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タロットと自分の情報

これはタロットの活用にも関係することですが、タロットの図柄を見て、どう思い、何を感じるかということは、タロットリーディングにおいても基本のように考えらています。

しかし、タロットカードを見た時の感じ方・思い方というのは、人によってまちまちでしょうし、どれをもって正しい情報と取るのか、または、たくさん浮かんできた中で、何を今は(リーディングの判断として)選択すべきかは、なかなかわかりづらいものです。

ここのところで、多くの人が迷い、時にはタロットを教える先生によっても、いろいろな意見が出てしまう部分なのです。

この点については、私の講座で整理して説明しており、その考え方は、おそらくどこにおいても言われていないもので、私オリジナルの方法とも言えます。

ここで詳しく書いてしまうと、せっかく講座を受けていただいてる方には不公平になるのと、一記事で説明するのは、とうていしきれないので、今回は別の観点から少し、タロットからの情報(の扱い)についてふれてみます。

そして、いきなり結論みたいになりますが、実は、タロットからの情報の迷いをすっきりさせるには、質問者側がタロットへの問いを絞ることで、かなり改善されるのです。

例えば、「太陽」というカード、一枚が出たとします。

質問が何もなければ、人によって、いろいろなことが思い浮かんでくるでしょう。あるいは、イメージから言語化することが、まだ苦手な人には(これは訓練すれば誰でもできるようになります)、言葉としては何も出ない場合もあるかもしれません。

けれども、ほんどんの人は何かしら感じるものはあるはずで、それを言葉にするかしないか(できるかできないか)の違いくらいで、イメージや感覚の言語化さえできれば、スムースに多くの言葉が出てくるはずです。

単に太陽を見て、温かい、熱いとかでもいいですし、ふたりの人物を見て、仲良しとか、友情とかそんなものからでもいいのです。

ところが、先述したように、たくさんの言葉とか意味が思い浮かんでも、その選択に迷うという段階が出てきます。

この「太陽」というカード一枚だけをとっても、カード上部の顔がついている太陽そのものからの情報と、下部の裸のふたりの人物の様子からの情報と、大きくわけて二つあり、それらは描かれているもの自体が違うわけですから、別々のものが言葉・情報として出てくるのは当然と言えます。

“太陽”のイメージから現れた情報なのか、“二人組”の絵柄から出てきた情報なのか、それだけでも情報の選択の幅というか、振り子はかなり揺れるかもしれません。

ですが、ここで質問側の情報を重ねて行けば、その選択も絞られてくるのです。振り子の幅が狭まると言ってもよいでしょう。

例えば、「旅行を計画したいが、誰と行けばよいか?」という質問の場合に、この「太陽」のカードを見ると、いかがでしょうか?

この質問は、「誰と」にフォーカスしているものであり、それは人物であるので、当たり前のように、人物に関する情報を探そうとするでしょう。

すると、さきほど述べたように、「太陽」には、ふたりの人物が描かれている部分があります。

ということは、この部分に注目すればよく(自然にそうなると思いますが)、「太陽」のふたりの人物の様子から、二人で行っても楽しい人、意見や性格の合う人、仲の良い友人、手を指し伸ばせば(誘いをすれば)乗ってくれる人というような「人物」が浮かんで来るでしょう。

この場合、親と行くとか、一人旅というイメージ・情報は取りにくいと思います。(ただし、親でもまるで友人同士みたいな関係の人には、あてはまるかもしれませんが)

一方、同じ旅行の質問でも、「どんなところへ行けばよいのか?」というものならば、ふたりの人物から想像することもできるかもしれませんが(例えば、裸なので温泉とかビーチなどのリゾート地とか)、どちらかといえば二人組より太陽のほうに目が行き、太陽がさんさんと輝く場所、端的にそのまま太陽のような明るい場所、解放的なところ、元気がもらえるような場所というようなイメージが出てくると思います。

人によっては、輝く太陽からイメージされる場所は、具体的には異なるでしょうが、「月」からイメージされる場所とか、「隠者」からイメージされる場所とは明らかに違うはずで、選択にそんなに迷うことはないと思います。

このように、質問を絞ったり、具体的にしたりすることで、カードの図柄でも、注目すべき点が明確になり、回答も導きやすくなるのです。

逆にいうと、抽象的な質問では、たとえ一枚と言えども、たくさんのイメージ、情報がカードから浮かんできたものの、その選択に悩んでしまうことになります。(ただし、抽象的な質問をあえてする方法もあります)

また情報としても、直感性やインスピーション系のものと、思考・論理・知識系のものとがあり、前者は個人によっても差が大きく、後者はいわゆる知識として覚えた「カードの意味」が大半なので普遍的とも言えるのですが、その両者のギャップ・葛藤(どちらがこの場合正しいのかとか、どの情報を選択すべきかということ)にまた悩むようになります。

カードを勉強すればするほど解釈がわからなくなったり、リーディングに迷いが出たりするのも、こうした理由(知識が増えて取れる情報も多くなったものの、その判断と選択に逆に迷うようになる)によります。

かえって勉強していなかった頃のほうが、すんなり読めていたという人もいるくらいです。

ですが、学習前とか初期にすんなり読めていたとしても、それは実は幅の狭い、情報として選択肢自体が少なかったからで、井の中の蛙のような、小さな世界でカードを読んでいたにすぎない状態といえ、進歩は止まったままなのです。

タロットの情報の取り方には段階やレベルがあり、実は奥深いものです。それはカード・図柄からの情報を得ようとやっきになっていても膠着状態に陥りやすく、今回ご紹介したような質問者側の工夫もいるのです。

タロットの情報、その他の情報が交流し合い、情報はますます複雑化することもありますが、それを整理し、コントロールし、選択するのは、タロットに向き合っている「人」なのです。

それと、正しい答えを出そうとか、答えはひとつだとか思わないことです。

私が思うに、タロットとは、人を混乱に貶め、楽しむようなツールでもあると見ています。(笑)

別の言い方をすれば、自分の固定観念や思い込みの世界を一度破壊するかのように、タロットの世界の誘いを受け、その世界に浸ることにより、現実にいたあなたの(固定)観念も、いつのまにか変わってしまうようなものです。

言わば、タロットは混沌に遊ぶツールなのです。この点は、同じ「卜占」系と言われる「易」とはかなり違う気がします。

タロットは質問に対して、ちゃんと出るのですが、ちゃんと出ていないように感じるというおかしなところがあります。

それは結局、リーダーの感じ方であり、カードの示唆が認められないということがほとんどなのですね。だから、カードは、いつも質問に対しての情報は必ず出していると言えます。その扱いが重要なのです。

タロットをうまく読みたい、タロットからきちんとした答えを出したいと悩んでいる人でも、少し自分の考え方、見方、態度を変えるだけで、楽になったり、読めるようになったりするものなのです。


二年前の同時期に書いたをものを参考にする記事です。

私はタロットの講師をしていますが、ほかの分野では当然素人であったり、知らないことばかりであったりするので、いろいろと学びは続けています。

そもそもタロット自体もまだまだ学びの最中です。

※(タロットの場合、おかしな話ですが、自身の別の部分とタロットの象徴が先生となり、自分の普通部分が生徒でいるという、究極の自習状態(笑)ですが・・・もちろん他のタロット関係者、著書等からも学びがありますし、学べることは私にもたくさんあります)

すると、やはり学び(特にタロット以外のこと)の過程においては、これでいいんだろうか、この選択でよかったのだうかと思い悩むことも出てくることがあります。

皆さんも学びでは、まず何を、どれを学べばいいかと迷い、分野を決めたら決めたで、どの講座・セミナーがいいのだろうとか、どの講師のもとで学ぼうかとか、悩みも生じるでしょう。さらにはせっかく決めた学びや講座においても、その途中で、いろいろと考えてしまうこともあるかもしれません。

だいたいそれは、この二年前の記事にもありますが、地上的観点によるものです。

地上的(現実的、限定的、数量的)目線であれば、確かに時期・お金・内容などが気になって仕方ないということもあるでしょう。特に費用対効果という視点では、お金をこれだけ払ったのに、こんな内容では、こんな効果では・・・と悔やむ人もあると思います。

しかし、天上的観点(長期的、質的、精神・霊的)からすると、意外に払った分の価値は実はあった(その内容だけではない、違和感、間違い感の気づきなども含めて、様々な学びになっていることがあります)という場合や、それ以上だったということは結構あるものです。

失ったものは、地上的に見れば大きく、取り返しがつかないように思えるかもしれませんが、天上的にはそれも宿命、または、大きな意味での幸福や成長につながることであると言えます。

マルセイユタロットには「正義」というカードがありますが、この「正義」には天秤があります。

天上的な天秤は、とてつもなく巨大な視野での「はかり」、つまりバランスだと言え、地上的なものは、近視眼的で、すごく狭い範囲での天秤・バランスなのです。いわば、天秤の大きさが違うわけです。天使(神)の天秤と、普通の人間の天秤の違いとも言えます。

大きな天秤であれば、少々のことでは傾かず、いつもほぼ均衡を保っているでしょう。しかし、私たちは地上に生き、地上的目線が普通なので、その小さな天秤で物事を測ってしまいます。

こうした(地上的)天秤が悪いわけではなく、期間や場所、数量が限定されている中では、効果・効率を見るために、必要な天秤と言えます。

ただ、この小さな天秤だけで測っているばかりだと、時に落ち込み、失敗感も大きくなり、つまるところ、それは自分の価値・尊厳・力を貶めることになります。自分に自信が持てるほどではないにしても、人は自分や世界に肯定感を持ったほうが、当然生きやすくなります。

その肯定感(を増やす)のためにも、時には天上的目線を持ち、大きな天秤で物事を測ってみると、失敗感も癒されたり、傾いていたバランスも均衡に戻せたりするかもしれません。

地上的に見て、いわゆる成功や成長についても、その多くは、行動力、実践力にかかっていると言えますが、学びをそのまま素直に、あるいは積極的に、行動にすぐ移すことのできる人は、そんなにたくさんにいるわけではないですし、私からすると、そういうのもひとつの能力(特質)だと感じます。

弱さを持つ人、自分に自信がない人、なかなか前向きに学んでも行動ができない人に対して、つべこべ言わずやれ、というのはわかりますが、人間、できない理由、抵抗していることにも意味があります。

まず大事なのは、少しでもいいので、学びをしているのなら、自分自身に肯定感を持てるようにすることだと思います。肯定感が持てるようになるための物事の見方への修正と、その積み重ねとでも言いましょうか。ただし、肯定感と言っても、無理矢理なものではなく、自分が納得ずくであるのが重要です。

失敗やうまく行かないことも含めて、悩み、学んでいる自分自身を肯定する視点と言えましょう。そがまた天上的観点でもあるのです。

 

二年前の記事

『その学びは、実際に効果があるのか?』

 


タロットの構成、宮廷カード

タロット一組には、大アルカナと小アルカナと呼ばれるパートがあります。

タロットの種類やメソッドによっては、大アルカナだけ(使う・重視する)というものもありますが、やはり、伝統的に、78枚で一組というのがタロットであり、大アルカナと小アルカナが相まってこそタロットだと言えると思います。

さて、マルセイユタロットの場合、小アルカナは大アルカナよりもあまり活用されていない節がうかがえます。マルセイユタロットを使う人でも、実は小アルカナを学んだことがないという人もいるくらいです。

これにはいろいろな理由があるのですが、やはり、マルセイユタロットの小アルカナの数カード(数札)の図像が、記号的なものになっているので、イメージがつきにくく、わかりにくい、読みにくいという点があるでしょう。

大アルカナの場合、図像がまさしくなので、イメージしやすく、絵からダイレクトに意味を浮かべることができます。しかし、抽象的とも言える小アルカナの数カードの図像では、なかなかそれは難しいのです。

ゆえに、実は大アルカナを読む時とは別なリーディングシステムが必要なわけですが、ともかく、とっつきにくいと思われがちなのが、マルセイユタロットの小アルカナと言えます。従って、敬遠され、使われず、使われないから、当然読まない、読めないということにもなります。

しかし、小アルカナには、実はもうひとつ、「宮廷カード(コートカード)」というものがあります。

マルセイユタロットにおける宮廷カードは、実は、大アルカナと絵図の性質は同じと言ってもよいです。大アルカナと同じ、具体的な絵になっています。

違いは、宮廷カードが人物のみの絵で、大アルカナのような数がふられてないということくらいです。見た目はあまり変わらないと言ってもいいでしょう。

タロットを考える姿勢において、タロットの図像・数(構成数も含む)をよく観察するというものがあります。

すると、先述したように、宮廷カードは大アルカナの絵図と性質が似ており、明らかに、数カードは別種だと言えます。つまり、絵の性質から見れば、大アルカナと小アルカナの宮廷カード、小アルカナ数カードという二つの種類に分かれるということです。

「アルカナ」というくくりでは大と小なのですが、絵柄の性質では、上記のような分け方が可能です。

数カードは、図像・デザイン的に見て、ヨーロッパ単独のものではないと想像され、今でいう中東イスラム圏や、インド・中国的なものも入っているように思えます。(その証拠が、歴史的にも残っています)

とするならば、数カードの文化圏と、大アルカナ・宮廷カードは別で、後者はヨーロッパでもともと作られた可能性が高いと言えます。

アルカナ別では違うのに、絵柄や文化圏では大アルカナと同じの「宮廷カード」は、タロットのパートの中でも、特殊な位置にあることがわかります。

いわば、大アルカナと小アルカナをつなぐ役割、中間的ものとも言えるでしょう。

一般的には、ウェイト版なども含めて、宮廷カードは、具体的な人物像を表すとされます。

セオリー的にはその通りだと思いますが、大アルカナと小アルカナの中間的な役割があるとすれば、実はもっと秘密が隠されており、意味的にも別な読み方ができるのではないかと推測されます。

ここで注意したいのが、占いやリーディングであてはめるカードの意味と、システムや全体、構成から出てくるカードの意味合いとは、別なこともあるということです。

この、システム・全体から出てくる意味は、まさにタロット一組そのものが意味をなして主張している思想とか根源的な意味などであり、それは秘密になっていたり、隠されていたりすることがパータンとしては多い気がします。

まだ私自身は完全に明らかにはしていませんが、宮廷カードの特別な位置からして、大アルカナと数カードとの接合カードとして考察していくと、あまり知らされていない意味、使い方、暗号のようなものが浮かび上がるのではないかと思っています。

数(構成数)で言いますと、大アルカナが22枚で、小アルカナは56枚あります。

このうち、小アルカナは宮廷カードが16枚数カードが40枚です。小アルカナはという数、つまりは四大元素・4組がベースとなっているからで、どちらも当然、4で割り切れる構成数です。

一方、大アルカナは22枚なので、4で割り切ることができません。

自然に見ても、大と小は数のシステムが違うように判断できます。しかし、大アルカナ自体の構成を見た時、「愚者」という数をもたいなカードと、21の数を持つカードたちに分かれます。

とすると、大アルカナは21という数で「愚者」を特別視する構成も考えられます。それでも、21は4で割り切れません。しかし、3ならば割れます。

また、これは特にホドロフスキー氏が設定しているものですが、大アルカナを「愚者」と「世界」の二枚と、1から10、11から20の数を持つカードたちに分けて見るシステムがあり、要するに、これは10のひとまとりをベースにしたとらえ方です。

10をひとまとりにしたと言えば、数カードもそうですから、ここに、数カードと大アルカナとの数的なリンクをつけることが可能になります。

10自体は、4では割れませんが、10×2=20となれば、4で割り切れるようになります。(この場合、大アルカナの「愚者」と「世界」は割り切れない次元にあると想定します。もちろん「世界」のカードは21なので、ある数で割り切れますが、ここでは21を完全な数として考えていて、「愚者」と同様、数がないように見ているわけです)

すると、宮廷カードも4がベースですから、大アルカナとのリンク性を、数的に考えることが可能になってきます。

このように、まずは、大アルカナの構成(数)を宮廷カード・数カードの小アルカナたちにリンクするために変化させる方法(小アルカナの次元に大アルカナをスライドしたり、落としたりしていくようなもの)がありますが、逆に、小アルカナを大アルカナにあてはめていくことも考えられないわけではありません。

そうすると、小アルカナの数のシステムを変形していく必要があるので、これはこれで難しいと言えるでしょう。

ほかにも一枚に何枚かをつけるとか、枝分かれみたいに考えていくと、数のベースシステムが違っていても、分類やリンクをさせていくことは可能です。

そんなことより、宮廷カードを実践でどう読むのかについて知りたい読者は多いかもしれませんが(苦笑)、今回はその話ではなく、宮廷カードをタロット全体システムの目から見れば、特別な位置にあることがわかり、そのうえで、面白いことがタロットから浮上してくるというヒントを書いております。

宮廷カードの使い方は、一般に考えられているよりも、はるかに多いものがあると言え、実は、自分自身に使えるものなのです。

タロットと接していくと、人に占ったり、リーディングしたりするよりも(それも可能で、すばらしい活用法なのですが)、やはり自分のために使うものとして作られていることが、マルセイユタロットでは実感してきます。

宮廷カードや数カードもそうで、小アルカナも小アルカナなりに、自分に使うためのツールのひとつと言えます。

あと、マルセイユタロットの宮廷カードの特徴として、ランク(階級)は騎士が最上位と考える立場もあるということです。

一般的には、宮廷カードは、王が最上位とされていますが、騎士を最上位とするのにも一理あるのです。ホドロフスキー氏の「タロットの宇宙」では、その一端・理由が明かされていますが、ほかの理由もあります。

王を最上位として見るのか、騎士を最上位として見るのかでは、実はかなり違ってくるところがあります。騎士を最上位にしても、タロット全体として整合性が取れるようにマルセイユタロットは作られています。

トランプカードの絵札でも、ジャック、クイーン、キングと宮廷カードに当たるものがありますが、ここにナイト・騎士がなくなっているのは、騎士自体に特別な何かがあるのではという想像も働きます。

トランプではほかに、タロットと比べると、大アルカナもありません。(「愚者」のみジョーカーとして存在します)

ゲーム用に特化されていると言えるトランプに、大アルカナと宮廷カードの騎士がないこと、逆に言えば、タロットには大アルカナと宮廷カードの騎士がついていること、ここにも、重要な秘密があるのてはないかと思えます。

タロットも確かにゲーム道具として作られたものではありますが、78枚であること、その構成には、単にゲームを複雑化するためだけに付け加えられたとは思えないものがあると想定できるのです。

まあ、占いができればよいという人には、このようなことはあまり関心も意味もないのかもしれませんが、タロットの秘密を明らかにしていくことは、ホドロフスキー氏がその著作で「タロットの宇宙」と題したように、宇宙の秘密に近づくことになるかもしれず、そういう興味方向にある方には、マルセイユタロットは向いていると言えるでしょう。


「存在」というもの

新型コロナウィルスの感染が、また拡大しているようです。

ただ、テレビなどの報道は、純粋なもの(真実を伝える報道目的)よりも、センセーショナルに煽って、結局番組や局の実権を握ったり、スポンサーをしていたりする企業や組織・団体の思惑に左右され、つまるところ、ほぼ広告宣伝、場合によっては洗脳とも言えますから、報道されているものを鵜呑みにするわけにはいきません。

ということで、最近は多くの人がネット情報を見るようになり、その信用度も旧メディアより上に見ている人も増えているのですが、これもまた曲者で、玉石混交、玉よりもむしろ石の情報も多く、実はネット情報も(自分や記事を)見てもらいがためのデマみたいなところは少なくないと考えられます。

そういう中で、スピリチュアル系や自己啓発、あるいは、成功ビジネス系などでも見られるコロナ間連のものに、「covid19(世界を今騒がしている新型コロナウィルス)はそもそも存在しない」という究極の情報があります。

この「存在しない」という話には、いろいろなレベルがあるようで、新型コロナウィルスは、実はウィルスとしてこれまでにも常在していたもので、そのひとつを大げさにとらえているに過ぎないという説、ウィルスと病の存在自体はあるものの、インフルエンザよりも死亡者も少なく、ことさら怯えるほどではない(だから存在しないに等しい)という説、はたまた、本当にそんなウィルスは存在しなく、すべて、とある目的のための捏造・演出であるという説まで多々あるようです。

新型コロナウィルスは気にしなくてもよいというものでは、ほかでも、「新型コロナは風邪みたいなもの」という楽観論として、特に経済を回したい人、元の社会・生活に戻したい人には見られる意見です。

一方、陰謀論の典型ですが、少し前ならば、人工ウィルス説のようなもののほうがよく取り上げられていた印象がありますが、今はさきほど述べたように、存在自体がフェイク(存在とか感染被害状況が捏造されている)という説のほうが、陰謀論界隈では目につきますね。

私はここで、どれが本当か、何を信じたらよいのかなどの、正解を出す話をしたいわけではありません。

言いたいことは、もっと根源的と言いますか、観点を違うものにした話なのです。

それは、さきほどから出ている「存在」という言葉に関係します。

covid19と名付けられ、世界に猛威をふるっている(と思われる)ウィルス、この「存在」をどう扱うのかによって、まさにそれそのものの存在が確定してくる(または、あやふやになる)のでないかと考えられます。

前述の陰謀論的な人の「新型コロナウィルス騒ぎは演出」という立場の者には、そういうウィルス自体、存在しないということになりますから、名前はあってもウィルスの実態はないことになります。

ただし、世の中の多くの人は、報道や実際目にしたこと、家族や知人の感染などによって、実在を疑っておらず、いわば、世間的にはウィルスは存在していることになります。

繰り返しますが、「ウィルス(騒ぎ)は演出で、詐欺みたいなもの」と考える人には、特にその人個人の世界においては、先述した通り、ウィルスはいない、存在しないことになります。

この現実世界で、物質的実在をはっきり確定させるには、人が目で確認するか、肉体的に接触しないといけません。ただ概念とか心というものは触れられず、目に見えませんが、その存在は信じている人がほとんどです。

私たちは、今、新型コロナウィルスを実際に見ることは、ミクロの世界を確認できる道具を持つか、医療などの仕事に携わっていないと、まず不可能です。

それでも、その存在は確かだと、ほとんどの人は思っています。それは、症状として現れた人、状況、感染者の数などが報道・報告され、常識として根付いたからでもあります。

このように、目に見えず、触れられないものでも、情報がほとんどの人に共有されれば、確実にその存在は認知され、世界に存在するようになります。

それでも、実際には見ることがないので、たとえ自分が感染しても、症状が出て、検査を受け、医師からコロナウィルスです、と言われないと、信じられないという人もいるでしょう。

こうして考えていくと、そもそも現実に存在するということはどういうことなのかと、不思議な感覚になってきます。

ウィルスに限らず、無数の小さな菌、存在はいる(ある)と私たちは信じています。それは顕微鏡等で確認されたからではありますが、図鑑などでは目にしても、実際に自分がすべて確認したわけではないでしょう。それでもそれらの存在は、あなたの中に確実化されています。

結局、存在とは、つきとめると情報(とその扱い、認識)ということになるでしょう。

その情報の流布する範囲、どれだけの人が常識として共有しているか、個人の場合は、生身の体験(五感での強烈な体験、特に視覚、触覚)のリアリティによるとも言えます。

よく、スピリチュアルでは、信じたことがあなたの世界そのもの(になる)と表現されますが、その信念がたとえ妄想で非科学的、非常識であっても、本人が強く信じ、リアリティを感じていれば、それは「存在」として、他者・常識の世界と切り離して、あったり・なかったりさせることができるでしょう。

ですから、「covid19などない」という強い信念をもっていれば、それはその人の世界ではそうなので、covid19がその人の認識で存在することはありません。

極端なことを言えば、あきらかにそのウィルスの感染症状が出たとしても、それは外の世界からの判断であって、その人の世界の中では、風邪やほかの病気(その人の信じる病名の病気)になるのです。(※一般の人は医師を信じますから、医師の判断の病名が自分の病だと思いますし、その病の存在を認知し、現実化しています)

ということで、covid19の存在がフェイクと信じる人、その説の信奉者たちは、covid19が存在していると信じている多くの人たちに比べて、当たり前ですが、自分がたとえ感染していても(症状があっても)、検査をしたり、covid19ではないかと心配したりすることは希薄になるでしょう。

ただ、一般の多くの人は、covid19というウィルスと、そこからもたらされる症状について、まだ未知数部分が多く、危険性もあることを信じていますから、covid19への注意、感染の疑い、検査希望などはしていくことでしょう。この人たちには、確実にウィルスは存在しているからです。

さあ、あなたは「存在」をどう考えますか?

ないと思えばない、あると思えばあり、その言葉は、「存在は情報による」とした場合、あてはまる言葉だと言えますが、私たちの現実世界では、一人の想念(の世界)だけではなく、たくさんの個人の想念(の世界)が混じり合う世界でもあります。

いわゆる集合意識のようなものの世界もありますし、常識・世間という世界もあります。

その中で、個人の信じる世界だけで生きるのは、実は並大抵のことではありません。

真実というのはひとつかもしれませんが、たいていは解釈がはさみこまれますので、人の見方だけ真実があると言ってもよいのかもしれません。

そもそも、自分というものさえ存在するかどうか、疑うことも可能でしょう。

存在のレベルを階層別に設定し(認識し)、表れている現象や結果に注目して対処する方法もあります。(逆に言うと、存在そのものの証明にこだわらない方法)

例えば、幽霊は見えないとされているのが普通で、存在する・しないになってきますと、いろいろな意見が出てきます。(科学的には存在しないと考えられていますが)

幽霊の存在そのものよりも、幽霊という「概念」としてもいいのですが、たとえ概念であっても、自分が振り回され、精神や命の危機、生活の問題が実際に生じているのなら、幽霊の存在を証明するよりも、緊急には大事なこと(対処すべきこと)はあると思います。

今日の記事では、まるでタロットは出てきていませんが(笑)、これはタロットリーディングにおいても関係する話であり、、特に質問や問いについて、考えさせる内容になっていると思います。


「愚者」の旅、どこに向かい、何を目的とするか?

先日、NHKで「サン・チャゴ・デ・コンポステーラ」の巡礼路の番組がありました。

サン・チャゴ・デ・コンポステーラとは、スペインの西端に位置し、サンチャゴ、つまり聖ヤコブ(イエス・キリストの12使徒の一人)を祀る大聖堂のある町で、そこまで至る巡礼の旅路が、キリスト教的な意味を超えて、今や世界遺産として、世界中から多くの人が訪れるルートとなっています。

昔の巡礼は、今よりもはるかに過酷な旅だったと思いますが、現代の巡礼者も、決して楽なわけではないでしょう。距離的にも、長いルートはおよそ1500kもあり、並大抵なことで完遂できません。

番組ではその大変さも放映されていましたが、同時に、途中の宿や、同じ巡礼路を歩く人たちの助け合いの姿も映し出され、巡礼路が孤独なだけの場所ではないことが表されていました。

現代において、巡礼を志す人は、何も宗教的な意味合いからだけとは限りません。

このカミーノと呼ばれる巡礼路においてもそれは顕著なようで、番組では、フランスでレストランを経営していたものの、それに忙殺され、ついには倒れてしまい、自分とこれまでの生活スタイルを見直すためにここにやってきという人、台湾人の女性で、ヨーロッパにワーキングホリデーに訪れ、巡礼路の情報を知って、何となくチャレンジしてみたという方、離婚して孤独で一文無しになった女性の再生の旅、父子の親子旅で、確かブラジルから来たという人などの紹介がありました。

どの人も、人生に何かの転機を迎えた人々で、巡礼という日常とは異質な時間と場所を選択されたのでした。

日常は日常で大切な時間ではありますが、ともすれば、私たちはそれに埋没し、時には精神や肉体を酷使して、ただ一日一日、惰性的に、義務的に過ごしてしまいます。

だからこそ、昔から、日常に代わる非日常的な時間や空間に自分をさらす、追い込む、転換(脱出)するような機会を課していたものです。

それは厳しいやり方もあれば、楽しいやり方もありました。

例えば、日本のムラにおけるお祭りなども、日常と非日常の切り替えのひとつの方法と言えました。

一方、「」というのは、空間的にも時間的にも、私たちを異質な世界に誘ってくれます。それは楽しいやり方での、非日常体験とも言えますが、決して旅は楽なことだけではありません。

厳しい旅であればあるほど、それは私たちを成長させ、知見や経験を広げ、意識を拡大させます。国内旅行よりも、海外旅行のほうが一般的に強烈で、常識を覆すことが多いのは、そうした理由によります。

かつては、「自分探しの旅」ということが流行ったこともあります。

コロナ禍以前だと、まだそうした目的で日本中、世界中を旅していた人は多かったでしょうし、今でも、YouTubeなどの題材として、旅的な非日常動画は人気でもあり、自ら、全国を回って撮影している人も少なくありません。

彼ら彼女たちは、きっと旅をしながら、楽しみつつも、苦労も多く、元の場所に戻って来た時、自分を変えたものとして、一生の思い出となったり、経験談として、皆に聞かせたりすることになるでしょう。

ところで、マルセイユタロットには「愚者」というカードがあります。マルセイユタロット以外のタロットにも、もちろん「愚者」というカードはあるのですが、図像を比べてみればわかりますが、いかにも旅、旅姿をしているのは、マルセイユ版の「愚者」が顕著でしょう。

例えば、ウェイト版(ライダー版)の「愚者」は、崖の上に夢見るような感じでとても危うい感じで描かれているのに対し、マルセイユ版の「愚者」は、足取りはしっかりしており、杖をきちんとついて、顔は上向きですが、目標に向かって意思を持って歩いているように見えます。

「愚者」と聞くと、まさに愚か者で、フワフワしているイメージですが、実のところ、あまりフラフラとした印象ではない感じの図像が、マルセイユ版の「愚者」となっています。

このマルセイユ版の「愚者」は、夢見る夢男くんや夢子さんというより、強い意志と目的をもって、しかしながら緊張せず、楽観的なものも持ち合わせながら、歩みを進めているように見えます。

いかにも旅姿らしい旅人ということで、旅をしていることは確かでしょうが、先述したように、ある目的を有している感じが強く、その視線や体の方向に意味があるように見えます。

すでに、カモワン流やユング派でマルセイユタロット研究家の方から提示されているように、「愚者」は大アルカナを旅する人と目されています。

従って、象徴的に言えば、一番最高度の数を持つ「世界」のカードが目標となっていると考えることもできますが、同時に、大アルカナすべてを旅したい、全部自由に回りたいという気持ちも、「愚者」にはあるかもしれません。

普通に考えれば、数の順に旅していくように思えますが、彼の旅の方法や目的によっては、数には関係していても、独特な法則によって、一見バラバラに見えるかのような巡り方もあるかもしれません。そういう余地や自由さを、マルセイユ版の「愚者」からは感じさせます。

さきほど、旅は非日常を味わうにはよい方法であることは述べましたが、これは、実際に旅するということだけではなく、心の旅路というように、内面が(を)旅していると見ることも可能なのです。

いやむ、むしろ究極的には、私たちは、実は場所など移動しておらず、意識が移り変わっているだけで、周囲の景色が映像のように映し出されているかもしれないのです。いわば、バーチャルな旅みたいなものです。

もし自分の周囲にスクリーン映像があり、自らは足踏みのように動かし、景色自体は移動しているように映し出されると、かなり精巧に装置ができていると、実際に自分は(場所も)移動していると錯覚を起こすことでしょう。

このことは、私たちが動いているのか、周囲が動いているのか、どちらかわからないことを示し、移動というものは、実は相対的なものという考えにも至るのです。

すると、重要なのは、内面の旅であることがわかります。

この内面の旅を、マルセイユタロットは「愚者」とともに、その他のカードによって象徴させます。

私たちは、タロットによって、自分が変化したような体験、言い換えると、それぞれのカードに自分自身が変身する体験を味わうことができます。

しかし、「愚者」としての自分は実は変わっていないのです。まるで着せ替え人形のように、ほかのカードという服を着るようなものでもあります。

それでも、その服を着てみないとわからないことがあります。

通常では、人生の実体験から省察することで、この体験をしますが、タロットを学習していると、先回りしたり、自分が実際には体験していないことでも本質的な世界に入って、それに近い感覚を得たりすることができます。

それはまた、意識においての巡礼なのです。

巡礼の番組では、孤独のように見えて、巡礼者のサポート体制によって、助け合って、かえって生きる力、ゴールしていく気力を回復していく様が放映されていました。最終的には神の存在を感じ、まさに神のご加護のもとにいる自分(一人ではない自分)を意識したかもしれません。

これと同様、タロットによる意識の巡礼路も、一見孤独な作業のようでいて、同志がいたり、タロットの世界からのサポートがあったりして、助けられながら、進んでいきます。

逆を言えば、巡礼は、孤独になることで、孤独ではないことを知る旅と言えます。

サン・チャゴ・デ・コンポステーラの巡礼路では、ゴールは「サン・チャゴ・デ・コンポステーラ」の町の大聖堂ですが、タロットの巡礼のゴールは、いったいどこになるのでしょうか?

それは「世界」のカードかもしれませんが、地図上とか、カードにあるのではなく、あなた自身にある「世界」なのです。いわば、あなたの中に大聖堂はあります。

ところで、「愚者」には犬のような動物が付き添っているようにも見えます。

この動物はスピリットとしても表され、「世界」のカードにおいては、四つの生き物にも関係するでしょう。「オズの魔法使い」や「西遊記」なども、主人公と従者の形で、ある「旅」を象徴しているように見えます。

もちろん、あなた自身は、その主人公となって、旅を志し、本当の目的地を目指していくことになるです。

しかし、幸せの青い鳥ではありませんが、求めるものはすでにあり、ただその発見に至るために、プロセスとしての旅が必要なのです。


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