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タロットと神の内在、神の外在

タロットで「神」という概念をどうとらえるか?

これは、なかなか難しいテーマだと思います。

私の扱うマルセイユタロットでも、そもそもマルセイユタロットもヨーロッパの産物ですから、基本的にその文化圏において「神」といえば、イエス・キリスト、あるイエスの伝える父なる神ということになるでしょう。

マルセイユタロットが形成されてきた時代で言っても、おおむねキリスト教カトリックの信仰する「神」の影響が、タロットにあるのも当然と言えます。

しかしながら、キリスト教と言っても、まったく同じ教義とは限りません。ローマ時代に国教化されて、やがてカトリック的な教えがノーマルになって行ったとしても、以前は、イエスを神ではなく、人間と見ていた教えもありますし、その中間的な立場におくものもありました。

さらには、今ではオカルト的に扱われている節もありますが、イエスの教えには秘儀的なものがあり、表に現れているキリスト教とはかなり違う、いわば、グノーシス的な教えが込められていたという話も伝わっています。

実際、中世の頃、東欧から南仏にかけて、異端派のキリスト教が流行った時代があり、例えばカタリ派と呼ばれる宗派も、善悪二元論的なものではありますが、グノーシス的(もっというと、古いペルシアや東方の宗教に近いよう)な雰囲気があったように感じられます。

グノーシス主義は、カトリック的な教えと反するもので、どちらかと言うと神は内在的なものであり、自己のうちに隠されてしまった神性・完全性を「神」として表しているところがあります。

一方、キリストは教に限らず、ほとんどの一神教的な宗教は、神を外側に置き、私たちや、この世界を創った偉大な創造神ということになっています。

厳密には外側(に存在する)というものではないとは思うのですが、布教のために、いつしか外在的に神を置く(人格神のような存在にする)ことで、人々にイメージしやすいよう変化していったのではないかと考えられます。

個人的には、グノーシス的な教え(の神)も、それと対立する外在的に神を置く宗教も、本当は根本的には同じものであったのではないかと見ているところがあります。

先述したように、宗教化した場合、信徒に神を理解してもらうことと、信仰者を増やす必要があるので、次第に神を、内より外側に置くようにされてきたのでしょう。

今、霊的な分野が「スピリチュアル」と言われて、ライトなものからヘビーなものまで、様々な種類に分かれて、宗教の域を超えて多くの人に語られるような時代になりました。

そして、共通しているのは、そういったスピリチュアリストたちの語るものの多くは、神の内在性です。

ですから、グノーシスにも近いですし、かなり昔の、大元の感覚に戻ってきている(戻るというより、一部は進化していると見ていいと思いますが)ように思います。

ですが、神の内在性という理論と感覚は、ともに難しいものです。従って、現代の霊性(スピリチュアル)を高めようとする人、そうした方向性を目指そうという人でも、いきなりの(神の)内在的認識は困難があるかもしれません。

宗教的には偶像崇拝が禁止されているものも結構ありますが、一方で、禁止されていても、実質は偶像(神の像)を作って、信仰している人たちもいます。

そのほうが、人間的に、神のイメージがしやすいからでしょう。

これと同様に、神の内在性(自身における神性の認識)をストレートに見出していくより、最初は神をあえて外在性に置く方法を採用し、例えば像や絵、モノ、仕掛け(舞台装置)などを、(自己の)神のイメージ喚起ツールとして使っていくのもありではないかと考えます。

祭壇、仏壇、神棚というものも、一種の神(神性)の認識のための仕掛けと言えましょう。

実はタロットにおいてもそれは言えて神性認識のために絵のカードを使うわけです。おそらくマルセイユタロットの役割のひとつに、これがあると私は見ています。大アルカナがまずはわかりやすいツールでしょう。

どのカードにも、神性の表現がありますが、特に、「神」という言葉が出て来る16「神の家」というカードは、神性や自分にとっての神というものを考える(感じる)のには重要だと思われます。

またいずれ、「神の家」については書きたいとも考えていますが、大事なのは、マルセイユタロットの大アルカナナンバー16の絵柄でなければならないということです。

例えばウェイト版だと、名前も「塔」になり、その絵柄からは、恐怖しか感じさせません。

聖書的にはバベルの塔の話のモチーフと関係していると言われる16のカードですが、たとえ崩れるにしても、何が象徴的に崩されるのかということがわかっていないと、ただ絵だけに引っ張られ、誤解を与えしてしまうのです。

この点、マルセイユタロットの場合、塔は崩れておらず、多少の破壊的イメージはあっても、崩壊するような絵ではなく、むしろレンガなど、しっかり積みあがって行くことも感じられます。(破壊的でありながらも、実はかなり創造期・生産的・着実でもある)

「神の家」の検証には、ナンバー的には前後のカード、「悪魔」と「星」と比較するのが効果的です。特に、「悪魔」との対比は、神と悪魔という名前だけからしても、非常に意味深いと言えます。

ただ、「悪魔」も、マルセイユタロットの場合、一般的な悪いもののイメージで悪魔をとらえていては、それこそ「悪魔」の罠に陥ります。

高次になればなるほど、善悪の概念(観念といったほうがいいかもしれませんが)は、普通の人間には理解しがたいものとなっていくからです。

その点で言えば、マルセイユタロットにおける「神の家」と「悪魔」は、非常に高次の善悪だと表現してもよいでしよう。

そして、ここが肝心なのですが、高次でも低次(通常の人間状態)に入り込んでいて、言ってみれば、普通の生活においても、神の家とか悪魔を意識することは可能だということです。

もっと簡単で宗教的な言い方をあえてすれば、神の御心にかなう生き方と悪魔を退ける(負けない)生き方として表されます。

それは一見、低いレベルの善悪のようではあるのですが、高次の善悪のエネルギー(影響)を受けているものであり、それが自覚できた時、自身のうちに本当の(神の)力が宿ることになると思えます。

これは神の内在の自覚であり、外在的な神の感覚では、神がおられること(神の恩寵)の実感でしょうか。

とにかく、神の内在(の理解)にも外在的なモノを介してのルートがあり、それはマルセイユタロットを使うという方法にもあるという話でした。


他人向けリーディングが自分用になる

今日はちょっと、プロタロットリーダー向けの話になるかもしれません。少なくとも、他人に対して、マルセイユタロットを使ってリーディングした経験がある人でないとわかりづらいでしょう。

と言っても、プロタロット占い師向けということではありません。何度もここで言っているように、私自身は、占いを教えていませんし(ただし、占いを否定しているわけでもありません)、タロット活用は占いがメインとは考えていませんので、あくまでも私が考える「タロットリーダー」においての話だと思ってください。

タロットリーディングには、大きく分けて、他人(相談者・クライアント)に対してタロットを展開し、リーディングしていくものと、自分に対してタロットを使い、読んでいくものとのふたつがあると言えます。

簡単に言えば、他人向け、自分向けというリーディングのスタイルです。

しかし、これは私の経験上と、実践されている生徒さんたちの気づきからも言えることですが、他人向けにタロットリーディングをしているのに、まるで自分のことを言っている(自分のことが言われている)ように感じる場合があるのです。

割と初期から、私自身は、他人をリーディングした際に、あとで、じっくりその展開と内容を、自分にも当てはめて検証してみるということをやっておりました。

すると、ことごとく、自分にもあてはまる内容であったことに衝撃を受けました。

とはいえ、まったくそのまま当てはまるというものではありません。これにはタロットにおける象徴機能を理解し、活用する必要があります。

例えば、タロット展開は同じでも、別の意味で読むことができるというのも、それに該当するでしょう。

重要なのは、クライアントの質問とか、自分の問題・問いというよりも、まずはタロット展開なのです。(展開されたタロットカード、その内容)

私はカモワン版から学んだ口ですので、展開法もカモワン流をベースにしています。すると、通常、カモワン流は、相手・クライアントがいた場合、クライアントを中心としてタロットを展開しますので、タロットリーダー側は逆向きに並べられたタロットを見ることになります。(クライアント側がタロットの正立・逆向き、展開視点の主ということ)

ですから、他人をリーディングしている時は、タロットの向きにおいても、タロットリーダーは相手(クライアントとその質問)にフォーカスしてリーディングします。そもそも、相手に集中するのは、他人向けリーディングとしては当たり前のことですが。

ところが、その展開されている(出ている)タロットカードを、改めて自分(タロットリーダー)向きに変えて並べてみると、今度はまさに自分のことが表されているように見えてくるのです。

さらには、通常時、反対の視点であるタロットたちでさえ、反対(の視点)なりの意味が、自分(タロットリーダー)にあることも、気づくケースがあります。

結局、たとえ他人向けであっても、タロットカードは、両者(クライアント・タロットリーダー)に関する何らかの示唆を表すのではないかと考えられるわけです。

内容はリーダー側の焦点によって変わり、通常は、もちろん他人・クライアントに関してのもの(クライアントに意味あること)として、展開されたカードたちを読むのですが、これを自分自身・タロットリーダーに関係することだと見た場合は、まさにリーダーへの象徴としてカードたちが意味をもってくるという仕組みです。

あえて悪い言い方をすれば、どんな展開だろうが、どんなカードだろうが、自分に関係すると思えばそう見え、相手に関係すると思えば、相手のものとして見えてくるのかもしれません。

それではカードを引く意味もないだろうとなりますし、ひろゆきさんではないですが、単に「それって、あなたの感想ですよね?」「あなたの思い込みの世界ですよね?」(笑)となります。

これを否定することも難しいです。(苦笑) なぜなら、タロット(リーディング)はほぼ主観の世界だからです。

とはいえ、検証を繰り返してきて思うのは、主観を超えた客観的とも言える、カードの出方があるのも確かです。それも主観と言ってしまえばそれまでですが。

カードは全部で78枚、大アルカナだけでも22枚ありますが、その中で、わざわざなぜこのカードが出るのかと言った驚きは、一度や二度ではないのです。

他人向けの場合はもちろん、今説明している、他人向けなのに自分として見た場合も、そういうケースが多々あるのです。

他人が引いたカードなのに自分にとって意味があると見える、またその逆もあるのがタロットの世界です。

自分が引いて、自分に関係しているのなら、それは当たり前とも言えますが、他人が引いたのに自分に関係している、ということも普通にあるわけです。偶然や思い込みとも言い難い、カードの意思のような出方があるのです。

あくまで、カードを出方に人間の意識や思念が関わっていると考えた場合、他人であっても自分と(意識やデータが)つながっていると見ることができ、それならば、誰が引いても自分に関係するようなカードが出る理由も、わかる気がします。

それが正しいかどうかもわかりません。

ただ、タロットリーディングという、儀式であり、ゲームとも言える、ある設定の場において、質問する者と質問される者、カードを引く者とカードを読む者など、両者の関係性は、一時融合する瞬間があり、それによって、カードは両者に関連する内容で引かれる(出る)と想像できます。

この性質を利用すると、自分リーディングは、他人リーディングをしている時でも、あるいは、そのあとでも可能になります。

また、次のようなやり方もあります。

それは、自分一人で自分をリーディングする場合、あえて想像上の他者を置いて引くという方法です。

自分をクライアントとして想定し、他人向けの形式でタロットを展開し、リーディングするのです。これによって客観性も出ますし、他人向けとして集中して引いたものを(それは自分に対してのものではありますが)、あとで冷静に振り返って読むことができます。

もっと客観性を持たす方法としては、自分の問題ではなく、まったくの他人をイメージし、その人に何か問いがあると仮定して作り出し、その設定でタロットを引いてみるということもできます。

自分一人であっても、イメージ上は他人で、問題(問い)もその他人のものですから、自分とは関わりがないように思え、主観過ぎること(気持ちが入る過ぎること)から逃れられます

ですが、これまで説明してきたように、他人向けで他人の質問として展開したタロットであっても、タロットリーダーとして関わっている限り、タロットリーダー用に意味があるものと解釈することも可能なのです。

ですから、この場合、相手は架空であっても、タロットリーダーは自分であるので、その展開で出たタロットは、自分のこととして読むこともできるのです。

ほかにも、他人向けに展開されたタロットたちが、タロットリーダーに向けて、あるメッセージを示している(タロットリーダー自身へというより、あくまでタロットリーダーという役割において)という読みと解釈もあるのですが、これは実践してきた人でないとわからないので、ここでは説明しません。

とにかく、タロットの象徴機能というのはとても多岐にわたり、多重次元に関わるものだと実感します。

逆に言えば、私たちを今の次元認識から脱却させるためのツールとして働きかけがあるのが、タロット(マルセイユタロット)なのかもしれません。


自分を癒すには他者が必要な世界

私たちが現実の世界と認識しているこの世の中では、個人個人、違うパーソナリティを持っています。

平たく言えば、誰一人まったく同じ人物はいないということです。ですが、人間としては皆同じです。

マルセイユタロットをやっていて気付いたことでもありますが、ここ(個としては別でありつつ、全体として共通)が考察のうえでも、実践(実際・行動)においても重要なことだと思います。

人として共通、同じではあるが、皆それぞれで違うということ、このことは、言い換えれば、たくさんの層やレベルがあり、究極的には、一人一人の世界と、ひとつの同じ世界が同居していると表現できます。

ケーキで例えれば、ミルフィーユとしての層がありつつ、全体してミルフィーユというケーキになっているというものです。(笑)

何を大切にするかの価値観は個人で異なるわけで、それがために、何が成功で幸せなのか、よい状態なのか、反対に、何が失敗、不幸、悪なのかという個人の観念も人により様々です。

しかし、最初にも述べたように、人としては同じであるので、何か全員の共通の価値(基準)というのもあるのでしょう。

それはシンプルなようでいて、高いレベルにあるため、考えようとすると複雑なものになると感じます。

宗教的に言えば「神の教え」「神の裁き」「神が定めたこと」となるわけでしょうが、やっかいなのは、それを人間レベルに落として、遵守しなければバチが当たるとか、よからぬ結果になるとか、もっとひどいのは、人ではなくなる(だから殺してもよい)という、次元の低い、支配・牢獄ルールのようなものに使われてしまうことでしょう。

万人に共通のルールというのは、通常でははかり知ることが難しいレベルの宇宙法則のようなもので、たとえあったとしても、なかなか言葉とか人間レベルの善悪では語れないもののはずです。

逆に言いますと、個人レベルになればなるほど語りやすく、具体的なルールになってきて、はっきりとした線引きが現れ、個人としては厳格なものになっていると言えます。

ところが、意外に、個人ルールは本人自身がわかっていないことがあり、逆に他人だとよく見えることがあります。

それは、一人一人価値観が異なるからで、自分と違う価値観や考えをもっている人は、それだけ目立つ(わかる)わけで、だからこそ、ある意味、他人のほうが自分(の価値観・特徴)を知っていると言えるのです。

これを適用していくと、よく自分と向き合うとか、自分を知りましょうとか言われますが、案外、自分で自分を知ることは難しいはずで、自分を知るには他人の助けがあったほうがわかりやすいことになります。

これと同様、自分を癒したり、治したりしていくことにおいても、自分だけではどうしようもない(他人の力を借りる)ことがあります。

いや、スピリチュアル的には、おそらく自分がすべてを起こし、修復・回復させることをしているはずなのですが、それは魂とか高次(全体につながる)部分のことで、個別世界の次元(つまり通常世界・現実)になると、やはり自分と他者(他者は一人だけではなく、たくさん、many)という関係性の世界で、問題発生も解決も行われるという実状があると考えられます。

タロットリーディングにおいても、個人の技量はもとより、個人のレベル、特徴がそれぞれあって、いわば一人一人違います。それはたとえ同じタロットとか技法を使っていても、です。

しかも、クライアントに対して、アプローチする層とか部分が、一人一人、タロットリーダーによって異なるということもわかってきました。(それはタロット種とかタロット技術の違いにも言えます)

例えば、同じ悩みや問題をリーディングしたとしても、Aさんの読み方とBさんの読み方では違う部分があり、問題への光の当て方も、角度とか深さとか、タロットリーダーそれぞれで特徴があるわけです。

結果的に同じ部分が指摘できたとしても、そのプロセスとかアプローチは異なることが多いように思います。

ただ、同じタロットで、同じ技術を使っている場合は、ある種の共通ルールがあるので、似たような経緯をたどることが多いです。それでも個人個人の違いはあります。

ところで世の中にヒーラーの方も、たくさんいらっしゃいますが、そうしたヒーラーさんも、ヒーリング技術の違いは当然として、やはり個性としての光の当て方と言いますか、中心に治療していく層の違いがあるように思います。

受けるほうも個性がありますからも、それが双方相まって、いわゆる相性としての効力の違いが発揮されることもあるでしょう。

あるヒーラーさんの中心となるヒーリングの層が、その時の当人(クライアント)にとってはあまり重要ではない、あるいはピントがずれているなどのことがあれば、効果はあまりなかったとなるかしもれませんし、その逆に、ヒーラーさんの得意な中心層が、クライアントにとってはどんぴしゃりであったならば、極めて高い効果を実感することになるでしょう。

だからと言って、相性が大切というわけでもないのです。

たとえ層がずれていたとしても、どこかに効果があるわけで、例えばクライアントの問題のコアの部分があったとして、そこに光が直接当てられなかったとしても、コアに何らかの形で影響し、コア周囲を揺るがしたことにはなっているでしょう。

そうして、当たりが何人かなかったとしても、次第にコアは崩れやすくなっていき、または、コアへの通り道ができやすくなって、そのうちコアに到達する時がやってくる(それは、自分だけの力で可能になることもあるかもしれません)と想像します。

つまり、このような仕組みが、個性(個人個人違いの)ある世界のものなのです。

ですが、たぶん全員に共通している高度なルールというのは、最終的には「自力である」ということでしょう。

他者依存ばかりでは、何事も本当の意味では解決(成長)しないということです。また、同時に、すべて自己責任、自己のみでの解決も、この現実世界では、すでに説明したように、個性がある世界のため、難しいわけです。

結局、全体性への理解には、個の理解が基礎であり、それは自分だけではなく他者理解(つまりは相互理解)も含まれる構造になっているようてす。

相互理解のためには、自分と他者を見ている、高次のもうひとつの視点、第三の視点が重要です。これが誰しも備わっているから、私たちは、自分と他者を区別することも可能だと言えます。

ということは、私たちは、現実の世界(自他の違いの世界)にいるようで、実はいないのです。もうひとつの上の次元の、おそらく他者と自分が統合されているような次元に、主体(と客体)があるのでしょう。

例えばそれは、マルセイユタロットで言えば「月」や「太陽」を見ていると感じます。

思えば、マルセイユタロットも、そのような意識の浮上のために、意図されて描かれているのかもしれません。


同じ質問で何回もカードを引くこと。

タロットリーディングとか、タロット占いでは、同じ質問で(何度も)カードを引いてはならないというの暗黙のルールがあります。

これはタロットに限らず、特に占いの易の世界だと厳しいと聞きます。

それはなぜなのか、実はいくつかの理由があるのですが、もっとも当たり前で単純なこと(笑)を、事例をもってお話しましょう。

端的に言えば、同じ質問で何回もカードを引くと、答えがどんどんわかりづらくなるからです。

実例を示しましょう。

一人の女性が以下の質問について、マルセイユタロットを一枚引きして解釈しようとしているというシーンです。

※ここはタロットリーディングというより、あえて占い的な質問でやってみます。

問い 「あの人は私のことをどう思っているのでしょうか?」(恋愛系)

最初に出たカード

「力」

(引いた当事者の感想)

うーん、わかりづらいなあ。私がこの力の女性なのか、相手のことなのか。でもライオンが私にも相手にも見えるし、どっちなんだろう。ライオンだったら私が彼に委ねたい気持ち? いや、私が相手任せなのかな? まあ、なんか力強いカードだから、相手がどう思っていようと強気で押せば何とかなりそうかも? でもちょっとよくわからないから、もう一回やってみよう。

二回目に出たカード

「手品師」

(引いた当事者の感想)

あ、これは男性のカードだから、相手のことかな。確か仕事を意味するカードだし、どうも恋愛感情というより、単に仕事関係の仲間、つきあいという感じで私のことを思っているような… でも前は「力」のカードが出たし、女性である私が押し切れば何とかなる? それともまずは職場で仲良くなるべき? いったいどうしたらいいんだろう。相手の気持ちもまだわかりづらい…えーい、もう一回引いてみようっと。

三回目に出たカード

「力」逆位置

(引いた当事者の感想)

えっ、また「力」、しかも今度は逆位置。いったいどういうこと? やっぱり失敗する関係なの? どうも逆に弱気になってきた。二回も「力」が出たから何かシンクロはあるのかもしれないけど、今回は逆位置だし、余計わからなくなった。「力」とライオンはひとつみたいだから、気持ちは通じ合いそうだけど、逆位置だから、反対に気持ちは離れているということ? もう何が何だかわからない…

以上のように、確実に解釈が混乱していくわけです。(苦笑)

同じことですが、ほかの質問でもやってみましょう。今度は当事者は男性で、転職に関してのことです。

 

問い 転職したいが可能か? 

最初に出たカード

「節制」

(引いた当事者の感想)

強引にやらなければ、何とか行けそうな感じ。救いの手もありそう。では、少しずつ転職の準備をするか。念のため、もう一回やっておこう。

二回目に出たカード

「吊るし」

(引いた当事者の感想)

「吊るし」かぁ。このカードの感じだと、むしろ転職は止めて置いたほうがよいような気もするな。じっとしている図像だしな。いや、逆さというスタイルも気になるぞ。今の職場は苦しいから、逆に考えて、ここから抜けたほうがいいと言っているのか?なんかわからなくなってきたぞ。さて困った…

 

やはりこの人も、複数回引いてしまったせいで、わかりづらくなったようですね。(苦笑)

 

イエス・ノー的なことも含めて、何度も同じ質問でやってしまうと、最初は肯定的だと思ったものが、次には否定的なカードが出たりと、その逆もあったりで、とにかく何回も同じ質問で繰り返し引くと、何をタロットが示唆しているのかがわからなくなるのが普通です。

まったく同じカード(正逆も含めて)が出たり、似たようなことが読み取れるカードが続けて出れば、むしろ共時性という感覚で、意味をつかみやいかもしれないのですが、そういうケースは(同じ質問を繰り返すパターンでは)実は少ないです。

では、質問の言葉を変えて行えばよいのか?ということですが、あなたが聞きたいことは、結局、本質的には同じなので、言葉を変えたところで、結果(解釈)の混乱は目に見えています。

また、セルフリーディングとか自分で占う場合にはよくあることですが、最初から期待するカードとか結果があって、それを引き寄せたいために引き、しかしそれが出なかった場合に、またカードを引いてしまうというケースがあります。要は、期待した結果になるカードが出るまで引くというやつです。

これは本末転倒で、自分の意思が現実に及ぶ力を試すにはよいかもしれませんが、偶然性から必然や意味を汲むというタロット占い、タロットリーディングとは別ものになっています。

まるで、おみくじで凶を引いてしまったので、気分が悪いから吉とか大吉が出るまでやってみるみたいなものと言えましょう。

個人的には、仮に同じ質問で何度もカードを引いたとしても、どのカードの結果も、大局的(高度)に見た場合、意味があると考えますが、解釈的には非常に困りますし、先述の事例のように混乱するのがオチです。

やはり一期一会的な気持ちで、最初に出たカード(たち)が表してくれているのだと思って、敬意をもって見ていくのが、タロットリーダー側の態度としてはよいかと思います。

※ここで言っているのは、一番わかりやすい理由の、カードが異なって出てしまうことにより混乱する事例を示していますが、ある条件下では、同じ質問で何回かカード引くことが悪いわけではない技術もあります。そして、禁忌の理由には混乱以外のこともありますし、この問題は単純なものでは実はないところがあります。


カードの読み、能動・受動、立場の違い

タロットカードの読み方(解釈の仕方)には、だいたい、核となる意味があって、そこから派生したものを想像するというパターンが多いです。

それは基本的には正しいと考えられ、カードには、その象徴性の元となるものがあり、それは言葉では本当は言い表せないものではありますが、あえて抽出すれば、上記の「核」となる意味に近いものと言えます。

ですから、その象徴の大元をつかんで、そこから関係(派生)する、いろいろな意味を見出すことは、手順としてはよい方法なわけです。

一番まずいのは、ただ単語としてカードの意味を無理矢理覚えるようなやり方です。

カードの象徴性を把握しないまま、機械的に、「このカードはこういう意味」と暗記するのは、タロットがシンボリズム(象徴機能)とそのシステムで構成されていることを無視するようなもので、タロットを本当の意味で活かすことができないでしょう。

ところで、カード一枚一枚には、さきほど述べたように、根本の象徴(性)があるわけですが、これが「象徴」であるがために、実は一見正反対だったり、対立したりするかのような意味合いを見出すケースがあります。

言葉にすると矛盾したり、正反対だったりしても、象徴することの本質では同じであるということに気がつかないと、なかなか理解が難しいかもしれません。

例えば、マルセイユタロットの「運命の輪」というカードは、今すぐやってみると読む場合と、しばらく待っておくというような、反対の意味合いで見ることがあります。

これは、「運命の輪」が回転するものという本質を考えれば、そこから時間やタイミングという象徴性が表出され、「タイミングを合わす」ことを主眼で考えれば、現時点でのゴーもストップもあり得ることになります。

それは「チャンスをつかむ」と言い換えてもよく、時期の早い遅いの問題ではなく、そのチャンスに自分をいかに合わせるかということがテーマになっていると考えれば、まさにタイミング(時間合わせ)の問題(課題)であるとわかります。

※(もっとも、個人的には、チャンスをつかむことがこのカード「運命の輪」の本質ではないと考えており、本当はもっと別のことにあると講義では説明しているのですが、今回は記事の内容に沿わすために、あえてわかりやす説明で一般化してお伝えしています)

というわけで、カードの読みによっては、正反対みたいな意味(言葉)も出ることがあるわけですが、もうひとつ、能動と受動(送り手・受け手)というエネルギー・動きとしての正反対の読みが、それぞれあることもふれておきましょう。

マルセイユタロットの場合、これは大アルカナも小アルカナも、すべて言えることだと思います。一枚一枚、能動的な読みと受動的な読みの両方が考えられるというわけです。

例をあげましょう。

12の「吊るし」のカード。

このカードは受動性が印象的に強いカードです。マルセイユタロットではない別のタロットでは、おそらく“吊るされた”とかの、明らかに受動的、もっと言うと犠牲的な意味合いでとらえられることが多いと思います。

しかしマルセイユタロットの「吊るし」では、名前からして「吊るし」としているように、実は自らが好んでこの吊りの姿勢をしていると考えます。表情的にも吊らされている苦しさというより、笑みを浮かべているかのような余裕を感じさせます。

ということは、変な言い方になりますが、能動的・積極的に吊っているわけで、逆さの姿勢をあえて取ること、または動きを停止することで、なされる(なすべき)ことがあるという解釈も成立します。

このような、カードそのものの能動・受動の反転した見方ができる場合もあれば、カードの図像に描かれているものを見て、どの立場に自分(タロットを読む人、タロットに相談する人)を置くかによって、能動・受動が変わるケースもあります。

例えば5の「法皇」では、メインは何か説教や話をしている法皇に見えますが、一方で、下の方には、その法皇の話を聞きに来ている聴衆が描かれています。

自分が法皇の立場なのか、あるいは聴衆の立場なのかによって、話をする側の能動と、話を聞く側の受動というように分かれるわけです。

ほかにも、20「審判」というカードでは、一般的には覚醒とか復活とか、中央下の、起き上がっている人物を中心に解釈されることが多いのですが、目立つのは、むしろ、ラッパを吹く天使であり、この天使の立場になれば、まさに起床ラッパのように、ラッパを吹いて人物を起こすという感じになります。

とすると、中央の人物は、天使から起こされていることになって、受動的になります。

もっとも、別の見方では、人物が起き上がることによって、天使がそのことを祝福してラッパ鳴らす(おめでとうみたいな演奏)ということも想像できますので、その解釈では、天使側も受動性を持つ(中央の人物の行動に反応した)ことになります。

※余談ですが、「審判」は、見た目、人間と天使という図像なので、人間である私たちは、自分(たち)を「審判」の人間側として見てしまうことがノーマルになり、あまり天使側を自分として読むことが少ないです。しかし、時には天使側になって、自分や誰かを起こすことが必要と解釈することができ、目覚めを待っている人が身近にいる(あるいは自分自身の)可能性があるのです。

いずれにしても、カードの図像の人物なり、動物や物事なりを、どう当てはめるかによって、読み方も変わって来るということなのです。

これが一枚だけのことではなく、複数枚以上でも成り立ちます。例えば三枚引きをしたとしましょう。

たまたま今三枚を引くと、「13」「斎王」「愚者」と出ました。

「13」の鎌を持つ者を自分とするか、あるい切られている首とか骨が自分と関係していると見るか、そして「斎王」は、斎王自身が自分としても、学びを自らが行っているのか、外からのものを受け入れて、学習されられているのか、さらには、「愚者」は、愚者が自分なのか、ついて行こうとしている犬が自分なのか、また同じ犬でも、愚者にすがっているのか、止めているのか、喜んで同行しようとしているのか、色々と立場や姿勢の変換によって、解釈が多様にできます。

それを活かして、この三枚のリーディングを事例的にすると、『解雇の危機を受け入れる自分は、すでに新たな資格の勉強をしたり、様々な情報の取得をしたりしており、そのおかげで、転職への希望か出ているし、身に着けたことは「犬」として、自分の新たな旅立ちを後押ししている』というものが一例としてできます。

大アルカナを中心として見ましたが、これまで説明したことは、小アルカナでも可能です。

たとえ玉のカード一枚でも、玉(お金)を作る(稼ぐ)のか、使うのか、貯めるのか、増やすのか、これもいろいろと解釈できるわけです。

もちろん、数カードの場合、奇数か偶数かとか、数の意味によって、傾向は決まってくると言えますが、小アルカナと言えど、あくまで象徴カードであるので、ひとつの意味に固定されるわけではないのです。

視点・観点・立ち位置・エネルギーなど、いろいろと考え、もっとも適した解釈を探って行くことも、タロットリーディングでは重要だと言えますし、自己活用するうえでも、普段とは異なる見方をして、新たな気づきを得たり、修正したりすることができますので、タロットカードを決まりきった見方・解釈で固定しないように注意しましょう。


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