ブログ

感性での共感性の危険さとその回避には

知識や理性によって、相手の状況を推察・判断し、あるいは自分の中で高度に理解が進むこと(知性の高次化)で、他人との共感性を持つことができます。

個人的には、ここうした(理性・知性によって共感を持つ)方法が、一人のみならず、引いては人類全体としての共感性を呼んで、物質的・利己中心的な見識から解放されるものとして、もっと注目されてもいいと思います。

しかし、一方で、感覚・感性的(感情・情緒的)に相手との共感性を持とうという方法があり、むしろ、そちらのほうが自然的(ナチュラル)な感じがして、今はよく語られていたり、実践されていたりするのではないでしょうか。

この感覚・感性的なものは、言ってみれば気持ちのようなものでつながり合って共感を抱くというものなので、波があったり、好き嫌いの感情で左右されることもあります。

ですから、よい意味で通じ合う時(同じ気持ちの好ましいものを相手に見た時)は、ものすごく共感や愛情を想い合うことができますが、反面、自分や相手の感情・データに、違和感・嫌悪感を持つようなものを見た時(感じた時)は、恐怖や憎しみのようなネガティブな感情が起こり、共感どころか、かえって相反してしまうこともあると想像できます。

ところで、人によっては、もともと特別に(または異常に)感覚が鋭敏になっている人がいます。

その鋭敏さが普通の五感ではなく、目に見えない情報を感じ取る感性であることもあり、そういった人は、人の気持ちや感情(または様々な個人的な情報)への感受性が強くなります。

こういう人は、エンパス体質とか霊感体質などと呼ばれることもあります。

さて、スピリチュアルの世界では、人との共感性・理解力が増すことが、人類の(理想とする)進化のように思われているところがあります。

もし、そういった説に乗るとすれば、それは、さきほど述べた特殊な感受性を持つような人の能力・感性が、普通の人にも現れるようになる状態と言ってもいいかもしれません。

けれども、それには落とし穴があるのです。

相手の気持ちがわかってしまうということは、それだけ相手のいろいろな気持ち・情報を見てしまうことにもなります。

もちろん、「通じ合い」というのは相互作用ですから、自分の情報も相手に伝わる(見えてしまう)わけです。

それがともによい感情、ポジティブなものであればお互い気持ちいいことになるでしょうが、ドロドロしたもの、見てほしくはないもの、デリケートなもの、ネガティブな感情などのものであったら、感じた方は不快感を持ちますし、見られた方は土足で人の心や大事な部分に踏み込まれた嫌悪感・憎しみが出るでしょう。

このように、うかつに共感・共鳴しようとするのは危険なこともあるわけです。

やはり、本当にわかり合えるためには、双方にわかり合おう、歩み寄ろうとする態度も大切だと思いますが、同時に、一人一人、それぞれにおいて浄化と言いますか、自分のデータ・情報を整理し、自分自身で自分を受け入れられる(甘えやごまかしではない)許しのような状態がないと、「見せ合う」「通じ合う」という素に近い状況になった時に、耐えられなくなるのではないかと思います。

つまり、真の(全体性としての)共感は、一人一人の浄化・成長・進化にかかっているということです。

有り体に言えば、お互い見られてもよい状態、それ(相手のすべて)が微笑ましく、愛しくも思えるくらいになって、はじめて高い共感性能力も活かせる(活きてくる)ものだということです。

逆に言うと、そういう状態に多くの人が達していないと、優れた共感性の能力は発現・解放されない(危険をブロックするセーフティロックのような安全弁が働いている)のではないかとも考えられます。

今の(わりあえない)世界の状況を作っているのは、ほかならぬ私たち自身の意識(のレベル状態)だとも言えます。

ここに自分を見つめる、受け入れるという作業が、相手との関係だけではなく、人類全体の進化の問題としても必要なことがわかります。

ちなみに、タロットは象徴としてのカードですから、象徴は抽象的ではあっても、普遍的な原理・パターンを表し、それでもって、個々の体験・具体性を全体性へと象徴化(昇華)することができます。

言い方を換えれば、一人一人の感じている気持ちや実際経験したことは、それぞれで違うわけですが、それが象徴となれば、生々しいもの(個人的感情)が削ぎ落とされ、ほかの人と共感できるシンボル・型として客観的に眺めることができるということです。

いわば、感情的・感性的共感の要素を持ちながら、理性的共感性を促すところもあるということなのです。

見えない自分自身のデータを絵柄に表出させることもできますし、このように相手との知性的な共感性を起こすことも可能なのが、マルセイユタロットと言えます。


出会いの偶然性と必然性

人と待ち合わせしようと思いますと、今はとても便利になりました。

メールがありますし、携帯やスマホで自分や相手の場所もリアルタイムで連絡しあうこともできます。

場所が初めてのところでも、地図ソフトや案内ソフトがあれば、簡単に手元で調べることもできます。

待ち合わせだけに限らずとも、人やモノとの出会いも、相手や先方さえ同意していれば、望むものを意図的に結びつけることがたやすくなった時代といえます。

マルセイユタロットでいうと、「恋人」カードの絵図における、三人の人物たちの間が、より近づき、コンタクトの確実性を増したと表現できるかもしれません。

言わば、(出会いや結びつきの)必然(性)が増えたという感じです。

とすると、逆に、まったくの偶然の出会いは少なくなったと考えることもできます。

従って、偶然のような出会いがあるとすれば、それは昔よりかなり貴重であり、もしかすると、特別な意味が強くなっているのかもしれません。

先ほどの「恋人」カードで例えると、絵図の上方、天使のようなキューピッドの放つ矢が、下の人間から見たら偶然に見えるので、その矢が今の時代は、かなり強力なものになっている可能性もあるということです。

上述したように、現代は機器の発達により、自らが(機器を利用して)そのキューピッドを演じているともいえ、自分がまるで天使(神)になったかのように、何でも機会を作る上げることができると驕ったり、あるいは、偶然の機会は本当に偶然でしかなく、意味のないものであると思ってしまったりする傾向もあるのではないかと危惧します。

偶然の結びつき(しかし霊的・天上的には必然であるもの)を起こす役割は、「恋人」カードによれば、キューピッド(神や天使)の次元なのだということです。

自分が何でも結びつきを起こせると過信してしまうことは、反対に、自分に必要な情報や人物しか結ばせない、交流しないという態度にもなりがちです。

この、“自分に必要な”という部分が重要です。

自分に必要と言っても、たいていの場合、今の自分にとってとか、物質的・常識的価値観で見た必要性であり、結局、損得とか利己に資するとか、感情の好き嫌いでのモノサシによる「必要性」となります。

つまりは、まだ未知なるところや潜在的に可能性としてあるもの、物質を超える領域や意味においての必要性などは考慮されないわけです。

「必要だったら、自分から求め動くし、ちゃんと地に入れることもできる」と思いつつ、逆に、「嫌なものは避ける」「ブロックする」「無視する」「(利己的な)自分と関係ないものはどうでもいい」という態度との両方が極端になるおそれがあるのです。

マルセイユタロットの「恋人」カードからすると、人間が行う選択と結びつきの領分と、神や天使の持つ天上的選択と結びつきの領分とを、きっちり分けている(分けられている)ように見えます。

本当の選択・結びつきはその両方が交差するところにあるわけですが、人間にはわからない部分があり、そう状態が現実世界であって、人間の持つ責任と領域なのでしょう。

もちろん、マルセイユタロットで示されるように、天上領域をも認識していく発展性(つまり常識的・通常的人間を超える道)は示唆されていますが、うかつに領分を超えて、あるいは浅はかに想像して、天上領域を侵したり、軽視したりするようなことがあれば、本来結ばれるものは結ばれず、または、離れられるところも離れられず、苦しみが長く続くことになるのではないかと予想されます。

今まで述べてきたように、「恋人」カードの絵柄でいう三人の人間たちの(活動)部分は、今や、機器の発達により、天上の天使部分まで侵入してきたところがあります。

それでも、人間では偶然だと思えるような出会い(人だけではなくモノなど全般を含みます)は、むしろ、この時代だからこそ特別なものなのです。縁の連続でつながったり、ふいに偶然出会ったりした機会の重要さ、大切さは増しているのです。

そして、最初から限定したり、今の自分の視点だけで判断せず、いろいろなものに挑戦したり、畑違い、分野違いと思う人とも交流したり、ちょっと変わったこともやってみたりして、毛嫌いせず、間口を広げてみるのが、実は天上領域を広げることにつながるのだと考えられます。

しかし反対に、天上領域を過度に意識し過ぎるのも問題かと思います。いわば、狭義のスピリチュアルを信奉するような態度です。

何でもつながりや縁、出会いを(心霊的ともいえる目線で)特別視して、偶然性をすべて必然で見てしまうような感性です。

過去世からのつながりとか、ソウルメイトだとか、宇宙の星からの転生だとか、神様が用意してくれた出会いであるとか、そんな表現にかぶれてしまうようなことですね。

深いレベルでは、確かにすべて必然と言えそうですが、人間の浅知恵レベル、スピリチュアルかぶれや過度のロマンシズム、熱狂が生み出す妄想的な必然と思う出会い感覚は、理性を失い、アンバランスで危険であるとも言えます。言い方を換えれば、これも天上領域(領分)への間違った侵入になります。

天上領域の出会いは時系列を超えていますので、人間領域だと、あとでその意味がわかることもありますし、最初から直観のようなもので訪れることもあります。

とにかく、私たちは人間として、必要以上に自分を卑下せず(無力な存在とは思わず)、また奢り高ぶらず、人としての応分の努力と、天上からの働きかけの両方を得て、「出会い」を楽しんでいきたいと想うものです。


仕事の悩み・問題について。

タロットリーディングのご相談では、仕事に関することが多くあります。

これは、「仕事」という形を借りた、「自分の生き方」の問題になっていることが本質であることも、しばしばです。

ほとんどの人は、仕事の部分では、大なり小なり、悩み事を抱えていることでしょう。

問題は、現代の「仕事」というものが、生活(経済)のためなのか生き甲斐(やりがいあり、充実した状態と考えられるもの)のためなのかという葛藤を起こしやすい構造になっていることが大きいのではないかと思います。

言ってしまえば、お金の(食べていく)ために仕事をするか否かの問題が根底にあるので、であれば、まずは仕事とお金(生活のためのベース)が切り離せるような体制(システム)があればいいということになります。

従って、私個人の意見としては、ベーシックインカムのような、国民全員に最低限の生活が送られるための公助と共助があればと考えています。

まず食えない恐怖、のたれ死ぬのではないかという不安を、皆さんの合意のもとで助け合い、国としてシステム化するということです。

もちろんその代償としての税負担の増大とか、いろいろと問題がないわけではないでしょうが、まずは、こうした基本的な生活の不安と恐怖から解放することが、実は心理的にも大事ではないかと思います。

タロットで表現すれば、ベーシックな経済や生活の部分と、それが失われる(保障されない恐怖)というのは、4の「皇帝」と「13」(逆)で表すことができます。

そして、「皇帝」も「13」も、ともに隣の数のカードとセットで相補することができます。13には14「節制」、4「皇帝」には3「女帝」ということです。

「女帝」は計画性・先行きのビジョン、理想・アイデアを意味し、「皇帝」としての意味での現実生活の安定のためには、計画性や先進的なビジョン、理想とする世界観の必要性があると言えますし、「13」の示すベースのなくなる不安や恐怖は、助け合い・融通を意味する「節制」によって補助・解消されます。

そうして、とりあえず、食べていくことはできるという保障があれば、お金のために働くという意識が薄れ、突然の解雇や無理矢理の勤務という不安と苦痛からも逃れられ、皆に心理的余裕が生まれます。

そこから、生きる(お金や生活の)ためだけに働くという意識も変わり、仕事の概念自体の改革も期待できるというものです。

そうして次第に、働くこと、仕事をするということは、生き甲斐のため、自分の人生をより充実するため、人々や社会に貢献するためというものに(お金儲け一辺倒のものから)シフトしていくように思います。

仕事の選択ももっと自由になり、仕事の種類や働き方の時間も、大幅に変わっていくことも予想されます。

とはいえ、これは社会システムから見た仕事問題のひとつのアプローチであり、社会ではなく、個人単体で考えた場合は、人それぞれ(個別)の問題がありますし、社会改革を待っていられないこともあります。

それでも、本質的には、仕事をするからにはやりがいのあるもの、自分が充実するものをしたいという思いが、いずれの人にもあるように思います。

そのうえで、現実的な問題として、経済と生活のことも関わるので、思いだけでは解決しない葛藤や悩みが仕事問題で現れます。

もうひとつは、仕事は、一人コツコツとしてやっていくようなものは少なく、たいていは他人と関わることになり、それもプライベートのような親しい人たちだけでやっていけるものではありません。序列や階級もあり、組織として動かなければならない場合がほとんどです。

従って、人間関係の問題が主(本質)の「仕事の問題」もあるわけです。

これはお金の問題(のこともありますが・・・)ではなく、いわば人の心の問題に関係し、数値化もできず、決まった答えもないため、なかなか解消しづらいところがあります。まあ、その対象人物と関わらない環境になれば、問題はあっさり解決するのですが・・・そうできないので厄介なのですね。

それらも含めて考えますと、仕事の問題というものは、マルセイユタロット的に見ますと、

●経済・お金(生活していくための手段)としての問題

●心理的・気持ち(人間関係含む)の問題

●常識を超えた次元(魂や霊的な次元)での問題

がある言えます。

そして解決策として、

●最優先のものを決めて選択する策
お金が最優先なのか、心の満足が一番なのか、働きやすさや生き甲斐に価値を置くのかなど

●バランスや間を取る策
妥協や二足のわらじ的なものも含む

●冒険したり、夢に向かって走る策
なるようになれ!と思いのままに行動する リスクを取ってでも夢にかける

●ペンド・そのままにする、状況観察、時間経過を待つ策
状況推移や時間の解決を待つ あるいは我慢したり、放置したりする

などがあります。

個人的意見としては、どの選択をするにしても、自分の責任ということを自覚し、他人や運、環境のせいにせず、行動していくと、それなりに満足したものに最終的にはなるのではないかと思います。(自分への責任の意識と実際の行動が、自分自身の力を取り戻させることになるため)

あと、私の経験で言いますと、毎日ずっと死ぬことを考えるくらいになるまでに至っているのなら、その仕事を辞めたほうがいいと思います。

自分で死を望まない限り、つまり逆に言えば、生きていこうとする思いがある限り、なんとかなるものだと感じるからです。(死を望む毎日は、自分を殺している、自分が死んでいる、自分が殺されているのと同じです)

そして、甘えの気持ちからではなく、自分で生きていくという意志をもっていれば、その上で、何でも一人でやろうとせず、困っている時は、きちんと助けてもらえる人や組織、機関などに頼ることです。

捨てる神あれば拾う神ありで、救いは探し求めれば、必ずあります。


生と死の一体性 「13」

今日は13日ということで(笑)、マルセイユタロットの中でも、カードに名前のない特殊なカード「13(番)」に関することを書きたいと思います。

このカードは初見だと、かなり怖いイメージを皆さんが持つことでしょう。

その「怖さ」は実は重要なものなのです。

ただ、ほかのカードでは、この数を持つ大アルカナに「死神」という名前を当てられたため(日本語訳で特に)、絵柄のイメージだけではなく、名前からも、より恐怖を感じてしまうことがあります。

その「死神」からのイメージの怖さは、むしろ、マルセイユタロットの「13」の場合は、払拭したほうがよいものです。

それは「死」への怖さを増幅させるからです。

誰でも、死は怖いものです。しかし、現代人の多くは、生と死を物理的な現象としてとらえ、まったくそれを切り離して考えているところに問題があり、さらに言えば、そこから「死」への恐怖を感じているのです。

私たちは、人間はただ何かわからないけれども、生命と体という複雑な身体機能をもって生きているという感じで、死んだらどうなるのかわからないものの、少なくとも、体(身体)の機能は停止し、ただの肉片となって朽ちていくもの、処理されないと腐っていくものと考えています。

極端な場合、「死後について」わからないことをいいことに、死んだら終わりと決めつけている人もいます。

このように近世以降に、物理的な思考が強固になることで、私たちは生命と体がマシンのように感じて、生命が燃焼するエンジン、もしくはその燃焼を起こす燃料、そして身体が燃焼して動く機械のように見てしまうことになりました。

すなわち、生きていることと死んでいることの物理的なふたつの見方が強くなり、結局、実感できる「生きていること」の間だけフォーカスし、「死」は、まさしく崩壊してしまう終局点として置かれることになったのです。

そうすると、死(後)も含めたトータルで大きな流れとして俯瞰する力が失われ、生きている間だけの喜びや快楽に執着するようになり、生きている(間の)人生が、人から見て充実したほうが勝ち、という感覚に囚われるようになるわけです。

そのため、つまるところ、この人生で何も残せない自分、(人から)評価されない自分、不幸と思える人生で終わる自分・・・いろいろな「生きている頃の自分だけ」を評価する視点になり、終局的である「死」が近づくこと、死を迎えてしまうことに恐怖を感じるのです。

実際に、皆さんも、病気や鬱的なメンタルなどによって、「自分が死ぬかもしれない」という恐怖を味わったことがある人もいるかもしれません。

それほど、生きていることの実績だけに執着してしまうと、「死」というものが怖くなってしまうのです。

しかし、以前は、死と生は一体のもので、今のように分離感や別物感はありませんでした。

シンプルに言えば、「死」は一種の変容点なのです。逆に「生」(誕生)も同じ変容点と言えます。

二元(ふたつの概念)で切り離ししまうのではなく、円環として生と死を変容点と見る時、輪廻とはまた違った生と死の一体感を感じることができます。

「13」のタロットの図像では、確かに骸骨のような人物が鎌を持ち、削ぎ落としや死のような印象も強いです。

しかし、終わり・死を迎えても、それが変容の時であり、いわば、生の形を変えた生き方になることを示唆しているのです。

このことは、「13」を中心にして、タロットの数の論理である「7」や「10」によって、ほかのカードとともに見ていくと、よりわかってくるものです。

例えば、「7」の論理性でいうと、「13」には「6」の「恋人」カード、「20」の「審判」のカードと関連します。

ここでは詳しくは言えませんが、「恋人」も「審判」も死と再生のシンボルが刻印されています。

例えば「恋人」カードにおいては、エロスとタナトスとして表現され、両者が一体の状態である(と直観した)時、時空を超越した瞬間が垣間見える(体験する)ことが、図像によって示唆されています。(このあたりは、2016年に話題となったアニメ映画「君の名は。」の「結び」とも関係してきますね)

つまり、両極の、死をもってはじめて生の意味がわかり、その逆もまた真なりで、私たちは死がなくてはならないものであり、しかも死と生が一体化したところに、崇高な高次を実感することができると、マルセイユタロットの示唆から確信できるのです。

それは、生きている「生」の現実世界でも、生々しいもの、すばらしいもの、躍動しているものの反対側として、空虚なもの、汚いもの、一般に望まないもの、衰えていくものなどと対比され、言ってしまえば、別離・分離(感)として、「生」の中で「死」を感じるものでもあります。

結局、統合的な観点を持たない限り、一方の「死」や「終わり」で象徴される「生(生きている時)」の恐怖はなくならないものですし、人生において重要で衝撃的な別離、不幸とも思える試練を昇華することが難しくなります。

「13」は単に削ぎ落としたり、切り放ったりするものではなく、解体し、変容していくものなのです。

それは、経験したこと、体験したこと、味わったことすべてが、養分として受け入れられ、変容するための下地となることなのです。

「13」に名前がないのは、いろいろな理由が考えられますが、今日述べてきたことから、本当は「死」というものがないからこそ、「死」という“名前を付していない”のだと考えられます。実は形を変えた「生」あるのみなのかもしれません。

実際に起こることを、そのままの意味でとらえていては、なかなかこうした変容・昇華には結びつきません。

それには、物事を象徴的にとらえ、これまての思考と感情を統合し、今までの見方を超えていくことが求められます。

マルセイユタロットには、そうした象徴としての変容力があるのです。


二極化の話について。

スピリチュアルな(ことに関心のある人の)話の中で、しばらくの間、もっともらしく言われていたものに、二極化という話(テーマ)があります。

簡単にいえば、高次と低次に人間(の意識、あり方)は分かれて行き、その後交わることなく、それぞれの次元で分離しながら存在していく(もしくは片方は消滅する)というものです。

それぞれにおいては、一見すると、まったく変化がない(分かれていない)ように思えるのですが、列車が分岐された線路を別々に辿るように、お互いは決して交わることはないので、これを第三者的な視点から見れば、やはり、ふたつの世界に「分かれた」「分かれている」という状態に思えてきます。

つまりは、天国と地獄の分かれ道に、それぞれ入る者が選別されるという、ある種の「分離・二元論」です。厳しい言い方をすれば、選民思想にも近いものです。

こういう事を信じて主張する人の間では、「統合」や「一元」「ワンネス」いう概念がよく用いられ、理想の状態として話されますが、上記で述べたように、二極化そのものが「分離」であり、言わば「差別化」の話なので、(主義主張の)構造上、矛盾したことにもなっています。

前にも何回か記事にしましたが、私自身は単純な天国・地獄行き分岐点のような二極化話には違和感を覚え、仮にそうだとしても、何とか(地獄行きのほうに)救いがないかと探ることも大事ではないかと言ったことがあります。

ただし、二極化の話にも一理あるとは考えており、宇宙的に、いわゆる「進化の方向(性)」(運動や方向性と言ってもいいもの)が大前提であると仮定すれば、そちらとは違う方向に行こうとしていれば、過大な抵抗を感じたり、削ぎ落とされてしまったりすることもあるのではないかと思います。

それでも、抵抗があるからこそ、大きな力が生み出されるとするならば、進化の方向があったとして、たとえ、それとは違ったものでも、すべては無駄なことではない(宇宙全体として進化・成長・拡大・遊戯している)と言えます。(計画のうち)

私たちは、どうしても物理次元や今の現実感覚でモノを見る傾向があり、それには時空(時間・空間)という縛り(自由を束縛するもの)でありながら、個別感と存在感(それはある意味、恩恵でもあります)を生み出している「仕掛け」が大きく関与していると考えられます。

「二極化」というものを、時間で見た場合、進化が遅れる人たちと早く進む人たちと見ることができ、空間で見た場合、別々の宇宙としてお互いが存在するというような意識で思考できるかもしれません。

おそらく、そのどちらも本質的には誤りというか時空的概念で縛られた(固定された)ひとつのモノの見方になっているのだと思いますが、私たちの意識においては、そうした見方でしか、なかなかか理解できないからこそ、分離・二極化するというイメージになるのだと思います。

もしこれをすべてひとつのこと(巨大な宇宙)だとすれば、全部あってなきようなもの、逆にないようであるものと考えられないでしょうか。

マルセイユタロットの「吊るし」の隠された意味にもなってきますが、私たちは個別と集合で夢を見ていると言われています。しかもその「私」や「私たち」というのも本当はないのかもしれないのです。

夢はまた別の夢を生み出しており、誰かや何かの見ている夢の中の世界の、さらにまたその中の世界の誰か、あるいは皆が見ている夢があり、そしてその夢の世界でも見られている夢があって・・・と、ずっと夢が続き、まるで合わせ鏡に映った映像が、奥の方までどこまでも続くかのような状態に(私たちの世界が)あるという考えがあります。

つまり、二極化というものも、時間や空間概念を取り払えば、すべて何かの夢として同時存在しているか、まったくないものとして見ることができ、わかりやすくいえば、自分(本当はこの自分もいないと言えますが)の中に、高次も低次も、天国も地獄も、ふたつに分かれたと思う世界(意識)もすべてがあるということです。

時間的にいえば、未来と過去を現在で同時に味わっており、時間軸にまたがった巨大な人間が、「時間軸の世界」を抱えて眠っていることになり、空間的には、ふたつ、いやそれ以上の個別に分かれた多次元の宇宙を、これまた一人の巨大な人間が宿して(夢見て)眠っているという表現になります。

これはまさにマルセイユタロットの構図とシステムそのものであり、タロット的にいえば、タロットも夢の世界を表していることになります。

こう考えると、タロット活用の最終目的は、おかしな話になりますが、タロットを使わなくなること、タロットが消える世界(タロットがいらなくなる世界)であると言えます。

すなわち、タロットを使っている間は、まだ普通の人間だということです。ですから、タロットを使いながら、人間である眠りを覚ましていくことが求められます。

しかし、いきなり目が覚めるのではなく、少しずつ消失していく(統合していく)プロセスがあり、先ほどの巨大人間の表現で言えば、いくつもの夢を覚ましていく必要があるということになります。(ひとつの夢が覚めることは、夢の中の人間と、その夢を見ていた人間とが統合することと同意であるため)

話が二極化からそれましたが、要するに、二極化の話も、いろいろな見方をしていけば、真なるところもあれば間違いと思われるところもあり、そうしていく中で、新たな考えや気づきも出てくる(夢が覚める)ということなのです。

こうして見ると、二極化の話は、やはり格好のスピリチュアル的題材というわけですね。


Top