もありません。

しかし、不思議なもので、自分が実際的・現実的に学ぼうとしていた理由(実)とは異なって、学習している間に、「法皇」の背後の「隠者」から自分が、違う性質のものを受け取っている場合があります。それは実(見えるもの、形あるもの、現実で活かせたり効果があったりするもの)と比べ、「虚」とも言える、目に見えない不確かで抽象的なものですが、自身の霊性に響く何かなのです。

例えば、投資セミナーで学び、お金を増やすのが目的で、その知識はついたけれども、同時にお金についてフォーカスしたことで、お金を基準とした世界観に疑念や考察が及び、自身の本質的な生き方について深く考えるようになった・・・みたいな現象です。

マルセイユタロットの学習で言えば、最初は趣味でタロット占いができればなあと思って学び始めたたけれども、タロットの象徴性を知るにつれ、自分の中の多数の人格、低次と高次、表と裏・影、物質と精神、霊・魂と日常など、これまでの見方とは異なるものが現れ、意識の変革・統合に思いが行くようになったという感じになるでしょうか。

自身で選択・行動し、何かの学びの道に入り、先生や学校に最初は導かれつつも、やがて「隠者」に出会うための準備をしていくようになります。それは、ずっとべったり先生に指導を受けることではなく、自分自身でも学び、思考し、感じ、実践し、フィードバックをし、気づきや向上を重ねていくことであり、その暁に、登場してくるのが「隠者」なのです。

またマルセイユタロットを見る限り、「法皇」としての先生も、生徒が実際的に求める以上のものを思いながら教えていくという姿勢が望まれます。(数の順で並べると、「法皇」の視線は次の6の「恋人」の天使に行くようになります)

このように、学びのうえでは、タロットの順序的には、先生を持つほうがベターですが、自分自身がオリジナルとなる人、最初の技術を開発、発明したような人は、それを伝達したい場合、いきなり自分が先生の立場とならざるを得ませんから、誰かに最初学ぶという過程がなくなることがあります。

ですから、師をもたない師がいてもよいわけで、そういう人は、「隠者」が当初から自分の内に現れている、自分自身が最初から「隠者」であると言ってもよいでしょう。(もし過去生データや特別な才能があれば、そういうことになるのも考えられます)

ですが、実力もないのに、最初から「法皇」を超えて「隠者」だと思い込んでいる人もおり、さらには、そもそも先生としてもどうかと思う人もいます。

それから勘違いする人もいますが、「教える」ということ自体も、ひとつの技術です。

自分がその分野で長くやってきたとか、経験があるから、よく知っているから・・・だけではうまく教えることはできません。タロットでいうと、タロット占いができるから、タロットリーダーとしては経験があるからと言って、必ずしも、うまく教えられるとは限らないのです。

そういう意味では、天才タイプ(オリジナルができたり、独学で何でもできたりするタイプ)ではないと自認されている人は、やはり、当初は先生・学校の下で学ぶほうが、型も学びやすくあり、自身が教える立場に回ることになっても、先生・師をモデルとすることもできますし、たとえ師が悪くても、まさに反面教師(笑)とすることができるので、先生や師を持たなかった人の教えは、型破りではあっても、学びにくいことはあるかもれません。

そして、先生から学べなくなった、先生がいなくなったとしても、あなたには(内なる)「隠者」がいますから、「隠者」に教えを乞い、自身を高めていくとよいでしょう。マルセイユタロットでは、タロットとつのつながりを深く持ってくると、「隠者」が立ち現れるような仕組みになっています。

最初の段階で、先生を選ぶ際も、「隠者」を背後に感じる人を選べば、あなたの目的以上のことが開かれる可能性もあります。

いずれにしても、教え・教えられる関係も、縁によるところも大きいので、自分に、ある先生が紹介される流れも、似た者同士の縁によることが多く、結局、類は友を呼ぶ世界でもあるのです。


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