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タロットカードの(示す)正しさ
タロットを扱う者や、タロットリーダーとしては、タロットが示すものの解釈の前に、その信頼性を自分にどう置くかということは重要だと考えます。
言ってみれば、タロットは正しいのか正しくないのかという問題にも関係してきます。
この問題を、さらに、「タロット自体が正しいのかどうか」というテーマと、もうひとつ、「タロットが示すことは正しいのかどうか」というものに分けて考えることもできると思います。
また、根本的なこと、そもそも論として、正しいというのはどういうことか?ということも無視できません。
実は、最初に考えなければならないのは、ここ(タロットの示す正しさというもの)ではないかとさえ思います。
しかしながら、タロットを使っている者でも、あまりこういうことは考えないのではと想像します。だからこそ、改めて「考えて」みるのです。
とりあえず、タロットが示すことは正しい、タロットは正しいのだという前提でないと、占いもリーディングもできません。
では、その正しさとはどういう意味で正しいのでしょうか?
実はこのような問いの時、反対の意味である「正しくないこと」「間違っていること」「悪いこと」というものを考えますと、その「正しさ」についてわかってくることがあります。
ですから、タロットリーダーの方、タロット占い師の方、今一度、自分は何をもって「正しい」としているのかを、逆の、正しくないこと、あるいは、よくないことも考えてみて、その線引きを想像するとよいです。
すると、多くの人は、常識的で一般的、いわば誰もが思う善悪とか、成功失敗とか、幸不幸の基準で見ていることに気が付くのではないかと思います。
とは言え、その一般的とか、多くの人が思う常識的なことというのは、集合的なものなので、どれかひとつとか、明確な基準・ルールがあるわけではありません。なんとなくのような漠然としたものです。
ということは、漠然とした基準でタロット(の示す)ものを判断しているということになります。
「いや、私は違います、ちゃんとした基準をもっています」という人もいるかもしれません。
例えば、みんなが思う一般的な幸せ・不幸というものではなく、その人個人(タロットを引く人)が思う幸せとか不幸を基準にしているというような方もあるでしょう。
いずれにしても、タロットが決めるのではなく、人(特にタロットを扱う者)が基準を決めていることには変わりありません。
タロットはただカードとしての図柄を示すのみです。その解釈は、結局、人(と状況)がしています。
もし「13」のようなカードが出て(本当はこういう解釈はやらないとしても)、死と関係すると見て、戦争中ならば、「どんどん相手兵士を殺せます、あなたが兵士であるなら出世します」と、幸運でよいことのように読める場合もあれば、平和な時には、「たくさんの人が伝染病で亡くなる危険があり、大変悪い事態を告げています」と、ネガティブで不幸な解釈をすることもあるかもしれません。
このように、価値観や幸不幸、善悪などの概念は、時代や人、状況によって変化しますので、確かに普遍的に近い良し悪しはあるかもしれませんが、やはり、正しさとか良さ(その反対悪いこと、間違い)の基準はあやふやなものと言わざるをえません。
こうなると、カードの示唆を読むというのは、あまり意味がないのではないか、ルールも何もあったものではないという感じになります。究極的には、人が決めているのなら、カードを引く必要もないとさえ思う人もいるかもしれません。
ここで逆転の発想をします。
カードの正しさとか、カードが示す基準を考えて行ってもキリがないと言いますか、かなり難題で、ひとつにはなかなか決められないものと考えられますから、そこは一度置いておきます。(そのことはあえて考えないようにする)
そのうえで、自分とカードを契約のような形で、両者の間にルールや基準を作ります。(契約を結ぶような感じ)
言ってみれば、善悪や幸不幸、何が正しくて何がよくないのか(問題なのか、問題でないのか)の基準を、カードリーダー、タロットを扱う者が決めるわけです。
その基準をもとに、カードを出してください(カード側からするとそのように出しますよ)という契約です。
ですから、タロットリーダー側の考えが重要になり、タロットリーダーの想定する良し悪し、問題か問題でないのかという基準がカードを動かすわけです。
ただ、この反対、逆方向みたいなこともあり、もともとカードに示されているある基準(それは教義や思想、目的と言っていいもの)を教えられる(学ぶ)ことで、自分の中にその基準を入れてルール化し、それを今度はタロットカード側に投影、あてはめて(引いたカードを)解釈するというパターンもあります。
ただ、これれも「ある教義」のようなものをカードにあてはめ解釈したものなので、結局は、人の解釈ありきということにはなりますが。
私の場合は、マルセイユタロットに込められている(と言われる)ある思想、目的をもとにしたシステムを基準に、カードを解釈するようにしていますので、それが基準と言えば基準です。
その基準は、一般的な意味での善悪とか幸不幸、成功失敗概念とは異なるなところがあります。
ですから、今の時代の普遍的に言われている、あるいは伝統的に示されてきた、運不運、幸不幸、成功失敗の基準にした占い的解釈とは違う場合があるのです。
このこともあり、私は占い師ではないと申し上げています。
ともあれ、それでも、タロットを信頼しないことには、どの方法・考えを採り入れるにしろ、タロットリーディングや、タロットを使った技術は成立しません。
タロットをなぜ信頼するのか、信用できるのか?という問いまでつきつめられると、もはや信仰に近いものと言わざるを得なく(根拠がないわけではないですが、今の科学的なものとは言えませんので)なります。
ただし、タロットによって自他の人生を操られるのではなく(選択や決定を依存してしまうのではなく)、あくまでひとつの情報として扱ったり、様々な角度から物事を見たりするためのツールとして見るのがよいかと思います。
しかしながら、ツールという言い方にはとどまらない、深淵で神秘なところもあるのがタロットてす。
タロットは人が作ったものではあるものの、ことマルセイユタロットにおいては、特定の設計者の名に帰せられるわけではなく(版名はありますが、必ずしも、いち個人が大元のデザインを完成させたとは言えないところがあります)、ある叡智集団によるものと想定できます。
叡智と書いたように、その受けた啓示と製作過程においては、通常意識を超えたところにあったとも考えられます。
ですから、もしタロット自体に、何かの正しさや基準があるとするのなら、それは私たちの人間、常識レベルのものではない高次のルールや基準の可能性もあるかもしれません。
この記事では、自分(タロットリーダー)側が基準を決めると言いましたが、その基準が、いつしか向こう側(タロットが根本的に示す高いレベルの基準)に引っ張り上げられ、自分の中でのルールが変わることもあり得ます。
その時、今までやっていたカードの読み方、解釈に違和感を覚えたり、はっきりどう読めばよいのかわからなくなったりするでしょう。サクサク読めている時が、必ずしも、よいとはいい難い時もあるのです。
つまりそれは、自分の思っていた正しさなどへの、価値基準の揺らぎが起こっているとも言えるのです。
その経験を何度かしていくと、タロットカードは、私たちの中にある、忘れられていたり、普段、外から常識的に思いこまされていたりした基準やルールを、中立に戻し、回復させるためにあるのではないかと思えてきます。
これは言い換えれば、私たちは地上性のルールに基づく生き物、生き方をする傾向にありますが、一方で、天上性のルールによる生き方もあるのだということ、それが永遠や見えない部分とつながっていること、また自分一人の人生ではない分もあること(自分が存在する見えない部分とその理由)などに気づくプロセスにもなってくるのだと思います。
究極的には正しさなんてものはない(正しいのは、正しくないという概念が存在して初めて認識できるものですから)のですが、レベルの低い意味の「正しいこと・正しくないこと」に囚われているのもまずく、マルセイユタロットで言いますと、「正義」の象徴とは何かを考えることで、自分や世界を(高次の基準に)変えていくこともできるのだと思うところです。
生年月日を元にした数のタロット技法
タロットと数秘術を合わせたような技法で、パーソナルカードとかソウルカードというものがあります。
これも流派によっては少し計算方法が異なるのですが、基本的には生年月日をもとに行う方法という点では変わりないものと思います。
これは、生年月日から導き出された数を、タロットの大アルカナに付与されている数と関連させて、その数を持つカードと自分の特性を象徴させるというものになります。
パーソナルカードは、計算によって22の数のうちどれか(22の場合は「愚者」に当はめる)にするので、大アルカナの数と合うことになり(と言うより合わせているので)、違和感は少ないのですが、ソウルカードの場合は一桁の数のみ(1から9)で表されるため、大アルカナの数と合わなくなります。
そういうこともあって(他の理由もありますが)、私個人としては、この見方はほとんどタロットの技術としては重視せず、あくまでタロットリーダー・タロットティストとして、絵柄をメインとした使い方を推奨しています。
しかし、数秘的に見るのが、結構好きな人もいますし、エンターテイメント的に面白いところもありますので、時と場合によっては、やってみてもよいかもしれません。
ただやはり、先述したようなタロットとの数の問題があり、違和感はぬぐえません。
そこで、私は生年月日から数を出してタロットと関連させる方法としては、別の方法をいくつか考えました。
そのひとつをご紹介したいと思います。
これは先日書いた、ある基本数で大アルカナを分けることに由来するものです。
今回は、その分ける基本数を「10」として援用します。
しかし、「10」で大アルカナを分けると、2枚余ってしまいます。ですが、その二枚を「愚者」と「世界」にすると、うまく分けることができます。
というのは、「愚者」は数を持ちませんし、「世界」は21という数はありますが、「世界」のカードの象徴は最高度の状態を示し、「すべてある、完成された世界」と考えると、ある意味、どの数にもなってどれでもないという「愚者」に近い概念になり、ほかの20枚の枠からはずすことが可能になります。
こうした「10」のまとまりで、二つのグループに大アルカナを分けておきます。
具体的に言いますと、1から10(「手品師」から「運命の輪」)のグループと、11から20(「力」から「審判」)のグループとなります。
次に、この二つのグループの大アルカナにおいて、下一桁の同じ数を見て、二枚セットにして10組に分類して行きます。
これも具体的に示しますと、「1と11」「2と12」「3と13」「4と14」「5と15」「6と16」「7と17」「8と18」「9と19」「10と20」という具合です。(もちろんその数を持つ大アルカナ同士ということです)
そして、自分や見たい人の生年月日の数をばらして、全部足しこみます。例えば、1985年9月25日生まれの人の場合、1+9+8+5+9+2+5=39となります。
ここで「10」の数を基本としてタロットを分けていますので、「10」の数と比べることをします。 合計数が10より大きい場合、合計数をさらにばらして足しこみます。それでもまだ10より大きい場合は、さらにばらして足しこみます。つまり、1から10のどれかの数になるまで、ばらして足しこむという作業になります。
例の人の場合だと、合計数が39ですから、これは10より数が多いですので、3+9=12とし、これでもまだ10より大きいですから、さらに1+2=3と計算します。ここでようやく10以下となりましたから、この人は「3」の数を持つとみなします。
そうしたうえで、さきほど、二枚セットで10組分けた大アルカナのうち、このケースの人の場合、「3」の組に相当すると考えます。具体的には「女帝」と名前のない「13」です。
生年月日を数秘とタロットの数(大アルカナ)から見て、この例の人の場合、「女帝」と「13」のカードとの関係があるとみなし、その性格や特質、個性の傾向がこの二枚に関係すると考えます。
どちらかと言えば、1から10のシリーズが表向きや、自分としてもわかりやすい傾向で、11から20のシリーズのほうが裏であったり、ここぞという時に出るもの、自分にもわかりにくい傾向と見ることができるかもしれません。
また、1-10シリーズが地上的・実際的(現実世界での表現)、11から20が天上的・精神的(内なるものや大いなる観点からの表現)と分析できる場合もあります。
例の人の場合、「女帝」と「13」ですから、創造的・クリエィティブなことが好きで、実際的にもそのような傾向で選択したり、人生を生きたいと思ったりすることが多くなると思いますが、裏では「13」の象徴のような思い切った変革性や合理性にあふれ、時には苛烈にふるまうこともあるということです。まあ簡単に言えば「創造」と「破壊」の性格を併せ持つみたいな感じでしょうか。
この技法なら、10進法的に符合させやすいので、数秘的にも使い勝手がよく、大アルカナにおいても、「愚者」と「世界」は例外的になりますが、「10」という意味のある数のひとまとまり、一サイクルといってもいいシリーズで大アルカナと関連させることができますので、タロット(の数)的にもそれほど違和感はないと思います。
とは言え、これも数秘術を基本としたタロット技法なので、絵柄を主とするタロットにおいては、邪道と言いますか、イレギュラーな見方ですから、遊びや簡単な占い、個人の傾向を数秘的なものからうかがう補助技法くらいに思って扱うのが適切かと思います。
まあ、ソウルカードよりかは、タロットの数的には親和性は高いと思いますので、こちらも利用してみてください。
結局、数秘的な技術も、タロットとの親縁性を深めたり、高めたりする技術の一つと言えます。
つまりは、リーディングする相手とのコミュニーションと、タロットとのコミュニケーションという、二重の意味でのコミュニケーション技術と考えるとよいのです。
タロットの学びについての一考
タロットを学ぶには、独学か、誰か先生につくか、あるいはスクールに入って学ぶかという方法が現実的には考えられます。
何事も長所と欠点があるように、どの方法であっても、完璧で欠点のない学び方というものはないでしょう。
いきなり大きな話になりますが、宇宙や世界という巨大な範疇になればなるほど、私たちの共通点も大きくなり、究極的には、ただひとつという何も特徴(個性)がないような、いわば「空(くう」)と例えられるような抽象的な状態になっていきます。(「空」は何もないようですべてあるということにもなりますが)
しかし、逆に言えば、小さな範疇になればなるほど、違いや区別、色が出てきて、悪く言えばバラバラになり、よく言えば個としての特質(個性)を持つようになります。
結局レベルや階層、次元によって見え方と言いますか、表現方法が変わるだけなのだ言えますが、私たちの認識する通常の世界観(レベル)では、個性のたくさんある現実世界となりますから、一人一人にまさに「違いがある」と考えたほうがいいわけです。
ここでタロットの学びに戻りますが、そうしますと、現実的に見ても、タロット学習の方法は、個人によって違って当たり前ということになります。これは何もタロット学習に限らずのことですが。
よって、全員が納得し、完璧にタロットが習得できる方法というのは、具体的・現実的にはあり得ないことになります。
ただし、タロット学習というものの性質や内容のレベルを上げて行けば(抽象度や意味合いを上げる、変えれば)、ほとんどの人に有用で共通な方法は出てきます。
しかし、通常レベルにおいては、一人一人違った方法になることを想定する(認める)のがよいと思います。
その前提で、タロット学習を自分のために効果的にするには、目的など学ぶ意味を細分化していくことにあると言えます。また自分の置かれている環境や個性なども考慮していくことです。
ちょっと前までは、むしろ全体に配慮した学び方、つまりは、自分ではなく他人や外に合わせた学び方が主と言えました。例えば、あるタロット講座の期間と場所、学ぶ方法が決められていて、自分がそれに合わさなければ学べないという具合です。
しかし、今は個別の選択肢がかなり増えたと言えます。それが時代の流れです。提供する側も多くなり、そちらの個性も増えたので、受ける側の個性に応じていく可能性も高まっているわけです。
ということで、これからは、全体に当てはまるようなことを考えるのではなく、自分ならとか、私に与えられていることでとか、自分自身が好きで前向きになれることではとか、より個性(自分)に沿った方法や場所、人を選ぶとよいということです。
具体的には、自分に今あるお金、予算はどうか、リアルかネットのどちらが自分には学びやすいか、タロットの学習後、(経済的な)仕事を意識しているのか、精神や魂の向上として学ぶのか、趣味として学ぶのか、自分にとって学べる期間や日にちはどうか、教えてもらう人は自分の求めるものを提供してくれそうか、性格や志向などが合っているのか・・・などいろいろと細分化すれば出てくると思います。
そして、タロットは便利なもので、四大元素、四組という概念があります。
まだ学ぶ前でわからないのは当たり前ですが、少し、この四つを、学びの観点で紹介すると、知識・スタイル、精神・関係性、技術・モチベーション、経済・生活みたいなものになります。
平たく言えば、知りたいことを教えてくれるのか、自分の気持ちはどうか、学ばせてもらうところや人との相性はどうか、どんなタロットの技術や活動方法を教えてもらえるのか、講座料金は適切か、自分が支払えるのか、学びは自分の仕事とか生活に支障はないか、みたいな観点で見ると、いろいろ存在する考慮点が整理できてくるわけです。
先生につく場合、先生との相性は軽視できませんが、それより、もっと見ておかねばならないのが、先生の理想とするものや目指しているものは何なのかということです。
タロットを通して、その先生は何をしようとしているのかということです。
直接、習う前に聞いてみるのもよいかもしれませんが、たぶん先生クラスになると、何か外向けに発信・活動をしているので、それを読んだり、見たり、体験したりすることでわかる場合もあるでしょう。
ここで、その先生の実績が重要だと考える人もいるかもしれませんが、確かに、実績は無視できませんが、実績よりも、先述したように、何を目指しているのかということのほうが大切なように思います。
それはイデア(理想のもの)と言ってもいいかもしれません。イデアは先生によって実現されていなくても、そのイデアさえ自分と合って入れば、そのイデアに向かって、自身を進ませることができるからです。
そして、そもそも、そのイデアが自分の思いとはかなり違っていると、いわばゴールや目的地自体が異なるのですから、そのルートに入るのは自分にとって間違いになります。
マルセイユタロットで言えば、「星」か「世界」で例えられるでしょう。
この「星と」か「世界」をイデアや目標として旅している先生であれば、自分もその「星」や「世界」を目指すことが苦ではなく、同じ目的の旅をする者ということで、あなたも同行できるはずですし、たとえ途中で先生がいなくなっても、あるいは託されれるような形で先生とは旅ができなくても、あなた自身に「星」・「世界」の像があれば、さらに自分で道を進んでいくことができます。
学びで道でよく言われる、「師の求めたるところを求めよ」ということです。
ということで、一応、私もタロットの講師・先生をしておりますので、同じものを求める方がいれば、一緒に旅ができると思っております。
ただ、また元に戻りますが、同じものを求めていても、これまた個性がある世界が現実ですから、細かく言えば、一人一人、やはり道は違うものです。
それでも志として、いわばマルセイユタロットの「星」の輝きを目指すことを共有して、「世界」に行こうとする者は、同じグループとして学び合い、支え合う気持ちが持てるでしょう。
あなたがタロットに出会うのも縁で、学ぶのも縁と言えます。タロット種は何であれ、少なくともタロットに興味を抱いた時点でタロットに縁があるわけです。
タロットに出会っても、それを学ぶかどうかは、次なる縁とも言えますし、自分が縁を作るという実際の行動にも関わってくるでしょぅ。
マルセイユタロットの「恋人」カードのように、天使(キューピッド)の矢が放たれても、あなたが人として現実世界で行動しないと、実際での変化は現れません。(逆に言うと縁の機会が訪れたことは、矢が何らかの形で放たれているわけです)
こうして、タロットに単に興味を持つだけで終わるか、タロットを深く学んだり、それを使って実践したりする世界に進むかが決まって来るのです。
あなたはあなたに生じている縁をどうするでしょうか? それもまた、あなた自身の個性として決定できるのが現実世界でのあなたの力なのです。
タロットを数で分けたり、まとめたりする。
このブログでも何度かふれていますが、タロットは絵柄による象徴のカードなので、数がメインとなるわけではありません。
それでも、数秘術による考え方、読み方をタロットで使う人もよく見ます。
別にそれはそれで構わないとは思いますが、タロットの本来である絵を元にしたリーディングを差し置いて、数の解釈を重視し過ぎるのは、もはやタロットリーディングではなく、数秘術だと言ってもいいかもしれません。
たとえば、引いたタロットカードの数を全部足して、その数を持つタロットと関連させるなどという手法はよく見かけますが、それ(数を足す)以前に、出た(引いた)カードそのものを、まず注目すべきだと思います。
もっとも、矛盾するようなことを言いますが、数は無関係ではなく、タロットの情報のひとつとして数にふれていくことも、リーディングのひとつの技術だと考えています。
つまりは、タロットリーディングにおいては、どこまで情報として扱うのかというルール(設定)によって変わってくるということです。
数を扱うことによって、リーディングの質が上がるのなら、それ(数の解釈)を採り入れるも、よいことかもしれません。逆に、数を意識し過ぎてしまったがために、読みがブレてしまった、タロットが伝えていることがよくわからなくなったというのなら、本末転倒です。
やはり、タロットリーダーとしては、数よりも、タロットの絵柄の象徴性を重要視したいものです。
とは言え、数を関係させてタロットを見ることは、リーディングだけではなく、タロット研究の意味でも、タロットの複雑で精緻な部分が見えてくることもありますので、数に注目するのも興味深くはあります。
たとえば、大アルカナにおいて、ある基準の数をベースに、まとまりや関係を持たせると、不思議な構図のようなものが出現します。
比較的有名なものでは、「7」を基準とするもの、「10」を基準とするものなどがあります。
「7」でも「10」でも、大アルカナは22枚なので、どちらにしても割り切れません。
「7」を基準にした場合、22枚の大アルカナは、3つの「7」ベース(ひとまとまり)ができ、余りは1となります。
この余りのカードを「数を持たない愚者」に当てはめると、3×7=21枚(それぞれ数を持つ大アルカナ)のカードと「愚者」という具合に、うまくひとつの図ができあがります。
これはカモワン流ではタロットマンダラと呼ばれる図であったり、ユング派でマルセイユタロットを使う人にも、心理的な完成図・モデルとして図示される形です。
一方、「10」を基準にすると、大アルカナの場合、ふたつのグループができ、余りは2枚のカードになります。
ホドロフスキー氏などが提唱している見方では、1から10の数を持つカード、11から20の数を持つカードグループと、「愚者」と「世界」はその枠から外れる特別なカードと見立てる図ができます。
「10」を基準にしていますので、1の数を持つカードと11の数を持つカードのように、下一桁が同じになる数で二枚組が10個でき上がることになります。
それぞれ(二枚)を陰陽や相補・対称・対照のような意味で見ることも可能で、その見方をリーディングにおいての関連性として解釈する技術もあります。
組は、具体的には、マルセイユタロットで言えば、手品師と力、斎王と吊るし、女帝と13、皇帝と節制、法皇と悪魔、恋人と神の家、戦車と星、正義と月、隠者と太陽、運命の輪と審判の組み合わせになります。
何となくそれぞれの二枚が関連性を持つことが、絵柄からでもわかる組み合わせもあれば、なかなかその二枚がどう関係しているのか、共通点などがわかりづらいものもあると思います。
ここで言っておきますが、この二枚組たちは、単純に一桁の数に10が加わっているだけではありません。
さらに言えば、マルセイユタロットにはローマ数字にも図像としての意味があり、現代の算数的な解釈での数の読みだと、重要なことを見落とす場合があります。
そのことをよく表しているのは、この場合、ほかならぬ「10」の数を持つ「運命の輪」と、これとセットになる「審判」の組み合わせと言えましょう。
このように、おそらく、マルセイユタロットの絵柄の象徴性の意味を伝えられないと、それらの組み合わせの関係性も理解できないでしょうし、リーディングにも活かせないでしょう。
この二枚の組み合わせは、基本は数をコンセプトにできたものなので、もちろん、数の意味も関係してくるわけですが、不思議なことに、それぞれの組の絵柄からでも、先述したように、関係性が見えてくる(関連が発見できる)のです。
ここがタロット(マルセイユタロット)の恐るべきところで、ある数を基本とした分け方なのに、絵柄においても関連性があるように見えてくるのは、でたらめに数をあてがっているわけではなく、ある意味、神的目線で計算のもとにカードが作られ、構成されているということがわかるのです。
それゆえに、数秘術的技術を使っても、ある程度、タロットの解釈に意味が出てくることになるわけです。
ただし、たからといって、絵柄を抜いてしまって、数だけ抽出したものにすれば、それはタロットではなくなります。
極端なことを言えば、数だけを重視するのなら、カードに絵はいらず、1とか3とか大書すればよく、それはすなわち、ただの番号カードに成り果てます。(笑)
だから、緻密に計算されていると思えるタロットにおいても、数はあくまくでひとつの情報や、関連性を見るための手法としてとらえ、特にリーディングにおいては、メインは絵柄であることを基本にするのが王道だと思います。
ただし、小アルカナの数カードは、名前の通り、数が中心になっているので、数の解釈から入らないと、そもそもマルセイユタロットの数カードの場合は、デザイン的にも絵というより、記号に近いものになっていますので、この限りではないでしょう。(でも、よく見ると、数カードと言えど、細かな絵の違いはあり、それに注目すると、読みもまた違って来ます)
ちなみに、さきほど述べた大アルカナを「10」のくくりで分ける方法は、数カードの10枚ずつと関係させることができ、カモワン流ではこれによって、数カードを解釈するひとつの技法となっています。
もちろん数カードの読み方は、カモワン流で伝えられている方法だけではないものもありますので、数カードの読み方をどうしていくのかは、流派によって違いがあり、その選択は自由と言えますが。
日本でのマルセイユタロットは、カモワンタロットが2000年以降に、いわば平成において特に広まったので、小アルカナの読み方も、カモワン流(というより、旧タロット大学で教えられていた方法)が知られているように思います。
しかしながら、かつてのカモワン流やカモワン系からの流れで教えられた人の多くは、ほとんど大アルカナしか使わないので、小アルカナの数カード自体、そもそも読む・読まない以前の問題で、読み方の技術が取り上げられることも少ないようです。
何度かここでも言っておりますが、タロットは78枚で一組のものですから、小アルカナも活用しないともったいなく、大アルカナだけだと片よりが出るように思います。
タロットは数がメインではありませんが、逆に数に注目することで、特に数カードへの関心も出て、タロットの全体的活用につながるかもしれません。
何事も悪いことだけではなく、必ずよいこともあります。(その逆もしかり)
ともかくも、数にこだわり過ぎず、それでいて、数も重要なひとつのタロットの情報として扱っていくと、タロットへの探究はもとより、リーディング実践の場においても、有意義なものになると思いますので、いろいろな見方のひとつとして、タロットの数に注目してみるのもよいでしょう。
年の初めにタロットカードを引くこと
明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。
2021年の始まりにあたり、去年は世界的にも大変な年となりましたので、ふと、昨年のはじめにはどんなことを自分が書いていたのか、確認したくなりました。
すると、自分でも『2020年は一般的にも「変化」を実感する年となるのは、間違いない』と書いていますね。
なぜそう思ったのかは、もはや忘れましたが(苦笑)、私のことですから、間違いなくタロットカードを展開した結果、そう判断したのでしょう。
もっとも、毎年「変化」を言う人も多いので、よくあるように、誰しもに起こるようなことを抽象的に指摘すれば当たっているように感じてしまうという、それでもあるかもしれませんが。(笑)
まあ、私は占い師ではありませんので、書いたことが当たる・当たらないなんてことはどうでもよいのです。
ここで重要なのは、人が言ったことを自分が受け入れたり、同調したりする感覚があるのかないのかということが、あげられます。
当たり前の話ですが、他人の言葉に納得できるのも、反感を持つのも、自分に何か基準とする思いがあるからで、それと照らし合わせれば同意もしますし、反発もするというわけです。
逆に言えば、普段、自分がどう思っているのかが、他人の言葉からの自分の反応でわかるということです。意外にも、自分の気持ちや自分の思いには気づいていないこともあるのです。
よって、例えば「今年は変化の年になるよ」と誰かが言ったのを聞いて、自分が「そうなんだ」と思えば、「変化したい」と自分が思っているか、逆に「変化に抵抗がある」ということが多いのです。つまりは、「変化」ということに、何らかのこだわりや思いがあるということです。
そして、さらに、マルセイユタロットで言えば、それぞれの大アルカナの象徴性に関係し、例えば「変化」であると、「13」とか「愚者」などにあてはめられ、そのカードを自分が引く(タロットを扱っている者では)こともあるわけです。
しかも大アルカナ象徴性は、全体性(大きな流れとか人類全体のようなマクロ的なもの)も表しますので、単に自分の個人的な思いだったものも、タロットで見れば、その思いが大きなものと関連しているのがわかることもあります。
というように、個人的な思いが反映されると同時に、集合的な意識と言いますか、人類全体が変化を予測していたり、それを種として望んでいたりする場合は、たくさんの人の意識に浮かんで、同じようなことを起こす場合があります。
だから、例えば、タロットで言えば、今年一年を見ようとすると、まったく同じカードとはいえませんが、似たような傾向を皆が引くということもあり得るでしょう。
ただし、占いとして、自分のことの細部(具体性)まで見ようとすると、具体的なことは、かなり占う人によって違ってくると思います。
私自身は占い師ではありませんが、タロットは占い業界での定番であり、占いとは無縁ではありませんので、占いについて考えることはあります。
そしてマルセイユタロットをやってきてわかってきたことは、この世界は個別と全体とで分けられながらも統合される構造にあるということで、それゆえ、個別(個人)や具体の次元になってくると、実は一人ひとり異なってくるのが当たり前であることなのです。
つまり、当たる・当たらないは、具体(個別)次元になればなるほど、極めて困難になるという至極当然の話に行き着きます。
そしてここがとても大事なことなのですが、だからこそ当たる・当たらないに固執していても意味がないばかりか、統合的見地、宇宙的全体性視点から見れば、個別の占いで個人の未来予測を具体的に当てるのは、ゲームとしては面白いかもしれませんが、天の意思に反するようなものと言えるのです。
なぜなら、個別次元では、それぞれ異なるようになる仕組みであり、システムであるからで、それを天(神)のデザイン・オーダー・システムだと考えれば、その意図を尊重するのが人の本分と考えられるからです。(しかし、これももっと深く言えば、そうではないところもあるのですが、このことはまた別の機会にお話します)
まあ個人的な、自分がこの先どうなるのか知りたいという思いは、人としてわかります。
しかし、一人一人、細かいことを言えば、みんな違うので、それを当てて当人は喜んだり、面白がったりしても、全体としてはあまり意味がなく、個人占いは一種のゲームとして見るのがよいのではないかということです。
ところが、反対に、全体的には同じ流れや傾向があると考えられ、いわば、全体はひとつの大きな象徴性を持っていると言えますから、それを読むこと、推測することは悪いことではないと思います。
個人の未来は(過去も)千差万別で、一人一人にとっては重要なことであるのは確かでしょうが、バラバラで違いがあり、どう生きるか、どう選択するかは個人の自由と言っていいでしょう。
ですから自分で自分を評価すればよく、結果をどう解釈するかも、自分に委ねられるのですから、先のことが起こったあと、それがどうだったのかも、自分次第で意味づけられるのです。ここに未来を占って知ることの意味のなさが出ると思います。
(まあ、個人占いで先を見ることも自由と言えるので、それも人それぞれに任されるわけですが・・・)
しかし、全体としては意思が形成されると言いますか、宇宙の進化の巨大なうねりのようなものがあると考えられ、バラバラな個人の表現がひとつにまとめられ、人類としての進化や方向性も決まって来るように思います。
ですから、個人では自由なものの、全体としては何か意図の中にあるか、その意思を汲んで(あるいは影響されて)の個人的人生となるわけで、そこを全く無視していると、とんでもない方向に全体としては行ってしまうおそれがあるかもしれないのです。
簡単に言えば(逆の言い方をすれば)、人類全体の舵取りは、実は一人ひとりの思いにかかっているということです。
あなたも私も、舵を動かす一人であり、一人一人は微力でも、全体としてまとまれば、確実にひとつの方向性に進むのだと考えられます。
自分個人の先行きを占って一喜一憂している間に、全体の舵はふらふらとまとまらず、蛇行して船は沈没してしまうかもしれません。(笑)
ですから、個人ではなく、全体としての(船の舵取りとしての)象徴的な予測、占い、傾向的判断はあってもいいかと思います。
一方の個人的占い、個人的予測も、全体的意思を汲んだうえでなら、どのように自己を表現するかを見るためには許されることもある気がします。
要するに、自分のことだけを考え、利己的な現世利益獲得のための占いとか、予測判断している時ではないかもしれないですよ、と言いたいわけです。するのなら、全体部分も考慮したうえで、自分の活かし方を知ることです。
話は変わりますが、昨年に引いたカード(ブログ読者向けのもの)は、昨年のブログを見ると、「節制」を中心にして、「悪魔」と「恋人」のようでした。
今思えば、コロナウィルスによる行動の制限と、各人の選択を余儀なくされる様子にも見えてきます。(あとづけですが(笑)、このような事後検証も、時にタロット学習においては必要です)
マルセイユタロットを学んでいる者には、「恋人」カードの構造の意味を知っていると思いますので、「悪魔」と「節制」も、「恋人」一枚に見ることが可能になり、実はこの三枚は、実に面白い形で出ていたのがわかります。
一昨年(2019年)、次の年(2020年)にウィルスのパンデミック、コロナ禍が世界的に起きることを予想したり、占いを示したりする人は、ほぼいなかったと言えますから、いかに具体的な占い予測が信用できない(あまり意味がない)のかも、これでわかったと思います。
ただ、大きな変化や危険性を指摘した人は少なくなかったでしょう。それが全体性としての象徴とも言えます。
先述したように、特に一年スパンのようなものでは、いきなり個別や具体を見るのではなく、象徴的に全体性の意図を見定め、個として自分はどうすべきを考えるほうがよいと思います。
去年に出た「節制」「悪魔」「恋人」の象徴性から、2020年の意味を、今の2021年から遡って受け取ってみると、また新たな視点が生まれると思います。マルセイユタロットを学んでいる者にはなおさらです。
では、今年も皆さまに向けて、三枚のカードを引きます。占い的にならないよう、あえて引いた順番は記さず(出たカードの順を記すと、出たカードのことが順番に起きると解釈する人がいるからです。下に書いている三枚のカードは、順不同と思っていただくとよいです)、三枚それぞれで、自分なりに組み合わせ、意味を見出してください。
●2021年の三枚
「悪魔」 「女帝」 「手品師」
さきほど、「見出す」と書いたように、自分で意味づけることにまさに「意味がある」のです。最初のほうにも書いたように、「意味」が今の自分の心であり、思いである可能性が高いからで、それを自覚することが大事だからです。
ひとつだけ、参考で言いますと、ブログでの上記三枚だけではなく、ほかの場面においても、今年について展開した結果から言いますと、霊的な向上をもとにしながらも、現実に向き合い、実際への対処という傾向が全体的に強くなると感じられます。
では、皆さまにとって、今年が、現実的にもそうですが、特に魂・霊の意味でよいことになるよう、祈っております。