ブログ

私たちの中にある「女帝」と「皇帝」

マルセイユタロットには、ペアや組み合わせとなるカードによって、ひとつの意味や概念を想起させるものがあります。

つきつめれば、この世界の一元と二元の原理とも関係します。

そうしたペアとなるカードの中で、今日は、「女帝」と「皇帝」をとりあげたいと思います。

「女帝」と「皇帝」は、実はその数(3と4)にも象徴性が隠されていますが、それは省略し、「女帝」と「皇帝」で表される意味でのペア性について今回は特に注目します。

そもそも、この二枚は、名前自体が、女帝と皇帝なので、いわば王宮のカップル、夫婦として考えることができます。タロットには、宮廷(コート)カードというグループがありますが、そこに出てくる女王と王に当たると言ってもいいでしょう。

ですから、ペアであることは非常に明白なわけで、お互いに助け合い、共同で物事に当たることで、完成するようになっているわけです。

一般的に女性と男性では、気質も肉体も表現も正反対であるように、「女帝」と「皇帝」では、共同で何かを成し遂げるにしても、それぞれの役割や性質が異なると言えましょう。

おおざっぱな枠組(意味合い)で言うと、「女帝」が創造・企画をし、「皇帝」がその「女帝」のプランを実行に移したり、現実化したりする組み合わせになります。

性別では、それぞれ前者が「女帝」としての女性、後者が男性としての「皇帝」でありますが、あくまで性質と象徴の話であり、実際の性別でそう決まっているというわけではなく、女性でも皇帝的な人、男性でも女帝的な人はいますし、二人が同じ性であっても、その性質が女帝的・皇帝的と分かれて演じられる(役割をする)場合も普通にあります。

ただ、どちらも同じタイプだった場合、企画やアイデアはたくさん出ても、なかなか腰を動かさないペアになったり、逆に、動くことはできるけれどもノープランだったり、ガチガチの現実的でマンネリの行動ばかり・・・というペアになることがあります。

そう、カップルと言っても、何も恋愛や夫婦間のことだけではなく、一般の人間関係や仕事上の関係性での性質の違い、得意分野として見ることもできるのです。

大切なのは、自分の得意なタイプ・気質を知っておくことであり、何かを行う時、自分とは違う性質の相手を選ぶと、うまく行く(目的が達成される)ことが多いわけです。

と言っても、実は、人には得意な傾向はあるものの、それ以外の性質がまったくないというわけではありません。

マルセイユタロットで言えば、すべてのカードの性質は、私たち一人ひとりの中に存在すると考えており、ただ、何らかの条件で自分の強く出る性質とか、得意な傾向の気質があるということなのです。

例えば、こういうことが考えられます。

育ってきた家庭(家族)環境で、父母はいても、兄弟姉妹間とかで、いつも皇帝的役割を担ってきたとか、女帝的にならざるを得なかったとか、学校や社会においてのチーム・グループで、誰も皇帝的役割をしたがらなかったので、それを自分がやっていく中で、そういう性質が癖になったとか、得意になったというパターンがあります。

そうすると、本当は違う役割のほうが本来の自分らしいということもあり得ます。それに後年気づいて、驚き、生き生きとする場合もあります。

ということは、思い込みもいけないわけで、自分は企画なんて無理と思っていても、やってみれば案外、面白いプランを思いつくことができる可能性があり、逆に、自分はマネージメントしたり、企画を現実化するために、いろいろと動いたり交渉したりするのは苦手と思っていても、それは単に経験不足というだけのことかもしれないのです。

では、今度は、「女帝」・「皇帝」について、また違った視点で見てみます。

「女帝」は創造すること、生み出すことに喜びを感じ、「皇帝」は、それを現実に形にしたり、結果を出すことに達成感を得ます。

言い換えると、「女帝」がイメージや想像の世界と関係し(生み出すには、アイデアが必要なため)、「皇帝」はまさに現実と深く結びついていることになります。

ということは、今、現実がつまらない、苦しい、味気ないという人は、何かを生み出していないと考えることも可能です。

つまり、自分が現実世界に対して、何も役に立ってない、空虚な存在のようになっているのです。

これには、自分の創造性が抑圧されている環境にいたり、本当にやりたいことがやれていなかったり、ただ毎日同じことの繰り返しで、まるで機械のように無機質になっていたりする状態が考えられるでしょう。

まさに自分が押し殺されたかのようになっているわけです。

しかし、いきなり自分が役立っていると感じることを発見するのは、毎日の生活の中で難しいかもしれません。それができれば苦労はないからです。

ここは逆転の発想ではないですが、役立つ自分という思いを一時的に切り離し、とにかく、創造すること、生み出すことだけにフォーカスします。

それが役に立つかどうかは考えないということです。

「女帝」と「皇帝」でいえば、この二枚はペアではあるものの、癒着的に見ず、「女帝」のほうだけに自分を置き換えてみるというのに近いでしょう。(「皇帝」と関係させると、実際に役立っているかどうかという視点での検証が入るため)

生み出すことも難しく考える必要はありません。

簡単なモノや料理を作ったり、絵を描いたり、旅行のプランニング(実際に行かなくてもよい)をしたり、ショートな曲や物語を作ってみたり、お金を増やすことをしたり、動物や植物を育ててみたりする(最初の状態より育っていくことが創造とつながる)ことでいいのです。

また自分の持っている情報を人に教えたり、書いたりして知らせるのもいいでしょう。(それが伝わって、ある人に役立つかもしれないからです)

そうして創造の力を少しずつ呼び起こし、次第に、本当に大きな創造、創作へと結びつき、生き生きとした魂の回復がなされ、実際に社会や人に役立つことができるようになるかもしれません。

「女帝」として、自分を生きていることを実感することで、「皇帝」という現実をよりよく生きることができるのです。

注意すべきは、創造性の意欲がまったく起こらない時、それは体力と精神を消耗しているおそれがあり、タロットでいえば、「吊るし」のように、何もしない休養期間を設ける必要があります。(ちなみに、「吊るし」の数は12ですが、ばらして足すと3になり、「女帝」の数にもなります)

逆を言えば、私たちの創造力を奪うには、奴隷のように働かせたり、変えることのできないシステムのように思わせたりして、とにかく精神や体力を失わせることです。余計なことに、力を消耗させていくことも同じです。

さてさて、この今の世の中、私たちの創造性を高める社会になっているのか、逆に失わせるものになっているのか、皆さん自身、考えてみてください。


選択を「手品師」と「恋人」で見る

人生は選択の連続と言ってもいいものです。

毎日、何を着るか、何を食べるかに始まり、どう仕事を片付けようか、どう人と相手しようか、何をして楽しもうか、何を学ぼうか・・・それこそ山のように選択事項はあります。

ただ、毎回毎回それを意識のうえに上らせていたら、たまったものではありませんので、たいてい、ささいなこと・ルーチンなことは、無意識のうちに(無意識に近く)自動選択するようになります。(深く考えずに選ぶ)

しかし、それでも、選択にとても悩むシーンは出ます。それはたいてい、どちらかを選らねばならないと思っているような、二者択一的な場面です。

ところで、マルセイユタロットの大アルカナで、「選択」を象徴するカードといえば、真っ先に、「恋人」が挙げられるかもしれません。

本当はいつもほかの記事でも述べているように、あるテーマそれ自体に、カードそれぞれで象徴させることができるので、「選択」ひとつとっても、もちろん、「恋人」カードだけで表せるものではありません。それでも、テーマに関係性の深いカードというものは出ます。

選択では、「恋人」がまずそうなのですが、ほかにも、今回は「手品師」も取り上げてみます。そして、この両者を見る(比べる)ことで、選択に関わる重要なこと(段階)もわかってきます。

では、最初に「手品師」の絵柄を見てみます。

「手品師」は、テーブルの上に、その名の通り、手品道具を並べて、ある手品をして、大道芸人として観客を楽しませています。

彼の手の持ち物やテーブルの手品道具は、タロットの全体構成で言うと、小アルカナと関係し、彼自体が大アルカナになろうとしている表現だと述べることもできます。

それはともかく、小アルカナと大アルカナの関係は、一言でいえば、現実性と超越性の違いともいえ、簡単に言えば、現実のフィールドを中心として見るか、心や精神、霊的フィールドまで含むかの認識レベルの差です。(いろいろな考え方があるので、これはあくまで見方のひとつです)

となれば、「手品師」は小アルカナの世界を扱おうとしていると見ることができ、それは選択の意味においては、現実フィールドで重要視したり、価値を持たれたりする基準によって選ぶ意味になります。

講座の中では詳細な説明をしていますが、「手品師」のテーブルと彼が持つものには、いろいろな象徴性があり、それらひとつひとつには、現実における選択肢の本質を表していると考えることができます。

さて元に戻りますと、私たちが悩むシーンでは、どちらかを選ばなければならない状況でのことが多いと言いました。それは、結局、現実生活における良し悪しを、なかなかその条件と選択の時点では甲乙つけがたく、判断できないことになっているからと考えられます。

詳しく要素を見れば、お金などの経済的効率・損得、自分の気持ちが満足するかどうか、やりがいや見返り(人からの評価、達成感・貢献感など自己満足も含む)があるかどうか、自己の学びや成長・拡大につながるか、確実性がある(目的のための成果や効果がある)のはどちらか、などで条件が拮抗しあい、迷っているわけです。

どちらかを選択した場合の未来が読めない、わからない、予想が今の時点ではつかないからというのもあるでしょう。

そして、今書いたこれらの現実的諸条件(悩んでいる要素)が、「手品師」で言えば、テーブルの上の小道具であったり、持ち物であったりするのです。

一方、「恋人」カードを見ます。

「恋人」では、手品師のように、道具・モノではなく、人が3人いて、真ん中の人が、両端の女性のどちらを選ぼうか迷っているようにも、すでに心が決まっているかのようにも見える描かれ方をしています。

そして、人間たちだけではなく、上空には、天使あるいはキューピッドのような、人間ではない異次元の存在も現れています。

「手品師」では、一人でモノを選択しようとしていたのですが、「恋人」になると、モノではなく、人そのものの選択が入り、それは逆に、人から教えられたり、示唆されたりして、選択を支援されているようにも見えます。

さらには、「恋人」カードに天使が現れたことで、通常の次元、現実や常識の選択レベルを超えた何かが、この実際の世界にも関与するのだということ、常識を超越した選択の方法や見方があるのではないかということが、わずかですが、示されてきたとも言えるでしょう。

つまり、私たちは、選択に迷い、悩むことで、次第にステップアップし、肉体・現実次元だけではない自分や世界に気づいていくことになるのです。

それは目に見えない部分も含む、統合的・霊的成長と言えましょう。もし霊的なことというのがうさんくさい、なじまないというのであれば、心理的成長と言い換えてもよいです。

心の中は目に見えない次元でありますから、そうしたものまで開いて(受け入れて)自分を見ていくことで、選択の見方・仕方も変わってくるのです。

「手品師」のところでも述べたように、「手品師」レベルの選択は、現実での常識的な損得とか、一般感情レベルの満足、具体的(他人から見ての)評価が得られる条件のもとでの視点(選択基準)でした。

「手品師」が大道芸人であるだけに、人からの評価は、自分の人気、ひいては食い扶持にも影響しますし、対人的に敏感で重要なものになるのもやむを得ないところがあるでしょう。(生活の基盤のため、快楽や喜びのための選択基準)

しかし、他人の目線や常識的価値観ばかりで自己の選択を行っていると、本当の自分を抑圧する選択の方法が習慣になり、自分自身の成長が止まってしまうおそれもあります。

そこで、他人との相談、コミュニケーションを取りつつ、自分と人の違いを認識し、自らが真に望むものの選択を見極めていくようにします。

ここで大事なのは、自分自身を発見したいからと言って、殻に閉じこもっていては(孤独ばかりを選択してしまっては)、結局、自分の個性がわからなくなってしまうので、他人と関わることで、他人に依存したり、流されたりせず、自他の違いを認識しつつ、自分をきちんと持つという過程が望まれるということです。

それが「恋人」カードの三人の話し合いのようにも見えます。

そうした中で、やがて、選択の条件やレベルというものが、現実世界で言われている「よいものを選ぶ」という観点だけが正しいのではないとわかってくる時があります。

自分の心は本当はどう言ってるのか? なぜこの選択で迷っているのか? ふたつの選択のどちらでもない選択というのもあるのではないか? そのこだわっているものに、本当の価値が自分にあるのか? ・・・

カードで言えば、新たな視点は、「恋人」の天使目線で生じてくるとも言えます。いわばそれは内的な声とも言えますし、神性的な発動による気づきの選択でもあり、また、魂の求め(ここにはギリシア的にいう「ダイモーン」のような、善性と悪性の両方の神的悪魔的存在からの介入、誘惑も含みます)によるものもあります。

これらのことから、迷って決められない時は、正解を求めようとしないのが正解という、面白い考えをしてみるとよいでしょう。

どちらかに決められないのは、まさに決められないものだからであり、あなたの視点を今の価値と条件から、はずすか(違う視点と条件で見てみる)、もう、どちらもやってみる、あるいはどちらも選ばないという両極端のような発想の転換を図るか、さきほど述べたように、大変に迷う段階で、すでにその選択肢のどれかを選ぶという意味での正解はないのだと認識し、こだわりを捨てたほうが楽になるでしょう。

神・天使的な目線に立てば、現実界での結果よりも、すべてのプロセスに意味があり、おそらく、どちらの、どの選択肢を選ぼうとも、そこに優劣はないと見えるはずです。優劣があると考えるのは、現実視点での条件・価値で判断しているからに過ぎません。

「手品師」で言えば、テーブルにあれだけ色々と道具が用意されているのが現実世界です。その道具をどう選び、どんな手品をするのか、それはあなた次第で、神目線では、手品そのものの評価より、たとえどんな道具であっても、手品をしたこと自体が評価されるのではないでしょうか。

また、あまたの手品(道具)を選んでやってみる、そして観客からそれなりの(いい・悪いの)評価を得るというも、現実世界に生きる人生の面白さとも言え、選択で悩むということは、それだけワンダーランドな(道具がたくさん用意されている楽しい)世界(に生きていること)でもあると考えられます。

ということは、悩むことは贅沢で豊かなことなのです。


タロットリーダーになりたい人に

私のもと(講義)には、タロットリーダーになりたいという人も来られます。

そういう方には、是非、タロットを学んでもらって、最初の意思を貫いてタロットリーダーとなって、人々の問題をサポートしたり、癒したり、成長や発展に寄与していただければと思って指導をしております。

ところで、世にタロットの先生と呼ばれる人は、自称・他称も含めて、本当にたくさんの人がいらっしゃると思います。当然ながら、いろいろなタイプの先生(タロットを教える人)がいらっしゃるわけです。

そして、タロットを習う側の人は、どうしても大なり小なり、教わる先生からの影響を受けます。その中でも、一番最初に受けた(習った)先生は、その先生のレベルや考え方などとは関係なく、のちのちに生徒さんに(タロット関係において)大きな影響を及ぼすことは確実だと思っています。

やはり、最初というのはそれなりにインパクトがあり、生徒さん当人には自覚がなくても、無意識のうちに影響があるのです。(これは他所で学ばれた生徒さんを見ていて、私自身も感じることです)

しかし、同時に、人は変わっていくことのできる存在ですから、最初の先生と合わなかったり、自分の求める教えではなかったりした場合でも、次以降の先生によって、修正したり、補強したり、刷新したりすることも可能です。

どちらにしても、生徒さん当人がどう思うと、究極的な目線からすれば、どの先生に学んでもいい・悪いはなく、すべて経験として蓄積し、当人に活かすことができると思います。

ただし、現実的な、制限された視点になれば(たとえば期間を限定した見方であったり、経済的効率性で見たりするような視点)、そこにいい・悪いという評価が、当人に感じてしまうこともあるかしもれません。

ということでは、習う側としては、どういったタロットリーダーになりたいのか、どのよなうタロットリーダーを目指すのかというビジョンを、ある程度持っておいて、学んだほうがよいということが言えます。

もちろん、最初はタロットリーダーになるなど考えていなくて、タロットを学んでいるうちに、これを人に役立てたいと思い、タロットリーダーになる(なりたいと希望する)という人もいます。(私の講座では、こういう傾向の人が多いかもしれません)

それとは別に、初めからタロットリーダーになることを決めていて学ぶ場合は、時間やお金などの点も計画的に考慮する必要がありますが、それよりも、自分のなりたいタロットリーダー像を固めていくことも大事だと思います。

これは言い方を換えれば、「タロットリーディング」という技術をどう使うのか?ということのイメージ・ビジョン・計画です。

例えば、すでにヒーリングや対人援助的な相談を何かやっている場合、そのメニューのひとつ、あるいは、組み合わせ技術として、タロットリーディングを行うというパターンがあります。

また、タロット占い師として自宅、または、占い事業者のもと(占いの館とか電話占いとかを経営しているところ、占い師を雇える場所)で、タロット占いを提供するパターン。

(イベントなどの場所で)ボランティアや、友人その知人たちを中心に、趣味的なタロットリーディングをして、とにかく自分が何か人に貢献できる実感を味わいたい方

など、まずタロットリーディングを行う場所やサービス方法が検討されます。

そして、同じタロットリーディングと言っても、どういった質のものを提供するのかという、リーディングスタイルのことも重要です。

それは、占い中心のスタイルでやるのか、カウンセリング的な、メンタルや心の領域まで踏み込んでリーディングするのか、何かの目的(恋愛や結婚、仕事など専門相談目的分野)を中心にして専門リーディングをするのか、スピリチュアリティや霊的なレベルも考慮してリーディングするのかというような例で考えられます。

その前にも、ビジネスとして行うのか、あくまで趣味やボランティアでやるのかということも、大事です。

それらについて、最初からはまだ決められなかったり、よくわからなかったりすることもあるでしょう。

ですから、タロットを学んでいる最中にでも、少しずつ、このようなことを決めていくとよいのです。習い終わってからでは遅いこともあります。(スタートがその分遅れ、迷っているうちに、情熱も冷めて、結局、タロットリーダーになることをあきらめてしまう場合があります)

時間とお金が有り余っている人は別ですが、たいていの人は、ある程度、何らかの制限・条件があるはずで、そうした観点で言えば、先にも述べたように、それらを無駄にしない、目的に沿った選択と学習が必要なケースがあるでしょう。

目的・将来のビジョンがあやふやなままだと、自分探しの旅みたいになって、いつまで経っても決まらず、時間とお金を浪費してしまうことにもなりかねません。

私の場合、特にタロットリーダーを目指したいという人で、私の教えられるスタイルが、その方の望まれるスタイルとは大きく異なっている場合、あるいは、こちらのスタイルを学ぶのには向いていないと思われる方には、講座のステップアップをお断りさせてもらう場合もあります。(両者の相談と納得のうえで)

そうしないと、お互いに時間やお金を浪費はすることになったり、精神的につらくなったりするからです。

最初にも述べたように、先生側にも個性とか、培って来た(教えられる)スタイルというものがあり、それは先生によって様々です。

大まかには、教えられているメインのタロットの種類によって決まっていることもあるのですが、それでも、同じタロット種の先生でも、タロットに何が描かれているのか、それを何ににどう活用するのかの主義主張、思想、価値観などによって、まったくスタイルの違う教えとなることもあります。

ですから、教わっている側にも、先生との相性とか、自分の目的にかなう、かなわないという部分が出てきます。

それを無理して(ごまかして)、先生色に染める(染まる、悪く言えば洗脳する)必要もなく、逆に、自分の個性や目的に応じて、自分自身を活かしたほうがよいと思います。(先生に逆らうとか、けんかするということではなく、相手を尊重しつつ、自分自身も大切にするということです、そはれ先生自身にも言えます)

この世界では、一人ひとり全く違う個性を持ちます。それを活かし合うのが、現実という世の中だと思います。あなたにはあなたにしかできないタロットリーディングというものがあり、あなたのリーディングを待っている将来のクライアントさんもいるのです。

最初は先生の真似から入っても、やがては、あなたオリジナルのリーディングに必ず向かうことになります。

伝えられるのは、そのタロットにおける共通的な認識の象徴性であり、もし先生から受け継ぐものがあるとすれば、その先生が目指そうとした精神や高次の目的といったものになるでしょう。

それは、あなた独自の表現をもって、また別の人に伝わり、伝えられたその方も、その人の表現でもって違う人に伝えていくことになるのです。

それでも、よい先生(自分の目的や精神に合う先生)に出会うのは、これまた縁と言えますが、出会えれば僥倖と言えましょう。たとえその先生に自分が気に入られなかったとしてもです。

表面的なことよりも、あなたの魂のようなものが求めていて、それが時間的には一時的な師弟関係であっても、魂の必要性の出会いであれば、自分の魂が発動し、その後の人生観の変化などが顕著に起こることでしょう。それはまさに、そう決まっていた運命のようなものなのです。

タロット学習を志す時、タロット(種)の縁もあれば、教わる先生との縁、さらには一緒に学ぶ仲間たちとの縁もあり、それらはきっと意味あるものとして、あなたの運命と縁に関係しているのだと感じます。


「戦車」に見る成功の考察

「成功」という言葉で、マルセイユタロットから連想されるカードには、「戦車」があります。

タロットは重層的、あるいは言語的使い方ができますので、例えば、成功ということを「戦車」が意味するとすれば、ほかのカードは、その成功に向けた補助や方法を伝えてくれると読むことが可能です。

つまりは(技術的には)、「戦車」とその他のカードの組み合わせ(コンビネーション)によるタロットの読み方ということになります。

一方で、成功と一口に言っても、いろいろな形(状態)があり、必ずしも、「戦車」だけで象徴できるものではありません。ほかのカードによって表現される成功というものもあるはずです。

このように考えていくと、成功の概念そのもの、また、同じ「成功」という概念を示していても、それに至る方法なども、様々であることがわかります。

さて、成功という言葉が出たので、これについて、ちょっと考えてみたいと思います。

さきほど、成功にはタロットで考えると、いろいろな形があることがわかりましたが、それでも、いわゆる今の私たちが思う、一般的に共通する成功イメージというものがあります。

それは、ほぼ経済的に成功していることが主題となっているものです。

経済的な成功以外では、名誉的なもの、有名になったというものとか、夢がかなった状態とか、よきパートナーや家族に恵まれたなどあるかもしれませんが、やはり、経済的な豊かさ、大きさを獲得していないと、成功とはなかなか言い難いのが、普通でしょう。

しかしながら、この経済的成功は、資本主義社会で成立するもので、全員が経済的に大きぼ意味で成功する(端的に言えばお金持ちになる)ということはありえず、いわゆる、勝ち組と負け組いうことで、まるでイス取りゲームのように、成功するものと成功しないもの、一部とそれを支える多くの者たちという図式(構造)になっています。

言ってみれば、経済的な成功者という存在は、ほんの一部しかいない(多者になりえない)というわけで、ポジションが限られているのです。言い方は変ですが、マイノリティです。(笑)

まあ、負け組の、まさに負け惜しみと言ってしまえばそれまでですが(苦笑)、普通は、負け組になる場合が多くなる(負け組がマジョリティである)のが、今の経済システムの構造上、仕方ないところもあるわけです。

それでも、頑張って成功者を目指すのもよいでしょうが、多くの人は、その限られたイス取りゲームの競争から脱落し(意図的に脱落する場合が多い)、違う質の成功を追い求めるようになります。

成功する者、成功したい者からすれば、「なぜ努力しないんだ」とか、「やり方(情報)を知ってきちんと行動すれば成功できる」と思う人がいるでしょうが、世に成功パターンや法則はあまた教えられている(紹介されている)のに、いまだたくさんの人が成功者になっていないのは、さきほど述べたように、もともと構造上の問題として、成功者のポジションが限られているというのがあるのと、努力や成功法則だけでは成功できない部分がある(つまり誰でも等しく、画一的方法で成功できる保証的な方法がない)からでしょう。

例えば、生まれた境遇とか個人の資質、またと呼ばれる要素も大きいのではないでしょうか。

よって、一般的に言われる経済的成功を目指すには、なかなか難しいところがあるのが当然と言えます。

ということで、先述したような、成功は成功でも、違う質の成功を考えるようになるわけです。

要するに、成功したいと思えば、ひとつは、普通の経済的成功を目指すか、成功という概念を自分の中で変えて、その成功を目指すかということになるでしょう。

後者は成功という質、意味を変えるということに近いですし、たくさんの人にとって、こちら側を目指すほうが構造的には楽だということです。

なぜなら、その質の違う成功のポジションは、一般的意味合いの経済的成功とは違い、ひとつか少数と限らているわけではなく、いわば、人の数だけ、成功という思いの数だけ存在するからです。

タロットや、スピリチュアル的な統合観点で見れば、人には、三つの魂があると言われます。(詳細になれば7つや21とも言われます)

それは肉体の魂、精神の魂、スピリットの(霊的な)魂です。

魂というより、レベルや次元という表現のほうか適当かもしれません。このうち、特にスピリットの魂に目覚めよというのが、マルセイユタロットの教義のひとつになっているのですが(それはほかの魂を捨てるということではありません)、とにかく、違う質の魂をひとりの人間のうちに持っているという考えがあるのです。(キリスト教の三位一体教義とも関係します)

そして、成功や幸福というものに対しても、それぞれの魂レベルでのものがあり、いわゆる、普通の成功とか幸福概念で語られるのは、肉体レベルのものがほとんどと言えるでしょう。

スピリチュアルに傾き過ぎると、これを軽視しがちですが、私たちは現実の世界で肉体をもって、形ある世界で生きていますから、この「肉体魂」ともいえるものの幸福を追求しないと、健康を害して、簡単に死んでしまったり、生活そのものができなくなったりします。

しかし、これにとらわれすぎると、ほかのふたつの魂の幸福はないがしろにされることもあります。

一般的な成功ではなく、質を変えた、一人ひとりの個人が思う成功を考えた場合、これは精神や心の魂の幸福を求めていくことに同意義となるでしょう。

そして、さらにはスピリット次元までの成功を目指すと、人生の質そのもの、生き方そのものまでかなり変わってくるかもしれません。なぜなら、それぞれで重きを置く価値基準が異なってくるからで、つまりは、世界の見方も変化するからです。

それでも、さきほども指摘したように、肉体レベルの成功・幸福をまったく無視するわけにはいきません。三つの魂の調和とバランスということが大切となってきます。

人によって、その配分やバランスは違うとはいえ、それをうまくコントロールして生きていくのが、現実の人生といえます。(実際を生きる私たちの課題であり、試練であり、楽しみでもある)

さてもう一度、タロットの「戦車」に戻りますと、(マルセイユタロット」)の「戦車」の図柄は、一人の御者が、二頭の馬を操って(手綱はありませんが)いる図柄です。合計三つの生き物がいます。

ということは、さきほど述べた三つの魂と関連づけることもできるでしょう。

この「戦車」は、冒頭で、成功がもっともイメージされる(そういう意味を持つ)カードだと書きましたが、それには、一般的イメージの成功ということもあったのですが、こうして絵柄から見ていくと、実は、もっと深い意味の成功が隠されている、ほかのレベルの成功も意味しているのでないかと推測されます。

たったひとつ、あるいは、いくつかの極めて少数のイスを奪い合うような経済的成功を目指すのも、スリルと冒険、そして達成感があって、またよいものでしょう。

一方で、限られたイス取りゲームに参加するのではなく、別のフィールドでは、人それぞれが、自分のイスに座って会話や食事を楽しんだり、イスを交換したりして、循環していくようなゲームの世界を選んでもよいのかもしれません。

成功というものを量や大きさではなく、から見ていくと、一般的にいう(経済的)成功というのも、あくまで、たくさんある成功の状態のひとつです。この世界の今システムでは、それがもっとも価値あるものとされていますが、そう信じ込まされているかもしれないのです。

もっともよいものと示されたものに向かう、目指すのは自然なことのようにも思えますが、そもそも提示されものが本当にもっともよいものなのかどうかは、実はわからないものです。

最初から示されたものに到達するという方向性ではなく、それぞれが新たに創造したり、発見したりしたものが結果的に目指していた成功だったと見ていく、逆の方向もあっていいでしょう。

そういう意味では、「戦車」のカードには、御者の肩に、ふたつの顔が描かれているのも面白く、成功の見方の方向性に、複数あることがわかります。


カードの(が)守護神、守護天使

台風が続き、本当に今年は天変地異と言いますか、災害が多い年です。

これだけ続くと、前々から言われているように、地球規模の環境変化、何らかの全体性の問題も考えられます。また非科学的ではあっても、何か大いなるものの警告のような、超越的な意味合いも感じさせます。

いずれにしても、一面から見るだけではなく、多面的な考察視点があってもよいかと思います。

例えば、災害(の危険のあること)が起きますと、最初は個人(自分)の生活が心配になりますが、やがて、個人を離れた、日本全体とか地球全体とかの関心・意識に変わってきます。

災害は、場合によっては生命の危機もあるわけですから、日常の些細な個人的問題とか悩み、または、モノを中心とする豊かな充実した生活へという思いも、人によっては薄くなるのではないでしょうか。

そして、助け合いとか協同意識が強くなり、個人というより全体で安心でき、再建できる社会システムの求めが、今まで以上に起こってくると思います。

また災害が起きることで、本当に生きていることの有難さ、日常の普通の暮らしができる大切さにも気づき、ただ個人の欲望や自我(エゴ)の拡大と現世利益の満足を追求していく目的・暮らしから、反転したものに意識が変化していく可能性を秘めています。

モノをたくさん持っていても、失えば元も子もありませんし、生活再建的にも使えなくなったモノは、処分に面倒な話となります。

さらに言えば、モノ(のあるなし)を基準とする豊かな生活とは、モノが安定的に供給できる社会・暮らしがあってこそのものであり、災害で非日常のようなことになると、ともかくも生きていくのが精いっぱい、元の状態へ回復することが大事となります。

結局、スピリチュアル的に言えば、今起こっていることも、個別意識で分離され、モノやお金のあるなしの価値判断で競争される意識から、精神や霊的な質を元とした、統合的な意識に移行する準備のためとも考えられるわけです。

 

さて、話は変わりますが(実は奥深くではつながっているのですが)、マルセイユタロットでは、特に大アルカナと呼ばれる22枚のカードが、様々なレベルの象徴を示します。

そういったいろいろな見方のひとつに、カードを神や仏、天使や聖霊、菩薩などの化身・象徴として見るというものがあります。

マルセイユタロットでは、外にそういった神なるものがいると考えるのではなく、内(自ら)にそれが宿るという思想を持っています。

ということは、端的に言えば、私たちには、みな、タロット的には22の神や仏(あるいは天使とか菩薩とか)の崇高な存在がいると見ることができるわけです。

このうち、「悪魔」というカードもあるのですが、それも神の化身と見れば、名前は悪魔でも、違った見方もできるでしょう。

それはさておき、ある問題や、不安・恐れもある状況に陥った時、タロットをシャッフルして、一枚、カードを引きます。

その出たカードが、今自分に必要な神や仏(の表現)なのだと思うことができます。

ただ、それだけではちょっとわかりづらいかもしれません。ですから、こう思うとよいです。

それは、自分の(その苦境に対する)守り神(助けてくれる仏、縁ある菩薩、天使)であると。

ところで、宗教によっては偶像崇拝を禁止していますが、普通は、神や仏を絵にしたり、像を作ったりして、私たちはそれに拝み、祈ります。

これは一見、外に神がある(自分の外に神が存在する)ような印象受けますが、見方を変えれば、内なる神性・仏性を引き出すための装置とも言えます。

言い換えれば、外の絵や像を通して、自分の内なるその存在を思い出す(引き出す)わけです。

例えば、観音様の像に祈れば、自分の中の観音力(かんのんりき)が発動し、自らを救う縁と力を呼び起こすというわけです。

これと同様に、もしタロットカードを神や仏の化身のように見れば、引いたカードがあなたの守護神となり、そしてそれは、自分自身の内なる神性をカードの形として見せてくれているのだと考えることができます。

ですから、まずは、単純に「外の神」として、そういう神様が私にはついているとか、そういう神様で表現されているようなエネルギーが必要なのだと見てもよく、やがて、それが自分自身の力であったということを気づき、悟って行けばいいわけです。

まさにタロットカードを、エンジェルカードや神様カードのように見るようなものです。

外側が不安定な状況にある時、カードで示される存在があなたを守り、自信を与え、癒し、調和させていくことになります。そして、それは、あたにも、相手にもある力であり、存在そのものなのです。

マルセイユタロットを持っているあなた、さあ、あなたの今の守り神として、一枚引いてみましょう。

またいつかの機会に書きますが、同じ大アルカナでも、それぞれによって、神(と見る方法)の性質や表現が違ってくるので、それはそれで分析してみれば面白いものとなります。

それから、特定の宗教に縁があったり、信仰したりしている人は、そこで言われている神様や高いレベルの存在を、タロットであてはめてみるのもよいでしょう。

興味深いことに、自分に縁のある神や仏は、タロットでも同じように縁があることが多いのです。


Top