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占いへの受動と能動

タロットのリーディングは、たとえ同じ展開や引き方をしても、様々な階層・レベルに読むことができます。

それが象徴の働きというものです。

これは、方向性によっては、読む側、タロットを見る側の意識に左右されると言えます。

つまり、それは、私たち自身に、多様な階層・レベルの意識存在があるからだと見ることも可能です。

これはまさにタロットで示されている人の可能性・向上性の部分や、反対に人の悪魔性とか堕落性も認められるわけで、私たちは、どの意識(存在・生き物)になってタロットを見るかによって、タロット自体が姿を変えてくれるのだと言うこともできます。

さて、そんな多様な意識、見方のひとつに、受動的に見るか、能動的に見るかという違いがあります。

受動的に見るというのは、ただタロットの意味や感じたものをそのまま受け取る、あてはめるというもので、能動的に見るのは、タロットから意識的、あるいは意図的に、ある目的のために行動指針や精神、変革の方向性、解決策をアイデアする、創造するというようなものです。

前者は占いの観点に多く、後者はセラピーとか問題解決的な読み方でよくある見方かもしれません。

私が講座で教え、勧めているのは、後者なのですが、しかし、前者が必ずしも悪いわけではありません。

人の心理と言いますか、人情には、この先どうなるかを見たい、自分ではわからないことを、目に見えないことをただ教えてほしいというものがあるからで、そのような依存心はいわば誰でもあるものです。よく言えば、危機回避能力のひとつかもしれません。

依存ではなくても、情報がたくさんあるに越したことはない(これも必ずしも、そういうわけではないと思いますが)という考えもあり、自分ではわからない情報なら、とにかく手段を選ばず、知りたいという人もいるでしょう。

そもそも、情報がなければ動きようがない、対策のしようがないということもあるのです。

それで、さきほど、タロットの受動的な見方・読み方として、代表は占いであるようなことを言いましたが、その占いにおいても、活用で考えれば、受動的に取るか、能動的に情報として入れるかの違いがあると言えましょう。

占いを能動的に見る場合、ただ占い師とかネットや書物の占いを、そのまま受け入れ、吉凶、運命的に見てしまうようなことです。

これも別に悪いわけではなく、先述したように、知らないこと(単独では知りようのないこと)を純粋に知りたいという人の思い、何かの不安や危機状況を、少しでも和らげるため、占いに頼りたい・・・という人の心理があり、それで落ち着いたり、ほっとできたりすればよいわけです。

ですが、これには危険性もあります。

もし、占いが悪い結果とか、悪い方向性を示していれば、ただ占いを受け取るだけの形の人では、余計不安になることもありますし、前にも書いたように、ネガティブな情報が自分の中に刻印されて、それを実現させてしまうというメカニズムが働き、占いを当てようと自分自身が演じることもあるわけです。(ポジティブなものより、ネガティブなもののほうがインパクトが強く、潜在的に残存しがち、信じてしまいがちなところが、普通の人にはあるからです)

また、受動的な見方ばかりでは、運命論に支配されやすく、周囲からの影響も、悪い意味で受けやすくなります。言ってみれば、人のいいなり、洗脳されやすい体質になるわけです。自我を失いやすいとも言えるでしょう。

自我・エゴをなくしましょうという、スピリチュアル系の人もいますが、それも段階、個人の状況によります。

いきなり自我をなくそうとし過ぎると、簡単に洗脳されやすい、人に操られやすい状態になってしまいますので、まずしっかりとした自我を持つことが自己成長の意味でも重要になります。

そうしないと、マルセイユタロットの「悪魔」のカードに象徴されるように、強烈なカリスマ・個性を持つ人によって支配されたり、魅了されたりして、自分を失うことになります。(「悪魔」のカードの、ひもでつながれた人々になる)

以上のようなことで、占いを利用するのでも、能動的にしたほうが、結局は自分のためになる気がします。

能動的な活用は、占いをあくまで“一情報(ひとつの情報)”とみなし、自分の問題やテーマを分析・解決したり、目標達成を目指したりするための支援情報・過程とするということです。

この場合は、〇〇運はどうか?などの、漠然としたものを、占い師に見て(診て)もらったり、自分で見たりするのではなく、もっと目的を絞り、何をどうしたいのかを具体的に絞り、それを「お題」「問い」として、見る、見てもらうのがよいのです。それが能動的な占いへの活動、活用というものです。

最初から絞りにくいかもしれませんが、自分が注目したもの、フォーカスしたものに、周囲、いや、もっといえば世界そのものが合わせてくるようなことになると言われますから、何かをしたいのであれば、その何かを具体的に、細やかに、リアリティもって意識すること、イメージすることが、よく言われるように、やはり重要なのだと思います。

漠然としたものには、漠然とした効果しかないのです。

タロットリーディング、タロット占いにおいて、その質問をはっきりさせたほうがよいと言われるのも、この理由が、ひとつにはあるからです。(しかし、高度なタロットリーディングになってきますと、質問はかえって具体的過ぎないほうがよい場合もあります)

タロット好きな人には、占い好きな人も少なくないでしょう。

占いの受動、能動の違いは、別の言い方をすれば、占いを頼るすべてとか、支配する情報としてしまうのか、あくまで情報の一部とするかの違いであり、占いを王様にするのか、自分自身を王にするかの違いでもあります。(マルセイユタロットの「王冠」の象徴に注目してください)

どの道、占いをやるのなら(やってもらうのなら)、受動的な態度ではなく、能動的に活用したほうがよいです。受動的な見方は、遊び的、当たるかどうかを競うものなどとしてエンターテイメント的なものと割り切ると、それはそれで楽しめます。

結局、自分の人生をよくするのも悪くするものも、その多くは、自分の意識と行動次第なのでしょう。

占いやタロットをうまく活用できるかどうかも、まさに、あなた次第なのです。(ただし、その活用方法自体の情報・知識は必要かもしれませんが)


カードによる選択基準

悩んでいる時に、指針や線引きとなるもの(考え方)にはいろいろとあると思いますが、タロット的にも実はたくさんあります。

言ってみれば、全部のカードにルールや意味があって、その基準によって選んだり、分けたりすることも決まってくるくらいです。

であれば、迷った時に、カードを引けば、そのカードの基準でやればよいのだということがわかります。

ここが、タロットが選択に使える理由のひとつとなります。

ただ、この方法の場合、あまり、カード(の枚数)を引き過ぎるより、シンプルに一枚とか、数枚に留めておくほうが、かえってわかりやすいです。

もちろん、タロットによる選択や決め事の方法は様々にあり、たくさん引いたほうがいいこともあります。また選択肢ごとにタロットを引くやり方もありますし、それはそれで、面白い方法となります。

ところで、そういう、タロットのルールや意味合いにおいて、物事の選択基準とすることで言えば、例えば、「戦車」とか「」のカードに関係する(と思われる)基準があります。

新型コロナウィルスの問題がある今の状況などは、まさに当てはまるかもしれません。

それは、自分ができることとできないことを分ける、いわば、力のコントロール範囲を見極めるというこです。

自分では力が及ばない、コントロールできないことと、自分ができることを明確に見極め、自分のできないことに注力しても無駄ですから、自分が確実にできることに集中するというものです。

新型コロナウィルスのワクチン開発や、国全体しての防疫システムの構築、はたまたウィルスそのものを撲滅することは、あなたが医者や関係者でなければ、普通の人、一人の力と範囲では無理でしょう。そのことに心配や関心はあっても、実際にはどうすることもできません。

そして、自分の今の状況と力で、できることは何か、肝心なのはこちらであり、これを疎かにしないということですし、できるのはそれしかないという割り切りと冷静さを保つことにもなります。

いろいろと大きなこと、自分ができないことに悩んでいても、疲れてしまうだけですし、自分がコントロールできないことにエネルギーを注いでも、非効率、実効がないわけです。

このようにタロットカードからの導かれる選択基準によって、物事や自分の行動について、決めることができるのです。


社会情勢のマイナス・プラスと見出される意味

2/2に、新型コロナウィルスの記事を書きました。

占い的に見れば、それほど悲惨にはならないと思えるタロットの展開ではありましたが、注意書きしたように、それは対策・対処によって変わってくることも示唆されていたことも付け加えていました。

現状、どうも懸念されていた方向に進み、いよいよ、二次感染、三次・四次感染と思われる人たちも現れ始め、広くウィルスが拡散されているニュアンスが濃厚となってきました。しかし、これはほとんどの人が、世界の情勢、日本政府・行政の対応を見ていれば、予想できたことではないかと思います。

感染者が発見されてきたのも、中国武漢などの渡航関係者、濃厚接触者以外に検査の範囲が拡大してきたからと言え、つまりは、すでにウィルスはかなり前から広まっていて、一般向けに、ただ検査や調査がされていなかっただけということになります。

検査キットの製造問題、不安やバニックを避ける意味合いなどあっての措置だったとは思いますが、正確な情報とその公開、迅速な決断が逆にパニックを抑止すると考えられますから、隠蔽とか下手な忖度、気遣いは、かえって悪手となりかねないと思います。

こうなりますと、私たちも、ウィルス問題が次の段階、フェーズに入ったと認識し、それなりの対応と精神が求められてきます。

ウィルスの拡大と感染の危険ということそのものも、大きな不安と問題ではありますが、日常の活動が抑制され、全体的に引きこもり傾向になってしまうのも、いろいろな意味で問題だと言えます。

しかし、2/2の記事でも書いたように、このようなマイナス面にも、必ず、それに見合うプラス面があると推測することができます。

まず、当然ながらウィルスへの対抗策が医学的にも進まざるを得なくなりますから、医学の進歩、ウィルスと防疫に関する実践的な知識と経験も増え、今後に必ず役立つはずです。仮に、まことしやかにささやかれる生物兵器や人工ウィルス説だとしても、それに対する善なる力の増大・対策も出てくると思います。

また、日本では、熱があっても仕事に出るなど、あまりにも奴隷のような働き方が普通に行われていて、このような労働と環境の常識観念が大きく変化して、覆っていく可能性があるでしょう。私の公務員時代でも、熱が39度もあるのに出勤して、残業までして頑張っていた方がおられました。いくら仕事とは言え、こうなってしまう日本人の心、労働環境・仕組みは非常識ではないでしょうか。

すでに進みつつあった在宅ワーク・テレワークということも、これを機に、最初はやむを得ずの形からであっても、やってみれば案外うまくできてしまい、今後、当たり前になっていくことも予想されます。

あと、生活においても、引きこもりは、悪いことばかりではありません。

仕事が在宅ワークになり、外での活動が控えられるようになると、家での時間が増えることになるでしょう。

ということは、それだけ家族とか自己に向かう人も増えるわけです。ここで家族との関係を見直したり、温め直し、絆を深めたりすることもあるでしょうし、自分自身と向き合い、自己研鑽や自己学習に集中することもできるでしょう。

中には、精神的な学び、霊的なことへの関心に向かう人もいるかもしれません。

そして、一度内に向かった目で、再び外を見れば、これまで普通に思ってきたこと、常識だと疑いもしなかったこと、ただ惰性で毎日流していた日々のことを、違った目で見られるようになるはずです。

マルセイユタロットに流れる教義で言えば、グノーシス(自己の神性の認識)に目覚めるきっかけとなるかしもれません。

これまでは、自分を世界(環境)に合わすことができず、ただ無理にでも合わせる生き方をしてきたかもしれません。またお金とか他人の評価ばかりを気にして、それが自分の価値の重要なものとして思い込まされてきたこともあるでしょう。

しかし、ひとたび、自分の内なるものに向かえば、おかしいのは、常識と思っていた「みんなの」世界のほうで、自分本来は何もおかしくはなく、むしろ、違和感を持っていなかった自分のほうが変であったことに気づくでしょう。

2/2の記事でも少しふれましたが、すでに、皆さんも、このことには気づきはじめていると思います。

人が人として尊重されない世界、これが今の現実(実はずっと続いていた世界観、世界のルール)でもあるのです。

別に陰謀論に加担したり、世界が悪い!とひねくれたり、するのではありません。

言いたいのは、人として本当の自分、人間(いのち・調和)というものを大切にしていくことを主としていくのであれば、こんな今の世界のシステムにはならないだろうということです。

だからと言って、過激な社会運動をしましょうというのでもありません。

一人ひとり、本来の自分に戻る機会が、このような危機的なことで、実はやってきているのだということです。

日本の場合、本当はあの東日本大震災と原発事故の際に、大きく転換する必要がありました。

その可能性はかなりあったと思いますし、それだけの犠牲があった危機と事件でした。

その犠牲を、私たちは、再び、真に思い起こす必要があります。新型コロナウィルスで犠牲になる人を少なくするためにもです。

犠牲による変革は、古くからの宗教的な型です。

昨年、新海誠氏のアニメ映画「天気の子」が公開されましたが、新海氏の意図かどうかはわかりませんが、犠牲によって望むことや変革を期待する精神構造からの転換、一人一人の自らの気づきによる次元の上昇・ステージへの移行が示されていたように感じました。

あれも、長期の尋常ではない雨降りという、“異常な事態”を設定にしていたものです。

今回の新型コロナウィルスのことも、霊的にはやはり、何かの示唆であるように思います。

ちなみに、コロナという名前はウィルスの形が王冠とか太陽のコロナみたいなものなので名づけられたと言われますが、太陽は自己の本質を示すとされ、ひとつの時代とバージョンの象徴でもあります。(太陽系という、ひとつの世界の象徴にもなる)

マルセイユタロットでは「太陽」のカードは、アルカナナンバー19であり、奇しくも、今回の新型コロナウィルスは、2019年から発生流行したということで、COVID-19という名前になり、19の数が当てられています。これは常識的には単なる偶然でしょうが、見えない世界、霊的な示唆としては、何か意味があるのかもしれません。

しばらく事態が落ち着くまでは、大変だとは思いますが、だからこそ、内に向かう時間で、皆さん、何か重要なことを思い出していただければと思いますし、社会がよい意味で変わっていくきっかけになってほしいものです。


「斎王」と「法皇」の学び

今日は学びをテーマにして、マルセイユタロットの「斎王」(一般名「女教皇」)と「法皇」(同「教皇」)について述べたいと思います。

マルセイユタロットにおいて、「学び」の象徴や意味は、究極的には自己の内面におけるものと言えますが、その内面も単に心理的なものを指すのではなく、自己にある、神性的なものを思い出すための学びといったほうがいいかもしれません。

つまりは、トータルな自己の統合や回復という意味です。

しかし、よく考えれば、内なるものと言っても、外のものとの違いは、実は、突き詰めてしまえば同じものと言え、例えば、物理学的に見ても、量子のような小さな世界で統一して見れば、内も外もないのがわかるでしょう。

心理的な意味においても、内なるものが外に投影されることもあり、スピリチュアル的には、ただひとつの世界を(二面から)見ているだけと表現できますし、また、内と私たちが普段思っているものこそ外的世界で、逆に言えば、外的世界が内なるものなのかもしれないのです。

おそらく、「斎王」と「法皇」の違いも、そうした、あるひとつの二面性内と外が違うようで同じことを二枚で表しているように思えます。

そして、ふたつのカードは、「女帝」や「皇帝」に比べ、精神的・宗教的なカードに見えます。

ここから、やはり、二枚は内面的なことに関わるカードであることはわかるでしょう。

しかし、「斎王」は確かに、内に秘めている感じが強いですが、「法皇」のほうは、弟子や聴衆と思しき人たちの前で、何かを言っているように見え、その姿は活動的であり、外に関心があるようにも感じます。

それでも「法皇」は、一般的には教皇などと呼ばれ、キリスト教の教皇様を彷彿させますから、たとえ教皇様そのものではなくても、カード人物の姿・形からして、何か宗教的な権威者であろうことは想像できます。

とすると、「皇帝」とは別の役割であることも推測できます。そうやって論理的にカードを見れば、「女帝」と「皇帝」に対して、「斎王」と「法皇」という別の役割の人たち(ペア)がいることも理解でき、当然、意味や象徴性も異なってくるわけです。

さて、ここで「学び」をテーマにして考えてみましょう。

「斎王」と「法皇」は、ともに精神や内面、あるいは外向きであっても、宗教的な人物の姿から、実際的なことや政治的なことよりも、やはり精神的・教育的・理想的なことに関わっていることがイメージできます。

学びは、実際的なことの学びも当然ありすが、学んでいる最中そのものは、実際的ではありません。わかりやすく言えば、学びと実践は(次元や場面が)異なるということです。

もちろん、実際に物事をやりながら学ぶというスタイルはあります。しかし、それ(行動)を学びだと思う意識がなければ、学びにはなり得ません。

つまり、学びは精神や心、意識にあるのです。

内面や精神的なものをイメージさせる「斎王」と「法皇」は、このことをもっとも強調しているのだと思います。

ただ、「斎王」と「法皇」では、女性と男性の違いもありますし、「斎王」は一人だけであるのに対し、「法皇」のカードでは、複数のほかの人物たちが描かれています。

ここから、学びの方法が違うことがわかります。

単純に言えば、「斎王」は本も持っていますので、独学・自習であり、時間的には予習・復習も入りますが、「法皇」は、聴く側の人物に自分があてはまる場合は、法皇から教えられる者(生徒)たちとなり、時間的には現在の学習そのものになります。

さらには、自分が「法皇」であれば、自らが教える側、先生・講師になるわけです。一方の「斎王」は、その気になれば人に教えることはできるのかもしれませんが、絵柄だけからすれば、教える段階にはない、あるいは他人に教える役割ではないのかもしれません。

「斎王」は、女性の宗教的な権威者のように見えますから、ある意味、高い位(レベル)の巫女的な女性と言えます。

巫女自身がたとえ知らなくても、その文字自体が示すように、まさに、人の間に立ちながら、上(天上)と下(地上)をつなぐ女性なのですから、言わば、神を降ろすことができる者で、すると、その知識は、人間でありながら神そのものと言えます。

ということは、「斎王」は学ぶ必要があるのか?という疑問にもなってきます。これは、女性性における「理解」の本質の鍵を握る秘密であり、女性の皆さんは、「斎王」に注目することは、とても有意義だと思います。

古代では、なぜ巫女的な人が活躍したり、重視されたりしたのかの答えにもなってきます。

一方の「法皇」は、話す(教える)ことで実は自らの知識・学びも向上させているように見えます。

このことは、人に教えることをしている方にはよくわかることだと思います。人にものを教えることは、自分の今までの理解だけでは難しく、人に伝えるための工夫、技術、さらなる物事への理解度が必要となります。これは言い換えれば、一般化とか普遍化の技術です。

「斎王」が自分だけの理解で済むのに対し、「法皇」は他人への説明、他人に理解させることが必要になります。「法皇」の力は、男性性に関係します。

たとえ、高度で深いことを知っていても、それをほかの人にうまく教えたり、伝えたりすることができるかは別です。

神様も、普通の人間に、正確に神様の知っていることを伝えるのは苦労されるでしょう。(笑)

このように見てくると、学びの根本は精神や意識にあるのですが、自分だけの範囲で学びと理解を留めておくか、他人にまで範囲を広げ、シェアしたり、さらなる刺激を受けたりして学びの質を高めるかによっては、「斎王」か「法皇」かの違いも出てくると言えましょう。

どちらかの優劣の問題ではなく、まさに自分にとって「学び」をどうするかによります。また、現実問題としての、時期や方法、自分の段階・レベルにもよります。

ですから、あなたは今、「斎王」になる必要がある場合もあれば、「法皇」でなければならないこともあるわけです。

また、自分の希望や思いとは別に、実際では、強制的に「斎王」や「法皇」にならなければならない環境・状況が起きます。

「学びは意識である」と言いました。

従って、あなたが意識的に「斎王」になる、「法皇」になることをすれば、まさに、「学び」は、そのスタイル・性質によって、あなたのものとすることができるのです。


タロットに向いている人とは?

以前にも何度か書いたことがありますが、「自分にタロットが向いているか?」と質問される方がいます。

この質問は、学ぶ段階によっても、言葉は同じものが出るのですが、中身が違っていることがあります。

まだタロットを学んでいない時は、純粋な不安と言いますか、自分がきちんと学習していけるだろうか?とか、もし、一緒に学ぶ人たちがいれば、その人たちについていけるだろうか?(落ちこぼれないだろうか・・・)など、タロットに限らず、誰しもが、何かを新しく始めたり、学んだりする時に感じる心配から発するものが多いです。

次に学びに入って、中盤あたりになってきますと、自分の理解や技術について、あせりやいらだち、自己否定みたいな感情が出てくる人がいます。

せっかく思い切ってタロットを学習する世界に飛び込んではみたものの、たとえばリーディングの技術とか、タロットへの理解とか、低いレベルのままでいることに愕然とするとか、どうしても他人と比べてしまって、自分はその人に比べて学習理解度、活用度が劣っているとか、感じてしまう段階です。

教える側から見ていると、それほど本人が思うより悪いものではなく、むしろ、かなり理解も進み、技術も上がっているのに、自分で自分を否定しているような、ちょっと自分に厳しくし過ぎのところもあるように感じます。

これは、理解が上がったからこそ、理想の状態というのも次第に具体化してきて、それに届かない自分と差も明確になり、最初の頃とは別のあせり、落ち込みのようなものが出ると考えられます。

また、初めのうちは、わからないことがわからない(笑)という状態で、そもそも質問する段階でなかったり、質問内容も具体的でなかったりします。

ということは、自分の理解や学習状況の把握があやふやであるということです。

しかし、学習が進むと、それなりに自分の状態もわかるようになり、タロットの理解度も進展します。すると、逆に、できていないところが目立つようになるのです。(これは人の性格や性質にもよります)

まあ、まじめな人ほど、自分を追い込んだり、ネガティブなところを発見しやすかったりするわけですね。

逆に言いますと、いい加減な人や、あまりタロット学習に熱が入らない人は、自分の状態もあやふやなままですから、できていないところもそれほど気にならないわけです。

まれに、超ポジティブな人もいますので、そういう人は、いいところだけ、プラスなところだけ見ようとするので、向いている・いないなど考えず、いつも楽観的、前向きと言えます。(これが必ずしもいいとは言えませんが、結局は人それぞれです)

このように考えますと、学習中盤での「自分はタロットに向いているのか?」という質問・疑問は、実は学習して知識や技術の理解が上がったからこそのもので、裏返せば、それだけタロットに対して真剣であること、もっとタロットに関して向上させたいという思いがあることになります。

私は、いまだに、実は、タロットに向いていないのではないかと、自問自答、いや、自虐に近いでしょうか(苦笑)、悩むことがあります。

ですが、私の場合は、すでに何人もの生徒さんを教えておりますし、先生自体がタロットに向いていないなどと悩んでいては、それこそ生徒さんに失礼ですから、切り替えもしております。

後先になりましたが、学習と実践がさらに進んできて、タロットを人に教えるようになっても、先述したように、自分はタロットに向いていないのではないかと思うことはあるのです。

これはまた、言葉は同じでも、中盤の時との内容とは違う悩みだと言えましょう。

私の場合で言いますと、使命とか、仕事とか、そういう観点からのものになります。果たして、私は、タロットを皆さんに教えるような人物なのだろうか? そこまでタロットを理解していると言えるのか? 使命や天職として言い切れるのか?みたいな感じです。

こうなると、向き・不向きというより、タロットと自分の人生みたいな、ちょっと大げさな印象にはなりますが、自分のライフワーク的なテーマとして、タロットが選択されるのかどうかという問いでもあると言えます。

このように、学習やタロットとつきあっていく様々な段階において、いつも「自分はタロットを扱っていいのか、タロットをしていていいのか、タロットに向いているのか・・・」のような質問・疑問は生じます。

しかし、安心してください。

どの段階、シチュエーションでも、これだけは言えます。

それは、「あなたがタロットが好きならば、それだけでタロットに向いている」ということです。

理解や技術の問題は、人と比べたり、理想と現実のギャップが大きかったり、単純に修練や努力が足りなかったり、はたまた、壁にぶつかり、足踏みしていたりするだけです。

それよりも、もっとも大事なのは、自分(あなた)は、タロットが好きかどうか、この一言に尽きると私は思います。

「好きこそものの上手なれ」ということわざがあります。タロットに関しても、まさにその通りだと言えます。

上手になるかは、人それぞれの進み方があり、早いか遅いかの違いは確かにあるでしょうが、好きでずっとタロットをやっていれば、必ず、上達し、タロットからも愛され、タロットを理解する道や縁がいろいろとあなたに運ばれて来ます。

それはマルセイユタロットでも象徴されています。

例えば、「恋人」カード、これにはいろいろな象徴・意味がありますが、ひとつには、惚れるものという意味もあり、いわゆる好いた・惚れたを考えることもできます。人に対してだけではなく、モノとか趣味みたいなこともあり得ます。

そして、この「恋人」カードと同じ絵柄構造を持つ「審判」は、さらに大きな愛のようなもの、覚醒といえる、目覚め・気づき、レベルの上昇が示唆されます。

この二枚を並べると、好きなもの、何かを好きになって熱中していくことで、それがやがて愛に変わり、自分の中にあった神性的なものが目覚めると例えることができます。

タロットで言えば、タロットが好きで、タロットの活動をしているうちに、今度はタロットから愛され、自分の中にある高次の愛が芽生える(思い出す)というものでしょうか。

人で言えば、人を好きになることで、その人から愛されなくても、自分の中に存在していた「愛」というものを知り、その尊さで自分を肯定し、自己を再生することができるみたいな話です。

人の場合は、相手から愛されるかどうかは相手次第ですが、タロットの場合は、私の考えでは、自分がそのタロットが好きならば、間違いなく、そのタロットからあなたは愛されると思います。

タロットの場合は、あなたが好きで愛しさえすれば、誰でも相思相愛になれるのです。

もちろん、好きなことと、技術・知識の向上は別かもしれません。

ですが、好きでないと続けられませんし、タロット愛があるのとないのとでは、いくら技術や才能があっても、やってもらっている人には何か冷たい印象になりますし、タロットも力を貸してくれない気がします。

やはり、自分を嫌う相手、無関心である相手を好きにはなりにくいもので、タロットも同じく、自分を好きでいてくれる人には何かしらの好意を返してくれるものです。

タロットは人間的ですし、魔術的にはタロットの精霊と呼ばれる存在がいて、彼ら(彼女ら)と仲良くなる必要があるのです。

魔術的でなくても、タロットとの関係がきちんとできているかどうかが、実は、タロット活動においては、ものすごく重要なのです。

あなたがタロット(厳密にはタロットの種類にもよりますが)が好きなら、大丈夫、あなたはタロットに向いていますし、タロットからも選ばれているのです。


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