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技術・メソッドの伝承、選択

私はもともと、日本でいうところの「カモワンタロット」からタロット(と言ってもマルセイユタロットオンリーですが)に入った者です。

このところ、少しカモワンタロットの話題にふれることがあったので、久しぶりにカモワンタロットについて、検索してみました。

すると、いろいろな人が、まさに様々な解釈・思いで、カモワンタロットを見ている(リーディング・鑑定・占いも含む)ことがうかがえました。

近頃はYouTubeなどの動画も、タロットで普通にたくさんあるので、カモワンタロットもあるのかなと思って調べてみますと、やはりありましたね、幾つか。なかなか見ていて面白かったです。(カードの著作権はどうしているのか気になりますが…)

こうしていろいろな人のを見ますと、私がカモワンタロットを習い、実践してきた頃とは、かなり、とらえかた・考え方が違ってきたかなという気がします。

悪く言えば、本来と言いますか、最初の頃に伝えられていたものが曲解されているところもありますし、勝手に技法とか解釈が変えられているところもあるように感じます。

逆に、よく言えば、それだけ、個性的(バラエティ)に発展・拡大してきたと言えないこともありません。

もちろん、カモワンタロットにつきましては、きちんと認定講師の方々がいらっしゃいますから、その方たちに習うのが、一番最新の情報も得られ、正統に最も近いところにいるのだと思います。

それでも、カモワンタロットから離れてだいぶん経つ私から見ても、「うーん、どうなんだろう、これは…」と思う解釈で教えられている人を目にします。

それは、技術的なこともあるのですが、もっとも大切な、カモワンタロットに流れている精神といいいますか、教義のところでひっかかることが多く、それが伝わっていないのだろうなと感じます。(伝わりを感じるものもありますよ)

それがないと、仏作って魂入れず・・・みたいなことで、いくら形をまねても、カモワンタロットからは大きく離れてしまうのではないかと思います。

「そういうお前は、すでににカモワンタロットから離れたのだろう?」と言われればそれまでで(苦笑)、私が言っても説得力はありませんが。(苦笑)

しかしながら、今でも、私自身は、カモワン流の技術はすばらしいと思いますし、長年、個人的には研究もしてきたところで、どうしても思うところはあるのですね。

カモワンタロットのことを述べていますが、これはあくまで例であり、言いたいことは、別にあります。

それは、技術・メソッド伝えるということはどういうことか? というテーマです。

マルセイユタロットで言えば、「法皇」のカードに関係しますし、レベルを変えれば、「隠者」とも言えるかもしれません。もっと広く考えれば、「太陽」とか「審判」とか「世界」とか、別のカードでも表すことができるでしょう。

一般的に、メソッド・技術の伝承となれば、当然、その技術面が強調され、それを身につけることが大前提となります。ただ、それが身につけられたかどうかを判定するのは、機械(モノによっては機械のこともあるでしょうが)ではなく、人です。

人には感情もあり、すべて公平に判断することは難しいでしょうから、どうしてもそこに誤差のようなものが生じるでしょう。師匠が気に入ったお弟子さんに肩入れすることもあれば、ひどい場合には、経済的なことで、免状の判断が左右される場合もあるかもしれません。

そして、「伝承」ですから、さらにまた人から人へと伝えられていく過程で、ある程度の基準はあっても、やはり人の判断になりますから、次第に伝承される中身が変わってくるのは、普通に予想がつきます。

もし伝承が(世代など)だけではなく、同時期に複数の人にされていく、もあるとすると、その枝分かれ分は膨大な数になって行き、伝承された人の数だけ、実は流派のようなものもあると見ていいかもしれません。

すると、そもそも正統を争うのはどうなのか?意味があるのか?という問題にもなってきます。

なるほど、今は映像・音声記録技術も格段に進歩していますから、見える技術であれば、その伝承も、形としては確実に昔よりかはできるでしょう。

でも、それを思えば、昔の、言葉か文字でしか伝えられなかった時代のものは、果たして、本当に「型」のようなものは、正しく伝わっているのか?と疑問が生じます。

「これは昔から伝わっている唯一の正しい方法だ」と言われたところで、やはり、人から人、あるいは文字で伝えられている限りは、どこか誤認したり、解釈を変えられたりしているのではないかと思うのが普通ではないかと思います。

カモワンタロットを学習していた時代からの知人で、ある道の先生とも言えるお坊さんがいらっしゃり、その方は、「伝わっていることはすべて嘘だと思ったほうがいいですよ」とよく語られます。

この言葉の深い意味は、まだまだ理解の浅い私では、十分ではないものの、さきほど述べたようなことも入っているのではないかと考えています。

要するに、伝統的なもの、すごい伝承の技術というものでも、真理とか、正しいかどうかなどはわからないということです。

特に、「形」というものにこだわり過ぎると、おかしくなって来る気がします。

形に意味がないのではありません。形にこそ、実は奥義・奥伝があることは少なくないと思います。しかし、形だけ真似ても、意味がないわけです。

精神と形が一体になっていると言いますか、その心でやれば、その形になり、その形でやれば、その心になる・・・このようなものではないかと考えます。

この「心」の部分は、ただのメンタルという意味ではなく、霊、あるいは魂と表現してもよい部分を含むものだと、個人的には思います。

日本人がよく、「魂入れろ、心を込めろ」みたいに言うのは、理由があるのでしょうね。

ですから、矛盾した言い方に聞こえるかもですが、技術・メソッドの伝承には、形にこだわらずに、それでいて、形も大切と見ると言えます。

形の意味(形に込められた精神・背景)をよく考えると言い換えてもよいでしょう。

あと、理論と実践というふたつの側面もあります。

理論は言葉や文字で伝承されやすく、これは割に、皆に同じ型(内容)を伝えられやすいです。

しかし、実践となってきますと、施術者、場面場面、対象者、問題・・・ひとつとしてすべてが同じというケースはないはずです。

従って、まさに臨機応変、理論を超えた対応も必要になってきます。

そこから、オリジナルな考え方・技法も出てくるのは容易に想像がつきます。

理論やひとつの正しさにこだわり続けると、実践では通用しないものになってくるおそれがあり、また理論無視で、実践で気分次第、コロコロと変えていくだけのことをしていると、やっていることを体系的にとらえて、ほかの人に伝えることができなくなります。

「伝える」ということでは、実践ケースで起こること全部を伝えるのは、当然無理です。

数々の実践の中で、有効なもの、普遍的に通じ、使えるもの、多くの人に身に着けてもらいやすく、効果が高いものを選ぶ必要性もあるでしょう。

ゆえに、マルセイユタロットでも、あえてカモワン流に言えば、「法皇」の視線カードは、タロットマンダラ(カモワン流の大アルカナ絵図の言い方)において、選択を象徴する「恋人」なのです。(タロットマンダラの並びは、多様な意味があり、もちろん他の理由もあります)

何か技術・メソッドにおいて、正統性に悩んでいる人もいらっしゃるかと思います。

その時、ふたつの視点を持つとよいです。

ひとつは、自分は正統性・純粋性、第一の後継者、そのメソッドの名前にあくまでこだわってみたいのかどうか。

もうひとつは、そのメソッドを使う本当の目的は何か?を考え、目的のための手段とするかどうかです。

その他、自分はそのメソッドをやっていて好きかどうか、楽しいかどうかというのも、人によっては選択の理由になるかもしれません。

どれであっても、重要なのは、あなたの人生にとって、大事なのはあなた自身であり、技術でも方法でもモノでも他人でも教義(が第一)でもないのだということです。


守・破・離

芸事などで、師弟関係や、ある流派で学びをしていく過程において、「守・破・離」ということが言われます。

最初は、師、流派の教えに忠実にやっていき、やがてその教えられた型だけではなく、多流派なども比較研究して採り入れ、やがて、自分流のオリジナルなものとして自在にしていく様が、守・破・離の段階です。

言ってみれば基本から応用、さらに新しい自分なりの創造へと移り変わる過程ですね。

これは、人生そのものにも言えるのではないかと思います。まあ、人生の守・破・離ともなりますと、離の段階では「死」、あの世への旅立ちとなるのかもしれませんが。(苦笑)

タロット学習においても、この三つの段階が当てはまると思います。

私、個人的にも、この過程を通っている感じがします。今はどの段階かは言いませんが、少なくとも、破には来ていると実感します、今年立ち上げていく予定の新講座では、その分野においては離になるものと考えています。

ところで、この「守・破・離」が、意図して起こるとは限らないのです。

「守・破・離」の過程は、習い事のことが多いので、どうしても師弟の関係性の面があります。(最初から師を持たない人は別ですが)

自分の師・先生と、円満に「破」「離」へと移行していけばよいのですが、時には、いわゆる師からの破門とか、逆に、不満や理由があって、自分のほうから、思いがけず離脱してしまうということもあります。

また双方、納得ずくではあっても、あとからトラブルになるようなこともあります。

どの分野においても、ひとつの流派を形成していると、その流派の正統か異端かの争いが起こるように思います。この言葉からしても、そう、結局、宗教と同じなのですね。

だいたいにおいて、流派の正統か異端かの問題は、創始者の引退・死後などによって、後継者が誰になるかで争いが勃発します。

創始者は、宗教で言えば教祖とか、最初に神から啓示を受けた人物になり、ともかく偉大なアイデア人であったり、爆発的な情熱、行動力を持っていたりする人の傾向があります。カリスマ的な人とも言えますね。

また創始する人だけに、特別な技術や才能、芸事では磨き上げた技も卓越したものがあり、多くの人を魅了したり、納得させたりするだけの技量、あるいは人格がある人のことがほとんどです。

しかし、後継者は、その息子とか娘、血縁者であると、創始者よりもカリスマ性や能力が劣ることがよくあり、さらに、後継者と名指しされた人でも、まじめではあるけれど、「破」まで至っていない、ひたすら「守」だけの特徴のある人がいます。

そうすると、流派で特別に能力や技術がある人とか、人心を掌握したり、組織運営に長けていたりする人が、流派から独立して、新たな一門を作ることもあります。いわく「本当の教え、技術はこちら側にある」などと言って。

これ(正統争い)には、いろいろな問題があり、純粋に師の教えを守ろうとする人もいれば、このままでは発展性がないとして、技・芸をさらに磨き、新展開、拡大を目指す人もいるでしょう。

「教え」だけのことではなく、現実的問題として、経済や運営、人間関係・・・様々な要素がからみ、流派が分かれていくことにもなるのも世の常と言いますか、仕方ないところもあるのかもしれません。

そんなわけで、守・破・離が、自分が意図したものとは別に、強制的に発生したり、そのような方向に向かわざるを得ない状況になったりすることもあります。

しかしながら、自分の気持ちや意図で起こったものでなくても、また、少々トラブル的に師や一門から離脱することがあったとしても、それは、真の自立の意味で、破から離への流れのために、必要・必然のケースもあると考えられます。

まじめな人ほど、師の教えや流派・一門に忠実であろうと心がけます。ただ、それがあまりにも行き過ぎていては、ただの奴隷であったり、まさに「なになにの犬」と言われるような状態になったりします。

といえば、マルセイユタロットの「愚者」のカードが思い浮かびますが、あなたがもし愚者(愚か者という意味ではなく、自立・完成への旅立ちの者)であろうとするのならば、犬は後にいて、あなた自身は犬ではないことに注目すべきです。

自己犠牲は、本当の意味の自立にもなりませんし、師が本当に望むことではないと思います。

師が正しいとは限りませんし、仮に正しかったとして、その時代・解釈においてということもあり得ます。伝統を守ることだけが、受け継ぐことと同意ではないでしょう。

もちろん流派の「守」も大切で、おろそかにしていい、無視して去れと言っているのではありません。そこで学べたことは感謝すべきで、師はいつまでも、とのような状況になろうと、やはり師だと思います。ただ、自分は何のために学んできたのか、ということです。

もし、あなたが、その流派や一門を愛し、その組織自体を守り、存続させるという役割を思っているのなら、守こそが本道でしょう。

しかし、もともとその流派・一門に入った目的、何がしたかったのか、どうなろうとしたかったのか、その初心の目的・気持ち・意思を思い出せば、流派・組織にこだわる必要もないのかもしれません。

すると、「破」は当然として、やがて「離」に至ること、「離」を目標にしていくことも、納得できるでしょう。

離になっても、あなたはあなたなりの方法で、師や流派に貢献していけばよいのです。

自分が学び、属してきたところとうまく行かず、どうすればよいかと迷っている時、そもそも論のように、あなたたは何がしたかったのか、どうしたいのかを再び思い起こすことです。

そこでしか自分のやりたいことができないと思い込むのも早計です。人は、たいてい、選択肢や方法が、これまでの自分のレベルの範囲でしか想起できず、だからこそ迷うのです。

今の自分の世界認識を変容させ、小さな自分の世界を破壊し、大きな世界へと飛翔した時、選択肢は意外性をもって増加しますし、新たな自分の道や方法も見えてきます。

マルセイユタロットでも、「守」的なカード2の「斎王」、12の「吊るし」において、それぞれの次の数のカードは「女帝」「13」になっており、創造性と破壊性(創造性の別の形)を象徴しています。

順調に、守・破・離ができれば理想ですが、実際には、いろいろな要因がからみ、もたもたしているあなたに、別のあなたが、破と離を目指すよう、環境を用意してくれる場合もあるのです。

結局、「世界」のカードではないですが、多くの人に関わりつつも、この世では、あなた自身の世界を作ることが求められていると思います。

それは、言い方を換えれば、あなたが創造主になることでもあり、それが神性の発露・回帰にもつながることになるでしょう。


「1」の数を例にしたカード解釈

数とタロットは無関係ではありません。

しかし、数秘術をされている方で、タロットを学習すると、どうしても、数をメインとしてしまう傾向があります。

数をメインとしますと、マルセイユタロットの場合、まだ小アルカナの数カードならばいいのですが、大アルカナでは、比較的具体的な絵柄がありますから、絵柄から思い浮かぶ象徴と、数そのものの象徴との食い違い、違和感が出てきて、迷ってしまったり、意味がわからなくなったりします。

タロットが詳しくわかってくるようになりますと、アルカナの数とそのシステムも、数秘的なもので言われている数の意味との関連性は見えてきますが、まだ浅いうちだと、混乱のほうが大きいでしょう。

そのため、おススメしているのは、数秘術を習った方でも、いったんその知識はおいておき、タロットはタロット、数秘は数秘として、別々で見ておく(学習していく)やり方です。

そのほうが、最終的にはふたつを統合しやすいのではないかと思います。

そんな中でも、最初から、タロットにおいても、あまり解釈の違わない「数」があります。典型的なのは、おそらく「1」でしょう。

これは、数秘というより、普通に、現代の皆さんが思う「1」のイメージが、そのまま意味になっていることが多いと思います。

すなわち、始りとか、最初とか、新しさとか、フレッシュさ、シンプルさみたいな印象です。

深くは、完全性、統合性などあるのですが、それは図形を考えないといけませんので、とりあえずは、一般的なイメージと意味で、「1」を見ていくことにして、その「1」の数を持つ、大アルカナ(マルセイユタロット)をあげて見ましょう。

すると、まずは1の「手品師」(一般名称では奇術師とか魔術師と呼ばれるカード)、そして11の「力」、最後は21の「世界」です。

つまりは、10番ごとに違う、1の位を持つ三枚ということですね。

10というのは、数カードの単位・セット・一組にもなっており、ここからも、ひとまとりの象徴性の数に「1」と「10」がなっていることが伺えます。

大アルカナは、10を基本システムとしているわけではないと想像されますが(3や7のシステムのほうが強い)、10を単位とできないわけではありません。

ともかく、新しさを象徴する「1」を持つ大アルカナが三枚あり、それぞれにやはり、「新しさ」の特徴の段階があるのだと推測されます。さきほど、述べた「10」の単位ごとにリニューアルしたり、レベルがアップしたりしているのだと考えられるわけです。

1の「手品師」はまさに初めの中の初めと言え、初心(者)と例えることができます。それゆえ、若い姿で、テーブルの上にもいろいろな(手品)道具が散らばっています。よくありますよね、道具から入る、形から入るみたいな人が。(笑)

なお、マルセイユタロットの種類によっては、この「手品師」の足元に、“若葉マーク”のようなものが生えているように見えることもあります。不思議?ですよね。

「さあ、やるぞ」と道具をそろえてみたものの、初心者はそれらをどう使うのか、整理して学ばないといけません。「手品師」も、心なしか、視線がテーブルの道具類にはなく、何か指導書とか頼るへき誰かを見てるようにも感じます。

次の11の「」は、ライオンを従えた女性の姿です。女性にも若々しさがあり、やはり新しい感じがします。

「手品師」の男性から女性に変わったことで、柔軟さや包容力も出た印象があります。もしかすると、「手品師」だった時がライオンに象徴されているのかもしれません。つまりは、「手品師」の経験を受け入れ、コントロールしているようにも見え、新しさといっても、また別の次元や段階に来たことが見て取れます。

「手品師」時代の経験は完全に自分のものにして、未来に向かってより力を発揮していく姿が想像されます。

そして、最後は21の「世界」です。

ここまで来ると、新しさというより、完成した感じが強く、「1」のカードは登場する動物が次第に多くなりますが、「世界」ではそれが際立ち、「力」にいたライオンだけではなく、さらに三つの生き物、合計四つの生物に囲まれ、中の人も、一見女性のように見えつつも、男性にも見え、いわば、中性、両性を持つ者ではないかと考えることができます。

終着点、完成されたようにも見える「世界」ですが、異次元レベルで、次の段階の新しいことに向かうことになると言えます。まさに「新世界」です。それは中央人物のダンス姿や動きからも、何かこれから始まるのではないかという見方ができるからです。(その他の理由も、もちろんあります)

「手品師」が道具だけを扱っていたのに対し、「力」から「世界」にかけては、それが生物というものに変化していることも重要ですし、「世界」に至っては、再び、「手品師」のような道具も中央の人物は手にしています。

単純に絵柄だけを追って行っても、「手品師」から「力」「世界」へと、拡大・成長・複雑・高度化しているのがわかります。

ここではわざと、優しく書いていますが、本当は、今書いてきたことは、非常に深く高度な象徴性と意味が隠されており、それがわかると、マルセイユタロットが周到に用意されたシンボリズム、体系にあることが明瞭になります。

要するに、マルセイユタロットは、明らかに意図をもって、複雑に計算された描写のもとに成立しているということであり、ただの印象とか直感、あるいは芸術的な意味をもって描いているのではなく(芸術の影響はあるとは思いますが)、私たち、カードを見る者に、ある種の企画と意図を発見するよう促している仕掛けがあるわけです。

さて、再び、「1」を持つ三枚のカードに戻ります。

リーディングにおいても、このような段階やレベルの違いを、同じ「1」を持つカードに見ておくことで、どのカードが出たかによって、カードを引いた人物、またはリーディングを受けているクライアントに、どういう「新しさ」の質が求められているかというのがわかります。

「手品師」が出るのと、「力」で出る場合、「世界」が登場した時とでは、それぞれ違いがあるうえに、同時にこれらのカードで出た時や、もし正逆の位置を採っていた場合なども、さらに意味合いが変わってくることになります。

しかし、基本として、数のシンボルをとらえた時は、「1」という数が浮かび上がり、段階やレベル、質は違っても、やはり何らかの新しさが求められていること、または、そのためのテーマがあることは確かなのです。

あなたなりの、新しさをもって、今年に活かしてください。

 


自分の力とタロットの力の関係性

タロットカードと自分との関係は、一定ではありません。

これはちょうど、人間関係と同じようなもので、基本的な関係性(役割、立場等)は同じであっても、その質や深度(進度でもあります)が変わってくるのです。

そして、自分がレベルアップすれば、タロットの力も増すことになります。まるで鏡のようなものです。

つまり、使う側の能力、意識によって、タロットのパワー(フォースといったほうがいいかもしれません)も変化していくわけです。

このことは、タロットとの関係性が深まれば深まるほど、あるいは長くなればなるほど、実感してくることでしょう。

そのような、個人とタロットとの関係性による変化もあるのですが、実はまだタロットの力が変化する要因がほかにもあります。

それをいくつか挙げることができますが、その中のひとつとして、時代性というものを指摘しておきます。

不思議なもので、時代の特徴が、タロット(へ)の認識を変えると言いますか、タロットの力を引き出したり、弱めたりすることもあるのだと思っています。

例えば、通俗的な意味での「オカルト」(本当の「オカルト」の意味は別にあります)ブームのような時は、タロットにも神秘性が与えられて、特に昔は(今もですが)占い的な力があると目されていたことがあります。

そして、実際に、占いでタロットを使うと、未来を予見したり、相手のことがわかったりして、つまりは当たることがよくあるような感じになるのです。

それは、心理的に言えば、タロットに不思議な力があると多くの人が信じ込むことで、当たるという現象(錯覚や思い込みのこともあります)を引き起こしやすくなるからだと推測されます。

メルヘン的に言えば、タロットさんが「自分を信じてくれているなら、あなた(みんな)の望む方向に、力を発揮してやろう」としてくれたのだと言ってもよいかもしれません。(笑)

言わば、時代の雰囲気によって、タロットも変わるということです。

そして、平成から令和になり、2020年という年を迎えている今日、おそらく、精神世界などに関心のある人には、時代が大きく変わってきているのを実感しているでしょう。

あくまで私の見解ではありますが、それは、統合に向けて、まず個の独立、確立が高まるということです。

SNSや、Youtube、TikTokなど動画も含めても、自己発信・自己表現が簡単にできる時代になっており、皆が手軽に自分の世界を出しています。

もはや、昭和の頃のような、旧メディア、テレビ・新聞などの画一的な、ある意味、洗脳的とも言える情報発信は古く、通用しなくなっており、個性(それぞれの自分)を無視したものは、信用さえ失ってきています。

統合と言えば、「ひとつになる」というようなイメージを持ちがちですが、誰もが金太郎アメ的な同じになる意味ではなく、まずは個を認めて、そのうえで、全体として統合していく(個を消すわけではありません)のが、霊的な流れではないかと考えられます。

ですから、今の時代の様相は、実は正しく進んでいるように思います。(間違ったところもあるかもしれませんが)

個を活かす、確立するということは、自分を認めるということにつながりますから、巨大な支配的な何かに自分をささげて生きるような時代は終わりを告げ、一人一人が自分を受け入れ、認め、発信していくようになるのは普通だと思います。

ただ、人に認めてもらえることのために、自己発信をしていくと、結局他人に力を明け渡すことになりますから(他人や外の世界の許可が必要だということになります)、自己の確立とは真逆の方向になります。

自分が好きなことをただ行う、自分がやりたいことをやって発信する、見てもらう、考えてもらう、楽しんでもらう・・・まずは、こういうスタイルでいいのだと思います。

さて、話をタロットに戻します。

このような、統合に向けての個の確立が進む時代になってきていますので、タロットも時代の影響によって変化するとすれば、そうした自己表現、自己の確立に向けた流れに寄与していく力が増すことになります。

すると、タロットリーディングしていても、これまでは全体や社会の力を借りないとできなかったこと、または、社会規範・常識・ルールみたいなものに則って自分を表現せざるを得なかった者が、自分ひとりでとか、少ない人数の同好グループとか、今までの常識に囚われないやり方で、自分を確立していく可能性が、これまで以上に、タロットから読むことができるようになると考えられます。

端的に言えば、不可能性が可能性に変化するということであり、タロットの読み方のレベルと言いますか、許可できる範囲が広くなる(普通では無理とか、不可能と思っていたことに、「できる」という許可を見出すことができる)のではないかと推察します。

タロットでは、大アルカナの場合は、22枚のカードがあり、マルセイユタロット的に見れば、「愚者」と「世界」を除けば、ある種、カードの受け持つ所定の範囲とかレベル、限界性みたいなものがあるわけです。

それぞれのカードの担当範囲とでもいうべきものは、時代によって変化し、これからの時代、かつてのカードのレベルを超えた力、読み方が登場し、それが日常性をもってくる(担当範囲として定着してくる)のではないかと想像されます。

しかし、最初にも述べたように、個人とタロットとの関係性もありますから、自分が成長し、もっと軽やかに、可動範囲を広くしていくことができてくればの話にもなります。

自分で自分を束縛していれば、その分、タロットも締め付けられ、自由に力を発揮することができなくなります。

一言で言えば、どれだけ自分を信じられるかによって、すべてが変わると言ってもよいかもしれません。それはタロットでさえもそうなのです。

もちろん、すぐに自分を信じる、つまり自信を持つことができない場合もあります。人間ですから、落ち込み、悩み、自分を卑下してしまうことも現実の人生では少なくありません。

しかし、そんな自分に悩みつつも、少しずつでも自分を認め、自信が持てるようになってくれば、取り戻したあなたの力が、タロットのみならず、あらゆる面で、力を昔より、出していけるようになるでしょう。

自分を認めるには、その前段階として、自分を癒す必要もあります。癒されていない部分を無理矢理、強くしようとしても苦しいばかりです。癒しながら、自分を回復し、そしてまた落ち込めば、さらに癒し・・・を繰り返してもいいと思いますし、それが普通でしょう。

強くなろうとするのではなく、自分に素直に向き合っていくと、自然に強さに導かれるようなものです。

タロットはあなたの鏡にもなりますから、タロットに力を感じられるようになれば、あなたにも力が蘇ってきている証拠になります。


こちらの記事は、アメブロで書いた記事をそのままアップしています。

それで、アメブロのほうでは、同時期(年は違えど、同じ月日に近い時期)に書いた過去記事が、自らのホーム画面に表示されるようになりました。

ところで、私のブログ記事は、計画性をもったり、計算したりして書いているのではまったくなく(苦笑)、その日、その時、マルセイユタロットを素材として思いついたことを書き綴っています。

ですから、記事をアップすると忘れていることがほとんどです。

時々、講座の受講生から、「いついつのあの記事は、面白かったです」「その話は、ブログ記事に書いていたものですよね」とか言われますが、自分では先述したように、覚えていないので、「そうでしたっけ?」みたいに答えて、不思議がられます。

思えば、すでにかなりの記事を書いておりますので、整理しようにも大変で、そのまま放置しております。(笑) 中には奇特な方もおり、「全部、記事読みました」と言ってくれるありがたい人もおられますが、もう、ほんと、ありがたいですし、その労力にびっくりです。

ともかく、アメブロの機能により、過去記事を自分が再度読む機会があって、でも内容は忘れているので、逆に新鮮な気持ちになり、また当時とは考えやレベルが変わっていることもあって、それに付け加えたり、補足したりしたくなることも出てきました。

それで、今日はそうした過去記事を再アップしたいと思います。

で、今の私からこれを見ますとですね、この記事からさらに別の焦点が言えるのですね。

この記事では、何らかの貢献感を持つことによって、自分の存在を濃く(実感)することで、生きづらさを軽くする、少しでも自分が生きていく価値を見出すことを述べています。

つまりは、空虚感は、存在感のなさにあると言っているわけです。(こう書けば当たり前みたいな話ですが)

モノやカタチの希薄な世界、例えば霊的な世界のようなところでは、おそらく空虚な存在であってもいいと思います。いや、むしろそうなるのが普通なのかもしれません。

ですが、現実とは、モノやカタチがはっきりしている時空間です。ここで自分がその他大勢、誰でもない何かみたいな、空虚な存在であると思ってしまうことは、まさに命取りになりかねない危険性があります。

まあ、関西弁で言えば、現実とは、存在感あってナンボの世界ですわ。(笑)

存在感とは何かと定義すると、いろいろな考え方があり、難しい部分もありますが、要するに個性とか、心理的には自我(エゴ)と言ってもよいのではないかと思います。

マルセイユタロットでも現実の階層を示すとされるカードは、人としての個性が絵で見られます。ただし、「悪魔」とか「13」とか、「神の家」などは、時に現実を超えたレベルにありつつも、強烈な個性がありますよね。ここは結構、重要な示唆だと思います。

話を戻しますが、ひとつの考え方として、現実での存在感とは、スピリチュアル的に言えば、波動の強さみたいなもの(粗くあっても、強いもの)ではないかと推測されます。

従って、前にも書いたことがあるのですが、自分の存在感が薄く感じて、現実に適用しにくくなっている場合、潜在意識のようなものが危機感を覚え、自分が自分だと意識できる状況を創り出してしまうわけです。

それが「問題」であり、簡単に言えば、「自分に強くフォーカスし、自分の強い波動を出さざるを得ない状況にする」のです。病気だとか、経済問題とか、人間関係とか、およそこの世の悩みは、そうした自己の存在感を自分自身に訴えるために、出てくるところがあると考えられます。

いわば、マイナスの自己アピールです。だったら、プラスの自己アピールになればよいわけで、ここの発想の切り替えができれば、だいぶん、自分と現実の関係も、よい意味で変わってくるのではないかと思います。

スピ系や心理系に傾倒し、まじめな人は、エゴをなくそうと努力しがちですが、それが逆効果のこともあるのです。自分が希薄で自己存在感を低くくしてしまっている人(自尊心にもつながります)、まずは、エゴを高めたほうがよい(よい意味のわがままを出す、自分の本当の気持ちを大切にする)こともあります。

単純に「私はこれが好き、私はこれが嫌い」という二極の波動を出せば、その波の振幅は大きくなりますから、強い波動になるでしょう。えっ、分離が怖い? 争いが怖い? いやいや、調和するのと、支配されるのとでは違いますからね。

支配されていては、支配するもの・されるものの、それこそ二極構造を増長させていることにもなるのですよ。ますは自分を強く回復させることから始めましょう。

 

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