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バーチャル世界の危険性

タロットはイメージの世界とも言えるほど、タロットとイメージは関係が深いものです。

イメージもつきつめて行けば、非常にリアルなものになってくるのですが、これと似たものに、最近とみに発達してきたバーチャル世界、バーチャル体験があります。

しかし、個人的に思うのは、今、技術的にもリアル(現実感覚)にほとんど近づきつつある、機器によるバーチャルな世界は、かなり危険があるように思います。

今のバーチャル世界は、実はイメージとは関係なくなり、言ってみれば自分がイメージするのではなく、勝手に機械が作り出した世界を仮想現実として体験しているに過ぎない状態です。

マルセイユタロットにある秘伝的な思想では、この現実・リアルですら仮想空間のようなものだと語られます。

そのうえ、さらに現実の中でバーチャル空間が作られるわけですから、仮想の仮想ということで、何重にも自分をだましていることになります。

マルセイユタロットの教えによれば、私たちの認識不足、認知が曇らされているために、この現実への認識も、真実の姿ではなく、仮想的なものとして、真実の投影空間のように体験していると示唆しています。

このことを、「牢獄に入っている(囚われている)人間の状態」と例えられることもあります。

それなのに、さらに偽物(影)をモデルにして、そのまた偽物を作って楽しむというのがバーチャル世界です。

言わば、牢獄の中にさらに牢獄を作るようなものです。

マルセイユタロットの教えでは、私たちが霊的(な覚醒)に重要なのは、この牢獄状態から抜け出すことにあると語られますが、人類は、バーチャル世界の発達により、ますます牢獄ライフを加速させようとしています。

私から見れば、バーチャル世界は、牢獄ライフからのさらなる逃避(麻痺の加速)であり、真実から遠ざけるものと映ります。

自分でイメージを喚起して、思索を象徴的に高度に進めていくのとは逆で、バーチャルはイメージによる創造・思索を放棄し、私たちを一層、奴隷にしてしまう世界(装置)だと言えます。

ほかに、アニメーションもイメージ・二次元の世界ですが、この世界に入りたいという人や、どっぷり二次元に浸かってしまって、二次元キャラしか愛せないというのは、逆にイメージに囚われ、バーチャル世界に反応的・奴隷的になっているのと同じと言えます。

アニメの描くイメージとストーリーの世界から、思索を深め、感性を高め、創造性を刺激し、プラトン的に言えばイデアに接することが大切なのです。

ただ、何事も悪いことばかりでありません。バーチャル世界においても、よいことはあるでしょう。

例えば、バーチャル世界の擬似的環境の体験によって、ストレスの軽減、ちょっとした心の解放、心理的なセラピー、ホルモンバランスや脳内物質の調整などのために、使える余地は残されていると思います。

ただあくまで、一時的なものであり、ずっと使い続けたり、その世界に浸りすぎたりするのは、霊的な退行と言えるものを自分にひどくもたらせてしまうのではないかと危惧されます。

(マルセイユ)タロット的な言い方をすれば、自分が悪魔のエネルギーに取り込まれ、エゴの肥大と、自我(提示の自分)と自己(高次の自分)の分離を激しくさせてしまうと考えられます。

マルセイユタロットの教えには、自分の神性に目覚めるというのがありますが、自分の内に神を見ようとするのと、自分が神であると思うのとではまったく反対ではあるものの、実はプロセスとしては似たようなところもあり(これは説明すると難しいですので、ここでは割愛します)、神性が悪魔にすり替わり、妄想世界の自我に囚われる危険性もあるのです。

そして、ネット世界もバーチャル世界と似たところがあるので、ここも誘惑と堕落の罠に満ちています。

自分に自信がなかったり、現実に嫌気が差していたり、不幸だと思ったりしている人は、自我(エゴ)を一時的に満足させてくれる、ネットにおいてのカリスマ的な人や、そうした人が話す言葉、書く文章、見せる技術に魅了されます。

しかしそれは、ネットにおいて作られた虚像ということもあるのです。

ネットでの虚像がすでに強固に、自分がそれに囚われると、たとえリアルに面会しても、その虚像が自分に生き続けることがあります。

なぜなら、リアル・現実も虚像のひとつ(投影する空間)だからです。

確かにリアルのほうが実像に近くなってくるでしょうが、二重の投影が一重になるだけで、あまり変わらない場合もあるのです。

まあ、それでもそれらも含めて、人生、現実、すべてが味わい、体験だとすれば、いいも悪いもなく、バーチャルでもネットでもすばらしいものと言えます。

もし問題があるとすれば、まったく無自覚な状態にいることであり、提供されるもの、目の前にあるものに、ただ反応しているだけという人生になることでしょうか。

それでも充実した人生だったと思えれば、十分なのかもしれません。

バーチャル世界とは別にして、現実とは何か、どんな価値があるのか、については、いろいろな意見や考え方があるでしょう。


タロットで物事を選択すること。

人は生活をしていく中で、判断に迷うこと、選択に悩むようなシーンに置かれることは多いものです。

こういう時、タロットが役に立つ・・・と思われているようですが、私の考えでは、これはそうと言えるところもありますし、そうでもないとも言えるのです。

占いでも、タロットは「卜占(ぼくせん)」の分野として、偶然出たものから何かの判断をつけること、選択を提示することには適していると考えられており、実際そのように使われることは普通です。

ここで、二択、三択など、複数の候補から何かを選ぶという問題で、それをタロットで決めたいという時、その選び方の基準がどうなのか、どうなってるいるのかを冷静に考えてみると見えてくるものがあります。

結局、そのような場合、タロットカードに何らかの良し悪し、優劣を設定いるから判断できるものだと気づくでしょう。

ではその良し悪しの基準は何なのか? とさらに見ていくと、カード自体にある良し悪しなのか、カードの絵図・意味から推定される良し悪しなのかということになってきます。

カード自体にある良し悪しとは、タロットカードのシステムや伝統性に基づいて象徴されている(決められている)意味合いのようなものであり、カードの絵図・意味から推定される良し悪しとは、そのままカードの絵柄を見て出てくる感覚、意味から判断される良し悪しです。

前者と後者は似ていますが、前者が最初から「ある基準」で統一されているのに対し、後者は感覚的なものも含みますから、流動的な基準になることがあるということです。

そして後者の場合は、タロットリーダーの人間的判断が多分に入りますから、そのタロットリーダーの持つ価値観に影響されることが強いのです。そのため判断の度に、ぶれることがあります。

まあ、タロットというものはほぼ主観に基づく判断になりますので、個人的価値観が入るのもむしろ当たり前のことで、悪いわけではありません。

前者の場合は、タロットリーダーの感覚はあまり関係なく、ある決まり、法則によって判断されるので、ぶれることがありません。

ただ、画一的になりやすく、その決まっている法則・基準が、どのモード(世界観・ルールの背景)で決められているのかを知っておかないと、出す判断には、クライアントには合わないことがあります。

普通、私たちが何かに迷い、それでも決めなくてならない時、何らかの価値基準・ルールに沿ったもので判断します。しかしその基準が、一人の人間の中で複数あるからこそ悩むのです。

例えば、お金・経済・数値の基準、好き嫌いとか快・不快、気持ちの基準、時間的(短期・長期など)基準、合理性・多数・平均化の基準、人情・義理などの基準、見栄・プライドなどの基準・・・数々あるわけです。

これらが複数絡まり合うのが「人間」ですから、判断に迷うことになるのです。

タロットの場合は、そのシステムによって、カードに最初から基準や意味が決められています。ですから、この場合は合理性で行くべき、お金や経済基準が中心、気持ちが主要な選択基準・・・と出たカードで判断できるのです。

人が生活シーンで迷う主要因は、タロット的には4つの分野に集約することができ、すなわち、裏を返せばこれは4つの基準ということになります。

この4つの基準が明確なのは、タロットにおいても小アルカナというパートになり、従って、小アルカナを使うことは、私たちの実際(生活・現実の人生)の悩みに、その時々で基準や判断を示してくれるのには向いていると言えます。

一方、タロットには大アルカナという絵柄のついたカードたちがあり、このカードは絵柄があるために、イメージで読みやすいのですが、反対に、いろいろな意味も出てきて、いわば抽象的な世界観を表すようになります。

カードシステムの基準ではなく、あくまでカードの絵柄から判断しようとすると、このように多様に読めてしまうカードにあっては、判断もまさしく多様になり、かえって決めにくくなることもあるわけです。

そのため、タロットの世界ではスプレッド(展開法)を決め、カードを置く位置、またはカード自体のポジション(正・逆)によって、良し悪しを判断する方法が確立しています。

ということで、大アルカナ、小アルカナ、どちらか、あるいは両方使う場合にしても、タロットでは、判断を下せるような読み方・方法があるので、最初にも述べたように、占いなどのシーンで、迷いの決断に使われることが多いのです。

と、ここまでいろいろと書いてきましたが、もしかすると、何人かの人は気づいたかもしれません。

カード自体に良し悪しの基準があったとしても、出たカードを感覚的に読んで良し悪しを決めるにしても、カードに従うのが正しいのかどうか?と、そもそもの疑問に思う人・・・

また、「カードは、確かに今の判断に重要となる基準・観点は示してくれるかもしれないが、自分としては、ほかの基準も大事なように思えたり、見たカードの感じが、タロットリーダーの言っているものとは違うように感じたりする」という人もいて、カードの、あるいはそれを見てのタロットリーダーからの判断が、素直に納得できない(何かもやもやする)という場合もあるのでないか考える人・・・

そうなのです。そのような疑問を持つのも当然と言えば当然なのです。

これはタロットに限らず、カードやモノで何かを判断すること自体の信頼性の問題にも関わります。

ここまで疑問になってくると、もうカードを使った判断をするのには関わらないほうがよいかもしれません。まあ、そういう人は、そもそもカードに関心も抱かないとは思います。

しかし、タロットに興味があり、タロットの学習とその活用を望む人の中でも、こうした疑問を抱いてくる人もいると思います。

そして、この記事の最初に戻るのです。

何かを決めることに、タロットが役に立たないこともあると書きました。

そう、タロット(マルセイユタロット)は、何かを決めることには向いていないというか、そういうものの使い方ではないと、今の私は考えているところがあります。

もちろん、長々と説明したように、タロットによって決める、決めることができるという「世界観」「ルール」のようなものは確かにあります。

しかし、決めることを補助するというタロットの使い方ではないものもあり、そのほうがタロット活用の本質に近いのではと推測しています。

その意味について解説すると長くなりますので、タロットの講義や、別の機会に譲りますが、簡単に言えば、「迷い→決める」というプロセスそのものに意味があり、決めることを目的とする考えではないということです。

いやだからと言って、人生において、決めることの意味はないと言っているのではありません。

実際場面(現実問題)では、決断しないとならないことは、仕事やプライベートにおいてもたくさんあるのが私たちです。

そしてその決めたこと、決断したこと、選択したことによって、人生が大きく変わることがあるのもまた事実です。

そういった現実においての選択の重要性を見て、できるだけいいと思える方向を示唆するのも、生きる術のひとつでしょう。それにタロットというカードを使う方法もあるわけです。

その一方でまた、人(人生・現実)を違う見方で俯瞰するような視点もあり、そのためのツールとして、タロットが活用できる場合もあるのです。

必死になってよい方を探す道(そういう時)もあれば、「どっちでもいいや、出した決断には責任は持つけど、楽しんで行こう」という、旅人のように考える時もあるのが私たち人間であり、そのどちらにもマルセイユタロットは使えるものなのです。


災害とお祭りに思う。

今の時期、京都では祇園祭がありますね。

だいたい夏の時期のお祭りは、火除けや疫病除けなどの祈願に関わっているものが多く、ムラでは稲を中心とした作物への、順調な生育への願い(虫除け的なものなど)が込められていたようです。

ところで、このところ、日本では災害があまりにも多くなっています。

これは日本だけとは限らず、おそらく地球規模の変動に関係しているものと思います。これが単なる自然だけの原因ではなく、間違いなく人間の要因もからんでのものでしょう。

というより、人間も地球や自然の一部であると考えれば、災害や天変地異も、当然、人に関係しているものと考えられます。

災害で被害を受けたり、脅威にさらされたりするというような、「被害側」「受容側」だけの意識ではなく、私たちも気象の変化、災害を起こしている側に関係しているのだという加害的・能動的認識も、今必要だと思います。

そこで祇園祭の話に戻ってきます。

祇園祭は、貞観(およそ860-70年)年間に起源を持つと考えられ、最近では、東北大震災の影響で、貞観時代との関連が取りざたされ、災害から見た祇園祭の意味が見直され始めています。

貞観年間は、恐ろしく災害の多かった時代で、東北大震災・津波、阿蘇山・富士山などの噴火、播磨や京都での地震など、まさに日本列島全体が鳴動していた時代と言えます。

そして、現代もおそらく、この時代と同様の、列島の活動期、あるいは災害多発時期に入ったとものと推定されます。

祇園祭も、姫路の広峰神社から牛頭天王という神格を勧請し、疫病・災厄から京都を静めようと祭が始まったとされています。

この牛頭天王が何者であるかを考察するのも興味深いのですが(マルセイユタロット的にもある法則に基づくカードたちで象徴されると考えられます)、それは今回は置いておきまして、ここでのポイントは、災厄を静めるために、その当時、すでに地震のあった播磨地方(今の地名では姫路を中心とする地域)から、強力な神を招き入れ、京都(当時の意識での全国の中心)を安定させようとしたということです。

そしてそれが、「祭」という行為でもあったことです。

災害や天変地異が起こると人は祈りますが、前もって無事や災難に遭わないようにと祈ることもします。

科学的に、祈りは、大地や気象などの自然に何も効果も及ぼさないと、今は考えられているでしょう。

しかし、当時はお祭り(祀り)によって、それを行おうとしていたわけです。

「昔の人は無知だから仕方ないよなあ」「今はただの観光的お祭りでしか意味ないよ」と人は思うかもしれません。

私も下手なスピリチュアルな感じで、祈れば大地が静まるということを単純に述べたいわけではありません。

私は大学時代、「環境民俗学」なるものを提案されていた教授のゼミに在籍していましたので、民俗学的観点で見た環境保護のシステムを知っています。

これとは厳密には異なるのですが、民俗的行事や信仰、行為が、実は意外な働きをしているということがあり、それで考えると、祇園祭も含めて、災厄除けのお祭りとその祈りには、私たち自らの心を安定させる効果によって、環境そのものにも影響及ぼすシステム(メカニズム)が働いているのではと思うことがあります。

私たちが祭り・祀りというハレ的な行事・行為を行うことによって、もちろん、信仰的なものによる、神のエネルギーの発露やその享受という意識も芽生えるのですが、同時に、皆でひとつの大きな行事を行うことで、意志の統一が図られ、厄除けであれば、「厄」すなわち、今の時代でいうならば「災害」に目(意識)を向けることになり、神に祈ること、神に静めてもらうこと、守ってもらうことという「ストーリー」によって、祈る人間自らの心の安定をもたらせていたと考えられます。

これが、多くの人がリアリティを持つ、強い「神」であればあるほど、効果も高くなります。

しかも行事・儀式を行うことで、それが現実に見える形での像として記憶され、その体感により、より「静めの儀式を行った」という安心感(実感)につながります。(敬虔な祈りの部分と、楽しく、あるいは激しく行う祭り行事との融合で、ネガティブな気持ちが解消、浄化、発散される効果もあり)

心の乱れが自然や環境の乱れにもつながると見ると、私たちが危機感を持ちつつも、安心安寧に意識が変化して行けば、自然もまさに「自然に」治まっていくことも予想されます。(周波数との関係も想定できます)

安心することと油断することとは違い、祭りを行うことで、過去の災害の記憶も伝承され、忘れ行く意識を喚起させることに奏功し、防災意識も働いていた(それが静めにも影響していた)のだと推測されます。

ただ祈れば何とかなるという神頼み的なものではなく、自身の内に神性があること、そして、ネットワーク的に、多くの人が意識することでその部分が覚醒連繋し、静めの効果につながっていくと思えるものです。それは受動的なようでいて、能動的なものです。

むしろ静めるというのは結果であり、そのプロセスのほうが重要かもしれません。

現実的に環境整備や物理的なことの防災を進めていくことも重要ですが、一方で、人々の意識・心が、やたらと騒動するような今の時代にあるからこそ、意識を静めていく(調整していく)行為としての神聖儀式、祈り、お祭り(お祀り)というものを見直し、観光や経済、娯楽の側面だけではないことも思い直すとよいのではと考えます。

人は助け合い、共同的に生きているものであり、自分だけがわがままで生きればよいというのでは調和と言えず、全国的災害規模となる今となっては、全体での意識と働きかけが重要になってくると思います。

従って、今のような災害も、むしろ統合のための災厄としてとらえていくと、起こっている(神仏的には怒っている)理由も、霊的には想像できるものです。

そして貞観時代の再現のように今があるのならば、時代は大きなサイクルで動いていることも考えられます。(マルセイユタロットでは、「運命の輪」「力」に関係します)

しかし、たとえ同じサイクル・回転があったとしても、まったく同じことを経験するわけではなく、もっとひどいことにもなれば、もっと軽くなることもあるわけで、それは回転を螺旋の動きとして見れば、堕落と向上の両方の分かれ道があることが見えてきます。

願わくは、堕落や同じルートのループにはならないよう、脱出、次元を上昇する意識と行動にしたいものです。


タロットによるセラピーの区分

世間では、タロッセラピストを名乗る方もいらっしゃいます。

タロットはいろいろなツールとして使うことができるため、もちろんタロットを使ったセラピーも可能だと思えます。

また、セラピーとは何なのかというセラピーの定義づけによっては、タロットによるセラピーの種類や方法も変わってきます。

一般的に、セラピーといえば、心身の癒し・治療を行うものと考えられます。

ただし「治療」と言ってしまうと、日本では法的な問題があるので、医師や、その他特別に許可された資格を持つものではないと、「治療」を謳うことができませんので、厳密には治療とセラピーと異なる部分もあるでしょう。

ともかく、タロットを使って占いやリーディングをするにしても、相談に来た人、クライアントが何らかの形で癒されたのだとすれば、それはセラピーだと大きな意味では言えそうです。

ただ、例えば、当たることを重視する占いであったり、カードを読み解いて、単なる「ある情報」を与えるという意味でのリーディングであったりすれば、それは受け取る側も、与える側も、セラピーをしているような雰囲気にはならないでしょう。

セラピー・癒しといっても、どの部分(程度・レベル)まで癒されるのか癒すのかを考えると、クライアントを深く癒していくことまで志せば、「癒し」というよりも、言葉として「浄化」「変容」というニュアンスに近くなる気もします。

ということで、私は現実的に考えて、タロットを使ってのセラピーを考える場合、次のような区分をまずは想定するとよいと思っています。

こうした種類分けをしておくことで、自分の知識、経験、実力によって、どの区分をメインとするセラピーをするのかが整理できるからです。

 

1.占い・状況判断的タロットリーディングによって、結果的にセラピーとなっているケースがあるもの

2.表面的意識の情報を超えた(あるいは、表面とは別の意識の)情報、心理的情報などをタロットリーディングによって探知し、クライアントに認識してもらうことでセラピーとなるもの

3.タロットを使って、能動的に浄化・変容を促し、治療を施していくセラピー

 

1は、タロット占いや、何かの判断を求められるリーディングを行い、結果的に、クライアントが癒されたと思うことで、セラピーになっているというものです。最初からセラピーを意識しているわけではないという点がポイントです。

2は、特にマルセイユタロットリーダーを目指す人には想定してもらっているメインのところ(そのレベルを中心フィールドとする)になりますが、タロットリーディング(必ずしもタロットリーディングの手法だけとは限りませんが)で、主に心理的情報も読み、クライアントが気がついていなかったり、常識的観点で抑圧してしまったりしている部分を探査し、それをクライアントに認知してもらうことで、心理的統合、あるいは心理的物語の調整が図られて、癒しが起こるというセラピーです。

重要なのは、能動的態度で、相手を癒す気持ちでタロットリーディングを行うのではなく、あくまでリーディングを行っているうちに、その読んだ情報が、クライアントの心の解放や調整につながっていくものになるという形式です。

次の3との違いにもなりますが、クライアントの不快な症状とか心理的問題を治療したり、軽減したりすることを第1目的とはしていないというところなのです。

それはむしろ心理的治療、あるいはサイキックな治療としての専門家が行うべきもので、能力や知識、経験にもよりますが、タロットリーダーがそこまで担うものでもないと言えます。

簡単に言えば、クライアントの「気づき」までのサポートを行う役割で、その気づきに至る情報も、(治療的にも)正しいとか正しくないというところにはなく、あくまでタロットと、リーダーの主観も伴った「ひとつの情報」であり、それが1の区分と同じように、結果的にセラピーになっているということなのです。

1との違いで言えば、1のほうが心身の癒しが、クライアントからは必要とされない場合も多く、要は判断や決断の示唆、選択の良し悪し情報みたいなものが中心となり、それに対して2は、1よりも、心の癒しや浄化の視点を持ってタロットリーディングを行うという点にあります。

そして、3は、タロットを使っての治療も目的とする(治療も視野に入れての)セラピーであり、クライアントの回復と大きな変容を目指す、セラピー中のセラピーと言えましょう。

この場合、直接的なものと間接的なものがあり、直接的なものとは、実際にタロットを体に当てたり、心理的治療ツールとして使ったりするというもので、間接的なものは、タロットカードの象徴を利用して、カウンセリングしたり、精神分析したりして、クライアントに(心理的・サイキック的)治療を施していくというものです。タロット以外の道具や技術も使用することもあります。

こちらのほうは、先述したように、法的問題があるので、実際にやっている方は少ないかもしれません。

また、この区分でのセラピーは、普通はタロットリーダーとしては目指す必要もないでしょう。治療までやって行きたいと望む人が踏み込む分野です。

もっとも、2と3の中間のような人もいらっしゃいますし、それはその人の個性、能力、知識にもよってくると思います。

セラピストを名乗ることで、癒しを求めている人に訴える意味も出ますが、一方で、何が何でもクライアントを癒さねばならないとか、癒しのための気づきを与えねばならないとか、変なプレッシャーがかかって、セラピストとしての自分を縛る結果になる危険性もあります。

素直にタロットの情報を多角的に読んでいくことで、結果的に癒しが起こるという程度に考えていくほうが、タロットセラピーと無理に言わなくても、セラピーがやりやすいこともあるかもしれません。

またいくら癒しが目的であったとしても、クライアントを過大評価したり、よいことばかりを言ったりするのは、セラピーにはならないでしょう。

マルセイユタロットでも「13」と「節制」が、数の上での並びでも向き合っているように、苦しみ、自分がつらいと思っていることに向き合うことで、本当の癒しが起きます。

つけ加えると、逃げることが決して悪いわけではなく、時に逃げて安全な場所を確保することも大事です。つまり、自分を本当の意味で大切することであり、その視点では逃げるのもありとなります。

自分を大切にするということでは、自分の人生に起こったことに対して真摯に請け負っていく態度が求められるます。

単なる逃避、ヤケ、怠惰、他人への迎合、自己卑下、抑圧などは、むしろ自分をひどく扱っていることになるのです。


正しさの判断がわからなくなっている人に。

マルセイユタロットの全体としての見方では、上昇や下降しての、いわゆる「レベル」や「次元」の上下という成長(調整)方向と、それとは異なる、すべてをひとつと見ることを前提としながら、逆にバラバラに分析していくような方向性(分離と統合)とがあります。

実はその両方を同時に見ていくことが鍵でもあるのですが、こうした物事の把握の仕方をしていくと、矛盾しているようなことも、案外と自分の中では整理したり、理解したりすることが可能になることがあります。

例えば、物事には順序・段階があり、何事も簡単にできるものではなく、ひとひとつの積み重ね、様々な経験を通して成長していくものだという考えがあります。

これがさらに強調されると、成功や目標、幸せも、簡単には手に入らない、それ相応の努力と、確かな経験を積まないと達成(完成)しないのだという、実は皆さんが好む、サクセスストーリーの裏話(実は影ではものすごい努力をしていた・・・みたいな話)のようなことになります。

ところが、現実には、努力をしなくてもうまく行っている人もありますし、目標に向けて、それなりの作業や行動はあったとしても、それが「努力」や「つらいこと」「苦行」「成長のためのたくさんの経験」のようなものとして、必ずしもいるわけではないこともあります。

また、最近では、心理系・スピリチュアル系ではよく見られる主張ですが、努力とか、頑張ることはしなくてもよい、自分がしたいこと・したくないことをはっきりさせていくことで自分らしさが出せて、周りの人も「自分(周囲から見れば「あなた」)」のこともよくわかってもらえて、のびのびと生きやすくなるという人もいます。

そうかと思えば、人としての成長は、たゆまぬ努力、他人や周囲との軋轢や気遣いなども経験して、大人になるものだという人もいます。いわば圧力や試練が人を成長させるという話です。

まあ、今は後者は時代遅れの話として、嫌われているところがありますが、それも結構誤解されていると思うのは、試練に耐えて成長した暁には、逆に自分らしさを、適切に、しかも自由に出せる胆力とか気風とか、判断力がついているという前提があります。

刀を鍛えて完成すれば、すばらしいものになり、何でも切れるし、防御もできる無敵の刀が誕生するというイメージです。ですが、鍛え方を間違うと、途中で折れてしまったり、曲がったりしてしまうので、鍛えるにしても、その加減が大切ではありますね。

それはともかく、話を戻しますと、これだけ今の時代、いろいろな方が、様々な話をすることで(情報がスコールのように降り注ぐ時代で)、「自分はいったいどうしたらいいのだろう・・・」「誰の言っていることが正しいのだろう・・・」と悩んでしまう人もいると思います。

問題のひとつは、「正しいものがひとつしかない」と考えることにあります。

たとえ真理がひとつであったとしても、この現実次元は、一人一人個性をもって生きている世界です。

従って、すべてはオーダーメイド、処方箋(自分に正しく作用するもの)は一人一人違うのです。現実においても、医者が処方する薬自体は同じでも、その種類の組合せ、容量・用法は一人一人違うことが多いものです。

身体は当然のこと、ましてや思想や精神まで考慮すると、一人一人違っているのは当たり前ですから、正しいものも、人の数だけある世界と考えるのが妥当です。

というのが、上下方向に、成長・下降を考える観点です。レベルの違い、次元の違いで見る方向性ですね。

究極は人は皆同じ、「宇宙」そのものであったとしても、現実次元では個別であること、そうした表現になっており、逆に言えば、「正しさ」というものが、どのレベル(範疇)で述べられているのかによって見ていくと、「正しさ」に関する悩みも少なくなるでしょう。(ただし、同じレベルの中では正しい・正しくないがある世界ですから、そこでの悩みはあります)

しかしながら、上下方向(で見ること)の欠点は、どうしても高い・低いの優劣みたいな段階を投影してしまいがちなので、その階段を登るために、努力しなければ成長できないという発想に囚われることにあります。

そのため、上下ではなく、左右や全体を円のようにしてみる見方も取り入れるとよいです。

上下では、自分が下にいて(あるいは上にいて)、登る(上る)か降りる(下る)かの視点になりますが、円的な観点では、自分を中心に置き、あらゆる要素が周囲に散らばっていると見るか、円そのものが自分であり、その円の中にすべてのものが入っていると見るわけです。

そうすると、自分自身は本来、円として完全、あるいは中心点として、どこに行くこともないし、周り(か、円の内側)のどことも関係しているという図形的特質からの感覚が出てきます。

そこから、「自分はもともと完全だから、欠けていると思っていところや、黒く塗りつぶされている部分を回復させればいいのだ」という発想になってきます。

こうなると、上下方向に階段状に成長していく、試練によって鍛えられていくというのではなく、今、気づきさえすればいいい自分の中心を取り戻せばいいということになってくるのです。

これは、努力したり、試練を受けたりして頑張って成長するというよりも、自分(らしさ)、自分軸・自分としての中心点を回復させることのほうが重要という見方になってきます。

だから、この観点では、人は一瞬でかなり変われることもあり得ますし、段階を踏まずとも、急に成長したかのようになることもあるわけです。

ただし、これもどちら(上下垂直的観点と、左右円的観点)が正しいかと言っているのではなく、観点をいろいろと持っていれば、「様々な人の言っていることを矛盾に感じたり、迷ったりする自分の心」を整理したり、納得させたりすることができるのだと述べているわけです。

もちろん、人ですから、誰でも好き嫌いのような感情はあります。

「この人は嫌いだから、この人の言うことは間違っている」と感じたり、「あの人の言っている内容は自分も好きで納得できるから、たぶんあの人はいい人だ」みたいになったりすることがあるわけです。

ただ、これも「感情」というものを中心にした見方です。これに対して、よく言われるように、反対概念として「思考」があります。

言わば、心が感じるか、頭で考えるかみたいなことです。

そしてたいていまた、スピリチュアル系統になりますと、心・ハートで感じたほうの選択がよしみたいなことで言われるのですが、ここで、心も頭も、あくまで人に備わったひとつの見方・観点としても見るのも面白いです。

マルセイユタロット的には四大元素と第5元素の思想が伝わっていますので、それを援用すると、私たちは心や頭(で感じたり、考えたりすること)それ自体が本分ではないということであり、結局、感情も思考も材料みたいなもので、それらを判断し、統合する「本質の自分」というものがいるわけです。

てすから、その視点からすれば、心で感じたことが正しいとか、頭で判断したほうが正しいとかの、まさに「正しさ」での発想・悩みとは異なってくることになります。

まあ、人によっては得意とするタイプがありますから、心がセンサーとして感度が高い人もいれば、思考のほうがそうであるという人もいます。性別的な違いも考えられます。

ですが、それは、自分の本質そのものではなく、自分の一部であるということです。(ただし一部ではあっても、違うレベルにおいての全部にもなっているというところが密儀的にはあります)

いつも全体を俯瞰している「魂の部分」と言いますか、もう一人の自分、本質の自分ともいえる者がおり、それらは心や頭で判断する(判断したと思っている)自分とは別です。

その本質に気づいていくことが、おそらく霊的な観点や成長につながるのではないかと、マルセイユタロット的には考察できるのです。


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