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「二極化」という言葉と自分の立ち位置

以前から言われていますが、ここ最近でも、「二極化」という言葉をよく聞かれるのではないでしょうか。

現実的なフィールドにおいては、勝ち組・負け組持てるもの・持たざるもの、貧富の差みたいな経済的な基準での二極化と言われることもあります。

一方で、スピリチュアルの分野においても二極化というたとえが出てくるようです。

それも簡単に言ってしまえば、新しい知性・感性をもった人になるか、従来の価値観のままでいる人かのような分け方で言われることが多い気がします。

スピリチュアル的には、確かにそういうところもあるのかもしれません。

ただ、こうした言い方の中に、すごく傲慢な、選民思想的なものを感じてしまう部分もあります。

自戒を込めて言っていますが、二極化という言い方・見方によって、いつのまにか私たちは、知らず知らずに、自分を、「私は気づいている方」「わかっている方」「進化している方」とし、同時に、「まだまだわかっていない人たち」「停滞・退化している人たち」がいると明確に区別する二元化、いや差別化を自分の中で生み出しているともいえます。

前にも書きましたが、スピリチュアルに傾く心理の中には、自己評価と自己尊厳の問題が隠されていることがあり、現実フィールドと自分(らしさ)の表現の狭間に悩み、逃避的に、自分は別の世界では認められる存在で、選ばれるべき人間であるというような錯覚を生じさせ、自らを異世界に飛ばす人がいます。

平和や調和を尊ぶ(訴える)にしても、シビアな現実や自分にとっての都合の悪いところは切り離し、結局、自分さえ良ければよい、助かればよいという考えになっていることもあるわけです。

仮に、いい方向と悪い方向、または進化の方向と退化・停滞の方向性があったとして、そのどちらかに人が二極化しているという状況があるにしても、進化の方向に合致しない人は放置してよいのか、切り捨ててよいのかという問題があるのではないでしょうか。

いや、すべては自己選択の問題であり、進化の方向に行かない人というのは、自ら好んで選んでいるわけで自業自得なのだという人もいるかもしれません。

神や宇宙は愛と慈悲のエネルギーと言いながら、冷酷に基準に満たない者、気づきがない者はうち捨てられるものなのでしょうか。それも人間レベルではわからない、大きな意味での宇宙・神の愛という人もいます。

いろいろな考え方はあるでしょう。どれ(どの選択)も自由で個性であるというのなら、本当に何でもありの世界です。

ならば、自分としてはどうしたいのか、どうありたいのか、これもまた自由な選択と言えますが、逆に、そこをはっきりさせていく必要もあるという気がします。

私自身でいえば、二極化のどちらかに傾いたり、行ってしまったりするのではなく、なんとか両者(極)の中立性や架け橋であろうとしたいです。

無理にそうしたいというより、自然とそうなっていく傾向があり、不思議なもので、こればかりは何か魂のデータのようなものがあるのかもしれません。

従って、実は、自分の立場とか傾向とか、役割というのも、やはり魂か何かに刻まれている可能性があるように思います。どれがよいとか悪いとかではなく、やはり自分に適したもの(役割・表現)があるのだと感じます。

架け橋であろうという態度は、例えば、もし、たとえ進化から切り離される存在の人達がいるとしても、本当にその状態が好きで、何らかの全体性の役割でもって演じている人もいる一方で、知識や情報の不足、誤謬、手段の間違い、センサーの鈍化などで、本来の自分とは異なる状態にされているとすれば、その状態からの脱出に、手を差し伸べることができないだろうか考え、行動するものです。

「気づかないのなら仕方ないよね、私たちはすでに知っているから先に行くね」というのではなく、先に進めない人、残された人は、本当のことが知らされていない、騙されている、意固地になっている、マイナスやネガティブな気持ちで自分を縛っている、そうそう簡単に浄化や平和な気持ちになれないなど・・・様々な現実性との葛藤があるこしを考慮し、コツコツとながらも、先に行く人たちの道に追いつける方法を一緒に考えたい、実行していきたいという気持ちなのです。

こう書くと、上から目線のような、傲慢でおこがましく、何様なんだ、という感じになってしまいますが、決してそういうつもりではないのです。

自分も含めて、一般人の悲哀と言いますか、一見、幸せや喜びの多い人間それぞれの人生であっても、全体から見ればまだまだ苦境にあると言え、多くの不幸も現実に見聞きする中で、自分一人が幸せに(自我的な幸福の追求と実現)になったところで、真の意味で幸せとは言えないということを述べているわけです。

そして、自分も救いながら、ほかに救える人がいるのなら、何とかあきらめずに出来る限りのことをしていこうという思いですし、自分もまた他人から救われ、啓示を受けることもあると考えます。

自ら覚醒し、遠くロケットで飛び去って平和の王国に行く人たちもいいですが、どうしても、自分一人、あるいは仲間うちだけロケットに乗り込むということでは納得できず、ロケットを作る仕組みがあるのなら、それを理解し、皆で創り上げていきたい、大勢の人が乗れる宇宙船でもって王国へ航行して行きたいという感じです。

進化した次元の地球(太陽系)と、今のままの地球(太陽系)とは、見え方も、住民もまるで違うものだということはわかります。

しかし、たとえば、前者が青色の地球で、後者が赤色の地球だったとして、それを混ぜ合わせてにできないかという考えもあると思うのです。

紫にするためには、青も赤も必要で、その意味では混沌とした状態から、覚醒や進化した人、先に進む人(次元)が出る必要もあります。

そうして、青から赤の人に救済が働くこともあるでしょう。

マルセイユタロットでは、バランスや中立性、融合・融通性を象徴するカードに、「正義」と「節制」があります。

これはマルセイユタロットの秘伝図においても、中間段階の両端に位置するカードで、間を取り持ち、バランスと調和、そして共助的な救済をもたらせる意味があります。(ちなみに「節制」の天使の服の色は青と赤です)

マルセイユタロットのリーディングやこのタロットについて講義する時、私自身は、この二枚のカードを特に意識し、分野と次元の狭間で、自他共の救済を意識しつつ取り組んでいるものです。

私自身、特別な能力があったり、スピリチュアル的に進んでいたりするわけでもなく、現実(物質)的においても安定や成功をしているわけでもありません。中途半端といえば中途半端です。(笑)

すべての存在に感謝や愛というような心境にもなりませんし、先述したように、物質的・現実的充実を達成しているとも言い難いです。つまりは二極化のどちらにも行けず・・・みたいなところはあるわけです。

どっちつかずというのも、葛藤や悩みの象徴みたいに例えられますが、反転して考えてみれば、そういうところこそが自分の特徴とも言えるわけです。

ですから、「間」の人、その役割でもって生きることになり、それがむしろ、変なたとえではありますが、居場所のない居場所になり、使命的ものに任じてられていく(感じられていく)のです。

私と同様、中間とか架け橋的な立場を取ることで、自分の生きる道、バランスが保てる人もいると思いますので、人様の思う「よい方向」「達成」「進化」「成功」などに振り回されず、一見、中途半端でも、だからこそ両者をつなげられることもあるのだと思うと、自分が真ん中の位置で静止するようなスピン回転体のように定まってくるでしょう。


タロットリーディングトレーニング法

前回に引き続き、タロットリーディングの話になります。

今回は、タロットリーディングの具体的なトレーニング方法を少し語りたいと思います。

タロットリーディングの練習では、タロットを引いて、そこから何か意味を見出す訓練というのが一般的です。

しかし、タロットリーディングに限らずですが、何事も、ただ漫然とやっていては技術の(飛躍的な)向上は望めません。

たとえば、タロットを一枚引いて、そこから何か読み取ろうと、ああだこうだと考えていても、いつも決まった内容とか、少し覚えているそのカードの単語的な意味とかを出すというのがせいぜいです。

また、いつも毎回同じパターンの練習では、人間、飽きが来てしまうものです。

そこで、練習にも工夫がいります。

工夫の方法はいろいろとありますが、そのひとつとして、TPOと言われるように、時間・場所・状況によって、読みを変えていく訓練は比較的効果的です。

まず、「時間」です。

リーディング練習をする際、時間(制限)を設定することです。

限られた時間内で、いかに読みををするのか、あるいは発想・アイデアを出すのかの訓練は、いわば、パソコンでいうと、処理速度を上げるようなもので、それだけタロット的頭脳の回転が向上し、読みの力が増します。

また同時に、数を挙げる(出す)方法と併用すると、さらに効果的です。例えば、5分以内で、20の言葉を思いつくみたいな感じです。

次に、「場所」です。

自分の部屋ばかりでやっていても、気分や波動が同じになって、読みもワンパターンなものになりがちです。

そこで、思いきって、カフェで練習したり、他人の家で行ったりなど、場所を変えてみるのです。

また電車や車の移動中に、例えば、スマホやタブレットに入れたタロット画像を起こしてイメージし、読むという方法もあります。

別に機器やカードがなくても、イメージさえしっかりできれば、数の順番に言葉を思いついていく訓練をしていってもいいです。大アルカナだけでも22枚ありますから、時間つぶしにも結構使えるものです。

さらに自宅で行う場合でも、反対側(クライアント側)から見てみる(自分のポジションのチェンジ)というのもいいかもしれません。

最後に「状況」です。

これは状況・シチュエーション・問いを設定するというもので、皆さんもよくやっていることかもしれませんが、やはりリーデイングトレーニングでは役立つものです。

そもそも、何も問いや設定がないとタロットは読みにくいものです。

特に初心者ほど、問いは細かく設定したほうが読みやすい傾向があります。

それは、問いがはっきりしていると、そのことについてカードから情報を得ようと集中する(意識がフォーカスされる)ので、的が絞りやすくなるためです。

ただ、上達してくればしてくるほど、問いにはあまり意味を持たなくなってきますし、抽象的な質問からでも、具体的なものを導き出すこともできるようになります。しかし、最初のうちは問いを絞ったほうがいいです。

なお、トレーニングでは、ただ問いを設定して読むというのではなく、逆にカードを引いてから、設定や問いにあてはめるという方法も効果的です。

例えば、一枚引きをしても、「恋愛」だったらどう読むか、「仕事」の相談だったらどう読むか、「心理」的な葛藤の問題だったらどうか、というように、問題や問いの種類、状況の設定ごとに読み分けていくことをします。

これは小アルカナと併用して、四大元素・4組別に、大アルカナのカード一枚を分けて(分野ごとに分けて)リーディングするというやり方もあります。

すなわち、剣・杯・杖・玉(ソード・カップ・ワンド・コイン)別に、大アルカナを一枚ずつそれぞれにおいて、「剣の意味だったらどうか」「杯だったらどうか」と読んでいくのです。(この場合、小アルカナ4組の意味は、具体的で単純な言葉に置き換えてもよいです)

簡単で、かつ、リーディングトレーニングによって、自己を整理したり、確認したりするという一挙両得の方法としては、大アルカナ一枚について、行動・現実、感情や心理、魂・スピリチュアル(霊性)という階層別(性質・次元別)に読むという方法があります。

例えば、「自分は何をすべきか?」「自分はどういう状態か?」という質問で、「手品師」が出たとします。

「手品師」の現実的な意味では、そのまま「仕事せよ」「働くこと」「収入を得よ」ということかもしれません。

心理的には、「新しい自分になりたい」「散らかった心を整理したい」「優先順位を決めたい」ということかもしれません。

魂的には、「あなたのやっていることは必要ない」「「すでにそのレベルにはない」「霊的な入り口に来ていること」かもしれません。

※これらの読みは、あくまでひとつの例に過ぎません。タロットは象徴ですから多様に読むことが可能です。

もっと簡単に、占い的に、「どうなるのか」という問いに答えて読む場合と、解決的に「どうすればよいか?」に答えて読む場合とに区別してみるのもいいですね。

あと、少々他人が見ていると滑稽になりますが、一人でやる場合だとできる方法で、タロットの人物になりきって(カードの絵柄が人物ではなくてもできます)読むというのがあります。

自分が、例えば「世界」のカードの中央の人物になったようにイメージして、感情や思考を書き留めます。

実はイメージだけではなく、本当にタロットカードの人物のようなしぐさ、態度を自分が模してやると、よりカードの気持ちになることができます。(だから人がいると恥ずかしいものになるのです・・・(笑))

これは、カードのメインの人物だけではなく、細かな象徴の動物とかモノでさえも、慣れたらできるようになってきます。

カードを生命のような息づく存在として感じる訓練でもあります。

頭や思考で何とか意味をひねり出そうとしても限界がありますので、むしろ、こうしたイメージとか感情に浸るようなアプローチが、斬新な意味を見出したり、実際のリーディングの場でも、伝えたいことが感じられたりして、有用なこともあるのです。

それから、何もカードを引くことばかりがリーディングのトレーニングとは限りません。

カードを引かない方法もたくさんあります。

つまりは、カードに描写されている象徴性を、他の分野の印象から呼び起こすというようなものです。

絵画の鑑賞、映画・小説など、ストーリーになっているもの見たり読んだりすることで、カードの象徴性を思い起こし、どれに該当するのかを確認していきます。

簡単に言えば、外側のもの(自分の外で起きたこと、経験していることなど)をタロットに置き換えて見るという方法です。

この方法は、実は特別な修行(タロットを現実の力と結びつかせる作業)に近いものなのですが、それは考えなくてよいです。(笑)

いずれにしても、書き留めるということは大切です。

トレーニングで、やりがちなのは、カードを読んだり、意味が思いついたりすれば、それで終わりというパターンです。

ただ頭に浮かんだことで、やった気になってしまうというものです。

自分ではトレーニングしているつもりにはなっていても、積み重ね、蓄積、データとしては残りにくいのです。

人は忘れやすい生き物です。

ですから、やはり、せっかくトレーニングして、出た言葉とか意味とかは、ノートや資料などに書き込んでおくことです。

それを繰り返し読み直すことで、自分の中で、印象だけではない確かな言葉・知識・データとして固まってきます。

ここにご紹介した方法(の一部)は、すでにやっている方もたくさんいらっしゃると思いますが、それでも皆さんのトレーニングの何かの参考になれば幸いです。


タロットリーデイングの上達を考える前に

タロットリーディングの上達というのには、観点(目的)を変えれば、その意味は違ったものになります。

例えば、私自身はこれを目的としたり、その技術を教えたりはしていませんが、「当たること」「未来を予見すること」というような観点ならば、タロットから読み解ける内容が、バシバシ当たる、当たっているという感じになればなるほど、その意味でのタロットリーディングは上達していると言えるでしょう。

これは、一般の人の思う「占い」感覚でのタロット(の上達)かもしれません。従って、当たる占い師、当てる精度の高いタロット占い師は、すごい人、高度にタロットが読める人と思われることでしょう。

また、当たる・当たらないよりも、自分自身(クライアント)の悩みごと、問題と思っいることが解決したり、すっきりしたり、癒されたりするためにタロットリーディングが行われるという目的・観点で見れば、タロットリーディングの上達というのは、いかなる問題でも、またどんな相談者に対しても的確なアドバイスがタロットから導ける状態になっていく、というものになるかと思います。

たとえ、過去や現在、さらには未来の状況を当てること(当人にはわからない情報が与えること)ができたとしても、今悩んでいる相談者自身がすっきりとしない(問題が解決しない)状態では、せっかくの能力・技術も無駄になります。

むしろ、下手に当てたり、未来を指し示したりすることで、選択肢の自由な範囲を狭めたり、クライアントに恐怖心、逆に、何の努力や行動も必要としない超楽観的な姿勢を植え付けてしまったりする危険性もあります。

やはり、思うに、私たちの現実の人生には、すべてがわからないような仕組みがあり、全部を解明していく態度や方向性は許容されても、すべてを知ることそのものよりも、すべてを知ろうとするそのプロセス自体に意味があるのだと考えることができます。

究極的な意味では、ただ一人、唯一の存在が全体そのものなのかもしれませんが、現実認識の世界では、私たは個性を持ち、一人一人独立した存在です。

従って、その意味を想像すれば、自分という人格と個性を持つ現実的意識の「自分」では、すべでは解決できず(知ることができない)、ほかの人との協同作業、関係性で真理が目覚めていく世界だと想定できます。

このことから、自分が未熟だと思ったり、悩んだり、わからない状態にあったりする時は、人に相談すること、人の力を借りること、人から学ぶことはよいということになります。(むしろ、そういうことになっている世界と見る)

しかし、忘れてはならないのは、(現実認識の世界において)自分と他人はあくまで別であり、人のアドバイスや教えが、これまたすべてではないということです。(人が解決したり、悟らせてくれたりするのではなく、自分でする)

ここで、最初に書いたこととリンクしてくるのですが、タロットで当たるからと言ってその人がすべて知っているわけではなく、また解決を提示してくれるリーデイングにおいても、それもまたすべてで完全ではないということです。

つまり、人からの示唆は、あくまで「示唆」や「情報のひとつ」であって、あなたそのもの、自分そのものではないのです。

当たるためのリーディングも、問題解決のためのリーディングも、上達を目指す意味では、どちらも有用な情報を提供する努力と言えるかもしれませんが、いくら読みが上達しても、それが相手にとって完全情報ではないのですから、タロットリーダー自身もうぬぼれることがないようにしたいものです。

クライアント側も、タロットリーダーや占い師が、自分にとっての正解や、すべてを知っているわけではないと、極端な依存を避ける必要があります。つまり、「自分自身で正解を導き出す」ための情報や刺激のひとつが与えられていると考えるのです。

アドバイスも、タロットリーダーからクライアントに与えられる情報(のひとつ)であって、クライアント自身を直接救うものではないのです。

人と自分は違います。だから自分を救えるのは自分だけです。

しかしながら、人に頼ってはいけないという意味でもなく、逆に、自分一人では解決しないことがほとんどという設定の世界でもあるのです。矛盾のようですが、この意味を思うことは、とても生きるうえで大事です。

それは、単純に、人は生まれてくるのも育つのも、自分一人ではできないこと、そして、自分が生きよう、救われようとしなければ、他人がたとえ物理的に助けてくれても、その人の心は死んだままに等しいことなど思えば、わかってくることもあるでしょう。

結局、タロットリーディングにおいても、リーダーとクライアントの協同(共同)作業だということです。

タロットを通して、タロットリーダーは、クライアント自身の生きるサポートを行いますが、それは相手(クライアント)を支配したり、自分の価値観(自分がいい・悪いと思うこと)に染めたりするものでは当然ありません。

クライアント自身が知る(成長的覚醒の)ために、タロットリーダーが知っていること与え、同時に、情報(ここでいう情報とは物理的・言語的データを超えるものも含みます)の交換が行われるのです。

ですから、タロットリーダーも、クライアントによって、「知る」ことができ、成長する(本質に回帰に近づく)こともできるのです。


恋愛やパートナーシップの3つのペア性

二人が夫婦や男女の恋愛の関係にある時、当然ながら、二人はカップル・ペア性を持つことになります。

もちろん、それ以外の関係であっても、二人という人間の間の交際においては、カップル性が生じています。

マルセイユタロットでも、特にカモワン・ホドロフスキー版のタロットを扱う人は、特に大アルカナのカップル性・ペア性を象徴として見ます。

そうしたタロットにおけるカップル性の概念によって、実際のカップル・ペアを見ていくと面白いことがわかります。

その一例をご紹介したいと思います。

今回の記事は、本来は、数年に一度、たま~にやっている(笑)恋愛セミナーのネタのひとつでもあります。

ある区分によると、人は女性でも男性でも、3つの層があると考えられています。

それは象徴的な年齢層でも例えられ、簡単に言えば、

1.少年・少女

2.成熟した(大人の)男性・女性

3.老年の男性・女性

という3つの区分けです。

さきほど、これらは「象徴的」と述べたように、見た目や実年齢とは限らず、精神的な年齢、状態も表します。

この3つは、つまるところ、宇宙の創造と終わりのサイクルも意味します。(創造・維持・破壊)

また、極性と中立性の統合による完全性も象徴しています。

さて、マルセイユタロットのカップル的なカードで見た場合、1の少年・少女は「手品師」と「力」で表され、2の大人のカップルは「女帝」と「皇帝」、3の老年ペアは「斎王」と「法皇」で象徴することが可能です。

もちろん、ほかの(カードでの)考え方も可能ですから、あくまで一例ということです。

こうした3つのペアが男女で形成されるということは、形にすると、三角形(3つの区分)がふたつ(男女)というものになります。それを重ね合わせると、上下三角形での六芒星となります。

ちなみに六芒星、これは「恋人」のカードにある象徴でもあります。(人間が恋し、カップルとなる仕組みを描いているのが、「恋人」カードなのです)

このあたりを詳しく説明するのは、いつか行われるかもしれない(笑)タロットによる恋愛セミナーで、ということにしておきますが、ここでは、シンプルに以下のようなことを述べておきます。

男女(あるいは同性でも、そのような状態にある)二人の関係性において、先述した3つの層が、お互いに入れ替わっていることがあります。

具体的に言いますと、自分が少女で、相手がお爺さんという場合(孫と祖父の関係)や、自分が少年で、相手が大人の女性(つまり息子と母の関係)など、本来のペアとは異なる年齢層の存在(ペア)になっているケースがあるわけです。

これはどのカップル・ペアにおいても、一時的・瞬間的には入れ替わっているものなので、病理的なものではありません。

ただ、本来のペア性とは違う形で固定してしまうことに問題があります。

それにはどちらか、あるいは双方に、トラウマや生育歴での家族問題が隠されていることが多いです。

とはいえ、結局、心が求め合っている関係だと言うこともできます。

自分が子どもで、相手によしよししてもらいたい、叱ってほしいという願望、自分が上の立場て、下の者に慕ってほしい、尊敬してほしい、かわいがりたい(そうしてもらって自尊心・保護欲を満たす)というような望み・・・そういうものがお互いに一致しているわけです。

ある意味、別の形の相思相愛です。

自分と相手の、象徴的な年齢関係をきちんと自覚できていれば、お互いにとっては健全な形で、癒し合い、補い合うことができます。

もっと高度になれば、お互いのトラウマを浄化し合い、完全性の愛に向かって、両性具有的な結合(つまりそれは神の境地)を目指すことも可能です。

それは、マルセイユタロットでは、「戦車」を中心に語られることです。(最終的には「世界」のカードが象徴)

女性・男性、肉体レベルの結合もあれば、精神レベルの統合もあります。

よい相手に巡り会えた時、あるいはお互いを信頼し、愛によって高次へと導こうと二人が志す時、両性は3層を持ってそれそれが回転しつつも、3つのカップル(ペア)性で結合し、完全を体現していくことになるのです。


楽しい、楽な人生の選択で悩む人に

タロットの学びは精神世界やスピリチュアルなことと関連することが多いものです。

そういった世界でよく言われるのは、自己の解放です。

そしてまた、自己の解放と結びつけて主張されるケースで、楽しさや好きなこと、ワクワクするものを選択する人生というテーマがあります。

その趣旨は、結局、楽な人生、楽しい人生(「楽」の字が2回出るように、「楽」が中心観点)が送ることができるかにあるように思います。

ということは、自己の解放は、「楽に生きられるかどうか」「自分が楽しく感じられるかどうか」が論旨にあることになります。

ここで人によっては、反応がふたつに分かれてくるのではないかと思います。

ひとつは、楽な人生というのはどうよ? そりゃ、つらい人生は嫌だけど、ある程度の苦労は必要なんでは?

というものと、もうひとつは、

その通り、苦労する人生なんてわざわざする必要はない、楽しい人生、幸せを感じる人生を過ごしたいというのが一番、またみんなが楽で幸せであってほしい

という感じのものです。

つまりは、「楽」というものに抵抗を感じるか、まったくその通りだと肯定するかです。

前者はいわゆる常識や普通の感覚を持つ人に多く、後者は解放系ともいえる、自身も自由な生き方をし、スピリチュアルや精神世界の先導的・講師的な人物に多いような気がします。

わざと変な見方で言いますと、前者は後者の顧客や信者になることが多く、後者は前者を洗脳することもあります。(笑)

もちろん、よい意味でいうと、前者は後者の囚われを解放し、後者によって、前者はさらに自分の意志と生き方を肯定できる(力・フォースを解放する)ことになります。

後者の人はよいのですが、前者の人はいろいろと「楽」や「自由」について悩んでいることもあるかと思います。

そこで、その悩みに整理をもたらす考え方の幾つかを提示しておきます。

 

●「苦楽」を「善悪」や倫理観で考えない

苦楽を善悪や倫理の観念と強固に結びつけてしまって、困惑している場合があります。

自らが、楽をすることは悪、楽しいことばかりはありえない、楽をすると必ず罰がある(バチが当たる)、楽して稼ぐことは悪、仕事に楽はない・・・みたいな、世間が作りだした観念・ルール、一種の信仰のようなものに縛られていることがよくあります。その時その時の社会状況や時代の影響も結構あります。

ですから、その考えは本当なのか、例外はないのか、なぜそのようなルールや思いになっているのか、誰にその観念を学び、植え付けられたのか、そういうことを冷静に検証することで、「楽」そのものを中立で考えることができるようになります。

 

●子どもと大人(未成熟と成熟)というふたつの目で考える

自分が大人なのか、子どもなのか、つまり未熟か成熟か、独立か保護にあるかで、フィールドや分野ごとに分けて考えます。

まだ自分が成熟していない、一人前になっていないという分野では苦労が必要なことがあり、独立している部分、成熟している分野では楽を選択することができる(苦をわざわざ選ぶ必要がない)ということです。

分野は、次元やレベルに置き換えることもでき、自分の成熟した(と考える)範囲やレベルにおいては自由や楽が選べ、さらにそこから成長したり、拡大したりする時には、あえて苦労を選択したり、苦がやってきたりするものだという見方です。

エネルギーや運動性においては、圧縮と解放(によって動き)があるように、プレッシャー・圧力を苦労と例えるのなら、それをかけないと解放や大きなジャンプも導かれないとう自然の摂理からすると、成長のために「圧力」は必然といえます。それを苦として感じるかは、志や目的によっても変わるでしょう。

 

●「楽」を、本当の意味で自分が楽しいかどうかで見る

楽や楽しさというのを世間や他人の尺度で感じず、あくまで自分の感性でもって見るということです。

他人から見れば、それは楽しそうに見えなくても、自分にとってはそれは楽しい、やりがいがあるというものならば、それは「楽」だと考えます。

これが自分の表面意識では、まだわからないところもあります。

他人はおろか、自分でさえ、「つらい」「苦しい」と思うものであっても、それは自分の奥底の気持ちでは「楽しい」という場合もあるのです。

まあ、楽しさの質や演出が違うみたいなものでしょうか。

同じゲームでも、難しいほうをあえて選択するのが好きで楽しいという、マゾ的でへそ曲がりといえばへそ曲がりなのですが(笑)、そういう選択を魂をしたがっているという見方もできます。

ただ、ずっとそういう(表面的な苦、奥底では楽という)一生ではなく、ある程度の経験が十分にできれば、今度は表も裏も楽をしていく人生という選択に変わることもあるでしょう。

 

●究極(抽象)次元と個別(具体)次元を分けて考える

多くのスピリチュアリスト、特に先述したような解放系を体現しているような人の物言いは、一元的や究極次元から語っていることがあります。

高い次元、大きな次元からいえばその通りではあっても、私たちは個性を持ち、一人一人違った性格や人生観、生育史を持ちます。

よって全員に共通して通じるところと、一人一人、程度や割合、さらにプロセスとして、異なってくることがあるのも当然です。

要するに、人の言うことは鵜呑みにしたり、全部が正しいと受け入れる必要はないということです。

違和感を持ったり、反感があったりしても、それが個性としての今の自分なのです。

しかし抵抗や反感もよい刺激になるので、そのことをきっかけに、自分が成長したり、もっと解放できたりすることもありますから、悪いわけでもないのです。

自分なりのステップとやり方で、自由や楽を目指せばよいですし、その間に苦や痛さの経験があってもよいと思います。

 

●やり方や方法よりも、あり方や器を変える

 もしくは、イエスかノーかの考えをやめる

楽を選択する人生がいいのか悪いのか、ワクワクしたり自分らしく生きたりすることがよいのか悪いのか、それは正解なのか間違いなのかというように、どちらがいいか・悪いかというイエス・ノー的な二元的考えに囚われると、結局、葛藤と争い・相克の世界に自分を置くことになって、それがそもそも「楽」ではなくなってくるという矛盾、本末転倒な状況を生みます。

また何とか楽をしたい、楽しく生きられるようになりたいと、方法やメソッドばかり探して、自分自身のあり方や自分の器、枠をそのまま放置してしまっていることもあります。

方法自体がよくするのではなく、方法によって自分を縛っているルールや枠、または小さな器を壊したり、大きくしたりすることのほうが大事です。

それは一言でいえば「統合」または「次元上昇」と言えます。

楽しいと思うことを選択するより(楽しいを選択していると人生がうまく行くというより)、苦や楽と今まで思っていたことが、どちらでもなかった、そう判定していたレベルの自分に気づいたということが(人生を楽しいと感じるレベルに自分が上昇する視点を持てば)、結局、「楽」な状態になっていることと同じになるのです。

ただ、「楽しい」「楽」を選択していくことで、自分の考えや枠、タガがはずれ、自然に次元が上昇していることもあります。行動から結果を起こすという方向性です。

それは先述したように、人によって個性があるので、選択も違ってくるでしょう。

ほかにも整理する考え方は色々ありますが、今日はこのあたりにしておきます。


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