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「神の家」の自信

私たちは普段何も思わない人でも、不安な状況にさらされたり、決断がなかないできない状態や、何をしていいかわからなくなったりすると、迷い・混乱に陥り、自分への自信を失うことが多くなります。

自分ではわからない、自分では決断を下せないのですから、判断のもとたる自分自身に、しゃれではないですが、自信が持てなくなるわけです。

まさに、自身の揺らぎ=自信の喪失とでも言えましょうか。

マルセイユタロットでは、揺らぎのない自分と、自信を獲得した状態は、「神の家」で表されるものと考えられます。

一方、数のうえで、その「神の家」の前のカードに当たる「悪魔」は、悪魔による自信と、ひとつには解釈できます。

「悪魔による自信」とは、カリスマ的な人や、自分が信仰に近い形で敬愛・崇拝している人に寄りそうことで、自分の自信に換えているというもので、よくあるパターンです。

悪い言い方をすれば、“虎の威を借る狐”みたいなところもありますが、よい言い方をすれば、その人をモデルにしながら、自分の中にある自信の部分を見出そう、創り出そうとしている状態とも言えます。

しかし、その悪魔から承認してもらうこと(ほめられたり、評価されたりすること)でしか、自分の価値や自信が持てない状態が続くと、それは依存ということになります。(中には、悪魔側が依存している、つまりは共依存関係もありえます)

自分が悪魔である(この場合の悪魔は、一般に言われる悪の道に誘惑したり、非道を行う悪魔的存在という意味ではなく、マルセイユタロットカードに象徴されるカリスマや影響力のある魅力的な人物の象徴と取ってください)ことを自覚している人(演出している人も含む)の中には、本当に、悪い意味での悪魔になってしまっている人と、共に成長を図ろうとしているよい悪魔がいます。

言い換えれば、わざとか、無意識のうちに依存させて、自分についてくる人のエネルギー(目に見えないものだけではなく、お金、時間、熱意、その他もろもろの形の場合もあります)を奪い、自分をさらに肥大させようとするのが悪い悪魔で、人からエネルギーはもらうものの、それ以上に自分もよい意味で拡大し、力をつけ、それらを人に還元していくタイプがよい悪魔と言えましょう。

この区別には、やはり、「」というものがひとつの基準になると思います。

悪魔中心(悪魔自身に向けられているだけの、自己愛中心)なのか、双方向(自分だけではなく、他者愛)にもなっているかどうかという点が重要ではないかと思います。

ただ、どちらにしても、この「愛」も、情とからむことが多く、従って、「愛情」「情愛」と書くと、よい悪魔との関係も、理性が働かない感情的なつながりが中心(タロット的にいえば、杯であり、剣の力が薄い)状態になっているとも考えられます。ゆえに、その関係性は断ち切りにくいわけです。

そこで、「神の家」です。

「神の家」と書くと、神様が住まう神殿とか神社を想像するかもしれませんが、マルセイユタロットの「神の家」は、神殿というより、文字通り、神の家(フランス語で、カードの名前がそう書かれています)なのです。

これでは、まだわかりづらいですよね。

もうちょっと補足説明すると、「神の家」を、例えば、「田中さんの家」というふうに、「神」の部分を固有名詞にして比較すれば、言っていることが、わかってくると思います。

上述の、「田中さんの家」と書けば、それは田中さんの住んでいる家、もしくは田中さんの所有する家と思うのが普通です。しかし、これを「田中さんが家」だとすると、まったく変わってくると思います。

そう、「神の家」も「神が家」と言い換えた、いわば反転した言い方をすれば、「家が神」ということになります。

この(神の)家も建物(メゾン・マンション)みたいなイメージが、マルセイユタロットにはありますから、神の家が建ったというような感じであり、しかも、「神が家」という言い方をすれば、まさに、家=神、建物=神の状態なわけですから、神が来た、神になる、に近いのです。

そして、この神とは誰か?です。

もう皆さん、おわかりかと思いますが、この神とは「自分」です。もともと自分の内にあった神性が、長い間の気づきや修行を経て覚醒し、自分が神であることを認識する強烈な変化が起きたのです。

ここで、やっと、最初の話に戻ります。

こうなると、自分が神(これは、おごった言い方ではなく、完全性の悟りや宇宙、大いなるものと一体化することとイメージすればよいでしょう)になることに覚醒したわけですから、その自信は、もはや人間レベルの比ではないことがわかります。

本当の意味での自信、誇りに目覚めたのです。

「悪魔」では、誰かを悪魔(仮託する存在)にして、自信(自身)を承認してもらう必要がありました。あるいは、自分が悪魔となって、つき従う人のエネルギー、状態を感じて(自分に流入させて)、悪魔としての自信を得ていたとも言えます。

それが、「神の家」になると、完全に自立し、もう、悪魔は必要なくなり、自分の神性そのものによって支えることができるようになっています。描かれているような、揺るぎない強固な建物の自信です。(ちなみに破壊されているように見える上部の王冠も、一説では、天からの戴冠と言われます)

そして、悪魔と情で結びついていたとしても、その悪魔からの自立、解放、脱却ができるのです。

日本語は面白いもので、自信、自身、自神と同じ発音をします。ちなみに地震もそうですね。(笑) これらは、深くわかってきますと、すべて「神の家」のカードに、まるで偶然のように、凝縮されているようにも読み取れます。

ところで、「神の家」と数のうえで関連性のあるカードと言えば、「恋人」カードがあげられます。この二枚は、ローマ数字の「6」で共有していることを示しています。

恋人カードでは、人間が相談していたり、迷っていたりするようにも見えますし、上空には異次元的存在ともいえる「天使」「キューピッド(クピド)」がいます。

一方、「神の家」にも、ひっくりかえった人間のような二人がいて、さらに強烈な光が建物に降下していて、これも異次元的な影響が上には感じられます。

どちらにしても、二枚における(普通の)人間と思える人たちは、揺るぎない状態とは、とても思えませんし、自信という観点からしても、それが強くあるようには見えません。

このことから、私たちの通常状態、普通の人である時は、迷うのが当然ともいえ、時に自信も失いますが、別の見方をすれば、自信を持つということは、段階やレベルに応じたものが存在していると考えられることです。

最初から、揺るぎない自信(=自身)を得られるわけではないのです。

しかし、内奥には、神性なる自分神である宇宙的な自信が存在し、言い換えれば、宇宙そのものである自分がいるため、自信がないとかあるとかの問題ではなく、すべてはありのままで安心立命の境地そのものだとも言えるわけです。

そのことを思い出す旅をしているのが、人生なのかもしれません。

どんな人にも悩みや迷いはあり、その度(旅)に、自信を失うことはあるでしょう。

また、悪魔の登場によって、つながれたり、承認されたりする形ではありますが、他人からの影響と学習で、自信をつけていくこともあるでしょう。

様々な状況の中で、私たちは、本当の自信(自身)を構築していくのです。それが「神の家」を目指す作業とも言えます。

頼り・頼られしながらもありだと思います。人は一人では生きて行けません。

あなたが、誰かの自信を回復させたり、得たりするためのサポートやきっかけとなるかもしれませんし、反対に、自分の自信喪失を、誰かに取り戻してもらったり、与えてもらったりすることもあります。

人を助けるのもいいですが、ますば自分を助けて、自らが自信を持つことが、ほかの人の自信を取り戻させる流れとなるでしょう。

そのように、マルセイユタロットは全体像から語っています。


自分と他人 大アルカナの象徴

マルセイユタロットの、特に大アルカナ22枚は、いろいな象徴と元型を表しますので、活用の幅は広いです。

ここで、ひとつの見方として、22人の人間パターンというように考えてみますと、外向きには、ほかの人たち、個人それぞれの性格や職業、特質としてとらえることもできますし、内的には、自らの内にある、別人格と見ることも可能です。

カードを中心(基準)にして、内と外を見る、そうすると、面白いことに気づいてきます。

それは、まるでカードが、あるいは切り替えゲートのように感じられ、結局、内も外も、カードを通してみれば、反転しているだけではないかと考えられるというものです。

タロットカードがあるだけで、内外をつなぎ、その壁を取り払うことができるのです。

性格や人間パターンをテーマとする時、カードは、あなたの中の人間(人格)と、周囲の人、すなわち自分とは違う他人の性格や人格との共通点(パターン)を、見る人に自覚させます。

「私の中のこれは、あの人の中のあれにある」 反対に、「あの人のあれは、私の中のこれにある」 このようなことがカードの象徴を通して、見えてくるわけです。

人は共通点が見つかると、親近感を覚えるものです。

自分と他人は違う存在(人間)であるのは間違いないのですが、それはあるレベルにおいての話です。通常次元と言い換えてもよいでしょう。

しかし、もう少しレベルや次元を上げていけば、違いは少しずつ消え、共通点のほうが目立ってきます。

究極まで行けば、人はみな同じということで、確かに遺伝子構造レベルでは同じ種ですし、もっといえば、生物全部という概念で、すべてのものは根源的なものとして、ひとつの存在に象徴できるでしょう。

面白いもので、人は、思考や感情によって、他人と一緒の統合空間や抽象空間を作り出すことができます。

例えば、愛し合っている者同士の間では、共通点のほうが意識することが多く、それは、二人がともに「同じ」でありたいという気持ちから生み出されているものです。

特に時間と空間を一緒にしたいという思いが出てきているため、三次元の中に別のスポットを作り出しているようなもので、そこでは、まさに“二人の世界”ができあがっており、その意味では、その世界は狭いようでいて、次元やレベル、質が変容しているため、二人という間では、ほかの人よりも共有感が出ているのです。(逆に別れたいペアは、お互いが違うことを意識し、現実の一般時空に戻ろうとします)

愛し合う二人の間では、「あなたは私、私はあなた」という感覚(を求める気持ち)が強くなり、個別・具体・違いとして隔てていた壁は薄くなるか、消えるかしています。(とはいえ、そういうモード状態の時だけの話で、これは、どちらかというと幻想空間に近いですが)

人間関係の問題では、違いや異質性を発見・強調し、指摘することで、反発やこじれがひどくなってきます。

相手を嫌な人、嫌いだと思えば思うほど、自分と相手との違いを見つけようとします。

ところが、タロットカードによる元型パターンに戻して、レベルを上げ、抽象化していくと、違いはむしろ消えていき、同じところが目立つようになります。

たとえ違いを認識しても、それはタロット的に言えば、22の違いでしかないので、逆に個性として認め合うことも可能になります。

ところで、タロットには「世界」というカードがあります。このカードは21という数を持ち、数の順番として見ると、最終局面、到達点のカードともいえます。いわば、完成された「世界」(境地)というわけです。

すると、その「世界」というのは、単独で存在するものではなく、バラエティあってのものということが絵柄からわかります。

究極的には「世界」としてひとつでありながら、多くの個性や違いをもって、有機的に統合されているように見えるもの、それが完成された「世界」だと、このカードは語っているかのようです。

いや、見方によっては、すでに1という最初の数を持つ、「手品師」(ほかのカードでは魔術師・奇術師)の段階で、「世界」と同じ要素があり、それは、もう、最初からいつも「世界」の状態であることが示されているようにも思います。ただ、その表現やレベルの段階が違うのだということです。

人の違いを、自分から排除するために見るのではなく、むしろ助け合いや生き残りのため(生存戦略)に、必要なこととして観点を変えれば、異質点も、世界全体の中のただの一面(しかし完全性の中では必要なピース)としか見えず、こだわり過ぎることもなくなり、排除するものではなく、受け入れるものとして見えてくるでしょう。

内的に見れば、嫌な人の部分の中、異質と感じる人の部分の中に、自分があこがれたり、ほしいと思ったりしている能力が存在している場合もあります。もちろん、バランス的には過剰なものとして(逆の不足もあり)見せられ、気になってしまうということもあるでしょう。

「あの嫌な人のどこかに、自分があこがれたり、ほしいと思うような要素があるのか」と、誰もが思うかもしれませんが、それは個人個人として、具体的に見過ぎているからです。

ここでも書いたように、カードを基本として、パターンや元型として抽象化していけば、個人的人格(その人の表す実際の人間性や性格、考え方・行動様式の意味での人格)から離れ、ひとつの人の型として、データのように見えてくるでしょう。かといって、記号化(単純な機械的な形式で見てしまう方法)してはいけません。

ここで言っているのは、カードによる自他の人格の抽象化のことであり、結局のところ、他人を見て、自分の内的な人格を統合していこうという方法のひとつを述べているのです。(これには相手から見た自分という視線も必要で、都合、自他統合の意味では、ふたつではなく、四重の統合になります)

と言っても、無理矢理嫌いな人を好きになる必要はありません。それはストレスがかかるだけです。

そうではなく、(他)人というものを現実性や具体性から切り離し、純粋な象徴パターンとしてとらえ直すことで、自らの囚われを解放し、見えてくるものがあるということです。

あなたが気になる人、それは好きでも嫌いでも、中立性(何も思わない)を超えて、そう感じるのなら、あなたの中にそれ(その人)を気にかけなければならない何かがあるのです。

それが、マルセイユタロット的にいえば、大アルカナ22のカードの象徴性として見ることができるのです。

なお、このようなケースでの(象徴化を支援するツールの)場合、大アルカナでなければならない理由があります。このことは、またいつかお話することもあると思いますし、講義では説明しております。

とにかく、タロットの活用と応用は、皆さんが思っているより広範囲であり、特に、ある専門知識とか技術を学んでいらっしゃる方にも、別の整理ツールとして有用になると思います。


タロット展開での未来

以前は、タロットリーディングにおける過去の重要性(過去を読むことの大切さ)を何度か強調してきました。

それは、タロットの使い方において、占いではなく、主として心理部分や、自分の思っているストーリー(思い込みや信念)にフォーカスして、リーディングする技法を用いるからです。

そうすることで、現実(具体、事象、実際のこと)と心(自覚している意識と、無自覚な意識の部分)を調整、調和させ、結果的(段階)に霊的(統合的)な成長や発展につなけていくという仕組みがあります。

しかし、私たちの時系列は、過去・現在・未来と、三つの枠でとらえるものです。

本当は、現在、この時の瞬間〃しかないと言われるように、現在がもっともポイントとなるのかもしれませんし、未来という時系列の方向性があり、未来をタロットでリーディングすることの意味も考える必要があるでしょう。

果たして、時系列的に見て、タロット展開での未来パートは、何を示し、どう解釈すればよいのでしょうか?

あくまで「タロット占い」として見れば、それは、今後起こる事象的可能性であると考えますよね。平たくいえば、これから起こること、このまま時間が進めば、どうなるかを示している内容です。

では、占いとしてではなく、そのほかに未来のパートについて、考えられことはあるのでしょうか?

これも、過去の時と同じように、心理的に見ていけば、新たな視点が出てきます。

すなわち、未来に対する(クライアントの)心理、心の内が出ていると見ることができます。

それは、ポジティブなものもあれば、ネガティブなものもあるでしょう。

それをどう判断するのかは、実際の相談場面におけるクライアントの反応、過去や現在のカード内容などからわかることもあれば、タロットの展開方法(規則)に従ったカードの出方によってわかることもあるでしょう。

後者(カード展開規則によるもの)は、例えば、カードの正逆によって、問題かそうでないかを判断するみたいなことです。

いずれにしても、未来に対するイメージを見て、あまりにネガティブに想像していたり、逆に、現在や過去に問題が残っているのに、放置した状態で、ひたすら無理矢理ポジティブにしようとしたりしている状態をバランス調整して、未来を真っ当なイメージに変えていく作業があるのです。

すなわち、これは未来の想像でありつつ、創造に関わるわけです。

ほかにも、考え方によっては、未来のカードが理想や、なりたい状態を示していると見たり、タロットが示唆する未来の対処法や解決策として見たりすることもあります。

さらには、これからの選択肢として、未来のカード(複数出た場合)を想定することもあります。

すると、未来に起こることを予想する「占い」に近いものになるように思われるでしょうが、確かに、タロットリーディングにおいても、そういう未来事象の予測としての部分がまったくないわけではありません。

しかし、違いは、時系列をきっちり分けて読むのではなく、心理的、あるいは無自覚的な意識の層では、時系列の流れは一方向ではなく、同時に存在していたり、逆方向の流れも考えることができる(読む)ということです。

言い方を換えれば、私たちは、心の中では、過去へも未来にも飛べることができ、いつでも三つの時系列の塊が同居しているようなものと言え、その関連性をもってリーディングするのです。

ですから、すべての時系列は(一方向的だけではなく)関係しており、未来を読むことは、現在や過去にも当然つながっていくわけで、その逆もまたあるのです。

パラレルワールド(平行世界観)的に考えれば、未来のカードが示すものは、カードの数、またはカードの象徴性の数だけ存在する可能性として見ることもでき、どの世界のスートリーを選択したいかは、自分・クライアント次第とも言えます。

それでも、タロットが見せる、あなたに提案する、タロット的に言えばよいストーリー(世界)があると考えます。

ほかの言い方をすれば、タロットを象徴として、自分の中にある「いろいろな平行世界」を、タロットとタロットリーダーの協力のもとに、自分が総合的に見て選択するというようなものです。

さらに難しいことを言うと、タロット的によいストーリーというのも、ひとつとは限らず、どのレベルや次元に重きを置くかによって、答えも変わってくるのです。(マルセイユタロットの、ある伝統の場合、どのレベルが今重要かということは、タロットそのものの出方と、細かな象徴の確認によって判明することがあります)

とにかく、少なくとも、「未来は現象・実際としてこうなります」と決めてしまう読みにこだわるのは偏狭だと思います。

そういう読みは、むしろ、人によっては制限や縛りをかけたり、不安や恐れを助長させる結果となってしまい、ある意味、選択可能であった人の運命のレールを、ひとつに決めてしまうことにもなりかねません。

それでも、ネガティブな思い込みや予想に偏りがちな人の思念を切り替えるため、あえて、よいと思われる(そのように出た未来のカードを占い的に読んで)未来予想を告げることで、ネガティブな部分を浄化(変化)させていくこともできる場合があります。

喜び、嬉しさ、ワクワク、ハッピー感は、一瞬で、場や自分(クライアント)の気分・思いを変化させることもあるからです。

ただ、ぬか喜びをさせたり、本当(本質)の問題が未処理のままだったりすると、その喜びもすぐ消えて、また問題意識や不安・恐れが出てきますし、現実に起こることも、自分で創造していくところがありますから、元の木阿弥になることが考えられます。

その面では、占いの未来予測も慎重にしないといけないこともあるかもしれません。

けれども、しっかりした占い師さんの場合は、カウンセラーとしての能力もありますので、怖い未来や、万歳・棚ぼた未来をただ見せるだけには終わらないのが普通でしょう。自分の心理や行動の影響も、ちゃんと言ってくれるはずです。そのうえで運勢的な示唆も与えてくれるものです。

タロット展開の未来パートも、なかなか奥深く、面白いものです。


何が起こるかわからない学びの選択

2月というのは厳寒期で、人の動きも少ない時期と言われています。

しかし、旧暦的に見れば、年が新たに始まり、皆さんが1/1の年賀で目にする「新春」という雰囲気が、すでに出てきている時です。

むしろ新暦の一月、特に中盤から後半は、少し停滞しているようなところもあるかもしれません。それでも、その時期はその時期で、タロットでいえば、「吊るし」のようなもので、次の変化に向かって、準備している時なのかもしれません。

私が2月になって、思い出すのは、マルセイユタロットを初めて習ったのがこの時期だったということです。それも年や日にちまでばかりで、横に並べてみれば、、宇宙的な神秘の数(21+1)、タロットの大アルカナの数の「22」が見えてきて、それと関係しているのは、偶然なのか、はたまた必然なのか、面白い符合(笑)です。

何度かこのブログでも書いたことがありますが、生徒さんから、「どうしてタロットを習ったのですか?」とよく聞かれることがあります。

このどうして?には、「タロットを習ったのはなぜなのか?」という意味と、「どのような経緯で習うことになったのか?」という、いわばその時の状況を知りたいというふたつのニュアンスが込められているのを感じます。

そこには、教えている人のルーツが知りたいという好奇心とともに、実は、自分自身と重ね合わせているところもあるからではないかと想像しています。このタロットを学習してどうなるのか、自分の学びたいという気持ちを、他人と比較してみたいというのもあるでしょう。

ここで、私の「タロット事初め」を語ることはしませんが(探してもらえば、過去記事のどこかにあるでしょう(笑))、タロットを習うということに限らず、もっと一般化しまして、人が何かを学びたい、習いたいという時に起こることを、(タロット学習の契機を事例にして)少し書いてみたいと思います。

今は、学びや学習の機会は至るところに転がっていると言えます。リアルで人から学ぶ場合もあれば、昔は、本で、今はネットで勉強するという人も多いでしょう。

そして、セミナー・講座と称するものは、本当に山のようにたくさんあります。それこそ、心理や内面のこともあれば、成功やお金の投資術など物質的なことを教えるセミナー、昔からある、趣味やカルチャー的なものの講座まで、その種類も数も、今はものすごいことになっていると思います。

ネットのおかげで、わざわざ出かけなくても、自宅で指導を受けながら、手軽に学べるのも普通になってきました。

それほど、たくさんの学び事の種類がある中で、あなたはどうして、ある学びに興味を持ったのでしょうか?

これには、明確な理由がある人ももちろんいます。

会社からこの資格を取るように言われたとか、仕事で必要性があるからとか、人づきあいで、どうしても必要だったとか、もともと趣味で好きだったから・・・など、はっきりした目的と意志があるような場合です。

しかし、反対に、だだなんとなくとか、ネットを検索していたら偶然にとか、人に勧められて・・・とか、最初からそれに特に強い関心を抱いていたわけではないのに、学ぶことになったというケースがあります。

また、最初は「これ」を学びたいと決めていたのに、いろいろと調べているうちに、別のものに興味が出てしまい、それを学ぶことになったということもあるかもしれません。

例えば、タロットで言いますと、最初は皆がよく使っているウェイト版(ライダー版)のタロットを習おうと思っていたのに、いつのまにかマルセイユタロットに興味が出てきて、結局、マルセイユ版を学習することになったというような場合です。

また、タロットの種類をもともと知らずに、偶然、選択した講座で扱っていたのが、今自分が使うようになったタロットだったということもあります。

何が言いたいのかと言いますと、人の学びには、目的意識がきちんとあって学ぶ種類のものと、偶然のような導き、縁によって学ぶようなものがあるということです。しかも、前者でありながら、途中で、後者のように縁を感じて、別のものに切り替わることさえあります。

ということは、学びも、人や場の縁と同じように、自分の意志だけではなく、何らかの別次元の働きかけによって学ぶ場合もあると考えられるわけです。

自分の意志以外のものとなりますと、それは自分の無意識かもしれませんし、他人の影響や、悪く言えば洗脳かもしれず、さらに現実を超越したネットワークや高次存在からのサポート、介入ということも考えられます。

こういうことがあるため、結構、学びの選択に迷うようなことも出てきます。

それは、合理的な思考や論理だけで、学びを選べないこともあるからです。

先述したように、何か偶然で必然のようなこと(縁)、ほかから学べと言われているような気がするというような、シンクロ性とか直感性とか、心の声とか、そういうものが何となく感じられる場合もあるのです。

マンガ・アニメの「攻殻機動隊」ではありませんが、「私のゴーストがささやくのよ」みたいなものです。(笑)

こうした直感や心の声、自分のある気持ちに従って、結果的に学んでよかったという場合もあれば、失敗だったということも、当然あるでしょう。(よき直観性、本当の心の声をとらえたものは、たいていは、あとでも良かったと思えるはずです)

そして、意外にも、合理的・論理的に考え(選択し)ても、その学びの良し悪しは、終わってみないとわからないところもあります。自分の計算の予想外ということも実際にはあるからです。

それから、他人からの学び・学習の選択時に、よく問題となるのは、タイミング(時間)とお金です。

今を逃すともう学べないからと、お金に余裕はないけれども、セミナーや講座に申し込むというパターン、受講するチャンスはまた来るとはわかっていても、今とにかく学びたいから、お金やタイミングうんぬんを超えて申し込むというパターン、単純にお金がないので申し込めないというパターン、お金はあっても開講時期や日程が合わず、見送るパータンなど、いろいろ時間とお金に関係しての話はあります。

どれが自分にとっていいのか悪いのか、受講を決断したり、見送ったりするのはどちらがよい選択なのか、悩ましいところです。

はっきり言えば、これに正解はないと思います。まさにケースバイケース(個人で異なる)と言えましょう。

論理的な一般論としてのものは確かにあるかもしれませんが(費用対効果など)、やってみないと、何が自分に起きるかわからないこともあります。

私の場合でも、タロットを学ぶつもりは、当時全然はありませんでした。何か占い技術は学びたいとは思っていましたが、東洋系の占術のほうにひかれており、タロットはまったく選択肢にはありませんでした。

このようなことですから、私のタロット学習の契機は、計画的でもなければ、合理的でもなく、ただ何か占い関係の技術を身に着けたいと思っていたところと、当時の状況と悩みがあったので、むしろ、頭でじっくり考えている余裕はく、感覚的に選んだといえば聞こえはいいですが、わけわからず、問い合わせに出ていただきました、先生のススメに導かれるまま、あせって申し込んだところもありました。(笑)

とても冷静な判断だったとは言えないわけです。

しかし、面白いもので、こうして、私は今、タロットリーダーやタロット講師をメインにして生活しております。

ただふりかえって、自分のケースで見てみれば、またクライアントや生徒さんのことも見てきて思うのは、いわゆる「流れ」のようなもの、偶然のように見えて必然のようなものが、客観的に感じられることがあるということです。

これは「運命」というのとはちょっと違うのですが、どこかそれにも似ていて、自分の中のある部分が、縁ある選択を拾い上げる、くみ取る、流れに向かわせているという感覚が、客観的(あと)になればわかるところがあるのです。

またそれこそ、現実を超えたとろこからの介入が、自分の自意識の中ではわからない範囲で来ていたということもあるかもしれません。まさに、マルセイユタロットの「恋人」カードに描かれているようなことです。

あと、どんな学びを選択したとしても、それはやはり自分が決めたことなので、結果がどうあれ、自分の責任(自分を責めるという意味ではなく)として、きちんと受け取ることだと思います。

費用と効果・得た知識の乖離とか、教えの内容の問題とか、最初思っていたこととは違うものもあるかもしれませんが、どんな学びにしろ、まったく学びにならないものはないと言えます。

たとえ損しかならなかったと思ったとしても、その苦い経験は学びでもあります。(まあ、なるべくなら、そんな学びはしたくないというのが人情ですが)

それと、もし学びの選択でアドバイスがあるとすれば、今まで頭ガチガチで計算ずくで学びを選んできた人は、たまには非合理、直感で選択してもいいと思います。

反対に、直感や(ライトな)スピリチュアル(それは好き嫌いで選んでいるのが実態のことがあります)感覚で選ぶのが常になっていて、しかも問題が解決していなかったり(セミナー巡回になって、堂々巡りの状態の人とか)、成長した実感(精神や実際に自分の現実が変化した実感)がなかったりするような人は、もっと論理的(現実的)に、お金と時間を有効に使う選択をしたほうがよいかもしれません。

それでも、どんなことが自分にとって変わるきっかけや、一生のよい学び(ライフワーク)、仲間を得るきっかけとなるかわかりませんので、無理し過ぎない程度に、気になるもの、興味のあるものの学習は、どんどんやってみてもいいと思います。

せっかくの人生、いろいろと学び、それを活かして楽しんでみましょう。


精神、霊的な登山

スピリチュアルや精神世界を探求したり、追求したりしていくと、行き着くところは同じような考えになるのではないかと思います。

私も、自分のタロット講座でよく例えとして出しますが、皆さん、同じ山の頂上を目指しているとしても、山の裾野、つまりは登り口・登山道入り口付近では、いろいろな登山ルートがあるわけです。

ある人はルートの王道とも言える道から、またある人は、少し厳しめの道から、ほかの別の人は、時間はかかるけれども、とても緩やかな道から、そして時には、いきなりヘリコプターなどの、歩きではない、反則的(笑)方法で上がってしまう人もいます。

このヘリで頂上に行く人は、非常に特別な人か、普通の人でありながら、一瞬でも頂上の気分を味わいたい(味わう)人です。

前者の特別な人というのは、前世があるかどうか別として、何らかのそのような「現世の自分」だけではない経験や能力も継承していて、ほかの言い方をすれば、パラレルワードの自分になることができたり、その経験をこちらの今の世界に持ち込める人であったり、宇宙人(笑)みたいな人、またはそのような違う特殊の存在からサポートを受けたりしている人であったり・・・と、まあ、そのような特別な方々と言えます。

後者の、普通の人ながら特別経験を一瞬するというのは、例えばドラッグを使って、変性意識になって頂上を見るとか(ドラッグと言っても現代人工薬物的なものだけではなく、自然由来のものを安全に使用する方法も、かつてはありました)、お金と時間があるので、特別な装置とか能力をもった人に頂上世界を見せてもらうとか、特殊な聖域など、意識を変えやすい場所に、実際の行動として何度も自由に訪れることができる人とか、瞑想などによって、偶然、至福体験、一瞥体験を一時的にできた人とか、まあ、そのような感じのタイプです。

しかし、通常は王道を行くか、コツコツとした道を辿って頂上を目指します。(修行者はあえて厳しい道で、最短ルートを目指すこともあります)

山登りには、ガイドがいれば安全なように、やはり、このような道にもガイドは必要かもしれません。

しかし、考えてみてください。

本当の現実の山ならば、そのガイドは、頂上に何度も登っており、山を知り尽くした人になるのが普通です。

ところが、精神や霊的な山登り、ルートにおいては、頂上に行けたというのは、いわゆる完全に悟った人というようなことになるでしょうから、いわば、ブッダやキリストのような人が、ガイドにならなくてはなりません。

今現実にいる人で、さもガイド然としてふるまっている人は、本当に頂上に行ったことがあるのでしょうか?

さきほど述べたように、その感覚は一瞬とか短時間は持続したことがあるかもしれませんが、今の現実の人で、頂上に住みながら、衆生の救済のために、あえて下界に降りてきたという感じの人はいないようにも思います。

頂上への教えをしている人も、もしかすると、五合目とか七合目とかは、経験した人なのかもしれませんが、完全なる頂上世界となると、話は別でしょう。

それでは、誰も現実の人では、ガイドになることができないのかと言えば、そうでもあると言えますし、そうでもないとも言えます。

マルセイユタロットの(絵図の)教えでは、ある程度の山登りが進むと、そこからは、目に見えない現実世界の人とは異なるガイドに引き継がれると語られています。

途中までは、いわゆる先達と呼ばれる先生や師匠が、現実の人で確かに存在し、導いてくれるでしょう。自分の選択した登山口(それが技術や方法、思想などになります)の先輩、現実の指導者はいるわけです。

まあ、先輩にもいろいろあって、途中で脱落、下山した人もいるでしょうし、遭難したままの人、違う道のほうがよかったと途中で気づいて、やり直している人、いつのまにか違うルートに入っていても、結局は登っていることになっている人など、様々です。

中には、道半ばで、今生の命もつき、それまでのことを記録としてまとめて、後から来た人に託したり、秘密の場所に置いたりしている先輩もいるかもしれません。

昔はルートごとに厳密に分かれていて、そこの登山方法やコツ、注意書きなども、厳重にそのルートを登ると決めた人にしか明かせなかったのですが(登山の入り口のチェックも厳しいものでした)、現在は、ルートの統合と言いますか、地図の編纂も進み、ネットで公開されているような感じで、結構、入り口や途中までは自由度が増した気がしますし、ルートが異なっていても、登山の方法・情報そのものは、共有されてきたところもあるように思います。

これは、宇宙の進化の意志とも言えますし、私たち全体の意識の変化ということもあるでしょう。

ガイドの話に戻りますが、このようにして見ると、霊的な道のガイドは、途中までは人間であってもよいように思いますし、そこから上の、未知なるところは、おそらく昔も今も、自分専用に近い霊的なガイドが現れ、導いてくれることになるのでしょう。

霊的なガイドですから、人の姿をしているとは限りません、古代の象徴ではむしろ動物型が多く、マルセイユタロットでは「」として表現されています。(人や天使姿の場合も、タロットには描かれています)

しかし、結局、よく言われているのは、霊的ガイドも、自分の高次の姿、存在だということです。

頂上に近づけば近づくほど、具体性や個別性が薄くなり、自他の区別とか、いろいろなものがあいまいになってくると想像されます。ゆえに、霊的ガイドも、別存在のようでいて、(レベルの違う)自分でもあるというような状態が普通になるのだと考えられます。多層の共有とでも言いましょうか。

すると、自分のガイドは、時空も超えて、同時にある(別の)人のガイドでもあり、過去や未来、別宇宙の自分存在の可能性もあることも考えられるわけです。

山登りで例えれば、頂上近くになると、登って来た人を、一斉に面倒見てくれるガイドさん、お世話役がいるようなものです。

なぜなら、頂上に近ければ近いほど、もはやルートは関係なくなるからです。

実際の世界の登山を想像してみてください。頂上がもうすぐそこという段階では、見渡せば、別ルートから登ってきた人も見えているはずで、そうなると、世界はひとつに近く(全員が見渡せる範囲)、これまでは(ルートも)違っていたとしても、あとは皆、同じルートで登るようなこともあるでしょう。

つまりは、上に行けば行くほど、世界観は共通したものなり、皆同じ、ひとつという概念が自然になってくるわけです。同時に、個性や、やり方は、違いが薄くなり、個々のこだわりの世界ではなくなるのです。

ということは、逆を言えば、個々のこだわりが強いと、そういう世界(頂上世界)には相容いれないことになります。

古来からの教え、マルセイユタロットの示唆からも、本当は、この現実世界(下界)にいても、どの人も頂上にすでにいるのですが、それが幻想のようにごまかされていて(意識が気づていない状態)、私たちは、ゲームのような下界・現実世界で、いろいろな体験をしているように思い込んでいると言われます。

ですから、頂上にいるという意識が回復できれば(これは分離していない、ゼロポイント、大元の状態ともいえます)、本来の自分になるのですが、その時点で、個という観念が消えるであろうと想像できるため、現実を普通に現実と認識する段階では、またすぐ、人としての意識に戻るのだとも考えられます。

このあたりは、統合や霊的成長、悟りを目指すことでは矛盾の話であり、難しいところではあります。

しかし、現実感覚を持ちながら、頂上意識そのものではなくとも、頂上の完全性と、かなりの程度シンクロ(同調)させることで、心身や肉体の調整と、意識の大きな調和的変換が可能になるものとも想像できます。

現実認識を保ったまま、「ありのままと言われる状態」のものは、頂上とのつながり(交信・アクセス)が常に途切れず、山を登るというより、登山・下山、トレッキング、その他もろもろの、いろいろな方法で下界と山の両方楽しめることができる状態とも考えられます。

そうすると、これも矛盾的な話になるのですが、現実(下界)を安寧にするためには、頂上に意識は向いていたほうがよいということになります。(頂上を意識し過ぎると、現実からの逃避的願望になって、問題となりそうなのが矛盾的なところです。変な言い方ですが、現実に集中せず、しかし現実をリアルに楽しむという感じでしょうか)

矛盾することが統合できるのが、禅的にいえば、「悟」や「解」ということになるでしょうから、矛盾や葛藤をどうとらえるか、それは苦しみよりも、楽しみとして与えられた質問だと、あせらず解いていくとよいと思います。

それが、すなわち、登山していることになるのだとも言えるからです。


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