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先ごろ、パリのノートルダム大聖堂(寺院)で火災があり、尖塔や屋根の部分が焼け落ちました。

フランスの方々、関係者の方々にはお見舞いを申し上げたいと存じます。

この寺院には、私も以前カモワン版マルセイユタロットのフランス講座の際に訪れたことがあります。

フランス・パリでは有名な建物で、一大観光地でもありますが、いわばフランス国民の精神的なシンボルでもあり、キリスト教の人にとってはフランスの聖地でもあるでしょう。

それが象徴的な形で崩れた(火災による)のですから、フランスの方々、クリスチャンの皆さまには、相当ショックなことだったかと思います。

実は、マルセイユタロットと、ノートルダム寺院やこういった大聖堂(特にゴシック建築様式のもの)とは深く関係していることもあり、先述したように、タロット講義における旅においても訪問するほどの場所ですので、私たち、フランスのタロットを扱っている者にも、衝撃的なことでした。

ヨーロッパ(あるいは南米など)のカテドラルと呼ばれる聖堂に入ると、クリスチャンではない日本人であっても、荘厳な雰囲気を感じ取るができると思います。

私もフランスだけではなくスペインなどでも、カテドラルでは同じような特別な感覚になったのを覚えています。

これには、もちろん、宗教的施設であるので、毎日祈りが捧げられていますし、それが何百年と積み重ねられているわけですから、場としての人々の思念の蓄積に相当なものがありますので、当然雰囲気も敬虔で重厚なものになっているという理由があるでしょう。

ただ、ヨーロッパの大聖堂は、石造りを基本としつつ(これがまたある種の重力・重みを出しています)、上から見ると、形はキリスト教のシンボル・十字架になっており、建てる方向性・方角も決められていて、何よりも、特にゴシック建築においては、その設計・建物様式に緻密で特別な計算と、天上世界(神)を意識させる非常に高い天井と塔の構造になっているのが特徴で、いわば、天と地のコントラストが私たちの通常意識を、天上なる神の意思へと浮上させるような装置になっています。

日本の神社とはまた違った構造で(しかし実は奥底には同じものもあると考えられます)、神(天)を意識させるようになっています。

また、一般にはあまり知られていないかもしれませんが、たいてい宗教的な施設がある場所は、もともと特別なポイントであることが多く、ある宗教の前に信仰されていた土着の宗教や、征服される前の民族の神が祀られていた場所であることが普通です。

ですから、ノートルダム寺院の建物の下には、別の宗教の神が眠っている可能性も高いわけです。

さて、今回のノートルダムの火災について、タロットを展開してみたのですが、これもまたさすがに驚くような内容てした。

すでに、私の学習グループでは、その展開を見てもらって、皆さんに感想を述べていただきましたが、おおむね、皆さん、似たような意見でした。

全展開を披露することはあえてしませんが、基本のスリーカードだけ記すと、向かって左から17の「星」、真ん中に16の「神の家」、右に15の「悪魔」で、すべて逆位置でした。※なお、今回は正逆を取る技法を採択しており、逆位置は問題状態として現れます。

これを見れば、事の深刻さ・重大さと、タロットそのもののすごさを実感できると思います。

当たり前ですが、展開において何も私は操作していません。「ノートルダム寺院の火災について意味するところ」というテーマで、ただタロットをシャッフルし、展開しただけです。

ブログをご覧の皆さんは、カードを見てどう思われるでしょうか。

ノートルダム大聖堂は、ヨーロッパで、いや今の世界の標準ともいえるキリスト教(特にカトリック)世界観の宗教施設です。

そのシンボルであるラテン十字のクロスする部分、つまりは尖塔のところが焼け落ちました。

キリスト教を批判するものではありませんが、世界のあり方として、キリスト教をバックにした国々、勢力がやってきことの功罪はどちらも大きなものがあります。

ノートルダムとはフランス語で、「われらが貴婦人」という意味であり、狭義的には聖母マリア様を意味すると言われます。

しかしながら、聖母信仰のその源には、女神、大地、女性性の癒し、包み込み、和する、崇高で偉大なエネルギーの象徴性が存在します。

すでに述べたように、ノートルダムの地下には、(組織的・支配的には男性的な)キリスト教の下で眠らされた何か大きな女性性的なエネルギーがあるのかもしれません。

奇しくも、日本では「令和」という音的には霊和ともとらえられる時代が始まります。

ノートルダム寺院の火災はすべてが焼失したわけではありません。重要な遺産や、中の十字架、バラ窓などは幸いにして残りました。

見ようによっては、屋根という覆いがはがれ、中身そのものがむき出しになったと言えます。(そして残ったものも逆に明確になっています)

それは象徴的にはどう言えると、皆さんは思うでしょうか?

普通に物理的に見れば、ノートルダム大聖堂の火災も、何らかの事故による火災です。そこに象徴的なほかの意味を見るのは各人の自由であっても、そういう理由(想像する象徴的な意味合い)で火災が起こったわけではないと考えるのが科学的な態度でしょう。

しかし、フランスの人にとっては、単なる家や施設が焼けたというものではないのは明白です。世界的に見ても大きな事件です。

やはり、人は物理的な見方だけではない精神的・霊的な意味を、起こったことに対して見ようとするものです。

何かが失われるということは、人や生物だけではなく、モノや施設においても、私たち人間は思いを感じます。(ましてや、親しい人、身近な人を失った場合、どれほどのショックがあるのか想像に難くないでしょう。それが突然であればなおさらなのです)

一方で、すべてのものは生々流転、創造されたものはやがて破壊、死滅へと移行していきます。それが世の理です。

形や現実にあるもの、存在している状態を強く願ったり、また逆に、存在していることが当たり前で、ほとんど意識することがなかったりした時、それを失った場合には、とても強烈なショック、悔恨が来ます。

それでも、形や実際ではなく、精神や魂、エネルギーとして見れば、それは永遠であり、分離や消滅もしておらず、自分と結合・統合していることにも気づきます。

失うことは、矛盾のような話ですが、逆に失っていないことを私たちに意識させるのです。

それが、マルセイユタロットでいえば深い意味で、「審判」のカードの示唆するところともいえるでしょう。

“ノートルダム”の再生、復活を期待いたします。


自分の運命を作っているもの

私は旅が好き・・・というより、旅の計画をするのが好きです。

この性質はもともとあったのですが、中学生の時に、放課後のクラブ活動とは別に、その学校では週に一回、正規の授業時間に教室でクラブ活動するような課程があり、私は「歴史と旅クラブ」というものに入っていました。

このクラブでは、実際に旅をするのは年一回の日帰りなものだけで、通常は教室で時刻表などとにらめっこし、机上の旅計画をするという活動であり、ここから、旅の前に完全な計画をするという私の傾向に、ますます拍手がかかったように思います。

さて、そうした旅の計画ですが、これは必ずしも実行するとは限らず、実際には行かないことも多いです。しかし、行く行かないにかかわらず、かなり詳細に計画を練ることは変わりません。

マルセイユタロットで言えば、「女帝」(創造・計画)の質が強く、「皇帝」(現実・実行)は薄いという感じでしょうか。

まあ、この「女帝」と「皇帝」はセットでペアでもあり、両者そろってこそなので、計画ばかりしていてもダメなのですが。。。

以前はあまりに完璧な計画を作り過ぎようとし、そのため、考えすぎて体調を崩すという、癒しや気晴らしのための旅行なのに、本末転倒になるありさまでした。(苦笑)

さすがに考えをを改めて、今はもっとゆるやかに計画するようにはなりましたが、それでも、普通の人よりかは旅先やルート、宿泊先などについて、詳しく調べるほうだと思います。

そこで、旅館やホテルなど、宿泊先の口コミなどをネットで見ることも多いわけですが、これを見ていると面白いことに気づきます。

まず、やはり、普遍的な評価、言ってみれば平均値の評価は確かにあると思います。

当たり前ですが、多くの人がここはダメだとか、不満が書かれたり、×評価が下されたりしているところは問題があると考えられ、反対に、たくさんの人が高評価を出しているところは、なかなかのところであるということです。

しかし、どこにでも、何にでも例外はあるように、悪い評価が多いのに、まれに高い評価を出している人もいますし、逆に、高評価の口コミが続く中で、最低点をつけて、ひどく不快であったことをまくして立てているものもあります。

前者(平均が悪い中での高評価)の場合は、ひとつの傾向として、宿泊した人がどこに重点を置いていたかで決まってくるようにも思います。

例えば、その人は温泉の質を何より重視していた人ならば、食事はいまいちであっても、お風呂の温泉の質が抜群だったのならば、評価も高くなるでしょう。

いわば、自分がもっとも高い価値を置いているもの、宿泊先でここだけははずせない、大切にしていると考えているものが良ければ、ほかのことは少々のまずさがあってもカバーできるという評価です。

問題は、多くの人が高評価であるのに、特定の人だけ、低評価になってしまう場合です。

これは、宿泊した日とか部屋、その時に受けたサービスに限って、不運のような、普段ありえないようなものが続いたというものが見受けられます。

もうひとつは、口コミなど読んでいると、評価する人(つまり宿泊した人)に問題があるように思えるケースです。

まるでクレーマーのような、普通は気にしないようなことでも、異常に気にしてしまっていて、要求があまりにも高く、そこまで言うことなのか、期待することなのか・・・と考えさせるケースがあることです。

宿泊施設の口コミ評価について書いてきていますが、これは私たちに起こる事柄、ひいては人生のとらえ方にも関係しているように思えましたので、これを例にして書いているわけです。

平均で高い評価を得ているのに、時折、口コミ評価で悪い評価があるのは、今述べたように、たまたまのアクシデントのような、いわば「運・不運」的なもので引き起こされたように思えるものと、当事者(宿泊者)本人たちの思い方や感じ方によって引き起こされているものがあるということです。

同様に、私たちも、自分の人生において、運・不運で考えられるものと、自分自身によって(悪いこととして)引き起こしているものがあるのではないでしょうか。

運・不運については、マルセイユタロットでも「運命の輪」というカードがあるように、運に左右される世界観はあると考えられます。

これはカルマなどとも関係するかもしれませんが、自分がもともと持っている運気と言いますか、流れ・性質のようなものがあり、なおかつ、時空的な影響による運気もあるでしょう。

東洋占的な言い方をすれば、天の運、地の運、人の運が複合しているものです。(これらは同じ構造にあって、それぞれ天・地・人ごとの世界で入れ子構造となり、関係し合うと考えられます)

よって、旅行でも、ほかの人は運がよくても、自分はその時は、運のめぐり合わせで悪いタイミングだったということもあるわけです。

しかしながら、これもやはり「運命の輪」に関係することですが、先述したように、自分自身がそのことを引き寄せてしまっているようなものあるのです。

例えば、いわゆる「ケチがつく」と表現されるように、ひとつ何か悪いこと、腹の立つのようなことがあっただけで、その印象を引きずってしまい、以降も、事あるごとに悪いことはないかと気にしてしまって、普段よりもナーバスになっていると、マイナス点ばかり目につくようになります。

また、あまりに求めるものが高すぎると、自分の理想と現実にはギャップがつきものですから、実際には理想通りではないことは生じます。それが許せないというような狭い許容(量)であると、たちまち、自分の思考・感情はネガティブなものへと変化します。

「許せない」という感情は意外に注視されるもので、起こった出来事そのもの、外の対象について許せないというのもあるのですが、例えば宿泊の問題でしたら、そんな宿泊施設を選んだ自分に対して許せないという感情もあるのです。

結局、自分への怒りみたいなところに行き着きます。こういうタイプの人では、他人だけではなく、自分自身を普段から許していないことがあり、こうすべきという縛りをかけていることが少なからずあります。

また、すべてをある単一価値だけで勘定・計算・判断してしまうと、その価値に問題があった時は、全体がダメと判定されてしまいます。

例えば、パートナー(恋人や伴侶)がいるべきという価値がすべてだと思っていると、それが実現できなかった場合、あるいはそれを失ってしまった時の自分は、許せない人物、失敗者となり、人生全体もよい評価にならないでしょう。

マルセイユタロットとして、「運命の輪」の流れには、「」のカードが関係しているという見方があります。

「星」には、女神が壺の水を流している様が描かれ、まるで、おおらかな許しをしているような印象です。そうすると、自分の運命の輪の回転も変わるのではないでしょうか。

自分ではどうしようもない運・不運というのはあるかもしれません。しかしながら、自分の認識や見方・捉え方を変化させていくことによって変わる部分の運命もあるのだと、「運命の輪」のカードから教えられます。

かなり部分では、現実的な意味でも、自分自身が自分の運命を作っているところはあるのです。

また、変えられないと思っている天・地・人の複合的、もともと持っている運気のようなものでも、自己の浄化や運気の分析などによって、変えられる部分もあると言われています。

「これは運が悪かった」と割り切っていく態度も時に有効ではありますが、あまりに運が悪いことが続く場合や、晴れの日、ここぞという時なのに不運が起こるような場合は(自分の思いが引き寄せているわけではないのに)、それはカルマ的な要素が反映され、浄化が起こっている可能性があるかもしれません。

外の事件の発生による(運の悪い事件が起こることでの)浄化を待つよりも、先に自分から浄化をしたり、対処したりする方法はあると考えられます。(占いもそうしたものの一つです)

現実的な見方だけをしていると、まさに外で起こる運・不運の現象に踊らされ、一喜一憂するのみです。

ここに、心理的・霊的観点を入れることで、納得できるものがあったり、今後の対処ができたりするのです。

タロットを使うと、そうした別の観点が持てるようになります。


タロットに向いている人、向いていない人

タロット学習において、最初、あるいは途中からでも、結構、質問として来るのが、「私はタロットに向いているのでしょうか?」というものです。

これは、まだタロットを学んでいない時の場合と、すでにある程度タロット学習を進めている段階のものとでは、質問の言葉は同じでも、ニュアンスが違います

今からタロットを学ぼうかという人で、「自分はタロットに向いているのか?」と発する場合は、未知なるものへの不安が中心ですし、裏返せば、それだけの期待感もあるのです。

気持ちとしては、「自分が学ぶものに対して相性が良ければいいな」とか、「タロットを自分や他人に活かせるようになれれば嬉しい」というようなワクワクもある反面、「できなかったらどうしよう」とか、「ちゃんと学習についていけるかな?」という不安もあり、これはタロットに限らず、誰しもが抱く、「初めて感覚」のようなものです。

しかし、学習途上で抱くこうした質問は、やってみてからのものであり、単純な不安と期待のものからではないことがあります。

それは、一言でいえば、自分に対する不安、自信喪失であり、一見、技術・知識的な問題であるかのようでいて、実は本人の精神的な問題(の浮上)や危機ということがあるのです。

具体的な表現としては、「自分はタロットを学んできたけれど、なかなかうまくリーディングできない」「結構学習したのに、タロットを活かすということができない、わからない」という感じが多いでしょうか。

これか先述したように、純粋な技術と知識面の技量不足問題であるならば、やり方を変えたり、もっとポイントを絞って指導を受けたり、修練したりすればいいのですが、そうではない精神的なことまて来ているとなると、それだけでは問題は解決しません。

最初は、タロットを読む力とか活かす力が足りないという思いから始まっていても、次第に、学習してもうまくならない自分にあせりとか、怒りとか、情けなさを感じ、自己否定状態になっているわけです。

指導者側から見ると、本当のところ、そういう発言をする人は、最初の頃よりも格段に進歩しており、すでに十分な力があるのに、自己評価が低いという場合がほとんどです。

本人は努力家の人が多く、なかなか頑張っていらっしゃいます。

そして、やはり、普段からも、自己に厳しい評価を下している傾向があります。

結局、できないことを大きくとらえて、自己否定をすることで、自分の成長を促そうとしているのですが、同時に励ましてほしい、勇気づけてほしい、自分の進んできた(学びの道)の選択が間違いではなかったと言ってほしいという思いも強くなっているので、悩みも大きくなります。

もうひとつは、ある程度の学びまで来ると、それまでのものを破壊して再構築していくような段階があり、それはタロットなどの精神的・霊的のフィルードを多く扱うものでは、顕著だということです。またこれも自己成長のプロセスとつながっています。

その段階まで来ると、成長のためには、一時的な落ち込みや混乱、退行のようなことが起きます。

言い換えれば、自分にタロットは向いていないと思えるほどの状況を迎えた場合、逆に順調に進んでいるということなのです。

ですから、学びの途中で「私はタロットに向いていないのでは?」という人は、祝福だと取ってもいいわけで、その人に言えることは、「それだけ強くタロットと自分のことを思えるのは、あなたがタロットに向いている人だからですよ」ということです。(笑)

最初に「向いているかどうか」という質問する人も含めて、私から言いたいのは、タロットに関心を寄せ、しかもそれを学びたいと思った時点で、あなたはタロットに向いている人なのです。

逆に言えば、タロットに向いていない人は、タロットに全く関心を示さない人です。

ここで意外なのは、関心を示すということは、何もポジティブなものだけには限らないのです。

タロットは怖いとか、タロットが嫌いとか、あんなものはしょせん占いの道具などと、バカにしたり、ネガティブに思っていたりしていても、それはマイナス方向での「関心」には違いないので、こういう場合は、あとで180度印象が変わって、タロット好き、タロットに向いている人になるケースがあります。実は私も、タロットに対してはネガティブなイメージがあった側の人間です。(苦笑)

それと、向いている、向いていないという見方ではなく、シンプルに好きか嫌いで見てもいいと思います。

好きこそものの上手なれと言われるように、好きであれば、困難が多少あってもタロットを続けていくことができますし、向いている・向いていないという基準で自分とタロットとの関係を計ることはあまりしなくなります。

タロットのことを語る時、あなたは他人からどのように見えるのかです。私はとても生き生きとしているらしいです。(笑)

それから、そもそも向いている・向いていないとかの二元で分けた捉え方(判断、ジャッジ)をするのではなく、「向いているよにうなる」という方法があります。

私の話をしましょう。

私はもともとはタロット大学(現イシス学院)でカモワンタロット(カモワン版マルセイユタロットとその技術)を学びました。今はカモワン流(カモワンタロット認定講師)ではありませんが、当時の学習システムとして、最終段階では上級コースというのがあり、これはフランスへ行き、グランドマスターであるフィリップ・カモワン氏から講義を受け(通訳つき)、資格認定してもらうことになっていました。

この時は、私はそこそこ自分なりに、今まで構築してきたリーディングには自信がありました。(今の私から見ると、驕りのレベルですが・・・(^^;))

しかし、カモワン氏のリーディングとその技術を初めて直接見た時、これは今まで自分がやってきたものとは次元が違う、別物であるという非常なショックを受けました。

これまでのプライドも技術的なものも何もかもが一気に崩壊したかのような気分でした。(まさに「神の家」のような衝撃です)

それ以来、講義の間中も、うまくタロットが読めなくなってしまいました。初心者に逆戻りした感じです。

そして、講義中のリーディング演習の時間に、組となったお相手がタロットリーダーの際、私は「今混乱しているので、自分がタロットに向いているのか、タロットをこのままま続けてよいか知りたい」という質問(リーディングの題)をしました。

その時のタロット展開はなかなか複雑でした。そして発表(組リーディングにおいて、それぞれのタロット展開と、どうリーディングしたのかを講師及び他の受講生の前で発表するもの)の時に、カモワン氏が私に、最後に新たにカードを一枚引くように指示されました。

私が引いたのは、カモワンタロットでいうところの「斎王」(大アルカナの二番のカード)でした。

カモワン氏は、「これは“タロットリーダー”を表すカードなので、タロット続けるのはよい」みたいな講評をされ、私はとても勇気づけられました。

しかし、これにはオチがあります。(苦笑)

実はこの時の展開法は、タロットの正・逆を取る方法だったのですが、逆位置はネガティブな意味ではないとはいえ、カモワン流では問題を示すカードでした。

私は斎王のカードが正立で出たのか、逆位置で出たのかはほとんど記憶しておらず、というのも、追加でその場で引いたカードなので、落ち着いて正逆まで確認せず、ただ引くことだけに意識が集中していた感じだったからです。

ですから、カモワン氏にどんなカードが出たのかと問われた際も、「斎王が出ました」と答え、カモワン氏から正立か逆位置かを確認されても、よくわからないまま、「正立だったと思います」と述べました。

ところが、あとで、上級コースが終ってだいぶん経ってから、このエピソードを仲間に話すことがあったのですが、同席していた組相手の方が、「宮岡さん、あのカードは逆位置だったんですけどね(笑)」と言われて、「ええっー!!」とズッコケたのを思い出します。

何が言いたいのか言えば、結局、向いている・向いていないなどは超えて、自分がどう思うかだということなのです。

私は斎王が正立で出たということに(正逆という意識がなかったので、斎王が出たということ自体そのものに)感銘を受けて、自分はタロットをやってよいのだという自分に許可を出したことで、いつの間にか、タロットが向いている自分に切り替わっていたのです。

もちろんグランドマスターの言葉、フランスでの講義という、日常とは違う、異質かつ衆目の状況による演出効果・・・これらも私にリアリティを感じさせたに違いありません。

今思えば、一連のことは、すべてタロットの意思や自分の心が見せたものだったのだと考えることができます。

ということで、タロットを学びながら、自分はタロットに向いていないという人は、それは逆説的に言えば、タロットに向いている自分になるチャンスなのだと思っていただければよいです。

つまるところ、向いている・向いていないは、自分が決めることなのです。

また、人から言われないと向いているように思えないのは、まだ承認を人に求めている部分が、タロット以外でも自分の心理にあることに気づかれるとよいでしょう。

でも、それは悪いことではなく、自立のための過程なのです。


マルセイユタロットの動物形象

マルセイユタロットの大アルカナ小アルカナの宮廷(コート)カードには、動物形象のものが描かれています。

それには、犬や狼に見えるもの、鳥類で鷲や鷹のようなもの(フェニックス含む)、蛇のような長物、ライオン(獅子)、馬的なもの、猿のようなもの、ザリガニ・蟹のようなもの、そして何者ともわからない複合獣のようなものなどがいます。

動物はすぐにそれとわかるものもありますが、よく見ないと(アルカナとして口伝で伝えられているものの説明を受けないと)、なかなか見た目ではわからないものもあります。

※蛇類は特に難しいでしょう。しかし、ある種のルールがわかれば発見することができます。蛇が難しいのは、それだけグノーシスが隠され、暗示されているためだと個人的には思っています。

ほかにも動物・獣ではありませんが、羽のついた天使は、獣とともに描かれていることもあり、特に「世界」のカードでは、いわゆる四聖獣として、四つの生き物の中に天使も出ています。

これらには、それぞれ象徴的な意味がもちろんあります。

タロットリーディングにおいても、それぞれの動物・生き物がどれだけ(重なって)出ているのか、あるいは散らばっているのかなどによって、またそのなどによっても読み方は変わってきますし、タロットが示す意味をつかむための根拠にもなります。

動物・生き物象徴の読み方としては、まず読み手(タロットリーダー)やクライアントが、そのカードに描かれている動物形象を見て、素直にどう思ったか、どのように感じたかを取り上げます。

ただ、これはもっとも低次な読み方であり(ながら、時には高次のインスピレーションにもなります)、だいたいはタロットを知らないクライアントの方は、どう感じるかと言われても、正直何も思わないというのが普通かもしれません。

マルセイユタロットの場合、特段、犬などの見慣れた動物も、かわいく描かれていたり、芸術性をもって描写されたりしているわけではないので、動物好きな人でも、特に何も感じないということはあるでしょう。

しかし、次の読み方として、絵そのものよりも、その絵の意味合いにふれていくというものに移行しますと変わってきます。

例えば、犬が好きでペットとして飼っているという人は、犬の絵を見て、自分のペットのことだとか、もし犬と一緒に描かれている人物があれば、それは自分ではないかと感じることができます。

とすれば、わざわざ多くの中からそのカードが出たのは、何かしら自分を象徴しているものと見ること(自分として強調されていると見ること)が可能になります。

そして、次の段階では、再び動物の絵柄に着目することで、その動物が自分におけるペットの意味だけではなく、もしかすると自分の対人関係(例えば人との付き合い方や距離感)を表しているのだと気づくこともあるかもしれません。

愚者」というカードにはが描かれていますが、この犬はよく見ると、後(足)の部分は(わざと)省略されたかのようになっていますし、前足が「愚者」の人物にかかっていますが、そのかかり方、あるいは犬の表情などに注目してみると、この犬が見る者の一種の投影装置のようになっていることがわかります。

つまりは、見る人によって、犬のイメージ(様子や感情)が変わってくるのです。

そして、ここからが真髄になってきますが、動物形象のそれぞれを象徴学として学び、知識を得ますと、時代を超えた普遍的な(宇宙的もいえる)象徴性を想起することができ、心理や霊的な背景と相まって、タロットの示唆することの奥深さが見えてきます。

それゆえに、タロットは勉強する必要があるのてす。直感だけで読むものは、タロットリーディングのほんの一部に過ぎません。

さらには、動物形象がほかの動物と関連し、その象徴性の本質が把握できますと、世界中にある動物的な比喩・象徴について理解することもでき、連綿と見えない次元で生き続けているとも言える動物霊(サイキックの世界で言われる、いわゆる低次の憑依的な動物霊とは別です)のようなものが自分に語りかけてくるのがわかります。

私も、マルセイユタロットの獅子について思いを馳せている時、これは龍と同じ象徴性があることを感じました。

また、馬とも関係しますが、聖獣としての一角獣・ユニコーンも獅子とつながっていると思います。(マルセイユタロットにおいて、ユニコーンは非常に重要な意味があります)

獅子は日本の神社で言えば、狛犬として見ることもでき、狛犬のような「あ・うん」の姿は、マルセイユタロットの獅子(ライオン)にも描かれています。

獅子を龍として見ますと、特に「」のカードの意味は、とても面白くなると思います。

ところで、フランス国立クリュニー中世美術館所蔵の、有名な「貴婦人と一角獣」というタペストリーがあります。(日本で展示されたこともあります)

これは六枚にも及ぶ、かなり大きなタペストリーで、その名の通り、貴婦人と一角獣・ユニコーンが描かれており、ほかにも獅子などの動物も複数登場し、さらに植物も豊富です。

一般的にはそれぞれのタペストリーが、五感ともうひとつの感覚を表していると言われますが、作られた時代や地方、書かれている文言の謎からして、マルセイユタロットと非常に近いものを感じ、本当の意図(象徴)は別にあると個人的には考えています。

このタペストリーでは、獅子と一角獣がむしろ対になって、貴婦人を中心に対立概念、相補、統合すべきもののように見せています。

この関係性が、非常にタロット的でもありますし、先述したように、マルセイユタロット自体に獅子(ライオン)、そして一角獣(ユニコーン)も描かれていることはすでに述べた通りで、それらの動物には、タロットでも必ず女性、もしくは女性的な人物が描かれているのです。

ともあれ、マルセイユタロットにおける動物形象を見ていくのは、とても興味深いことで、伝説や物語にも彩られ、それらの象徴性に感応していく時、聖なる使いとして、私たち(それぞれ個人)を導く存在にもなってきます。

なぜ古代の人が、その動物を神の化身としたり、使いとしたり、眷属のようにとらえていたりしたのかもわかってくるでしょう。

あなたにも、縁のある霊的な動物存在がきっといますし、それは自分の力の源泉でもあるのです。


苦悩する人は幸いである理由

マルセイユタロットは、悟りへの道を示している体系とも言えます。

「悟り」と言えば、何か一般的には、どんなことにも動じない、波風立たずの澄み切った境地のようにイメージされます。

しかし、マルセイユタロットの最終局面、つまりは「悟り」を体現する絵柄ともいわれている「世界」のカードでは、中央の人物はダンスしているかのように見え、周囲は四つの生き物が囲み、ある種、騒々しい(笑)感じさえ受ける、バラエティさに満ちています。

そして、ここに至る経緯を示すとも考えられるほかのカードたちも、すべて同じ絵柄はなく、みんなそれぞれ違っています。

ということは、単純に言えば、すべての違いを味わって受け入れた先に「悟り」が待っているとも想像できます。

であるならば、私たちは幸いだと言えましょう。

なぜなら、おそらくほとんどの人は、そんな澄み切った境地などになることは少なく、いつもなにがしか心を迷わせていたり、考えを巡らせていたりしており、それは、もし一言で例えるのであれば、様々な感情を体験しているという状態であり、言い換えれば、悟りのためのバラエティさを経験し、学んでいる最中だと述べられるからです。

そう、私たち皆、悟りのためのプロセスを歩んでいるのだと言えるのです。

だから、つらいことや悲しいことがあって心を一時的に閉ざすようなことがあったり、もうあんな経験は嫌だからと、自分から距離を置いて、客観的になり過ぎたりするのも、かえって霊的な成長(統合的発展)の遠回りをしていることになるかもしれないということなのです。

自分が壊れてしまわないよう、ある程度の防御、防衛反応は、この世知辛い(苦笑)世の中を生きていくうえでは必要な場合もあるでしょう。

しかし、先述したように、本当の成長や喜びを迎えるためには、感情的な起伏を十分に体験し、味わう必要もあると考えられます。

またそれは自分と他を分けて、自らの感情を切り離すようなことではなく、自他が一体となった没入・共有体験とも言えます。

マルセイユタロットの体系(システム)で言えば、「月」のカードと「恋人」カードで、この感情体験の必要性や仕組みを述べることができます。

このブログでもよく語っているように、現実世界は分離の世界であり、いわば二元原理を色濃く分けて住む世界です。

その二元区分には様々な象徴性で例えられますが、ひとつには、「天上性」と「地上性」という分け方もできます。

平たく言えば精神や心・霊の部分と、肉体や物質の部分の二元と言ってもよいでしょう。

すると、「月」のカードは天上的であり、「恋人」カードは地上的となります。(この分け方にもいろいろあって、とりあえず、ここではそうした区分を使います)

これは、地上の選択における迷いの感情的エネルギーが、天上的な「月」のプールに貯められると表してもよく、また逆に天上的葛藤(二元対立と相補原理の)エネルギーが、地上的選択(「恋人」カード)に反映されると言うこともできます。

違う言い方をすれば、、私たちが実際の生活で何かを選び、迷うような時、言ってみれば人生の局面局面で味わう心の揺れ動きが、一種のエネルギーとなって、私たちを天上なる悟りの世界へ導く原動力になっているのだということです。

そして、天上の魂のようなものが、地上の私たちに、もっと感情を味わうよう、もっと感情的にエネルギーが起伏するよう促しているのです。

「月」の犬は根本的な二元原理の交流による、いわば電気的エネルギーの増幅や推進と関係しています。(簡単に言えばプラスとマイナスによる電気発生)

おっと、つい、かなり奥義的な話をしてしまいました。(笑)

たぶん「令和」の時代になるので、霊的な開示を積極的に行うような流れになってきているせいもあるのでしょう。

ということで、今、悩み苦しみの渦中にある人も、それは天と地の間で、人として、感情体験をし、すべてある世界に回帰するために、まさに(できるだけ)すべてを味わい、経験する過程を実際に(現実というバーチャルな世界で)行っていることなので、大きな視点では幸いなのです。

しかし、苦しいことばかりが感情体験ではありません。喜怒哀楽と言われるように、喜びや楽しさも味わってこそです。

世界のカードに四つの生き物が描写されているのも、この四感情と無関係ではないでしょう。

現実世界は救済措置として、ずっと同じ状態が続くということがない世界です。常に変転し、まさに常ならずです。それは時間や空間というものがあるからです。

ですから、同じ感情が続くということはなく、いつも大なり小なり動いて、喜怒哀楽をその都度体験しますし、気の持ちよう、心の持ちようと言われるように、自分で気分を変えることもできます。

同じ状況が続いていると思う人は、悪いサイクル(堂々巡り)に入っていると言えますので、そこから脱出して違う感情を体験するために、こういう場合は、客観的姿勢、あるいは他人からのアドバイス、介入、手助けが求められます。

どちらにしても、心を閉ざすのではなく、開いて、実際(による感情)を体験することがこの世界では重要なのです。

タロットで言えば、いつも最初の数を持つ「手品師」に戻り、新鮮な気持ちになる状況をもたらせるとよいと言えます。

さらに、一人で経験するばかりではなく、誰かと、仲間と、組織で・・・という具合に、他人と一緒に経験することで、また違った感情を味わうことができます。それは一人の時よりも、深かったり、大きかったりします。

一人過酷な修行に臨む悟りの道もありますが、こうして普通に生きながらいろいろな人と交流し、視点を変えていくことで、それ自体が悟りの道となっていると考えることもできますので、いわば、神(仏)とともにある日常も体験できるわけです。(神や仏が悟りや完成を示す境地であるのなら、その過程にある実際の生活は、神・仏とともにある生活と言えるからです)

こうやって見ると、どの人の人生も、すばらしき道であるのに気づきます。

まさに、苦悩する人は幸いなのです。


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