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独立、自立、依存、調和した関係性
世間では、一般的に自立することが求められます。
自立や独立を象徴するようなカードは、マルセイユタロットにおいてもあります。
特に、「皇帝」とか「戦車」などのカードは特徴的かもしれませんし、名前から誤解されがちですが、「悪魔」も一種の強烈な独立性・自立性を表している言えましょう。また、高度で霊的な自立の意味では、「神の家」もあげられます。
ただ一方でカードは、複数以上の人物や動物たちが描かれていたり、単独の人物でも、絵の内容をよく見ると、持ち物など、ふたつのもの、三つのもの、四つのものが描写されたりしているように、図像の中に複合性が見られます。
ところで人は、厳密な意味で誰も一人だけでは生きていけず、この現実世界では、何億もの人で構成され、それぞれが個性を持ち、役割をもっていると考えられます。
マルセイユタロットにおいても、その最終到達地(人間の総合的完成境地、すなわち宇宙とも表現できます)と言える「世界」のカードでさえも、四つの生き物に囲まれ、真ん中の人物も、何か手に持っているのです。
これは結局、人間が現実レベルにおいても、霊的レベルのような高次の状態へシフトしていったとしても、多くの何かに支えられ、また自らが支え、すべては関係や協同性において構成されているのではないかという暗示のようにも思えてきます。
私たちが肉体をもって現実世界で生きているとしても、真の意味で単独の独立・自立はあり得ず、自分は一人で生きていると思っていても、ほかの人間、生き物、モノなどと必ず関係していて、“独立風”の様相を見せている(思い込んでいる)だけに過ぎないと言えます。
では自立・独立は幻想なのか、必要ないのかと言えば、そうでもないのがこの現実次元の話です。
いつまでも親や人に頼って生きていれば、皆が幼児になって、社会が成り立ちません。そうならないよう、人はやはり、ある程度の独立・自立を果たすようプログラムされているとも考えられます。
それは別の言葉で言えば「成長」で、経験・知識の習得と拡大とも言えます。
ですが、先程言ったように、本当は関係性(支え・支えられ)によって、自立や独立が生まれているので、それは意識する必要もあるでしょう。
そうしないと、傲慢・尊大(万能主義)になったり、反対に依存の激しい人物となってしまったりするからです。
自分は自分として自我をきちんと確立させながら、できることとできないことは分別し、自他の役割を応分に、適切に遂行して行けるのが理想でしょう。
人によっては、他人を頼ったり、信用したりすることをしなくなり、信じられるのは自分自身のみとなって、何でも一人でやろうとしてしまう方がいます。
これは適切な関係性が周囲とできていないからで、究極的には自分自身との関係に問題があり、自分を信頼しているようでしていない、自らへの欠乏感・不信感から出ているとも言えますが、とにかく、よい意味での依存ができないのがこういうタイプの人となります。
この場合、自分が今自分として存在しているのは、あらゆる関係性によって形成れさている(成り立っている)ということが無視されています。
仏教的には、存在は縁起(縁によって起きているもの)に表される(結ばれる関係性によって、その場の「ある」存在・役割として確定する)というのと似ています。
自分しか信用していないと、いつも万能でなければならないと必死で生きることになり、人に弱さ見せられなくなります。
ですが、ずっと緊張して無理をしていますので、どこかで限界が生じて、人にさらしたくない姿を見せるようなことにもなります。
あるいは、人に裏切られたり、横領されたり、仕事のできない人が周りにいたりで、それは自分の信じていること(人は信用できない、自分しか頼れない)が外に表現されているわけで、言わば、自分で起こしているようなものなのです。
一方、共依存的に、特別な人とか何か(宗教組織、特別なモノなど)に互いに依存し合っていると、この関係性のみ強固になり過ぎ、ほかの関係性が希薄になったり、依存している関係を邪魔すると誤解して、他の関係を攻撃、切ろうとしたりします。
これはかなりいびつなことであり、強い依存なので麻薬のようなもので、これがないと生きていけなくなってしまいます。
マルセイユタロットの「節制」は、救済を表すカードで、天使姿の人物が描かれていますが、その手にはふたつの壺があります。
このカードは、マルセイユタロットのシステムの中では、バランスを示す「正義」のカードと関連性があり、両方から考えますと、まさに救済には関係性のバランスが重要であることが示唆されています。
先述したように、私たちは、誰も単独で自立や独立ができなく、実は多くの関係性のもとで立つことができているわけです。
その関係性を尊びつつ(自立を助けてもらっていることを意識しつつ)も、特定のいびつな関係性には注意し、自らの意思で、自然な形で、いろいろな人、モノとの関係性を結び、助け、助けられしながら自立・独立していくのが、本来の調和する道なのだと考えます。(調和と言えば、マルセイユタロット「星」のカードとも関係し、「星」は流す(与える)ことのできるカードです)
以前、「杖を持つこと」をタロットカードに杖が描かれている人物などからお話しましたが、杖を持って歩くこともまた、関係性を適切に扱うことと同意だと思います。
簡単に言えば、頼って、頼られてが、人として、この現実世界としての当たり前の生き方なのだということです。
ただ、その頼り方・頼られ方が不自然や不調和にならないよう注意しましょうというわけです。
不自然になってしまうのも、つまるところ、自分軸がしっかり確立されていないから、言い換えれば、自分自身との関係性が滞っているからと言えます。
無理矢理な自分、よく見せようとする自分、本当はできない・したくないのに不自然に続けている自分など、自分の正直な気持ちと向き合い、自らの内と相談しながら、少しずつ、自分がどうありたいかを取り戻し、素直なトータルな自分へと還元していくと、必死で得よう、保とう、失わせまいと、物事をコントロールする苦しい生き方から、必要な時に必要なものが現れる関係性の生き方へと、自分の人生が組み替えられていくことと思います。
マルセイユタロットの大アルカナを見ていると、その道が示されているように私は感じるのです。
タロットの扱いは個性によるというお話
私はマルセイユタロットを扱っています。
でも、タロットと言えば、世の中にはたくさん種類があり、伝統的なものはもとより、創作系、自作系、遊び系みたいなものも含めると、世の中にタロットは何千種あるかわからないかもしれません。
まあ、あえてまともとな、というと語弊がありそうですが、一応、メジャーでしっかりとしたシステムにあるタロットだけを取り上げると、種類はそう多くはないとは思いますが、それでもタロットは幾種類かに分かれるわけです。
それで、自分がどのタロットを学び、使うかというのも、人それぞれになります。
タロットをの選択については、このブログでも記事を何度か書ていますので、それを参考にしていただくとしまして、今日書きたいことは、自分が選び、使っていくタロットで、何を成すのか、どう表現するのかというのがテーマです。
これも結論から言ってしまえば、人それぞれで、大きな意味で言いますと、自分のあり方とか、人生の使命のようなものに関わっていると言えると同時に、細かい意味では、千差万別の方法に分かれると述べられます。
実は、これはタロットに限らないことだと思っています。
セラピーとか、何か人や自分の為になる技術を身につけたとして、それをどのように使うのかは、やはり個人で違ってくるはずです。
ですが、学びの段階で、もしその技術の創設者とか権利を持っている組織が、このように使わないといけないと規制をかけているとすれば、個人の自由に扱うわけにはいきません。
それにはビジネス的な理由もあるでしょうし、創設者の意図とか意思もあって、きちんとルール化していないと、その技術を正しく使うことが難しくなるという懸念があるからかもしれません。
とは言え、結局、人は誰一人まったく同じという人はいないのですから、同じ技法を使っていても、また、いくらルールで厳格化していても、実際には、個人個人の使い方で違ってくるのが実状でしょう。
私はタロットの中でも、マルセイユタロットという種類を選び、そしてそのマルセイユタロットの道に入るきっかけとなったのが、ホドロフスキー・カモワン版マルセイユタロット(の中でも厳密に言えばカモワン流)であり、そのタロットに基づくルールとか規則もあって、それらを実践してきました。
ですが、長年やってきますと、ひとつの規準とか、そのタロット種とか展開法などの独特の決まりはあったとしても、結局、一人一人の個性でタロットリーディング、タロットの活用は異なってくるのを見てきました。
それは私自身のタロットを扱う歴史においても、言えることでした。
ということで、タロットを学び、タロットを活用していく人に、私なりの意見を述べたいと思います。
そのタロットの伝統とかルール、流派など、そういうものを守って、言わば正しくそのタロットというものを伝えたい、教えを守りたい人は、そうすればよいと思います。
そして、逆に、何か自分のやりたいこと、表現があり、それがタロットというツールを使うことによって、うまくできるのであれば、それもありです。
で、一見すると、前者と後者は違うように見えますが、大きな観点からすれば、実はどちらも同じなのです。
要するに、自分がやりたいことをやっているだけなのです。
心からやりたいこと(魂が望むもの)を現実世界で体験としてやる、言い換えれば、これが使命のようなものだと考えられ、本当にやりたいことをやっているのは、使命に順じていると言えます。
従って、ここが一番重要なのですが、タロットを学び、使っていく中で、何か自分(のやりたいこと)ではない、使っていくのが楽しくないどころか苦しい、やめたい、興味がなくなったなど、モヤモヤした感じ、冷めた感覚、一言で言えば違和感があるような場合は、自分の魂(の方向性のための表現方法)と乖離していると見たほうがいいわけです。
私はタロットカードで言うと、「正義」の縛りのようなものがあり、正しくないといけないという考えに支配されがちなところがありました。それは今でもあります。
ただ、それは私の個性でもあり、悪いわけでも、なくさなければならないものでもありません。
もし使命があるとすれば、使命のために、そういう「正義」のやり方を取る傾向があるということでもあります。
同時に、「縛り」である場合は、反対の「解放」とのセットでもあるので、そのこだわりから解放された場合、自分自身にも解放がやってくることになります。
マルセイユタロット以外のタロットについては、私にとっては今も興味がありませんが、だからと言って、ほかのタロットをやっている人、使っている方をどうこう言うこともありません。
その人たちはそれが好きであり、それを使うことで自分を偽りなく表現できているのなら、大いに結構なことだと思います。
私は私で、マルセイユタロットを使い、自分自身を癒し(本当の意味では癒しではないのですが、それはまたの機会にお話しします)、解放していくことのために(大きな意味では霊的成長)、このタロット活用するのが違和感ない方向性なのです。
ですが、ある技法だけにこだわるとか、ある教えは絶対であるとかは以前よりなくなって、マルセイユタロットの数の(7つの)進みで言えば、8「正義」だけではなく、15「悪魔」も、1「手品師」でもOKみたいなところで、大局的には「神の家」、「世界」の視点で見るようにしているみたいな感じです。
ということで、皆さんの今の使っているタロットと、タロットを使った何らかの活動が、違和感なく心からやっていることだと感じるのなら、人がとやかく言おうが、たとえ正統性とか、習った組織からはずれているように思われても、それでいいんじゃないですか、というところです。(笑)
※法律や規則、取り決めがきちんとあって、それを守らなければならないところがある(契約、サインなどして)場合は、それは順守するのは、社会常識としては当然ではありますが。
タロットを扱う人にも役割があり、占いで表現する人もいれば、心理技法的に扱う人もいますし、カードコレクターとして、タロットそのものの魅力を伝えていく人もいます。
みんな大きなタロット界という目で見れば、それぞれの個性・役割に応じて、タロットという題目・テーマの劇で、役を与えられ、演じているということなのです。
私はタロット劇場の中で、マルセイユタロットという題目の中で、また何かのひとつのシーンでの役割を、演じさせてもらっているという感じですかね。
タロットを例にしましたが、人は(やりたい)役者として、人生を楽しむようになっているのではないかというお話です。
ある数を見ることについての意味
タロットは数と無縁ではありません。
それどころか、数カードとか数札と呼ばれる小アルカナのパートもありますし、大アルカナと呼ばれるパートには、ひとつのカードを除いて数がふられています。
それに、カードの構成、パートごとの枚数などにも意味があり、タロットと数は実は厳密な関係性をもって配されているのが、詳しく見ていくとわかります。
伝統的なタロットほどそのようになっており、マルセイユタロットはその典型と言えます。
これとは別に、数とは無関係の創作系のタロットもあり、それはそれで製作者の意図があるものとは思いますが、数というのは、私たちが思う以上に特別なものであり、宇宙・神のオーダーを表すとともに、私たちの人間レベルの現実世界においても、数がどこにでも見られるように、基本となっているものなのです。その数にタロットが配慮するのも当然と言えます。
しかしながら、数秘術というものがあるように、数単独での象徴体系があり、それはまたタロットの絵柄を中心とした象徴システムとは異なってくるところもありますので、立場によって、数を中心として見るか、絵柄を基本として見るかによって、タロットの扱い、読み方も変わってくると言えましょう。
ですから、無暗に数秘術の概念をタロットに当てはめて読むというのも、考えもののところがあります。
さて、今日はそんな数について、少しタロットと離れるかもしれませんが(でも関係性があるものです)、話題にしたいと思います。
皆さんはラッキーナンバーとか、逆に不吉な数とか思ったことはありませんか?
またゾロ目とか、よく見かける数とかに、意味があると意識したことはないでしょうか? エンジェルナンバーなどと言う場合もありますよね。
おそらく、タロットに興味も持つような方ならば、そういう数について、特別に何か気持ちとか思いを持ったり、意味を見出したりしたことはあるでしょう。
そうした、数が何かを自分に告げているかのように思う(意味があるとする)見方はどうなのか?を考えたいと思います。
私の考えは、一言で言えば、それは「意味がある」「メッセージだと取ってよいケースもある」となります。
一方で、ケースバイケースであり、人によって意味合いが大きく異なってくるということも述べたいです。しかも、究極的には意味がないと言ってもいいでしょう。
こう書くと、わけがわからないかもしれませんね。(笑)
もう少し別の言い方をすれば、(特定の)数に(ある)意味を思うのは、その人がその世界観にいるからということになります。
例えば、3と7がラッキーナンバーで、4や9は不吉だと思っている人は、そういう自分の世界が形成されているのです。言わば信仰の世界に近いです。
人は自分が信じた世界の中で生きることになりますので、その人にとっては、その数は、自分が思う通りのメッセージを見せるわけです。
誰が見せているのかと言えば、自分自身です。
これがもはや個人ではなく、ひとつの国とか文化レベルで作られてくると、ほぼその文化圏すべての人が、その数の意味を信じることになります。
たとえ普段は信じていなくても、幼少の頃から物語とか大人の話とか聞かされたり、見たりするので、潜在意識に刷り込まれて行き、無意識にそういう意味に感じてしまうようになると推定できます。
タロットの大アルカナナンバー「13」も、西洋文化圏では不吉な数とされてしまいましたので、だいたい絵柄も一般の人が想像するような「死神」的イメージのものになっていて、怖がられますし、実際カードとして(一般では)あまりよい意味では読まれません。※だだマルセイユタロットの「13」も、本来の13という数も、死神的な意味ではないので、注意する必要はあります。
スポーツの背番号、部屋番号などでも、13は西洋文化圏では避けられることが多いです。
文化圏レベルでもそうなのですから、個人レベルではなおさらで、自分にとってラッキーな数、不吉な数なども、自分の中でルール化されている人がほとんどです。(たいていはその国や地域の文化、自己の経験からのものが多いですが)
ゾロ目なども、同じ数がそろうことがそもそも確率的には希なので特別感があり、そこに何らかの意味を持たせてしまうことは想像に難くなく、いつしかゾロ目にも意味がそれぞれ与えられ、これも一種の固定観念のようになり、ゾロ目の特別性もあって、つけられた意味が(本やネットなどで読み)その人に印象深く入って行くことになります。
では、結局、自分が信じた数の意味、世界観がすべてかと言われれば、そうでもあるし、そうでもないとも言えます。
何といいますか、数自体に意味がないわけではないのですが、人が思う、自分にとっての数の意味と、それを見て思うことというのは、次元が異なる話なのです。
これは輪廻転生とかカルマがあるかないかの話にも似ていて、もしあると考えれる人でも、個の行為としての(人間の考える)善悪レベルで見るのか、もっと宇宙的な規模で見るのかによっても話が変わってくるのです。
ある数を見てメッセージだとか、何か(特別)の意味があると言う人は、そういうお知らせの仕方・方法を選ぶ(告げてもらう)世界にいるという話なのです。
そしてその受け取り方や解釈も、吉凶とか、イエス・ノーとかの判断の根拠にするようなもののレベルの人もいれば、多くのメッセージの中のひとつに過ぎないと見たり、数そのものよりも、数を見て思うこと自体に何らかの意味を見出すレベルの人もいたりするわけです。
自分の世界観レベルが拡大し、抽象度が上昇して、象徴として全体性がより深遠に見えて来るようになれば、数に一喜一憂したり、特定の数に引っ張られたり、それを見ようと意識したりするようなことはなくなり、数自体より、数の背景にある幾何学的な構造とか、大元のようなものに意識が向かうようになると思います。
そうして、やがて算用数字的な数を見て、何か思うというようなことはなくなってきて、特別な数で自分に何か知らせるというスタイルのレベルを卒業する(そういう世界から脱却する)ことになるでしょう。
自分に意味ある数で状態を知るという方法は、逆に言えば、数(という象徴と意味)でないと自分はわからないという設定にあるわけで、これが恣意的に、あるいは分離的(二元的・損得的・エゴ的)意識状態に傾いていると、自分にとって吉と思える数、自分が受け取りたい(たとえばGOと言ってほしい、この人は運命の人だと言ってほしい、お金が入ると言ってほしい、病気が治ると言ってほしい、問題は解決すると言ってほしいなどなど)メッセージだと思う意味の数(ゾロ目とか特別な数を含む)を見るように自分を仕向けることになります。
自分の心が結局外と関係し、心の内を見せられるわけですが、数に限らず、見たいと思っているものも見せられますし、反対に、避けたいと思っているものも見せられるわけです。
ここに、いいもの・悪いものという分離した二元的な価値観中心で自分がいると、見たいものなのか、見たくないものなのか、自分が本当に望んでいることなのか、そうではないものなのか、わからなくなり、混乱するでしょう。
言わば、全部自分が見たいものなのですが、こうなることは嫌だ、避けたいと思ってしまうことも人にはあるので、それは見せてほしくない(見たくない、起こってほしくない)と思うのですが、自分の奥底では、それが見たいと言いますか、見ないことには本当の意味で、まともな自分自身に戻ることができないので、嫌なことも見せられるわけです。
だから自分がよく見る数は、何かのシンクロで意味あるメッセージなのか、ただの偶然で意味ないものなのかと悩む時点で、マルセイユタロットで言えば「運命の輪」の輪の中の二匹の動物状態にあり、つまるところ、どちらでもなく、強いて言えば、その世界にいる自分の設定においては、何らかの意味あることだと言わねばなりません。
言っておきますが、ただの偶然ではないことは確かで、世の中に本当は偶然はないものだと考えてもよいでしょう。
ですから、よく見る数とか、特別に何かあるのではと思ってしまう数を見たということそれ自体は、確かに偶然ではないのです。
しかし、その数によって、ラッキーだの不幸だのと、ふりまわされるのは、そうした世界に自分がいたいだけであり、そのほうが自分にとっては都合がよいからなのだということも、覚えおかれるとよいでょう。
大アルカナ的見方と小アルカナ的見方
マルセイユタロットの大きな構造として、大アルカナと小アルカナと呼ばれるパートがあり、またそれぞれのパートにも分類や区分が可能なところがあります。
ただその分け方については、思想や考え方によって違ってくるとも言えます。
しかしながら、大アルカナと小アルカナに分けるということは、おおよそ共通する事項になるでしょう。
特にマルセイユタロットでは、絵柄自体、大アルカナと小アルカナ(特に数カードと呼ばれる部分)とでは明らかに違うデザインとなっていますから、そこはタロットを知らなくても、誰もが感じるところでしょう。
ということで、大アルカナと小アルカナでは読み方や意味合いも異なってくるのが普通で、通常は大アルカナが全体性や抽象性を表し、小アルカナが個別性・具体性を示すとされていて、そのような読み方、使い方が一般的です。
ただ、個人的にはその逆もあると考えていて、その反転した使い方をすると、驚くようなことが起こるのですが、それは今回の話題ではありませんので、言及しません。
今日は、この大アルカナと小アルカナの違いを意識しながら、私たちの悩みについて考えてみようという話です。
いきなり結論と言いますか、端的に言ってしまえば、大アルカナはあり方や目的、大きな方向性を表し、小アルカナはそれに向けてのやり方、方法を示唆していると見るとわかりやすいです。
そして、このことから、私たちは、タロットを知らなくても、考え方として、大アルカナ的思考と小アルカナ的思考に分けてみることができると言えます。
タロットで相談を受けていても思いますが、私たちが悩んでいる時、だいたいにおいて、やり方にこだわっているケースが多く見られます。あるいは、そのやり方しか見えてない状態とも表現できます。
つまりは、タロットで言えば、小アルカナの次元で固定されてしまっているわけです。
ここに大アルカナの次元を入れて、小アルカナ次元から飛躍、脱出させていくと、異なる景色、違う思考が生まれてきます。
それゆえに、タロットリーディングにおいても、大アルカナの展開が尊重されたり、時にはそれだけで完結したりするのです。
言い換えれば、私たちの悩みのほとんどは小アルカナ次元で起きており、それに気づくことがもっとも重要であるわけです。
小アルカナ次元に囚われている人に効果的なのは、あり方に戻ることであり、別の言い方すれば、本来の目的は何だったのか、思い出すことでもあります。
極端な言い方になりますが、「目的のためには手段を選ばず」です。
これは(今回のブログでの意味では)、目的を達成するためには、方法はどんな汚い手を使ってもよいと言っているわけではありません。
それとは逆で、自分の本当のやりたいこと、自分が違和感ない状態のために、そのやり方をしてもよいのかどうかを、改めて自分に聞いてみるという感じです。
そのことが自分自身で確認できれば、今思っている手段にこだわる必要は、自然となくなってくるのです。
しかし、なかなか小アルカナ次元、つまりは個々の思う(個人の価値観や強い感情における)良し悪し、快不快などを無視したり、逃れたりすることは困難です。
それでも、例えば、恋愛において、相手との関係で悩んでいても、本来自分はどうなりたかったのかの次元に上昇させると、今の相手との関係性に絶対にこだわるという感覚が薄くなりますし、これは一例ですが、さらに次元を上げて、そもそも人との関係性において、自分はどうありたいのかということ(テーマ・課題)だとすると、「ただ誰かとつながりたい、つながりたかった」となり、それは結局、自分自身とつながる感覚の確認・修復だった、という意味だと気づくこともあるかもしれません。
仕事においても、どうしても経済的なことや将来性についての現実的なことで悩み、苦慮しがちですが、自分はどう生きたいのかというテーマに上げて見直すと、違った解決策も出て来るかもしれないのです。
要は、その方法しかないのか、なぜそれにこだわってしまうのか(プライド、常識、思い込み、洗脳、教育、比較、正義、マウント、自らを守るため、誰か人のため、こだわっている思想・考え方のため、など様々な理由があります)ということを考え直すために、大アルカナはあると見るのです。
ただし、小アルカナの次元が悪いわけではないので、注意しましょう。
物事には段階とかステップ、手順があり、大アルカナの世界にいれば万事解決というわけではなく、レベルや範囲の違いにおいては、小アルカナの次元、やり方が重視されることも当然あるのです。
それは、私たちが現実次元、物質中心の形ある世界に生きているからです。
従って、タロットで小アルカナが存在するのも、私たち人間の生活のために、実際部分でのやり方をいろいろと工夫し、時には効率よく、時には状況によって適切に選ぶために、大アルカナとはまた別に作られた、付加されたと見ることができます。
一方で、大アルカナは、そうした現実次元ばかりに意識が向きすぎて、夢や理想も忘れ、ただ生活に埋没したり、欲にふりまさわれたり、惰性的に生きてしまったりするのではなく、自身の向上、霊的な成長、ひいては人類全体の進化に目を向けて、これまでのレベルや囚われから脱却し、意識次元を上昇させるための象徴的なカードとして表されているとも言えます。
また、大アルカナは長期的、全体的(拡大)視点、小アルカナは短期的・個別(ポイント)視点であり、特に小アルカナは四つのパート(4組、四大元素)に分かれているように、個性、向き・不向き、現実とそのフィールドでの役割や立ち回りを代表的に表します。
大アルカナは逆に、どの性質も全部一人一人にはあることが示されていて、言わば、22枚のカード全部(の象徴性や性格、表現)が、どの人にも存在するという見方となります。
大アルカナのカードの中にも、例えば1の「手品師」と21の「世界」は似たような本質で表されていますが、レベルや次元の違いがあり、大アルカナの世界で小アルカナなのが「手品師」であり、大アルカナでも、もっとも大アルカナ的なのが「世界」と言えましょう。
ということで、実際のタロットリーディングでも、78枚フルデッキを使うことによって、少なくとも、大アルカナと小アルカナが、どういう割合で出現するのかがすぐ見た目でわかりますので、それにより、あり方が大事なのか、やり方に焦点を当てるのかが見えてくるわけですし、クライアントの囚われとか世界観の限界も現れます。
同時に、その解決策もタロットで示しやすいことになるのです。
今日の話は、タロットのことに限らず、自分の悩みについて、マクロ的な目的の方向性から見るか、方法論的なミクロ的なことで見るのか、自分の状況により、どちらかに偏って混乱していないか、あるいは意識が逆になっていないかと、思考整理のための提案でもありました。
あいまいになる境界 分離と統合
マルセイユタロットの大アルカナは、その数の進展によって、分離から統合、一元に進化(還帰)する道を示していると、一説では言われます。
ただ、きちんと一枚一枚のカードの象徴性の説明を受けないと、その深いところはわかりません。
事実、絵柄だけを単純に見ても、数の多いカードほど、人物とか動物が多くなるように見え、一元的な印象が逆に薄いように感じるかもしれません。
それにはからくりがありますし、ある部分、中世から近世にかけての西洋絵画のルールに基づいていることもあり、知識がないと本当の意味はわからないところが結構あります。
それはそれとして、マルセイユタロットは大アルカナの場合、シンプルに言えば、ひとつになること、ひとつに戻ることを示唆した道順であるならば、逆に今の(通常の)私たちの世界や次元は、あらゆるものが分かれているように見え、だからこそ、すべてのものは、(厳密に見て)違っており、一人一人の人間も、その性格から身体に至るまで異なっているように感じられます。
こういった差異・区別は、時として整理や物事の分析、把握に役立ち、それゆえ、物理的・科学的な客観性においての進化・発展もなされると考えられます。
反対に一元化、皆同じのような世界次元であると、いわば停止したようなものであり(しかしそこに、可能性も含めてのすべてはあり、完全性の象徴とも言えます)、違いがないので落差、反発、引力もなく、まるで運動や流れのようなものがないかのように想像できます。
だからこそ、スピリチュアル的な考えにはなりますが、まるで宇宙が呼吸しているように、全体性と個別性、言い換えれば、一元的な意識と分離した意識の世界が交互に繰り返され、大きな位置から見れば破壊と再生(創造)、停止と活動みたいな循環で、私たちが関わる宇宙も含めて、全体が拡大、あるいは深化しているのだと思われます。
また、このようなシステムや循環性は、入れ子構造のようにもなっていて、大きな範疇から一人一人の些細なことまで、同じ構造で貫かれ、そして違うもの同士は、互いにそれそれの要素が内包されているというエックス状の構造にもなっているのだと推測されます。
これが具体ではなく、象徴(本質的に同じもの)として解釈可能な根拠であり、タロットも象徴性の道具ですから、個別から全体までのつながり、仕組みをカードで検証できるわけです。
さて、今、世間では熊の出没と人的被害で話題になっています。そして、少し前からインバウンドで、外国の方が日本に多く来られ、いろいなトラブルも起こっています。
これらは一見すると、個別・具体的にはまるで関連がないように思えますが、先程述べた象徴的に考えますと、似たようなことが起きているとも言えます。
それは今まで自分たちの範疇だったところに、外側から異なるものが侵入し、被害を被っている(ように受ける側では感じる)という状態です。
ふたつとも、これまで(侵入される側が)想定していた境界線を突破され、その境界自体があいまいになってきたということでもあります。
こうなる以前は、まるで漫画・アニメの「進撃の巨人」ではないですが、塀に囲まれていた中(塀はありませんが)で、自分たちは安心して暮らしていたわけです。
この塀こそが、自分たちの脳内に想定していた境界線であり、自分と他を区別するもの、もっと言えば分離させているものと言えましょう。
それが壊されているということは、この分離状態の見直しが、少なくとも日本全体で起こっていることでもあります。
厳格な境界が壊れることは、悪いように思いますが、見方を変えれば一元(ひとつ)になろうとする方向性でもあり、全体性で見ますと、やはり分離から統合・一元へと、地球全体が進んでいるように見えます。
ただ、だからと言って、個別の問題、熊被害や外国人来訪によるトラブルを見過ごせというわけではありません。
スピリチュアルに偏る人に時にありますが、統合やひとつの世界を一足飛びに、いきなり実現しようとしたり、「すでにひとつだから、それに気づくだけで問題はなくなる」とか言ったりする人がいます。
しかし、物事には順序や段階があります。
それぞれの違いを無視して、十把一絡げにまとめようとしても、そこに問題が噴出するばかりです。
これまでの境界があいまいになってきた、それは一元化の流れの中の出来事ではあっても、理想の前に、ひとつひとつクリアーして、段階的に統合に向かう必要があるということです。
だから、熊問題も、これまでの住み分けではない、新たな分け方(大きな統合の前には、何度も細かく再構築した分離段階があるのです)が必要となるでしょうし、外国人問題も法律やルールを変えないとならない場合もあるでしょう。
言えるのは、これまでと同じ認識や方法では、余計に分離(意識的にも)が進み、動物をただ殺せばいい、外国人は追い払えと、時代錯誤的な思考に固まってしまいます。
求められるのは、統合を踏まえた新たな分離段階です。
それには全体的な視点と視野がいるでしょう。宇宙・地球規模をも意識しつつ、日本全体の視野でもって、これらの問題の方策を練らないと本当の意味での解決や進展はしません。
事例として、熊と外国人問題について言及しましたが、これは、それだけにはとどまらないはずです。
私たちそれぞれの個別領域においても、おそらく内外の境界線が崩れていく問題は出て来るでしょう。
それらが、私たちの意識を変化(向上)させるために起きていることは明白です。
一部だけを見ていては、ただ排斥するか、逃げるか、見なかったことにするかでごまかし、自分にとって都合の悪いこととして嫌悪感しか出ないでしょう。
しかし全体的な見方では、悪いことだとは言い切れず、むしろ(自分にも他人にも)進化発展のために起きていることでもあると、認識できるようになります。(嫌なことは我慢しろと言っているのではないので注意です。レベルによっては、問題を具体的・現実的に解決していく次元と分野もあります)
そして、全体的な視野のためには、物事の本質、構造を見極める必要があり、それは象徴として表せることが多いので、マルセイユタロットが使えるというわけです。
