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ネガティブを弱めるグッズ

人は想念の世界にも生きていますので、その(想念の)力が現実に作用することがあります。

精神やサイキックの世界では、そうしたことが普通に行われているものです。まあ、もちろん、悪用する人もいれば、よいことにも使えるわけで、力自体は中立であり、要は、その人の使い方次第、つまりは思い方次第ということですね。

皆さんも、心や思い方で、自分が変わって、それに伴い、人生や現実も変わるという話は、よく聞いたことがあると思います。

それだけ、人の持つ想念や心の力は強いものがあるわけです。

しかし、どういうわけか、人間は、ポジティブに思うことが難しく、逆にネガティブに思うことは易しいという特徴があります。

おそらく、これはもともとのことではなく、人間の歴史が作り出してきた、想念の癖のようなもの(になってしまっているもの)ではないかと推測されます。

本来は中立といいますか、むしろ愛や喜びで満たせる(満ちている)存在が人間だと思います。ただ、何かの影響で、不安や恐怖、心配などのネガティブなほうに誘導しやすい心の作用が働くようになっているのでしょう。

それに対抗するには、根本では、ネガティブ思考に舵を切らせている「何か」に気づき、それを浄化・解除する必要があると思うのですが、これはたぶん、一人だけの問題ではなく、人類全体に関わる大きな意識層のブロックがあると考えています。

それでも、一は全、全は一といわれるように、自分の解除が、全体の解除に結び付くこともあるのではないかと思います。

しかし、今日は、そういう全体的な話というより、個人それぞれができる簡単なことを述べてみたいと思います。

まず、考えとして大事なのは、常識を疑うということです。

タロットカードの「吊るし」ではありませんが、逆や反対のことはどうなのか? それは間違い、いけないことと必ずなるのか?と思うとよいでしょう。これはひねくれてやる(自分の正しさを主張するためにやる)のではなく、純粋に、素直に逆さまも考えてみるということです。

みんながそう言っているからとか、それが普通でみんなやっているからとか、そういう「みんな」は現実にはいないもので、いわば集団幻想規範のようなものです。

あなたはあなたという個性を持ち、みんなは違うのがこの世界でもあります。ということは、あなたの世界はあなたにあるわけです。

そうした見方が、ネガティブに誘導されるエネルギーからの解除のきっかけになることもあるでしょう。

あと、具体的には、幸運グッズを持つこともよいです。

あ、これは、よく雑誌の巻末とかに広告で掲載されている、お金を引き寄せる財布とか、恋人ができるアクセサリーとか、そういうものを言っているのではありません。しかし、ちょっと似ているところはあります。(苦笑)

ここで言っているのは、自分がそれを持っていると、安心したり、落ち着いたり、ポジティブになれたりするグッズです。

じゃ、やっぱり幸運グッズじゃないですか、と言われるかもしれませんが、さきほども述べたように、ああいうものと似ていると言えば似ているわけで、しかし、そんな大金払わなくても、たぶん、皆さんは持っていますよ、ということなのです。まあ、劇的な効果を謳うわけではありませんが。

自分が心配になったり、ネガティブになったりする時に、それを握ると安心するとか、それを見ると落ち着くとか、前にピンチの時には効果があったとか、そういうものが、ここでいう幸運グッズです。

むしろ、幸運グッズというより、精神安定グッズ、中立化グッズみたいなものですし、タリズマン(護符)のようなものと言ってもいいでしょう。

お金や恋人を引き寄せるのではなく、ネガティブな思考を中和させたり、それ以上、ネガティブな想念の力を増大させたりしないためのモノです。

これは心、想念の世界に関係しますから、いかに、自分がそれに対して思いがあるかによって、効果が違ってきます。そういう意味では、自分が信じているモノというのが、いいわけです。

例えば、神社・お寺のお守りなどは、霊的な力もあることはありますが、持つ人の想念のリアリティ感(効果がある、あの神社のお守りだからスゴイとかの実際の思い)が、現実に効果を及ぼすとも言えます。

小さいこどもは、それがぬいぐるみであったり、タオルやハンカチであったりします。これは、母親などの代わりになっているもので、その子にとっては、それがないと安心できないですし、あれば、本当に安らぐわけです。

ですから、大人であるあなたにとっても、それがペンでも、石でも、あなたが安心できる、これはすごいと思えば、それはネガティブ思考の防御になるのです。

ちなみに、私は、タロットがそれにもなっています。その効果は大きく、タロットをさわっているだけで、ずいぶんと心が安定するのを感じます。(マルセイユタロットには単なる心理効果以上のことが隠されてはいるのですが、それは今日は省きます)

タロット好きな人は、たいていそういうところがあるでしょうし、何もタロットでなくても、カード好きの人ならば、自分が使って信頼しているカードならば、自分を守ってくれる天使のような役割をするでしょう。

私も、不安が高い時は、リーディングではなくて、守護としてカードを引き、そのエネルギーを感じて、ネガティブなものを浄化していくことがあります。不思議と、そういう時は、それにふさわしい意味のカードが出るものです。

何度も言いますが、これは、想念の世界とリンクしますので、そのグッズを単なる機械的・物質的なものとして見ていては、ほとんど効果はありません。それへのリアルな思い(感情に近いもの)があるかどうかが重要です。

まあ、しかし、こういうものもあくまで補助ですので、それに依存し、願い事を叶えてくれるみたいな、それこそ、雑誌なんかで宣伝され、けたたましく売られているグッズのように思うと、かえって囚われてしまうので、注意が必要です。

いい機会ですから、ちょっとだけ幸運グッズの弊害を言っておきましょう。

大仰に宣伝されている幸運グッズを持つと、最初は効果があるように思うこともあるかもしれませんが、次第にそのグッズへの過剰な依存になり、実は、自分のエネルギーがそのグッズに奪わていくことになります。

そうすると、グッズのほうはエネルギーを持ってきますが、そういう力が入ると、必ずしも、いい方向にそれが使われるとは限らず、つまり力が強い分、悪いほうへ働く(共鳴する)力も強くなるわけです。

たとえば、お金がほしいと思って買った金運強化財布が、金運というエネルギーではなく、あなたの「お金がほしい」という強烈な想念のエネルギーを吸い、そうしたネガティブ(お金がほしいという、つまりはお金の不足)の状況に共鳴してくるようになるわけです。

まあ、心の底から、楽しくお金を使い、「金運財布さん、ありがとう」みたいな感じでやれる人は、効果もポジティブにあるかもしれません。

でも、たいてい、金運財布を買う人は、お金や態度に余裕がなく、切羽詰まって買う人が多いでしょうから、なかなか効果的なものにするのは難しいわけです。恋人引き寄せみたいなものも同じだと考えていいでしょう。

何より、外のものに依存すると、自分自身の内にある力から遠ざかり、いろいなものに影響を受けやすくなり、ますます自分に自信を失い、自分自身を生きられなくなります。

ということで、安全には、ほっとしたり、中立化したりするくらいのグッズを持つ程度がよいかと思います。


タロットを何の書物とするか。

タロットというものをどうとらえるかによって、実は、この世の中に対して、厭世的な見方になるか、楽天的なものになるかも決まってくるかもしれません。

そして、タロットを使うことが、安全か危険かという観点にしても、タロットへの考え方によると思われます。

ここからは、ちょっといつもより、スピリチュアルな話になりますので、あまり、この手の話に共鳴できない人は、今日は読まないほうがいいでしょう。

さて、皆さんは、この地上世界、言ってみれば地球の生活・(現実)世界は、どのように感じられているでしょうか?

とても楽しかったり、美しかったり、生きていることがすばらしいと思える人もあれば、つらく、苦しいことばかりの世の中だと感じている人もいるでしょう。

本人はまあまあだなと思っていても、世界全体を見回せば、戦争や争い、犯罪や残酷なことも少なくない世の中です。また、いろいろな意味で不公平や矛盾にも満ちているように見えます。

あるいは、世間の人は普通によい暮らしをしている(幸せな)人が多いのに、自分は不幸だ、厳しい人生にいると思っている人もいるかもしれません。

ここで、結局、自分の感じ方次第といえばそれまでで、もし、すべて自分が見ているものは、自分の(作り出した)幻想だとすると、外側の世界は自己の投影像みたいなもので、世界が悲しいところと感じるのは、自分がそう決めているからだと考えることもできます。

では、自分が幸せで満足、平和な状態になれば、実際の外の世界もそうなるのかというと、これは究極的な問いであり、難しい問題です。

なぜなら、誰も、他人の本当の気持ちや、その人の見ている世界がわからないからで、誰か(の内)が平和になったから、世界が平和になったという検証は、ほかの人からは、できないわけです。

その誰か、他人でさえ、自分の生み出したものであるかもしれないのならば、つまるところ、すべては自分に帰結することになります。

で、この「自分が世界(自分が創造しているのが世界)」ということは、ひとまず置いておき、私たちが、誰もが共通して見ている実在する現実世界があると仮定します。

すると、やはり、自分だけではない多くの他人にいる社会や世界があり、それがすばらしいと見えるか、あまりそうとは思えないと見えるかの違いは、人によって出で来ると思います。

最初に述べた、厭世的か楽天的かということでいえば、この現実の世界から逃れたいと思うか、この世界を楽しみたいと思うかの違いのようなものです。

そこで、(マルセイユ)タロットです。

実は、タロットは、この世界から逃れるための書物と取る立場と、この世界を充実して生きるため(あるいは遊ぶため)の指針とする立場と、大きくわけて、ふたつの考え方(とらえ方)があるように思います。

スピリチュアルな考えの人には、「私はなになに星(系)から来た」みたいな、魂の宇宙人説を唱える人がいます。

そして、たとえそれであっても、ふたつの立場があり、この地球を楽しむ(遊ぶ)ために来たという人と、地球を修行の場と見てあえて鍛えるために来た、または何らかの要因で、地球に落とされた(いわば刑務所のようなところに囚われた)という人がいます。(地球の人を救いに来たという人もいますが)

要するに、ここでも楽天的に地球旅行をしに来たというような見方と、苦しい修行や何か浄化・服務のために来たという厭世的・悲観的な立場があるわけです。

何にしても、楽天的にとらえたほうが、何事も楽しいのは間違いありませんが、どうしても楽天的になれない人もいるような気がします。

メンタルを鍛えたり、浄化したり、あるいは強く洗脳されたりすれば、楽天性が出るのかもしれませんが、現実を直視すればするほど、そう楽天的になれない部分もあるのではないでしょうか。

「どうせなら楽しんしゃえ!」と能天気になれる場合は別としても、現実的に、ここ(地球・現実)にいるのは仕方ないのだから、それこそ、この環境で、やれること、できることに注力して、少しでも自分の生活と、できれば周囲の世界をよくしていくのがいいというのが常識的だと思います。

そのためにタロットを使うという立場があってもいいでしょうし、もしタロットを使わなければならないとすれば、実際(現実・地上生活)をよくしていくためのものとして使うのが、普通になるのも当然といえます。

それは端的にいえば、占い的な使い方と言ってもいいかもしれません。

これは、現実の自分、地球にいる自分を地上に適応させて行こうという方向性でもあるので、当然地上(地球)と結びつき、いわば安定を求めるものなので、地球生活的には安全な使い方と言えます。(ただメンタル・精神の世界で見た場合、もし占いを依存的に使用する場合は、安全とはいえませんが)

一方、「この世界は本来、自分のいるべき世界ではない」という違和感があり、「この地球の現実は厳しすぎる、悲惨なことが多く、レベルが低すぎる」という見方をする人は、タロットを現実・地球からの脱出という神秘啓蒙書のような目で見ます。

しかし、そのような人でも、実際には肉体をもって、地球・地上生活をしなくてはならないので、そことのギャップ、葛藤に常に苛まされます。

人によっては、肉体的な問題(病など)が出たり、精神的にバランスを崩したりする人もいるかもしれません。

なかなか現実・地上との折り合いがつかず、そのために、現実逃避になったり、上記のような肉体・精神のバランスを取るのが難しくなったりするわけです。

この意味で、タロットを地上(地球)脱出の書として扱うことは、常識的に見て、危険でもあるわけです。

しかし、タロットはさすがに、ただの啓蒙書ではないところがあり、いきなりの脱出を示唆せず、順を追っての脱獄(笑)を示しているように思います。

そのひとつは、大アルカナと小アルカナに分かれていること、大アルカナでも、地上生活を示唆する絵柄が半分はあることなどからわかります。

すべては、一元から二元の分離と還元ととらえれば、星や天に帰りたいと思っている人でも、悪いことばかりではなく、地上・地球に来た、よい意味が何かあるはずです。

そして、一足飛びに帰るのではなく、たとえ、ほかの楽天的な、地球観光を楽しんでいるような人にはなれなくても、段階を追って、地上生活に何とか順応(妥協)しながら、脱出していく方法があるのだと考えられます。

あまりに物質・地上的ものを忌避していると、お金や肉体の問題に悩まされ、そこ(地上・肉体)からすぐに抜けられないのですから、苦しい状態を現実に生み出します。ボディ・フィジカル部分も、ないがしろにはできないということです。

それでも、本当の故郷や目指すべきところへ帰還するためには、やがて物質や肉体を超えていく必要があると考えられます。地上的・地球波動になじみすぎると、目的を忘れ、麻薬摂取したような、酩酊と欺瞞な状態に浸かることになるでしょう。

郷(地球)に入りては郷(地球)に従えの気持ちや実践をしながら、奥底では、帰還の志をいつも持ち、忘れないというのが、脱出のためには重要ではないかと考えます。

現実的には、自分が他の星の生まれ(魂を持つ)とか、この世界が本当の世界ではないと思う、というような考えは、言わば、中二病みたいな(苦笑)もので、一般的にはバカらしいものですが、しかし、この考えでもって、救われる心があるのも事実だと思います。

あなたの感じている、地球・地上生活での違和感は、本物かもしれないということです。

中にはもう、この星(地球)の生活にはうんざりだと思っている人もいるかもしれません。(ちなみに輪廻転生説を入れると、地球に輪廻転生することは、一時的退避ではあっても、真の脱出はしていないことにもなります)

常識や多くの人が感じたり、思ったりすることが、正解とは限らないのです。

けれども、やはりこの世界に存在しているわけなので、まったくの現実逃避をしていては始まりません。囚われているのなら、解放や脱出の手段を講じていく必要があります。

マルセイユタロットは、もしかすると、そうした者たちへの脱出指南書かもしれないのです。(ということは、脱出した存在から、もたらされたものの可能性があります)

さらに言うと、マルセイユタロットに出会う縁も、脱出の機縁と関係があり、この世界の牢獄性に心が気づいている(魂が覚醒しはじめた)からかもしれません。

とはいえ、それは、あくまで、タロットをこの世界からの脱出や、あるべきところに帰還するためという話に共鳴できるタイプの人です。

普通は、占いやリーディングに興味をもって学ぶとか、自己変革でも、そういうスピリチュアルな脱出の話ではなく、心理的・現実的に自分を見つめて、変化・変容させたいというものになるでしょう。それはそれでいいのです。

まあ、どれであっても、マルセイユタロットはそれ相応の力と効力を発揮してくれるところが、また面白く、すごいところです。


タロットの自己活用 客観性

タロットを他人に使うか、自分に使うかは、人によって、また目的によって、その割合・方法も変わってくるでしょう。

人に使う場合は、主にタロットリーディングをやタロット占いを提供するというのが一般的です。

では、自分にタロットを使うという場合はどうでしょうか?

これも、自分に対して、何か質問し、タロットを展開してリーディングするということを、皆さんは想像されるかもしれませんが、やってみるとわかりますが、自分のことをリーディングするのは難しいものです。

それは、客観的になれないからというのが一番の理由です。他人のものは、他人だからこそ、文字通り、客観的に見ることができます。

しかし、自己リーディングでは、自分のことを自分で読むわけですから、当然ですが、主観のみです。

ゆえに自分の思考・感情中心に読み解くしかなく、もし直感的なもので判断しようとすると、単なる好き嫌いのレベルで見てしまうことがあります。

また、問いの内容に、あまりにも感情が入りすぎるものだと、まさに自分の感情に左右され、揺れ動き、ポジティブよりか、ネガティブよりか、どちらかに傾き過ぎた見方をしてしまいがちです。

従って、自己リーディングは、冷静・中立にはやりにくいというのが、普通にあります。

しかし、それは、あくまで、他人リーディングと同じ方法を採用した場合のことです。

自分のためにタロットを使って、自分を見ようという場合は、人を見る場合とは別の技法、あるいは観点が必要になってきます。

要するに、主観だけになってしまうのが問題なので、客観性が少しでも出るような見方・技術を取り入れれば、自己リーディングといいますか、自己に対してのタロットの活用も見えてきます。

そのひとつは、タロットの絵柄の象徴性を知的に理解するということです。

逆に言うと、直感や感情を入れなくても判断できる読み方をする意味にもなります。

それは、象徴のロジック(論理性やルール)を使うということですが、この方法は、マルセイユタロットの中でも、精巧につくられているタイプ(型)で、かつ絵柄一枚一枚の細かな象徴性が、全体としても有機的に整合性を保っているカードに限られます。

つまり、象徴システムとして、個と全体とで完成・機能しているカードとなります。その点、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロットはこの条件にあてはまるものだと私自身は考えています。

こうしたカードであると、展開したカードの象徴の出方を解釈することにより、主観だけではない、象徴自体の示す意味が客観性をもたらし、主観の思い込みのような読み方を少なくすることができます。

そして、もうひとつの方法は、質問を変える(絞る)ということです。

この場合で、もっとも悪い質問の例は、「なになには、どうなりますか?」というような、抽象的で結果や未来を知りたいと思うような質問です。

ただ、ここでも、例えば、正逆イエス・ノー引きみたいにして、正立すればよい状態、逆位置で出れば悪いことになるみたいなスプレッドと解釈があって、それならば見たままのことですから、主観で迷うなことはないのですが、自己活用の方法として、あまりに単純で、まるでコインの表裏占いみたいなものになってしまいます。

これではタロットを自分に活用するとは言い難いです。

では、タロットの自己活用で、質問を変えるとはどういうことかと言えば、もっと具体的に、「私が望んでいる人はだれか?」「私の精神を傷つけているもの(人)は何(誰)か?」「いまだに私の〇〇に影響を及ぼしているている私への事件とは何か?」「経済的な問題で、私がブロックしている事とは何か?」「私は誰に(何を)アピールすればよいか?」「パートナーとの問題で、今もっとも解決しなくてはならないものは何か?」「今日心がける精神の状態とはどんな状態なのか?」「本当は、私はどこに行きたいと思っているのか?」「私は何が嫌なのか?(避けたいと思っているのか?)」「何(誰)にしがみついているのか?」・・・

など、一見、占いの問いのようですが、なるべく具体的な細かい問いを設定して、その都度、カードを一枚なり、数枚なり引いてみる(正逆ポジションは取らないほうが、かえってやりやすいです)方法が、意外に主観的になり過ぎず、客観的に見ることができるのです。(展開枚数は、一枚引きなどの、少ないものが望ましい)

この理由(主観なのに客観的になりやすいの)は、問いが具体的であるということと、「どうすればよいか?」とか、「どうなるのか?」という問いの形式ではないので、あまり考えこまずに済むということがあり、感情の入らない直感性が出ることで、透明な感じで、答えが見つかりやすいのです。

いわば、自己分析、自己洞察に特化していくような質問を繰りかえしていくというイメージでしょうか。

もちろん、カードについて知らない(学習しない)といけませんが、知識よりも、カードからのイメージ、直感性も、このようなやり方で回答を得ていくには、大切になってきます。

普通、タロットカードからは、一枚一枚、象徴なので、いろいろな意味が出てきます。

通常の他人に行うようなリーディング形式だと、カードから様々なことを読み過ぎてしまい、つまりはいろいろな意味が出てきてしまうわけです。すると、結局のところ、よくわからない、どっちとも取れる・・・みたいなことにもなりかねません。

それで、自己リーディングの場合は、主観でしかないので客観からのバランス修正やセーブが効きにくく、たくさん取れる(解釈できる)意味から、自分の都合のよい解釈(希望や欲望のままの解釈)か、ネガティブや悪い方向での解釈かの極端性に傾くことにもなるのです。

しかし、上記のように、質問を工夫することで、カードの解釈の幅の融通性を少なくし、限定させ、自然と答えが出るように導くことができます。

ただし、あまりに限定したり、具体的過ぎたりすると、逆に解釈の幅がなさ過ぎて、お決まりの言葉とか回答しか出ない場合があるので、多少は幅が出るような問いは必要です。

結局、カードから何を得たいのか?は、自分が発する質問の種類、性質、内容によって決まってくる(答えが得られる)と言ってもよく、その意味では、自己活用においては、特に質問が重要になってくるわけです。

ただ、高度なタロットの自己活用になれば、質問のない展開、カードを実際に引かない(展開しない)やり方もあります。

私のほうでも、既存の講座で少しはやっていますが、今後は、もっと、タロットの自己活用について特化した、その考え方と具体的技術を教える講座を企画してもよいかと思っています。(希望者がいらっしゃるかはわかりませんが・・・)

多くの人は誤解していますが、タロットは人に占ったり、リーディングしたりするだけではなく、自分のために使うことのほうがメインだと、私は考えています。時には他人リーディングでさえ、自己活用の一環になる場合があるのです。

タロットに興味のある方、タロットを学びたい方は、改めて、何のために自分はタロットを学習するのか、その目的と意味も、考えてみるとよいでしょう。


その学びは、実際に効果があるのか?

タロットもそうですが、世の中には、いろいろな講座・セミナーがあり、知識や技術を学ぶことが、その気にさえなれば、容易にできる時代となっています。

昔は、師匠・先生・学校を探すのも大変で、書籍類にしても、図書館に行ったり、本屋を尋ね歩いたり、とにかく学ぶ前段階の、自力での探索努力が必要でした。

学ぶのも簡単になれば、教える人が出るのも簡単で、ますます学びの門戸は楽で多く開かれているようになったと言えます。

その分、いわゆるライトな学びも増えてはきましたが、基本、底上げというか、学びのしやすい環境は、全体の向上にもつながるよいところはあると思います。

しかしながら、深い学びになると、やはり、いくら縁あって、よい師や学校に恵まれたとしても、結局のところ、自分次第と言え、最初は指導を受けながらでも、最終的には自分のものにするためには、どの分野においても、まさに自分の哲学のようなものを構築し、完成していかなければならないと思います。

そして、それは唯一無二のものとなり、あなたの個性に応じた、ひとつの(学びの)完成の形となるのです。

ところで、学びにおいて、よく言われるのは、それが使えるのか(実際に効果があるのか)どうかという点です。

あるセミナーに出ていたところ、その講師の方は、「いくらここでわかった気になっても(“気づいた”と言っても)、実際に学んだことが活かされ、自分や生活が変わらなければ、それは学んだ(真に理解した)ことにはならない」とおっしゃっていました。

確かに、多くの人は、学びが単に知的好奇心を満足するためだけに終わり、最初はワクワクして学んでいても、講座とか学びの期間が終れば元に戻り、何事もなかったかのように、これまで同様の平常運転の自分と生活になってしまうことは結構あると思います。

セッションや相談においても、その時はとてもよかった、癒された、感動したとなっても、しばらく経つと、セッション時の感動はどこかに消え、これもまた特に変化のない日々に戻ることがあります。

では、何かが変わらなくては、本当に、その学びは効果がないと言えるのか? 受けた価値はないものなのか?と言えば、必ずしもそうではないと考えます。

自分の生活が、いい意味で激変するかのような教え(学び)はなかなかないのが普通ですし、たとえ、そういうものに出会えたとしても、自分(受ける側)にとっての相性というものもあります。

講師の伝える内容や方法ではなく、それを自分がどう受け取り、実践するのかのほうが、最終的には、自分の現実に効果を及ぼすかどうかが決定されると言えましょう。(講師からの強烈な洗脳などの場合は別ですが)

ただ、学びが現実に活かせない問題としては、与える側と受け取る側の双方にあると言えます。

まず、与える側の問題として、それが、文字通り、現実的な内容ではないということがあります。もっと言えば、具体策がないことであり、話は面白く、わかるにしても、どうすればよいのか?という具体案が抽象的であるわけです。

しかし、受け取る側としても、そもそも学ぶ内容が、あり方的や方向性を示すもので、具体的方法を講義するものではないと理解していれば(そのように教える側も伝えているのなら)、問題は起きないわけで、この場合は、受け取る側の想定違いということが考えられます。

これと同様に、あくまで知識を入れるためとして、現実や自分を今すぐ変えるための方法を仕入れに来たわけではないと思っていれば(つまり知的好奇心を満たすのが目的と割り切っていれば)、どの講座・セミナーにおいても、受ける側には有意義な時間となります。(とはいえ、知的好奇心を満たさないレベルの内容だと、そうではなくなりますが)

それから、教える側、与える側は、本気で変わってもらいたいと思って、いろいろと具体策まで講じているのに、受け取る側、学が側が本気ではなく、依存的な態度で、「変えてもらう」「学べば自動的に変わる」みたいな(受動的な)思いと態度でいれば、やはり効果が現実には起こりにくいのは必然と言えます。

自分と向き合おうとせず、知識ばかりを入れようとして、結局、その場しのぎで終わる人もあり、それはセミナーをたくさん受けたり、同じ技術の次のステップの講座を受けたりしても、堂々巡りを繰り返しているだけになります。

さらに、目的と学ぶ内容が、そもそもずれている人もいます。

集客したいのに、人を癒す技術を学んでばかりいても、非効率といえますし、健康になりたいのに、お金の知識とか投資のことを学んでいても、それは目的が違うことになります。(健康になるには、お金で健康を買う必要があると考えている人は、それでよいのですが)

また、私自身が思うのは、物質的観点から離れた、学びの効果も考えるとよいということです。

なんだかんだ言っても、学びの実際的効果といえば、現実や自分が変わることではありますが、その変わる内容が、結局、物質的観点によるモノや人の多寡(多いか少ないか)によること、あるいは精神的なことでも、結局、一般常識的な幸せ価値観による幸福感に満たされることなので、それもモノのあるなしに左右されていることが結構あるわけです。

平たく言えば、お金持ちになるとか、余裕のある生活ができるとか、コツコツ働かなくて済むとか、好きなことをして暮らせるとか、まあ、そんな手合いの内容です。

それは現実的に皆が望むのは、人として当然なところがありますし、何も悪くはないと思いますが、一方では、人はモノだけではなく、心や精神、霊性・スピリチュアリティの部分を持つ存在です。

現実的には、生活は何も変わっていないように見えても、学びによって、目に見えない領域には何かが蓄えられたり、今まで開いていなかった扉が開き始めたり、どうしてもとこだわっていたものがなくなってきたりと、内的な変化が起こっていることがあります。

もしかすると、その変化の詳細は、自分が亡くなってからでないと真にはわからないのかもしれませんが、それでも、ひとつひとつ、確実に、見えないところで変化が起こっていると考えられます。

それ(見えない領域での変化や成長)に気づいていくこと自体が本当の目的として、色々な現実における学習・学びをしているのかもしれないのです。(もちろん、実際での目的のために学んでいるのですが、その裏にある魂の目的のようなものもあるということです)

そして、ひとつ(の学び)が終わったからと言って、現実が急に変わるという見方をするのではなく、少しずつ蓄積されたものが、いつか花開くという観点になれば、どの学びも過程になり、やがてそれがリミットに達した時、満杯になった時にあふれ出して、本当の(実際の)効果として現れることもあるはずです。

自我意識としては、地上(現実)の幸福を求めて各種の学びを自己の意思、自分の選択で行っていると思っていますが、もう一方では、天・高次・神性・魂的な意味での幸福を求めて、その観点によっての(学びの)選択が、天上的示唆によって行われている(つまりは天の配剤のようなもの)とも考えられます。

天上的選択による学びでは、地上の幸福を表させないこともありえると思います。

このことは、マルセイユタロットでは、「恋人」と「神の家」で示されることでもあります。

ということで、言いたいこのひとつは、地上目線だけで、「実際に効果のない学びをしても仕方ない」「学んでも、現実が変わらなければ意味がない」と断じても、それは、あくまで地上的見方に過ぎず、違う(天の)観点では、大きな変化になっていることもあるのだという話です。

ただ、現実・地上目線では、確かに、効果のあるなし、効率・非効率はありますので、私たちが人間であるならば、その点も無視できないのは確かです。


失敗と成功

さて、今日の記事タイトルは、「失敗と成功」です。

ところで、皆さんは、成功したことがありますか? そして、失敗したことはありますか?

おそらく、多くの人は、失敗したことはたくさんあるけど、成功したことは・・・はて?どれだったかな?・・・

みたいな感じになるのではないでしょうか。国民性の違いはわかりませんが、成功したことを人にいいふらすのは、はしたないと思う、日本人の謙虚な姿勢も、もしかすると、そのように思ってしまう要因かもしれません。

ともあれ、失敗はよく覚えていたり、失敗したことは多々あったと思ったりするのに、成功という言葉に対しては、否定感が出たり、空白のようになってしまったりするのは、(あなたの中の)成功と失敗というものが、イコールの関係(質)ではないことを示しています。

平たく言えば、成功のほうがとても大きくイメージされているのです。もっと言うと、成功のほうが重たい、重要、難しいという思い(込み)です。

同時に、失敗というものは、小さく思われているというより、避けるべきもの、してはいけないものという禁止的なイメージになっており、従って、逆説的ですが、失敗という言葉のほうが、日常的に自分の意識に上ってくる(いつも意識してしまっている)のです。

つまり、「成功」は一握りの、まさに成功者が成し遂げたことという感じなのに対し、「失敗」は、こんな普通の私でも日常的にしてしまうもの、というイメージになっているのです。

これでは、失敗のほうが先に来てしまうか、失敗といつも友達で、失敗することが前提みたいになってしまいます。(本当は避けたいと思っているのに、失敗の意識がいつもつきまとっているので、失敗を選んでしまうようなもの)

極端なことを言えば、成功は難しい、成功してはいけないんだ、みたいな刷り込みになるわけです。

ところで、「成功」ということを象徴するタロットカードはたくさんありますが、一般的に見て、「戦車」があげられるかもしれません。マルセイユタロットにおいても同様です。

マルセイユタロット、あるいはほかのカードでも、「戦車」は「7」の数を持っています。7といえば、あらゆる面で調和や、ひとまとまりのセットとなる数でもあります。

タロットと数を象徴とする時、数は単なる番号ではなく、その数固有の性質を持つと同時に、タロットの数と順序にも関係してきます。

当然ですが、7の数に至るまでには、6の数・段階があるということで、タロットでは、それぞれの段階の象徴性を、絵で示しているわけです。

ここで言いたいのは、成功にも、大きな成功もあれば、小さな成功もあり、大きな成功の前には小さな成功の積み重ねと段階を経てきているということです。

言われれば当たり前のことであって、目新しい話でもないのですが、先ほどの「失敗」の話と比べると、意外に盲点になるところなのです。

失敗は、日常的に思うので、小さな失敗も大きな失敗も、記憶に残りやすいですし、そもそも失敗というものを、その細かな失敗も含めて、拾い上げやすいわけです。

しかし、成功は「大きいもの」「成し遂げるもの」という、巨大イメージなので、日常的に発見したり、それが成功だと意識することができにくいのです。

また人の成功は認識しやすくても、自分の成功はわかりにくいということもあります。(反対に、失敗は、自分のも他人のもわかりやすく、指摘しやすいのです)

これでは、成功がかわいそうです。(笑) もっと失敗並に、成功も拾い上げてみませんか?

ほんの小さなことも「成功」という名前を与えてあげるのです。また、できないこと(失敗)を拾い上げるのではなく、できたことを「成功」として、意識化することです。

「できた」というより、「なになにすることに成功した」と言い換えることもいいかもしれません。

あの人に仕事でメールできた(当たり前だけど、それも成功)、今日、スーパーで、安売りしていたものをゲットできた(小市民的だけど、それも成功)という具合です。(笑)

せめて、失敗の認識と同じくらい、成功も認識してあげると、成功は喜び、あなたを本当の、もっと大きな成功に導いてくれるでしょう。

サクセスの語源ともいえる、次へ導いていく、受け継いでいく(ちょうど、道が伸びてつくられていくかのように、できた道の向こうにまた続けて道ができることで、到達していくという印象)のと同じで、ひとつひとつの小さな成功(感)が、大きな成功へと続いていくのです。

タロットの「戦車」も、その自信は、1の「手品師」から6の「恋人」を通って、小さな成功(勝利)を受け継いできたから出ているのです。

もちろん、成功には失敗はつきものです。失敗を避けようとしたり、ネガティブに思い過ぎたりしないようするのも大事で、よく言われるように、失敗は成功のもとです。

そして、失敗も成功も、ただの言葉であることを意識すると、それはあなたが決めること、決めていることでもあるのです。

成功の多い人生にするか、失敗だと思う人生にするかは、あなた次第であり、見方の違い、言葉のあてはめ方の違いでもあるのです。

究極的には、失敗も成功もありません。人がどう思おうと、あなたが成功だと認定すれば、それは成功となりうるのです。

成功ともっと仲良くなってみましょう。


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