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スポーツ観戦を例に

コロナ禍ですが、東京五輪が開催されています。

開催には賛否両論と言いますか、おそらく国内一般的には、反対者が多かったと推測されますが、いざ実際に開催されると、選手の頑張りに心を動かされ、やってよかったと思っている人も増えているように感じます。

まあ、人の意見はそれぞれですし、ここで開催の是非を問うことはしません。

ただ、何かを主張する時は、自分の言っているレベル(範疇)がどの度合いであるのかを自覚していないと、お互いに、いつまで経っても妥協点や理解点が見いだせなくなる危険性があります。

レベルの度合いとは、簡単に言えば、どの視点で述べているかということで、例えば、国レベルなのか、世界レベルなのか、個人の利益とか感情レベルでの話なのかというようなものです。

さて、話は変わりますが、スポーツ好きの人には反感があるかもしれませんが、五輪を機にあえて言いますが、スポーツを見る時間というのは、多くの人が、意外にたくさん費やしてしまっているということです。

実は私もサッカーが好きなので、サッカーの試合放送とか関連番組があれば見てしまいますが、よくよく考えれば、サッカーの場合でも90分の試合時間があり、前後半のアディショナルタイム(いわゆるかつてのロスタイム)とか、選手紹介などの報道時間、ハーフタイムなど合わせると、一試合で二時間は視聴に費やされます。

一方、人の人生の時間は限られています。

平均寿命は長くなりましたが、寿命も長くても100年くらいのものです。そこから考えると、スポーツ観戦で時間を使ってしまうのはいかがなものか?という見方もできるのです。

日本では、中高年に特に野球も人気ですが、野球の場合は試合時間はかなり長いです。そして試合もペナントレースでは毎日に近く行われます。そうなると、いったい、一生のうちでどれだけの観戦時間を消費しているかと思えば、相当なものと言えます。(昭和生まれで野球ファンの人だと、とんでもない時間になりそうです)

今、五輪で毎日各種目が中継されています。

中には一日中、テレビ観戦している人もいるかもしれません。試合そのものだけではなく、メダリストのインタビューとか、熱戦を振り返る映像とか、特番とかで、もっと時間は使っているでしょう。

一人一人の人生は、まさにその人の人生だから何をしようが勝手ですが、ちょっと冷静になってみれば、スポーツに限らず、私たちはいつの間にか、時間を使わされてしまっていることがたくさんあることに気づくかもしれません。

もちろん、たとえばスポーツ関係が生業(なりわい)になっていたり、自分もアスリートだからとか、そもそも趣味がスポーツ観戦だからということでは、スポーツを見る時間というのは、自分の価値に基づいて人生の時間を費やすので、無駄ではないと言えます。

※誤解なきように説明しますが、スポーツの価値を貶めたり、それが好きな人を批判していたりするのではありません(私自身もサッカーはじめ、いろいろとスポーツ観戦は好きです)。スポーツという例を通じて、人生の意味を考えるきっかけにしているだけです。

ところで、マルセイユタロットの大アルカナ22枚を、数の順に置いていく図は、結構知られています。(カモワン系では、タロットマンダラと称されています)

これを最後の数21を持つ「世界」のカードから見る視点と、最初の数である1を持つ「手品師」からの視点(もっというと、「愚者」からの視点でもありますが)のものとを比較する見方があります。

言ってみれば、最後から見るか、最初から見るか、あるいは長期的・全体的に見るか、その場その場の短期的視点で見るかの違いとも表現できます。

「世界」の最後から見るというのは、人生で例えると、一生を通して見る、死ぬ間際、あるいは死んでからわかる視点みたいなもので、「手品師」からとなると、普通に生きている流れの、その時その時の視点みたいなものと言えます。

すると、先述のスポーツ観戦の時間というのも、人生全体で見ればささいなことになるでしょうし、そういうのを見て過ごし、ワクワクしたり、がっくりしたりした人生も良かったと思えるかもしれません。

逆に、ああ、なんともったいないことをしたものだ、もっとやるべきことがあったのではないかと感じることもあるでしょう。

「手品師」視点の、その時その時の流れのひとつだと見ると、スポーツ観戦に熱中している自分というのはとても価値があり、楽しんでいる時間としてはよいものに見えます。

そもそも、その時の瞬間と言いますか、人生の流れの中の一部、継続中の時間なので、よいも悪いも感じていないというのが正しいかもしれません。

ですが、この視点にしても、終わってみれば、宿題を先にすべきだったとか、仕事が残っていたとかで反省する(笑)こともあるかもしれませんし、いいものを見た、選手から勇気をもらった、人生、努力は報われるんだと、生きる希望とか力が湧いてくることもあるでしょう。

ここで言いたいのは、良し悪しいうものも、視点を変えれば変わって来るものであるということです。

また、視点を変えることで、今まで気づかなかったこと、常識だと思っていたことか実はそうでもなかったことに意識が向き、自分の中で反転した構造とか考察も生まれてくるということなのです。(「吊るし」のカードの象徴性であるとも言えます)

一番まずいのは、ただ惰性で与えられるものだけに反応してしまう、動物的奴隷人生と言えましょう。

私たちは人間性や神性を持つ存在でもあることを、思い出したいものです。


一人一人の見え方は違う

人間、一人一人の見え方は違うと言われます。

いわば、人を基準にした厳密な意味での客観性はないとも換言できます。

そして、自分が関心があることには注意が向きますし、もしかすると、見たものへの大きさとか形すら、その時その時で変わっているかもしれません。

私たちは子供の頃に見ていた光景と、大人になってから見たものとでは、ずいぶん違って見えるものです。

もちろん時代が進んでいますので、風景自体が変化していることもあるでしょうし、身長も大人になれば伸びていますから、視点が異なるのも当然です。

ですが、そのような物理的な面からだけではなく、精神的なものの影響もあるのではないでしょうか。

よく言えば、成長して理解したことが多くなった大人の視線のほうが冷静で、まだ未熟な頃の子供時代のものでは、物事はあまり見えていないのかもしれません。

一方で、大人だからこその思考や常識に邪魔されて、子供時代にはあった、素直な、ありのままで感じた見方というものを失っているおそれもあります。

いずれにしても、視線(視点)とか見方というものも、実は自分の精神的なものの影響は少なくないと言えましょう。一言でいえば、思い方で見え方も変わるということです。

ところで、タロットは図像(絵柄)を目で見るツールです。

ですから、見る・見えるということそのものに、タロットを扱う上での主たる行為と、それゆえに大きな意味も出てきます。

マルセイユタロットの場合は、綿密な幾何学的計算によって図像が描かれていることがわかっていますが、そうした幾何学的構図による、言ってみれば、極めて高度な客観性・全体性(大げさにいえば神的な客観性)と同時に、一人一人がカードの絵柄を見て感じること、ある図像に注目してしまうことなどの主観性(個別性)があります。

同じカードが出ても、それぞれ気になるところが違っていたり、時には図像の中の一部のものの大きさが異なって見えたりする場合もあるでしょう。

それは、個人としての何か特別な意味があると考えられます。先述したように、モノの見え方は、関心があるものに強く反応するようになるからてす。

また無意識的にも、それに注目させようとしているということは、やはり、意味があるものと思われます。

よって、タロットにおいて、それぞれの見え方を確認することは、特に心理的には重要です。

ですが、構図の全体的特徴と、人類の共通的な元型と呼ぶべきものがマルセイユタロットの意味・象徴にあるということを考えますと、個別(個人)的なことだけに終わるものでもないのです。

個別的なものは、解釈上、いいこともあれば悪いこともあり、どちらにしても「歪み」のようなものとして考えこともできます。

その個人の歪みを、できるだけ大元の型、表現を変えれば天上的イデアのもとに是正するようなものとして、タロットの活用があると見ることもできます。

自分のアンバランスな見方、偏りに気づくことができれば、物事(自分)をコントロールしやすくなります。

ですが、ここで、言っておきたいのは、確かに是正(修正)の意味で、今述べましたが、必ずしも、自分の見方を是正しなくてはならないというものでもありません。

また、偏った見方が自体、悪いと言っているのでもないのです。

地上(現実の)生活においては、一人一人個性を持って生きていますので、偏りと言いますか、違いがあって当然なのです。全員が(微妙に)違って当たり前が、この世の世界と言えます。

それを無理矢理、個性をなくすような方向で是正しようとすると、実は反対に苦しくなるばかりということもありえます。

言いたいのは、天上(理想・イデア・真実の美やバランス)の客観性を一度見つつ、逆に地上(現実)に生きる自分としての個性を認識し、それを活かしたり、受け入れたりして、人生を送っていくとよいですよ、ということです。

そうすると、やたら人に振り回されたり(無個性なために操られる)、反対に、人より優れたものを持とうと必死になったりする(自分という存在を強く意識できるよう、競争して勝ち負けに一喜一憂する状態のような)ことから逃れやすくなるわけです。

それはつまりは、楽(自由)になることでもあります。

セリフで言うのなら、「私このままでいいんだな」ということが基本姿勢と前提でありつつ、時々によって「今は変わっていいよね、変わったほうがいいよね」というようなことが認められる人となります。


前世について

前世とか過去生とかと呼ばれる概念があります。

簡単に言えば、今生(今生きている自分)ではない過去の人生があったという考えです。

これと似たようなものに輪廻転生説というものがあります。いわゆる「生まれ変わり」で、人は何度も生まれ直し、それを繰り返しているという説です。

何のために輪廻転生するのかは、様々な考え方がありますが、だいたいはカルマ的な説明でなされることが多く、スピリチュアルに関心のある人には、人間の向上、ひいては人類全体、宇宙の成長のために行われていると解釈する人もいます。

輪廻転生説を取れば、必然的に前世(それは人間の歴史の過去の時代とか宇宙ではないとする説もありますが)があるということになってきます。

マルセイユタロットでは輪廻転生を表すシンボルがいくつか伝えられており、このことから、マルセイユタロットの図像を伝える者、その解釈の中には、生まれ変わりによる修行、そして今の人生だけではない前世(あるいは未来世)というものが設定されている(デフォルトの考えとしてある)ことがわかります。

ところが、一口に前世と言っても、一人の個人がそのまま過去で別の人生を送っていたというものから、多数の者の過去生データのようなものから取捨選択され、一人の人間の前世として再構築されているという考え方まで、多岐にわたります。

個人的には、一人の人間がそのまま(記憶を忘れ)生まれ直すという単純なものではないと思われ、従って、たとえ前世というものがあったとしても、それは今の自分そのものではないと考えています。

まず、その理由のひとつとしては、単純に魂の数が合わないから(笑)というのがあります。現代のほうが人口が昔より明らかに多いので、そのままま過去の人間が転生してくるようになるには、魂の数が足りなくなるでしょう。

もっとも、転生スピードとか回数、スパンに違いがもしあるとすると、魂の数の単純な問題はクリアーできなくもありませんし、動物とかほかの生き物が人間に転生するみたいな話まで入れると、この問題もなくなってきます。

しかし、魂の数が足りないということを考慮すれば、魂を分けて新たに再構築するかのように、新しい魂を生んでいく必要があるように思います。

その場合、一度巨大な人類全体の「生と死」全体の記憶データバンク・データベースのようなところに記録は預けられ、その後、何らかの法則(神や宇宙、そして個としてはカルマなどの)に基づき、データが分解・再構成されて、それをダウンロードされた魂が新たな命として生まれるという仕組みではないかと想像しています。

ですから、たとえば同じ時に生きた複数人のデータの一部が入り込むことも可能で、すると、その新たな魂は、同じ時代に生きた人間のデータ(の一部)を共有することになります。

過去生において、同じ時代の数人の記憶が混交するようなケースが見受けられるパターンがあると言われますが、その場合は、前述したような複数人のデータによって魂が構成されていると見ると、納得できるものがあります。

前世療法・ヒプノセラピーなど、退行催眠療法によって、自分の前世がイメージとして出てくる場合があります。

それが果たして、本当に自分の(忘れている)過去のものなのか、あるいは、先述したように、まったく他人の記憶として自分に埋め込まれているものなのか、はたまた、単なる妄想なのか・・・これも受ける側の考え方次第と言えますが、セラピーと名付けられているように、それを見る(感じる)ことによって、今の自分の心理的な問題等が癒され、消失することもあるのです。

それは今の自分ではわからなかった理由が、前世の自分(あるいは誰かの前世のデータ)を見ることによって得られたからです。「なるほど、こういう理由で私はこのような問題とか症状を抱えていたのか」と気づいて、癒しも起こるのです。

今の(今生)の自分では理由づけができなかったもの(救われなかったもの)が、前世という設定と解釈によって納得でき、今の自分が救われたわけです。

でもよく考えますと、このような仕組みと言いますか、メカニズムは、別に前世でなくても起きていることです。

それは、顕在意識と潜在意識の関係と言ってもいいですし、単純に自分が覚えている記憶と忘れている記憶意味や理由がわかっているものと、それがわかっていないものとの関係と述べてもよいでしょう。

要するに、自覚している意識が納得できたり、因果関係が見い出せたり、知覚・説明できたりする以外の領域との関係性です。

自意識が納得できない、わからないものの理由は意外に多く、それに対して、無意識で自覚できていない層や領域を探ると、意味がわかったり、理由が判明したりすることもあるのです。

逆に言えば、私たちは半分の領域でしか生きていない、知覚できていないというわけです。

もうひとつの領域のひとつに、前世というものもあるのだと考えることもできるでしょう。

しかしながら、こうも言えます。

すべては思い込み、想像の世界であると。前世があるかどうかなど、生きている人には通常わからないですし、合理的・科学的証明も今のところ不可能です。

人間の記憶というのは実にあやふやなものです。

たとえば、同窓会で昔あった出来事をシェアして思い出したとしても、一人一人の記憶は結構異なっていることがあります。私たちは、一年前の記憶ですら、実はほとんど忘れていますよね。

となれば、前世の記憶ともなれば、かなり昔のことですから、たとえ忘却システムがなくても、完全には思い出せないでしょうし、そもそも私たちは普通、前世の記憶がないことを考えますと、本当は必要がないから、あるいはそのようなもの(前世)はないからという理由なのかもしれません。

私たち人間の記憶は、機械や純粋なデータのようなものではなく、一人一人の個性・とらえ方によって違ってきます。それは、起きた現象を色メガネで見たり、変換装置によって組み替えていたりするようなものです。

すると、記憶というのは、ほとんど個人的に解釈したストーリー・物語だと言えます。

今生の生きている間の記憶でさえそうなのですから、前世のようなものがあったとして、それを思い出せたところで、それは「今の自分」が解釈・作り上げたストーリー色が強いと考えたほうがよさそうです。

結局、人はストーリーで生きているようなものなので、前世があろうがなかろうが、ひとつのストーリーのデザイン、種類だと思えば、皆一緒(今生も前世も未来世も)になるのではないかと思います。

ストーリーなので、そのストーリーを書き換えたり、想像(創造したり)することもでき、都合の悪いストーリーは変えればいい理屈にもなります。

しかし、ストーリーだからと言って、何でも自由に組み替えたり、創造したりすることができにくいのも、人間なのです。それはある程度、現象に左右されるからです。

解釈するにしても、起きる(起こった)出来事、環境、経験などという「もと」がないと、解釈すること自体できません。物語の材料・基盤とでもいうべきものが前提にある世界(現実世界では)です。

それを勝手に自由に作ることが、普通の人はできないので(笑)、解釈する前に経験することによるストーリーの骨子(運命とか宿命と言っていいもの)がありますから、普通は、自分の都合のよいように解釈した空想の世界で楽に生きられるわけではないということです。

前世の話に戻りますと、前世も含めてすべて自分の解釈するストーリーだとしても、なぜにそうした前世に自分が関心を持つのかという点は重要かと思います。

前世があるかないかというよりも、思い出したり、ある特定の過去の国とか人間、生活、物語に自分がひきつけられる(感応する)こと(嫌いとか怖いとかの特別感情を持つことも含む)のほうが大事だと言っているのです。

物語・ストーリーにはがあります。それは神話などで昔から伝えられ、人々の集合的な(無)意識の中に刻印されているものと言えます。

前世のストーリーは、多くの場合、そうした「型」に象徴的には関係しています。今の自分が、その型を通じて、何かに気づこうとしているのかもしれません。

マルセイユタロットにはその型が描かれていますので、前世とも関係した話を、タロットから見出すことも、象徴としてですが、可能な面はあるでしょう。

繰り返しますが、前世がある(あった)かという事実や、その証明よりも、前世の話とシンクロしたり、関係があるかのように感じたりするあなた自身に意味があると言えます。

前世という材料で、大きな変容・統合がなされようとしているのかもしれないのです。

そして、前世に関心を抱くタイミングもまた、大きな流れの意味では重要かもしれません。


見えている自分と見えていない自分

タロット占いやタロットリーディングの原理について知りたいと思う人もいるでしょう。

私も理由なくして実践するのに違和感を持つタイプですので、自分がやっているタロットというもの、そしてそれでリーディングすることの仕組み、原理の理由を探ろうしてきました。

やってみるとわかりますが、こじつけや偶然レベルではない出方をタロットカードは見せるのです。まさに神秘と言いますか、絶妙な出方と言いますか、そういう感じを何度も経験するのです。

タロットをリーディングする際、タロット占いでもそうですが、たいてい、カードは裏向きのままにシャッフルして、表(絵柄のあるほう)かわからないまま、カードを任意にピックアップします。

当然ながら、シャッフルしている時は、どのカードなのかわからないままですし、選んだカードも表に返すまでは、それぞれの絵柄を見ることはできません。

しかし、ある時、もしかすると、カードが(自分は)見えているのではないかと思う時がありました。自分だけではなく、他人に対してもです。

この「見えている」というのは、透視能力とか直感でわかるというものではなくて、何か別の自分の存在というものがあり、その者はカードが表だろうが裏だろうが、何のカードかがわかっているという意味合いです。

実は、占星術やタロット研究でもおなじみの松村潔氏も、似たようなことを著書で書かれています。

松村氏によれば、エーテル体の自分がカードを選んでいるのだということのようです。いわば、わかったうえでカードを選んでいるわけです。

ちなみに神秘学とか、スピリチュアル分野では、人間は肉体だけの存在ではないとされ、いくつかの複層した見えないエネルギー体も含めて構成されていると言われます。

そのひとつがエーテル体と呼ばれるものです。(ただし、こういうエネルギー体の概念やとらえ方は諸説あって、同じ言葉でも違う意味になっていることも注意が必要です)

私がタロット講座の履修者用に発行しているメルマガにも、今回、この見えない体で選ばれたカードに対して、普通意識の自分がそのカードを見て解釈することの問題性と言いますか、解離性について、その松村氏の説を引用しながら書いたのですが、結局、カードが本当は自分が見えていて引いている説(笑)を取りますと、タロット占いやタロットリーディングが当たる原理というものの説明になる気がします。

まあ、これでも、遠隔でカードを引いている場合とか、自分ではなく他人がカードを引いた場合はどうなのか?という、いろいろな疑問もあるにはありますが、なぜ質問や状況に適切なカードとか、びったりと思えるカードが出るのかという問いの答えのひとつにはなるかもしれません。

しかし、これは松村氏も述べていることですが、必ずしも、(シャッフルされている時の裏向きの)カードが見えている自分が、見えていない自分の希望通りのカードを引くとは限らないということもあります。

希望通りというだけではなく、見えていない自分(通常意識、現実認識の自分)の論理では納得できないカードも選ばれる場合もあるのです。

これが当たらない理由であったり、出たタロットカードが、具体的には読みにくい(大アルカナの場合)ケースになっていたりする可能性があります。

タロットカードをどう読むのかというのは、つまるところ、タロットリーダーの主観によるところが大きいのですが、このように、そもそも選ばれた(引かれた)カード自体、自分の通常意識のうえでは矛盾したものになっていることもありますので、一人だけで読んでいると、大変解釈が難しいことがあるのです。自己リーディングの困難さと言い換えてもよいでしょう。

また他者リーディングにおいても、やはり、いろいろな解釈を現実とすり合わせながら、出たカードを両者で相談・協議しつつ解いていくのがよいかと思います。

自分だけ(自己リーディング)の場合は、無理してカードを現実的・具体的意味に解釈したり、当てはめたりしようとしないことも大事です。

なぜなら、カードの意味がすぐにわからないということは、別の自分(精神的・霊的な自分)と自我意識を持つ今の通常の自分との間に分離した状態を、ひとつの自己として統合するための作業にも、実は自己(セルフ)リーディングがなっているからなのです。

無理矢理、大人の自分が幼い子供を言い聞かせるようなことでは、統合しにくいのです。

タロットは現実意識を超え、矛盾した世界のように見える次元を受け入れるツールでもあります。

その意味では、現実的なレベルや自我(エゴ)的な意味での幸福とか利益を手に入れるためにタロットリーディングをしていると、結局、タロットを特定の(通常意識的)世界(のルール)に押し込め、吉凶判断の機械的な道具にしてしまうおそれが出てくると思います。

やがてタロットの反乱に遭い、タロットを引いたとしても、そのアドバイスが愚者的な大波乱(トランプでいうところのジョーカー的な演出)を巻き起こすことになるかもしれないので、気をつけましょう。(笑)


カード人物で表現される型

自分は何者なのか?

これは人にとって永遠のテーマと言えるかもしれません。

「いやいや、何者とか、そんなことを考えるまでもなく、私は私じゃないですか」と簡単に言う人もいるでしょう。確かにその(今の)あなたはあなたで、ほかの誰でもないですよね。

ただ、自分というものに対して、哲学的にしろ、霊的にしろ、深く考察して行けばいくほど、自分はいったい何者なのか?ということがわからなくなってきます。

人格やパーソナリティ(性格などの傾向)として見ても、自分の自覚しているものと、他人から見た自分とでは違っている場合もありますし、家でいる時の自分と外で仕事をしている時の自分とでは、かなり異なるという人もいます。

一日のうちでも、穏やかなる自分と激情にかられる自分という、相反する自分が登場することもあるかもしれません。

多重人格のような(障害やコントロール不可のような)ものではないものの、誰しも、どうも自分というものはひとつの性格、キャラではないと感じるのではないでしょうか。

いわば多数の人格が(一時的に)統合されて、その時その時で振り分けされながら生きているのが人間なのでしょう。

とは言え、いくつもの人格が一人の人間の内にはあっても、代表的な人格とか、自分が表現しやすい人格というものがあると想像できます。

心理学者ユングによれば、人には集合意識として共通の型・パターンのようなものがあるとし、それを元型(アーキタイプ)と呼びましたが、ユングによって分類される12の人格元型パターンというものがあります。

それらを見ていると、マルセイユタロットの大アルカナに描かれている人物像と似ているところがあると思えます。まあ、ユングはマルセイユタロットを研究していたので、似ていても不思議はないのですが。

ということで、タロットでも人格の元型的なものは表せるとも考えられます。ただタロットの場合、全体では78枚あり、先述した大アルカナだけでも22枚で、ユングの12パターンを大幅に上回ります。

そこで、もっと削ぎ落としていくと、例えば、タロットでは大アルカナでも、人物ではない絵柄もありますので、それらを除いたり、複数以上の人物が目立つカードを省いたりしていくと、14~15枚程度に収めることは可能です。

あるいは、たとえ、人物ではない絵柄のカードであっても、人格化(人間のように)するなどして、さらにもともと人物が描かれているカードたちを含めて、一種のグループ分けをしていくと、これもまた限られた枚数(というよりグループとかペア・セット)にしていくことができるでしょう。

また、技法自体、ちょっと問題がないわけではないのですが、いわゆるソウルカードという数秘的な技術とタロットを合わせた手法で、9枚の元型的なカードを見出すこともできます。

いずれにしても、タロットに描かれる人物とカードによって、自分が何か特別な感情とか、シンパシー、つながりを抱くようなものには、自分の奥底に流れるタイプとの相性・特性が隠されている可能性があると考えられます。

それはもとは集合意識的なものから来ていると言え、必ずしも自分という個性そのものとは別なのですが、しかし、そういうパターン・あり方をデータとしてダウンロードしているかもしれませんし、ダウンロードしているということは、自分の個性の表現に何らかの形で関係している型であると言えます。

輪廻転生やカルマの概念を導入すると、そうした型の生き方を何度も繰り返してきたり、友人や家族、パートナー、グループなど、自分の過去生(あるいは未来生)で特に関係してきた(相手の)型だったりするかもしれないのです。

カードの意味と描かれている人物像を素直に見て、一枚だけではなく、数枚カードを選んでみると、自分の個性的な型・パターン、好む表現方法とか生き方というのが見えてくるかもしれません。

たいていは、それを今生でも示しているはずですし、そうではない人は、逆に違う型を演じてみたいと、今生では別の型を選択しているものの、やはり気になるということもあるでしょう。

例えば、私自身の例で言えば、おそらく「隠者」とか「法皇」とかと関係が深く、つまりは教師的な生き方の型が刻まれているように思います。

それはタロットの講師をしているからというだけではなく、昔から(小学生くらいから)、何か知っていることを教えたいという思いがよくあったからです。

一方で、先生的なキャラとは別の無邪気な型や戦士的な型も気になるところがあります。カードでいえば、「愚者」とか「戦車」でしょうか。「悪魔」や「13」も時にシンパシーを感じる(笑)ので、何か悪とか黒い部分と関係する時代もあったような気がします。

自分で感じにくい人は、タロットに聴いてみる(シャッフルして出してみる)のもよいかもしれません。

宮廷カードでは現実的で短期的なレベルでの人物像の型を示すことが多いですが、大アルカナ場合は、いろいろなもの(レベル)を含みますので、魂的な表現の意味もあり得ると思います。

どんな生き方をすればいいのか、あるいは、自分は何者なのか?と悩む時、カードの人物像にある型・パータンを象徴として汲み取り、今ある人生で、その生き方とか型の表現ができるものを選択すると、自分らしく生きられたり、何か充実感を覚えたりするかもしれません。


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